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ティムラズ・ガバシュビリ

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ティムラズ・ガバシュビリ
Teymuraz Gabashvili
ティムラズ・ガバシュビリ
基本情報
愛称 Tsunami(津波)
国籍 ロシアの旗 ロシア
出身地 グルジア・トビリシ
居住地 ロシア・モスクワ
生年月日 (1985-05-23) 1985年5月23日(39歳)
身長 188cm
体重 83kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 2001年
ツアー通算 0勝
シングルス 0勝
ダブルス 0勝
生涯獲得賞金 4,188,804 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 1回戦(2007・09-11)
全仏 4回戦(2010)
全英 2回戦(2010)
全米 2回戦(2006・07)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 1回戦(2011)
全仏 3回戦(2011)
全英 1回戦(2007)
全米 2回戦(2007)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 59位(2009年2月2日)
ダブルス 105位(2011年10月24日)
2011年11月11日現在

ティムラズ・ガバシュビリTeymuraz Gabashvili, ロシア語: Теймураз Габашвили, グルジア語: თეიმურაზ გაბაშვილი 1985年5月23日 - )は、グルジアトビリシ出身のロシアの男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス59位、ダブルス105位。これまでにATPツアーでの優勝経験はないが、ダブルスで準優勝が1度ある。身長188cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。そのエネルギッシュなプレースタイルとノーマークの予選勝ち上がりからツアー上位進出を果たすことが度々あった事から、Tsunami(津波)の愛称で呼ばれ親しまれている選手である[1]テイムラズ・ガバシビリの表記も見られる。

ジュニア時代

当時まだソビエト連邦に属していたグルジアの首都トビリシにて、会計検査官の父と医者の母の間に3人兄妹の長男として生まれ、6歳からテニススクールでテニスを始める。9歳の時に一家はモスクワへ移住。10代の頃に単身スペインに渡り、同国の元プロテニス選手セルヒオ・カサルの運営する名門テニスアカデミー「セルヒオ・カサル・テニスアカデミー」にて本格的にテニスを学ぶ。

プロ転向後

2001年~2006年

2001年に16歳でプロ転向。転向後数年は下部大会での下積みが続いたが、2005年頃からシングルスランキングも100番台へ上昇しツアー大会への出場も増えていった。2006年は、シングスランクが7月に2週間「99位」を記録し初めてトップ100に入ると、全米オープンでグランドスラム大会シングルス初出場。ここでは2回戦のジェームズ・ブレーク戦まで進出し、この年からツアーレベルに定着するようになる。

2007年

2007年はシングルスで2月のリージョンズ・モーガン・キーガン選手権で予選を勝ち上がると、1回戦で第5シードのグザビエ・マリスを下す活躍で準々決勝のマーディ・フィッシュ戦まで進出し、初のツアーベスト8進出を果たす。更に3月のインディアンウェルズ・マスターズでも予選を勝ち上がり、第9シード、当時世界ランク9位のトミー・ハースとの3回戦まで進出。続くマイアミ・マスターズでも予選を勝ち上がり2回戦のミハイル・ユージニー戦まで進出するなど、3大会連続でツアーで好成績を残す。またダブルスでもイボ・カロビッチと組んでノーシードで出場したRCA選手権では、1回戦で第3シードのジェフ・クッツェー(南アフリカ)&トッド・ペリー(オーストラリア)組を4-6,7-6(6),11-9の接戦で下す活躍でそのまま勝ち上がり決勝に進出。決勝ではフアン・マルティン・デル・ポトロ&トラビス・パロット組に6-3,2-6,[6-10]のフルセットで惜敗し準優勝となったが、自身初のツアー決勝進出を果たした。

2008年

2008年はシングルスではABNアムロ世界テニス・トーナメントで予選を勝ち上がりベスト8進出など計4度のツアーベスト8があったが、前年程高グレードのツアー大会で好成績が残せなかったものの、下部大会のチャレンジャーツアーではその年の最多タイとなる4大会優勝を挙げ、年度末ランキングを65位とし、自身初のトップ100フィニッシュを果たした。

2009年

2009年は3月にデビスカップのワールド・グループ1回戦、対ルーマニア戦で前年の活躍が認められ、ロシア代表に初選出されるも、ツアーでは不調の年となり、シングルスでは4月のハサン2世グランプリでベスト8進出を果たした以外は全て1~2回戦負けに終わり、チャレンジャーツアーでも前年のポイントを防衛できず、年度末ランクも106位まで下降した。一方ダブルスでは同国のミハイル・エルギンと組み出場した10月のサンクトペテルブルク・オープン1回戦で、第4シードのスコット・リプスキー(アメリカ)&ロヒール・ワッセン(オランダ)組をストレートで下す活躍でジェレミー・シャーディ&リシャール・ガスケ組との準決勝まで進出する好成績があった。

2010年

2010年は予選を勝ち上がった全仏オープンで好成績を残し、3回戦で第6シード、当時世界ランク8位のアンディ・ロディックを6–4, 6–4, 6–2のストレートで下す番狂わせを起こし4回戦に進出。4回戦ではユルゲン・メルツァーに6–7(6), 6-4, 1-6, 4-6のスコアで敗れたものの、自身初のトップ10選手からの勝利とグランドスラム大会4回戦進出を果たした。8月にはパイロット・ペン・テニスで予選を勝ち上がり、2回戦で第11シードのグザビエ・マリスを第1セット4-2とした所でマリスの途中棄権で、3回戦で第5シードのアンドレイ・ゴルベフ(カザフスタン)を6-3, 3-6, 7-6(7)のフルセットでそれぞれ下し、第15シードのデニス・イストミンとの準々決勝まで進出。準々決勝では1-6, 6-3, 6-7(8)のフルセットで惜敗したが、シーズン初のツアーベスト8進出を果たした。

2011年

全豪オープン全仏オープンウィンブルドンの4大大会では全て1回戦敗退に終わり(全米は欠場)。シングルスランキングを100位以下に落としてしまった。ダブルスではカタール・エクソンモービル・オープンと、クレムリン・カップでベスト4に進出している。

家族

弟のレヴァンはプロバスケットボール選手として活動しており、グルジアの名門バスケットボールクラブであるBCディナモ・トビリシに所属している。またガバシュビリの叔父も飛込競技の世界王者であったという[2]

ATPツアー決勝進出結果

ダブルス: 1回 (0勝1敗)

結果 No. 決勝日 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
準優勝 1. 2007年7月30日 アメリカ合衆国の旗 インディアナポリス ハード クロアチアの旗 イボ・カロビッチ アメリカ合衆国の旗 トラビス・パロット
アルゼンチンの旗 フアン・マルティン・デル・ポトロ
6–3, 2–6, [6–10]

4大大会シングルス成績

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 通算成績
全豪オープン LQ A 1R LQ 1R 1R 1R 0–4
全仏オープン LQ LQ 1R A 2R 4R 1R 4–4
ウィンブルドン A A 1R A 1R 2R 1R 1–4
全米オープン LQ 2R 2R 1R 1R 1R A 2–5

脚注

  1. ^ Tsunami espera a Nadal”. エル・パイス (2010年8月31日). 2010年9月3日閲覧。
  2. ^ ATP公式プロフィールより

外部リンク