ヘンリー・パーシー (ホットスパー)
ヘンリー・パーシー(Sir Henry Percy、1364年5月20日/1366年5月20日 - 1403年7月21日)は、中世イングランドの騎士。ホットスパー(Hotspur)[1]と呼ばれた騎士であり、父は初代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーで母はマーガレット・ネヴィル。従兄はウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル。子に第2代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーらがいる。父や子(さらにそれ以前、以降の直系長男)と名前苗字が同じ[2]であることから区別のためにヘンリー・ホットスパー、もしくはヘンリー・ホットスパー・パーシーと表記されることもある。
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生涯 [編集]
1364年もしくは1366年(いずれかは不明)の5月20日にアニック城もしくはノース・ヨークシャーのスポフォース城にて生まれる。若いころから戦士としての評判が高く、スコットランドおよびフランスでの戦いに従軍した。1388年、スコットランドにおいてジェームス・ダグラス率いるスコットランド軍と戦い彼を捕虜にした(オッターバーンの戦い (en:Battle of Otterburn) 。ダグラスは後に解放)。その後1391年にカレーに赴き、1393年から1395年までボルドーの知事を務めた。
フランスから戻った彼は父と共にヘンリー・ボリングブロクに協力しリチャード2世追放に尽力、ヘンリー・ボリングブロクはヘンリー4世として即位した。1402年には父と共にスコットランド軍を撃破、ダグラス伯アーチボルドを捕虜にした。
しかしヘンリー4世がパーシー家を冷遇したこともあり、1403年、ダグラス伯や叔父のトマス・パーシーと共にウェールズで反乱を起こしたオウワイン・グリンダー (en:Owain Glyndŵr) と結託しヘンリー4世に反旗を翻す。しかしウェールズ反乱軍に合流する前にシュルーズベリーの戦いで敗死。彼はこのとき気密性の高いプレートメイルを着ており、空気を取り入れるためにバイザーをあけていたところ口付近に矢が直撃し即死したとされる。
死後 [編集]
ホットスパーの戦死後、その死体はヘンリー4世の元に運ばれた。ヘンリー4世は泣き、死体を埋葬するように指示し、遺体はシュロップシャーのウィットチャーチ (en:Whitchurch, Shropshire) に埋葬された。しかし後にホットスパーが生きているという噂が広まったため、ヘンリー4世は彼の遺体を掘り起こしシュルーズベリー (en:Shrewsbury) で槍の上に突き刺し晒した後四つ裂きにしてその死体をイングランド各地に送った。頭はヨークの門で晒されたとされる。
家族 [編集]
- 父 - 初代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー
- 母 - マーガレット・ネヴィル(第2代ネヴィル・ドゥ・レビー男爵ラルフ・ネヴィルの娘)
- 妻 - エリザベス・ドゥ・モーティマー(第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーの娘)
- 長男 - 第2代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー
- 娘 - エリザベス・パーシー - 1437年10月26日没。第8代クリフォード男爵トマス・クリフォード室。
- 娘 - マチルダ・パーシー - 若くして亡くなったと考えられている。エドワード3世と愛人アリス・ペラーズの私生児とされるジョン・デ・サウザレイと婚約。
また、王族のリチャード・オブ・コニスバラは妻エリザベスの姪アンと結婚、後のヨーク公リチャードを儲けた。
脚注 [編集]
関連項目 [編集]
- トッテナム・ホットスパーFC - 彼のあだ名を冠したイングランドの名門サッカークラブ。ロンドンを本拠地とする。
- ヘンリー四世 第1部 - 後にウィリアム・シェイクスピアが作成した戯曲。重要人物の1人として登場。
関連書籍 [編集]
- Rose, Alexander『Kings in the North - The House of Percy in British History』 Phoenix/Orion Books Ltd、 2002、 ISBN 1-84212-485-4 (ペーパーバック、722ページ)
- ナイジェル・トランスター『The Stewart Trilogy』のLords of Misrule, 1388-1396、 A Folly of Princes, 1396-1402、The Captive Crown, 1402-1411。Dunton Green, Sevenoaks, Kent : Coronet Books, 1986. ISBN 0-340-39115-4.