ウィリアム・キッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Aloha-vodka (会話 | 投稿記録) による 2022年10月29日 (土) 15:24個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎フィクションと財宝伝説)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ウィリアム・キッド

ウィリアム・キッドWilliam Kidd1645年?[1]/ 1655年ごろ[2] - 1701年5月23日[3])は、スコットランド生まれの私掠船海賊船の船長キャプテン・キッドの別名が広く知られている。

生涯

前半生

キッドが記録に現れ始めるのは、彼が50歳を越える頃である[4]

キッドは、スコットランドのグリーノック[注 1]長老派牧師の息子として生まれた[6][2]。彼は少年期をスコットランドで過ごしたあと、アメリカへ渡った[5]。アメリカに来た後の人生は分かっていないが、船乗りとして生活していた、もしくは、西インド諸島で非合法活動を行っていた物と思われる[7][注 2]

その後、彼はブリガンティン船ブレスト・ウィリアム号[注 3]を指揮して西インド諸島で私掠行為を行って名をはせていた[2]1691年、キッドはロバート・カリファド英語版[注 4]率いる反乱者たちによってアンティグアに置き去りにされた[2]

その出来事の後キッドは再び海に出ていき、アメリカ植民地を襲うフランス船を拿捕して、ニューヨーク植民地議会から表彰された上で特別褒賞として150ポンドを受け取った[11]。それによりキッドの名はニューヨーク外のアメリカ植民地などにも知れ渡っていった[11]。それから彼は、ニューヨーク市でサラ・ブラッドリー・コックス・オートと言う未亡人と結婚した[2]。その後商人になった[12]

私掠船の船長として

アドヴェンチャー・ギャレー号の航路

1695年、キッドは私掠免許を得るための活動をするためにロンドンに向かった[12]。当時のアメリカ植民地は、イギリスの法律によって困窮していたため、インド洋などに略奪に向かう海賊たちを援助していた[13][注 5] 。植民地は、海賊たちが略奪してきた財宝などを売却する場所となり、北アメリカには海賊たちが集まった[14]。それらの行為についてはイギリス政府も関知していたが、世界各地で戦争をしていたため対処できる状態ではなかった[15]。その為、海賊退治を私掠船にまかせることにした[15]

海賊退治を任されたベロモント伯リチャード・クート[注 6]ジョン・サマーズ卿に紹介されたオーフォード伯エドマンド・ラッセルロムニ伯ヘンリー・シドニーシュルーズベリ公チャールズ・トールボット、ロンドンの大商人エドマンド・ハリソンなどと共に海賊退治の準備を行った[17]。ロンドンにいたベロモント伯は私掠船に必要となる船舶や船長などを探していたところキッドの知り合いのロバート・リヴィングストン大佐に出会った[18]。大佐は、ベロモント伯が私掠船長を探していることを知ると彼にキッドを紹介した[18]

そこでキッド自身に海賊たちについての詳しい知識があったため、ベロモント伯に政府の船の指揮官にするようにという提案を出してもらえた[19]。しかし理由は不明ながら、この提案は受け入れられなかった[19]。これを聞いたベロモント伯はキッドに船長を務めさせるために新しい船を自身の資金を使って建造し、委任状も自身で手に入れた[19]アドヴェンチャー・ギャレー号英語版[注 7]は、287トンの船体で、34門の大砲と150人の乗員を持つ船であった[21](キッド自身も、アドヴェンチャー・ギャレー号の建造費用6000ポンドの内600ポンドを支払っていた[22])。キッドは海賊を捕らえていいという権限と[注 8]、その過程で出会ったフランス船も拿捕していいという権限を手にいれた[24]

1696年3月1日、キッドのアドヴェンチャー・ギャレー号は、テムズ川近辺にてイギリス海軍の強制徴募を受けた[25]。これによりキッドたちは、19日間にわたってこの地に留められた[25]。1696年5月、プリムスを出発した[26]。大西洋でいくつかの小さな船を襲った後、彼はニューヨークに向かった[27]。この地で襲った船の略奪品を売却したり強制徴収によって削減されたアドヴェンチャー・ギャレー号のクルーを補充したりした[27]9月7日にこの地を発った[27]

その後マデイラ島に行ってワインや必需品を、ボナヴィスタでは塩を、セントヤーゴ島では食糧を積み込んだ[28]。そして1696年9月、海賊たちの巣窟マダガスカルを目指した[29]。そして1697年2月、マダガスカルに到着した[28]。しかし海賊たちは略奪に出ていて島にはいなかったためにマラバー海岸に向かい、6月に到着したがここでも成果はなかった[28]

