袰月

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袰月
津軽国定公園高野崎
袰月の位置(青森県内)
袰月
袰月
北緯41度12分49.95秒 東経140度32分47.345秒 / 北緯41.2138750度 東経140.54648472度 / 41.2138750; 140.54648472
日本の旗 日本
都道府県 青森県旗 青森県
市町村 今別町の旗東津軽郡今別町
人口
2020年10月時点)[1]
 • 合計 57人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
030-1513[2]
市外局番 0174[3]
ナンバープレート 青森
運輸局住所コード 02800-0558[4]

袰月(ほろづき)は、青森県東津軽郡今別町にある大字。旧津軽郡田舎庄袰月村東津軽郡袰月村東津軽郡一本木村袰月に相当する[5]。郵便番号は030-1513[2]。域内の人口および世帯数は2020年10月実施の国勢調査によると、57人、33世帯である[1]。古くは両翼突[注 1]母衣月[注 2]縨月[注 3]保呂豆木[注 4]とも[6][7]

地理[編集]

町の東部、袰月川下流域に位置しており、西と南で大泊に、東で砂ケ森と接し、北で津軽海峡に面する。国道沿いに集落が展開されており、イカや海藻などの沿岸漁業が行われている地域で、出稼ぎに出る人が多く、過疎化が進んでいる。

小字[編集]

袰月の小字は以下の通りである[4]

  • 鋳釜崎(いがまざき)[8]
  • 舎利浜
  • 中山崎
  • 袰村元
  • 村下

海洋・河川[編集]

袰月海岸[編集]

袰月海岸(ほろづきかいがん)は袰月内に所在する海岸の景勝地で津軽国定公園内にある、鋳釜崎から高野崎にかけての海岸を指す[7][9]。断崖が直接海に迫り、数多くの名所があるほか、津軽海峡に面しているため、北海道を望むことができる[7]。また、美しい舎利石を拾うことができるため、舎利浜という別名をもつ[7][6]津軽一統志の産貢には

今別石、袰月(二邑共外浜之海辺也、三才図絵保呂豆木)、此地希代之生美石、工人琢磨為珠、其質頗似瑪瑙、少者名舎利石、攸是而凝信者必分形而増其数

と記され、ここを旅する人たちは舎利石を求めることに熱心であったとされる[6]。なお、舎利石は今別海岸で採れる今別石と同じくメノウの一種である[6]

また、天明8年に当地を訪れた菅江真澄

七曲りというつづらを十曲りもおりて、深沢という磯山がくれにおもしろき処ありと聞て、大泊のやかたに人たのみてあないさすれば、ここはぜんぢやうじき、こは盞岩、鯉岩、あるは武蔵坊のあしがた、かねかけ、銚子、いぬのくび、象の形、なにくれくれと、大なる、いはやどのうちの波をしのぎてめぐりたる — 外が浜つたひ、菅江真澄

と記している[7]

古川古松軒も東遊雑記のなかで

母衣月浜といえるさ、世に舎利石と称する奇石の出る浜なり、このゆえに土人舎利浜ともいふなり、その石のうつくしきこと、伊勢真珠を見るが如く、光り渡りて透き通ること、水晶よりも明らかなり、人々劣らじと尋ね拾いしに、上品の石はたくさんにもあらず、予定さもかくなんようよう百粒ばかり拾いぬ、土人舎利母石と称する石あり、この石を見るに、右の舎利石を限りなく孕みてあり、舎利母石は海底にあるゆえ、たやすく得がたし

と記している[7]

歴史[編集]

耕地が少なく、主に漁業に従事していたためか、江戸期の郷帳類には村名が見えず、山崎村・奥平部村・砂ケ森村・大泊村と同じく、一本木村の支村として存在していたとされる[7]

天文年間の津軽郡中名字に、「綱不知」、「夷(をこたらへ)[注 5]」と並んで両翼突(ほろつき)と見えるほか、1645年正保2年)の津軽郡之絵図の海岸に「ほろつきの間西風わるく」と記され、高野崎と袰月の間に番所と思われる舎屋が記されている[6]。これらの印は1808年文化5年)の一里塚図にも見られる[6]

