ジョゼ・アルベルト・コスタ

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ジョゼ・アルベルト・コスタ
SCブラガ(Bチーム)を指揮するコスタ
名前
本名 José Alberto Barroso Machado e Costa
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1953-10-31) 1953年10月31日(70歳)
身長 173cm
選手情報
ポジション MF
ユース
1969-1971 SCヴィラ・レアル英語版
1971-1972 アカデミカ・コインブラ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1971-1978 アカデミカ・コインブラ 136 (15)
1977 ロチェスター・ランチャーズ英語版 8 (1)
1978-1985 FCポルト 145 (22)
1985-1986 ヴィトーリア・ギマランイス 29 (2)
1986-1987 CSマリティモ 9 (0)
代表歴
1978-1983 ポルトガルの旗 ポルトガル 24 (1)
監督歴
1989 ポルトガルの旗 ポルトガル (アシスタント)
1989–1990 アカデミカ・コインブラ
1991–1992 ポルトガルの旗 ポルトガル (アシスタント)
1991–1992 ポルトガルの旗 ポルトガルU-21
1993–1995 スポルティングCP (アシスタント)
1996–1997 名古屋グランパスエイト (アシスタント)
1996 名古屋グランパスエイト
1998–1999 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 (アシスタント)
1999–2001 FCファマリカン
2001 FCヴィゼラ
2001–2003 ヴァルジンSC
2003 GDシャヴェス
2009–2010 ポルトガルの旗 ポルトガル (アシスタント)
2011–2012 サナト・ナフト
2013–2014 SCブラガB
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジョゼ・アルベルト・コスタまたはジョゼ・コスタことジョゼ・アルベルト・バローゾ・マチャド・エ・コスタ: José Alberto Barroso Machado e Costa, 1953年10月31日 - )は、ポルトガルポルト出身の元サッカー選手・サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー(左ウイング)。

プリメイラ・リーガで計16シーズンにわたり、4つのチーム(主にFCポルト)で合計301試合と37ゴールを記録し、指導者としても長期にわたってキャリアを積んだ。

選手としてのキャリア[編集]

クラブ[編集]

ポルトで生まれたコスタはSCヴィラ・レアル英語版アカデミカ・コインブラのジュニアユースで育ち、アカデミア・コインブラのトップチームでプリメイラ・リーガデビュー。同年チームはセグンダに降格するが、1年での再昇格に貢献した。1977年には北米サッカーリーグロチェスター・ランチャーズ英語版に期限付き移籍した。 [1]

1977-78シーズンにアカデミアに戻ってキャリアハイとなる10ゴールを決めた後、FCポルトに移籍。ヴィラ・レアル時代に陸上競技ハンドボールで鍛えたフィジカルを持つ古典的ウィンガー[2]フェルナンド・ゴメスアントニオ・オリベイラ英語版と共に強力な攻撃トリオを結成。 2つの全国選手権を含む6つの主要タイトルの獲得に貢献した。1979年にはポルトガルの年間最優秀選手に選ばれた[3]UEFAカップウィナーズカップ 1983-84では決勝にまで進むが、バーゼルで行われた決勝でユベントスに敗れてタイトルを逃す。 [4]


その後出場機会を徐々に減らした32歳のコスタは1985年にヴィトーリア・ギマランイスに移籍。チームの4位とUEFAカップ出場権獲得に貢献。1985年11月24日、ホームでのスポルティングCPとの試合でシーズンの唯一のゴールを決め、 CSマリティモへの移籍を経て1987年6月に現役を引退した。

ポルトガル代表[編集]

コスタはポルトガル代表として24試合に出場、2試合目となるアメリカとの国際親善試合で1ゴールを決めた[5]

コスタはどの国際大会でも国を代表していませんでした。彼の最後の出場は1983年10月28日、ポーランドとの対戦で、 UEFAユーロ1984予選で1対0で勝利しました。

指導者としてのキャリア[編集]

プロのサッカー選手として引退後、コインブラ大学機械工学の学位を取得[2]し、コーチとしてのキャリアをスタート。彼は代表チームを率いていたジュカ英語版のアシスタントコーチを務めた後、ユース代表チームを担当し、次の代表チーム監督であるカルロス・ケイロスをサポート。彼の最初の監督経験は、 2部に所属していた古巣のアカデミカで、クラブで1シーズンを経験した。

コスタはスポルティングCP、ニューヨーク/ NJメトロスターズを経て、1996年にJリーグ名古屋グランパスエイトアーセン・ベンゲル監督の下でコーチに就任した。9月にベンゲルが退任したため、ケイロスが就任するまでの3試合を監督代行として指揮を執った。その後、アラブ首長国連邦代表チームでケイロスのサポート役を務め、1990年代後半には監督として、 FCファマリカンFCヴィゼラヴァルジンSCGDシャヴェスといったポルトガルのクラブチームを指揮。

2005年、コスタは「USAセブンティーンサッカーアカデミー」のテクニカルディレクターとして招聘される。彼はカリフォルニア州サンタクララに拠点を置き、アカデミーのさまざまな階層を支援し、技術的指導を行った。 2008年7月、彼はオセアノ・ダ・クルスとイングリッシュジュリアンワードと一緒に働いて、ポルトガル代表チームのスカウト部門に加わり、再びケイロスと活動を共にする。 [6] [2]

2011年11月、コスタはシーズンの終わりまでイラン・プロリーグサナト・ナフト・アーバーダーンFCの監督に招聘され、2012年5月には契約の延長を勝ち取るが、最終的には2012年の後半に辞任した。 [7]

タイトル[編集]

クラブ[編集]

個人[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]