海賊として

その後、キッドは紅海のバブの小島(ペリム島)に到着して、海賊行為を行うことを乗組員に伝えた[30]。乗組員に反対者はいなかった[30]。キッドはイギリスとオランダの護衛艦に守られた船を発見して、それを襲った[31]。しかしキッドの船は護衛艦に勝てず撤退した[31][注 9]。その後海賊稼業を続けることにしたキッドは、マラバー海岸に行き小型船を襲ったがこの船は財宝を積んでいなかったためコーヒーと胡椒を略奪した後に船を解放した[31]

キッドはウィリアム・ムアという船員との間で口論となり、鉄で補強されたバケツでムアを殴りつけて、殺害した[33][34]。この事件を機にキッドは本格的に海賊行為を行っていくことになる[34]

1698年2月、キッドは総額71万ポンドの財宝を積んだケダー・マーチャント号英語版(Quedah Merchant)を発見し、略奪した[35]。キッドは、フランス国旗を揚げて接近した[36]

マダガスカルでの出来事

キッドはアドヴェンチャー・ギャレー号とケダー・マーチャント号を率いてサント・マリー島に到達する。この地で彼はかつてキッドの下で副船長として働いていたが、船を盗み海賊として活動しているロバート・カリファド(Robert Culliford)と彼が略奪したモカ号(Mocha Frigate)に出会う[37]。そこで彼らはボンブー酒英語版を飲み交わし、互いに物品を送りあった[38][注 10]。本来海賊退治のために派遣されたキッドはこの地で海賊を助けてしまった[38]。しかしキッド船長自身はこの話を否定している[38]。彼によれば、彼はセント・メアリ島到着時にカリファド一味を発見したので、海賊退治のために彼らを拘束することを決めた[37]。キッドは乗員に船を捕らえるように指令を出したが、クルーたちはその命令を聞かなかった[37]。そこでキッド船長は乗組員たちにケダー・マーチャント号の略奪品を分け与えた[37]。しかし配当金を得た乗員のほとんどが謀反を起こし、カリファドに合流してしまった[37]。そして、18人の船員しかキッドの元に残らなかった[40]

追われるキッド船長

キッドは、喜望峰を回るための風を5か月間待った。損壊していたアドヴェンチャー・ギャレー号を破棄しケダー・マーチャント号に乗り換えカリブ海に向かった[41]。西インド諸島のアングイラ島で自分が「東インドの疫病神」と言われていることを知ったキッドは、ベロモントの手を借りようとした[41][9]。彼はベロモントに連絡が取れるまでセント・トマス島の宿屋に泊まろうとしたが、お尋ね者であることを理由に宿泊を拒否された[41]エスパニョラ島の南東部の海岸にある川でケダー・マーチャント号を破棄した[41]。船体が大きすぎて目立ってしまうからだった[41]。その代わり財宝の一部はスループ船に移され、残りはキッドが安全な状況になるまで見張りを立てて置かれた[41]。国王は、喜望峰東部からソコトラ島コーモリン岬までの海域で行われた海賊行為に対しては、1699年4月末までに自首すれはどんな罪であろうとその罪を免除するという布告を出した[42]。ただし、キッドとエイヴリーだけは例外だった[42]ロング・アイランドに到着したキッドは、ベロモントに会うためボストンに行った(この時ベロモントは、キッドを誘き寄せるため偽物の歓迎の手紙を書いた)[41]。ボストンに着いたキッドはベロモントに裏切られ逮捕された[43]1700年4月、キッドはイギリスに連行された[44]

裁判と最期

クェダ・マーチャント号に対してフランス政府が発行した航行許可書[45]。キッドの裁判中に提出されることはなかったが、事件の2世紀後にロンドンの公文書館で発見された[45]

一年後ホイッグと敵対する政治家がキッドを議会下院に召喚しホイッグに対して不利な証言を引き出そうとしたが成功しなかった[46]

1700年5月、ムーア殺害と海賊行為の罪で裁判が始まった[46]。キッドは、ムーア殺害は計画的なものではなく、ムーア自身が反乱の姿勢を見せていたため殺害は仕方がなかったとして無罪を主張し、ケダー・マーチャント号はフランス船であり海賊行為ではないとしてこちらの罪でも無罪を主張した[46]。しかし、主張が認められることはなく、どちらの罪でも有罪が言い渡された[46]

ケダーマーチャント号がフランス船であることを示す通行書が存在したがキッドの裁判時には紛失していた。ただし、キッドはケダーマーチャント号以外にも略奪行為を働いており、通行書の有無は裁判結果に影響しなかったであろうと考えられている[46]

 最終的に、彼は5つの海賊行為と殺人の罪で死刑となった[47]

縛り首になったキッド船長『海賊自身の書』より[48]


その遺体タールを塗られ、散り散りにならないように鉄の輪をはめられた上で鉄の檻に入れられた[49]。海賊を志す者に対する警告としてテムズ川絞首台に数年間放置された[49]。死後、彼を称えるバラッドが多数制作され、その一部は動画投稿サイトYouTubeで試聴可能である[50][51]


