ヒュー・パーシー (初代ノーサンバランド公)
初代ノーサンバランド公ヒュー・パーシー(Hugh Percy, 1st Duke of Northumberland, KG, PC, 1714年 - 1786年6月6日)は、イギリスの貴族、政治家。元の姓はスミソン(Smithson)で、ノーサンバランド伯に叙爵された時にパーシー姓に改姓、後にノーサンバランド公に昇格した。
1714年に準男爵ヒュー・スミソンの息子ラングデール・スミソンの息子として誕生、1733年に祖父の後を継いで爵位を継承した。1740年にサマセット公チャールズ・シーモアの孫娘でパーシー男爵アルジャーノン・シーモアの娘エリザベスと結婚、同年にミドルセックス州から下院議員に選出されトーリー党員として政界へ進出した。1744年に妻の弟ジョージが急死、1748年に義父がサマセット公位を継承すると他に息子のいない義父の領土の一部を継承する見込みが生じた。
1749年にノーサンバランド伯を新設してその爵位を帯びた義父から妻エリザベスを通してパーシー家の領土継承者に選ばれ、翌1750年に義父が没するとノーサンバランド州のアニック・カースル、ロンドンのサイオン・ハウスとノーサンバーランド・ハウスなどイングランド北部と南部に跨る領土を獲得した(サマセット公位は遠縁のエドワード・シーモアが継承)。同年にスミソン姓からパーシー姓に改姓、カトリックからプロテスタント(イングランド国教会)への改宗も済ませてイギリス貴族の一員に選ばれた。領地開拓と鉱山開発も盛んに行いパーシー家の基盤を固めている[1]。
1756年にガーター勲章を受勲、1760年から1762年まで寝室係侍従、1762年に枢密顧問官となり同年から1763年まで国王ジョージ3世妃シャーロット付きの宮内長官に任じられ、1763年から1765年にアイルランド総督、1778年から1780年まで主馬頭を務めた。1766年に公爵に昇格、パーシー家はイギリスの有力貴族にのし上がっていった。1786年に死去、ノーサンバランド公位はエリザベスとの間に生まれた長男のヒューが継承、次男のアルジャーノンはラヴァイン男爵に叙爵され、1790年にビバリー伯となった。
芸術のパトロンとしても活動し、1739年から1740年にかけてカナレットにヨークシャーのスタンウィック・パークにカントリー・ハウスを建築させ、ロバート・アダムにはサイオン・ハウスとノーサンバーランド・ハウスの改築を依頼、新古典主義に則った邸宅に建造された。ロンドンのウェストミンスター橋の建設委員にも選ばれ、1781年にはアダムによりノーサンバーランドにブリッツリー・タワーが建立されるなど建築事業に力を尽くした。また、庶子のジェームズ・スミソンは科学者としての道を進み、死後アメリカに遺贈された資金を元にスミソニアン博物館が設立された[2]。
脚注 [編集]
参考文献 [編集]
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ハリファックス伯 |
アイルランド総督 1763年 - 1765年 |
次代: ウェイマス子爵 |
| 先代: アンカスター=ケステヴェン公 |
主馬頭 1778年 - 1780年 |
次代: モンタギュー公 |
| 名誉職 | ||
| 先代: マーク・カービィ |
ヨークシャー州長官 1738年 |
次代: ジョージ・クック |
| 先代: タンカーヴィル伯 |
ノーサンバーランド州統監/治安判事 1753年 - 1786年 |
次代: ノーサンバランド公 |
| 先代: ジョン・デラヴィル |
ノーサンバーランド州海軍中将 1755年 - 1786年 |
次代: ノーサンバランド公 |
| 先代: ニューカッスル公 |
ミドルセックス州治安判事 1762年 - 1786年 |
次代: ヘンリー・ダンダス |
| ミドルセックス州統監 1763年 - 1786年 |
次代: 委員会制 |
|
| グレートブリテンの爵位 | ||
| 新設 | ノーサンバランド公 1766年 - 1786年 |
次代: ヒュー・パーシー |
| 先代: アルジャーノン・シーモア |
ノーサンバランド伯 1750年 - 1786年 |
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