カピタン

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復元された出島商館内部

カピタン甲比丹甲必丹加比旦)は、江戸時代東インド会社日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと[1]。日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の「Capitão(カピタン)」で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことを「Opperhoofd(オッペルホーフト)」と呼ぶが、日本では使われなかった。

Capitãoそのものの意味は、英語でいうキャプテン(Captain)で組織の長、リーダーの意。

西洋商館の歴史

天文12年(1543年種子島にポルトガル人が漂着して以来、日本には多くのポルトガル人やイスパニアスペイン)人が渡来し、キリスト教の布教や貿易活動等を始めていた。天文19年(1550年)に肥前国平戸にポルトガル商船が来航し、永禄4年(1561年)からは平戸での貿易(南蛮貿易)を許可され、平戸ポルトガル商館が建設されるようになった。また元亀2年(1570年)にはポルトガルの要請を受けて長崎を開港、長崎にも長崎ポルトガル商館が建つようになった。また、日本で布教活動をしていたイエズス会が長崎の一部に領地を得るなど、貿易港長崎はかつてない発展を遂げた。天正12年(1584年)には平戸にイスパニア商船が来航し、平戸イスパニア商館が建設された。

これにより一時平戸及び長崎は対西洋貿易で大きく栄え、西洋風の建物が立ち並び「西国の京都」ともうたわれたが、西洋諸国による植民地獲得と表裏一体のキリスト教布教活動に危機感を強めた豊臣秀吉は、天正15年6月19日(1587年7月24日)に天正の禁令を発布、キリスト教禁止を命じた。

そのような中、慶長5年3月16日1600年4月29日)、オランダロッテルダムマゼラン会社オランダ語版に属する商船リーフデ号[2]が難破し、豊後国に漂着した。生存者の中からウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステン江戸に送られ徳川家康と会見した。半年後の関ヶ原の戦いで家康が天下を取ると2人は家康の外交顧問となり、それぞれ日英・日蘭貿易のために活動を開始した。慶長14年(1609年)、平戸に平戸オランダ商館を建設する許可を得たオランダ東インド会社は、ヤックス・スペックスを初代オランダカピタン(商館長)として派遣した。

しかし家康も日々拡大していくキリスト教を懸念し、慶長17年(1612年)、豊臣政権以来の新たなキリシタン禁教令を発布、貿易のみの外交関係を推進する。こうしたこともあり、西洋諸国間で対日貿易の主導権争いが過熱し、慶長18年(1613年)5月にはイギリスが平戸にイギリス商館を建設し、初代イギリス商館長にリチャード・コックスを置いた。しかしイギリスは、1623年に発生したアンボイナ事件を契機に対インド貿易に注力する方針に転換、平戸のイギリス商館を閉鎖し、対日貿易から離脱した。

その後江戸幕府は、元和9年(1623年)に発生した元和の大殉教以後キリスト教弾圧をさらに強化するとともに、寛永元年(1624年)には、イエズス会を組織したイスパニア船の来航を禁止し、平戸イスパニア商館も閉鎖した。また、ポルトガルのマカオ当局に対して宣教師を日本に派遣させないことを要求し、マカオも日本との貿易の途絶を恐れ、これに応じた。

それでも宣教師は日本人への布教をあきらめず、日本とポルトガル、スペインの主権が及ばない東南アジアの日本町に渡航し、そこに居住・渡航する日本人に対して布教を行い、中には、商人や船員を装い、朱印船を利用して日本に密航を企てる者もいた。この状況を重く見た幕府は、キリスト教の禁教を徹底させるために、朱印船貿易の廃止を決意した。その代わり、朱印船の役割を外国人(ポルトガル人・オランダ人・中国人)に代行させる観点から、長崎奉行の定員を旗本2人とし、長崎奉行への職務規定(「鎖国令」)を通じて、中国や東南アジアとの中継貿易の拠点としての長崎の整備を進めていった。

寛永10年(1633年)の「第一次鎖国令」では、奉書船以外での渡航や、5年以上東南アジアに永住している日本人の帰国が禁止された。寛永12年(1635年)の「第三次鎖国令」では、日本人の東南アジア方面との往来が全面的に禁止され、寛永13年(1636年)の「第四次鎖国令」では、ポルトガル人の妻子や縁者をバタビアに追放した。さらに、長崎に人工島である出島を建設して、出島に長崎ポルトガル商館を移築し、出島内にポルトガル人を収容して管理した。

寛永14年(1637年)、追いつめられたキリシタンらが島原の乱を起こすと、翌年乱を鎮圧した幕府は、ポルトガルとの貿易の打ち切りを望むようになった。寛永16年(1639年)、将軍の徳川家光と老中全員、オランダ商館長であるフランソワ・カロンとの会談が行われ、幕府側はカロンから、台湾経由で生糸などの中国製品などを確保できること、台湾に渡航している中国人が明朝からの渡航許可を与えられた商人であり、かつ、密航者ではないこと、オランダがスペインとポルトガルの妨害を跳ね返す軍事力を備えていることなどを確認し、オランダがポルトガルと朱印船の代行ができることを信じ、ポルトガルとの貿易の打ち切りを決定した。これを受けて幕府は、長崎奉行のみならず、九州地方の大名を中心とした全国の大名に、ポルトガル船の来航禁止と、ポルトガル船に対する警戒と打払いを趣旨とした命令(「第五次鎖国令」)が発布され、ポルトガル人はこれを受けて出島から追放された。

オランダは、島原の乱の鎮圧に功があったこと及び西洋諸国に関する情報収集等の目的から貿易続行を許され、寛永18年(1641年)、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移設し、ここに「鎖国」は完成した。以後、日本における西洋諸国の商館は、長崎出島のオランダ商館のみが安政5年7月10日1858年8月18日)の日蘭修好通商条約締結まで存在することとなった。

歴代ポルトガルカピタン(商館長)

平戸

長崎

歴代イスパニア(スペイン)カピタン(商館長)

平戸

歴代イギリスカピタン(商館長)

平戸

歴代オランダカピタン(商館長)

平戸

156代(149代)ヘンドリック・ドゥーフ

長崎

関連文献

 以下の片桐一男の著書を参照。ほか多数

脚注

  1. ^ 元はポルトガル語の「船長」「隊長」であり、大航海時代においては船団を率いたカピタンが商館(砦)を開設してそのまま長となることもあった
  2. ^ マゼラン会社とはマゼラン海峡を経由する航路によるアジア貿易を目指した会社で、後のオランダ東インド会社の前身にあたる12のVoorcompagnieのうちの1社だった。De VOCsite : Geschiedenis; van voorcompagnie naar VOC”. Jaap van Overbeek te Wageningen.. 2020年10月2日閲覧。

関連項目