政争に巻き込まれた説

一般にはキッドは貴族らスポンサーを騙して出資を募り、それを元手に海賊行為を行っていたとされる。だが、ミュージアム・オブ・ロンドン・ドックランズで開催されている「海賊 キャプテン・キッド物語」では、キッドは富裕層の対立に巻き込まれたという見方を示している[52]。それによればキッドの怪しい事業はスポンサーの意思によるもので、それによって利益を脅かされると考えた東インド会社が裏で糸を引いてキッドを犯罪者に仕立て上げたという[52]。実際、キッドの裁判では彼の無実を示す証拠が紛失し、有利な証拠の提出が禁じられていた[52]

フィクションと財宝伝説

キッドは、逮捕される前にガーディナー島英語版に財宝を埋蔵した[53]。現在でもその島に財宝が埋蔵されているとする人もいるが、財宝はベロモントの部下によって発見されている[53][注 11]。発見された財宝は当時の人々の予想に反して約1万ポンド程度の価値しかなかったので、人々はまだ発見されていない財宝(最低でも5万ポンド分)がどこかにあるはずと推測した[56]。後にニューイングランドの入り江や小湾、アメリカの東海岸、西インド諸島の島々などが候補地とされ、隠し財宝の金額も増えていった[56]。さらに時代が下がると日本の南西諸島、アメリカの太平洋岸、フィリピンなどキッド自身が足を延ばしていない場所も隠し財宝の候補地に加えられた[56][注 12]

エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』とロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』のうち前者は、キッドの財宝自体が登場し、後者に登場する「フリント船長の財宝」はキッドの財宝を想定した物と思われる[58]。米インディアナ大学のチームによって、ドミニカ共和国カタリナ島英語版近海で、ケダー・マーチャント号とみられる船が発見された[59]。そしてアドヴェンチャー・ギャレー号についても、サント・マリー島の近くの海底で財宝とともに発見したとバリー・クリフォード英語版が発表した[60]。しかしユネスコは後にこの主張を否定した[61]

日本トカラ列島に浮かぶ宝島も、キッドが財宝を隠したという言い伝えが残っている[62]

1983年コーク・グラハム英語版とリチャード・ナイトは、キャプテン・キッドの埋蔵財宝を探索しにベトナムフーコック島に行った。ナイトとグラハムらは捕らえられて、ベトナムの領土への不法入国で有罪となり、それぞれに10,000ドルの罰金が科された。罰金を支払うまでの11週間、彼らは収監されていた。[63] 

脚註

注釈

  1. ^ 一説には、スコットランドの東部ダンディー ともいわれる[5]
  2. ^ アメリカでキッドは自身の出身地をイングランドだと称していた[5]
  3. ^ 「幸福なウィリアム号」と訳される[8]
  4. ^ 他表記:クリフォード[8]、カリフォード[9]。のちに彼はイギリス東インド会社所有の船舶の船長となった後、その船を奪ってからインド洋で海賊行為をするようになった[10]
  5. ^ 当時の植民地総督と海賊との関係性については海賊の黄金時代 #海賊周航カリブ海の海賊 (歴史) #私掠船などを参照。
  6. ^ ベロモント伯(他表記:ベラモント伯とも)[12]、リチャード・クート(他表記:リチャード・コートとも)[12]。彼はニューヨーク、ニューイングランドなどの植民地の総督に選ばれた人物である[16]
  7. ^ 「冒険号」と訳される[20]
  8. ^ その委任状にはキャプテン・トマス・テュウジョン・アイルランド英語版キャプテン・トマス・ウェーク英語版キャプテン・ウィリアム・メイズ英語版、その他の海賊たちを拿捕する権利を有する旨が記されていた[23]
  9. ^ キッドが襲撃した船の護衛を担っていたセプター号の船長エドワード・バーローの航海日誌には、キッドの船は船団の中央部を通って行ったこと、護衛船が強力だと分かったら攻撃をやめて逃げていったこと、その後キッドはインドへ向かったことなどが記されている[32]
  10. ^ クリフォードは、大量の高価な絹布を、キッドは、贈り物、2丁の銃、錨等をそれぞれ送り合った[39]
  11. ^ ちなみにこの財宝の一部はアン女王の命令によりグリニッジ病院の理事会に渡された[54][55]
  12. ^ キッド自身は、裁判中にガーディナー島以外の場所に財宝を隠したりはしていないと発言している[57]

出典

  1. ^ キッド【William Kidd】 とは2017年2月11日閲覧
  2. ^ a b c d e コーディングリ、(2000)、p313
  3. ^ 増田、(2006)、p118
  4. ^ 別枝、(1965)、p26
  5. ^ a b c 別枝、(1965)、p27
  6. ^ ゴス、(2010)、p18
  7. ^ 別枝、(1965)、p29
  8. ^ a b 別枝、(1965)、p45
  9. ^ a b ゴス、(2010)、p21
  10. ^ 別枝、(1965)、p54,p55
  11. ^ a b 別枝、(1965)、p46
  12. ^ a b c d コーディングリ、(2000)、p314
  13. ^ コーディングリ、(2000)、p295
  14. ^ 別枝、(1965)、p48,p52
  15. ^ a b 別枝、(1965)、p56
  16. ^ 別枝、(1965)、p57
  17. ^ 別枝、(1965)、p57,p58
  18. ^ a b 別枝、(1965)、p58,p59
  19. ^ a b c ジョンソン、(2012)、p138~p139
  20. ^ 別枝、(1965)、p67
  21. ^ コーディングリ、(2000)、p316~p317
  22. ^ コーディングリ、(2000)、p315
  23. ^ 別枝、(1965)、p68-p69
  24. ^ コーディングリ、(2000)、p314~318
  25. ^ a b 別枝、(1965)、p75-p77
  26. ^ ジョンソン、(2012)、p141
  27. ^ a b c 別枝、(1965)、p77-p79
  28. ^ a b c ジョンソン、(2012)、p142
  29. ^ コーディングリ、(2000)、p319
  30. ^ a b ジョンソン、(2012)、p143
  31. ^ a b c ジョンソン、(2012)、p144~p145
  32. ^ (ゴス、(2010)、p221~p224)
  33. ^ コーディングリ、(2000)、p320~p321
  34. ^ a b ゴス、(2010)、p20
  35. ^ コーディングリ、(2000)、p320~p321
  36. ^ ジョンソン、(2012)、p147
  37. ^ a b c d e コーディングリ、(2000)、p321
  38. ^ a b c 別枝、(1965)、p125~p127
  39. ^ 別枝、(1965)、p125~p127
  40. ^ コーディングリ、(2000)、p321~p322
  41. ^ a b c d e f g コーディングリ、(2000)、p322~323
  42. ^ a b ジョンソン、(2012)、p149~150
  43. ^ コーディングリ、(2000)、p323
  44. ^ コーディングリ、(2000)、p324
  45. ^ a b 別枝、(1965)、p181~p183
  46. ^ a b c d e 薩摩真介『<海賊>の大英帝国 掠奪と交易の四百年史』講談社、2018年11月11日、129頁https://books.google.co.jp/books?id=5lt2DwAAQBAJ&printsec=frontcover&dq=%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%8B%B1%E5%B8%9D%E5%9B%BD&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjSi5OIkMDuAhXJa94KHfdPDxoQ6AEwAHoECAIQAQ 
  47. ^ コーディングリ、(2000)、p324
  48. ^ マーカス・レディカー(著)、和田光弘・小島崇・森丈夫・笹井俊和(訳)『海賊たちの黄金時代:アトランティック・ヒストリーの世界』2014年8月、ミネルヴァ書房、p193
  49. ^ a b コーディングリ、(2000)、p326
  50. ^ ゴス、(2010)、p23
  51. ^ ゴス、(2010)、p239
  52. ^ a b c CNN 2011.06.02「カリブの海賊の背後にエリート貴族」 2011年9月5日閲覧
  53. ^ a b コーディングリ、(2000)、p323~324
  54. ^ コーディングリ、(2000)、p327
  55. ^ 別枝、(1965)、p190
  56. ^ a b c 別枝、(1965)、p13~16
  57. ^ 別枝、(1965)、p14
  58. ^ 別枝、(1965)、p19~21
  59. ^ CNN.co.jp : 海賊キャプテン・キッドの船、残がいを発見か?2017年4月5日閲覧
  60. ^ 海賊キャプテン・キッドの財宝発見か、マダガスカル沖 2015年5月8日配信 2015年5月12日閲覧
  61. ^ 「海賊キッドの沈没船と財宝ではない」ユネスコが否定2017年2月4日閲覧
  62. ^ 宝島について - 十島村役場HP
  63. ^ Branigin, William (1984年5月12日). “Tracking Captain Kidd's Treasure Puts Pair in Vietnamese Captivity”. The Washington Post 

参考文献

  • デイヴィッド・コーディングリ(編)、増田義郎、竹内和世(訳)『図説 海賊大全』東洋書林、2000年
  • チャールズ・ジョンソン(著)、朝比奈一郎(訳)『海賊列伝(下)』中央公論社、2012年
  • フィリップ・ゴス(著)、朝比奈一郎(訳)『海賊の世界史(下)』中央公論社、2010年
  • 増田義郎(著)『図説 海賊』河出書房新社、2006年
  • 別枝達夫(著)『キャプテン・キッド権力と海賊の奇妙な関係』中央公論社、1965年

関連項目