1755年宝暦5年)の津軽外之浜後潟組犹御改覚によると奥平館、袰月、大泊、松ケ崎、六条間、藤島、釜野沢、宇鉄の八ケ村で合計234人のアイヌ人がいたとされる[10][11]

1790年寛政2年)の北行日記には、

しなが森を立つ。山を越へ十丁斗り岩山の差出たる所狗潜りとて洞有り其の中を行く。母衣月家十四五軒、人家を出で三四丁の間の浜を舎利浜と号す、行人舎利石を拾ふて土産とす。

と袰月について記述されている[6]

寛政伊能忠敬測量日記によれば、1802年享和2年)には人家14軒、1850年嘉永3年)の東奥沿海日誌によれば人家40軒、明治元年の新撰陸奥国誌によれば人家34軒であったとされる[6]

松浦武四郎は当地について、

母衣月村、人家四十軒斗、漁者のミ也、人家も甲辰の時よりは又去年通りし時甚美敷なるとか、檜山多くして家柄至て富栄へるよし也、又此湾深くして船澗によろし、故に往来の船も此処に多く暫くよく、小商人有

と記し、高野崎に設置された砲台を見て、

三十匁筒壱梃、五十匁筒壱梃を備へたり、雨露に磨して赤錆にて地鉄ハ見えさる様に成たり

と著している[7]

明治2年の諸組村寄帳では後方(後潟)のうち一本木村、奥平部村、袰月村、砂ケ森村、大泊村の各村がそれぞれ一村として見えており、明治4年に弘前県を経て、青森県に所属するも、明治元年の国誌では再び一本木村の支村として扱われ、その村況は

山涯沙汀に沿って小湾の隅にあり、<中略>小店あり、土地産業前[注 6]に同し、この浜並に砂ケ森にては凝石菜を采り四方に貸す

という[7]。その後は一本木村の支村として扱われることは少なくなり、現に明治7年の県管内村名簿では山崎村のみが一本木村の支村として見える[7]

沿革[編集]

  • 1707年宝永4年) - 母衣月御留山のうち、穴の沢・下之沢の2箇所が百姓御救山となる[7]。嘉永5年3月5日
  • 1852年嘉永5年) - 長州藩士の吉田松陰宮部鼎蔵とともに当地を訪れる。
  • 明治4年 - 弘前県を経て、青森県に所属[7]
  • 1889年明治22年)4月1日 - 東津軽郡一本木村村制施行し、一本木村が発足。
  • 1955年昭和30年)
    • 東津軽郡一本木村が同郡今別村と合併するにあたって、一本木村袰月が今別町袰月となり、今別町役場一本木支所が置かれた[7]
    • 袰月中学校(当初は一本木中学校とも)が奥平部中学校を合併する[5]
  • 1958年(昭和33年) - 袰月小学校が大泊小学校と統合し、消滅[5]
  • 1981年(昭和56年)8月 - 津軽国定公園袰月海岸が国鉄の周遊指定地になる[12]
  • 1982年(昭和57年)11月 - 高野崎に町営テニスコート設置[12]
  • 1988年(昭和63年)[12]
    • 4月 - いわゆり保育園の廃止に伴い、袰月地区福祉館が設置。
    • 7月 - 高野崎に高木恭造文学碑完成。
    • 10月 - 鋳釜崎に吉田松陰の石碑建立。
  • 1989年平成元年) - 高野崎に展望いさりびがオープン[13]
  • 1993年(平成5年)4月 - 今別町立袰月中学校と今別町立今別中学校が統合し、新生の今別町立今別中学校が開校[13]
  • 1995年(平成7年)7月 - 海峡の家ほろづきがオープン[13]

地名の由来[編集]

山田秀三によると、袰はアイヌ語のポロ(大きい)で、月は日本語の杯(つき)を借用した語であり、袰月は大ぶりの酒椀の形に深くえぐられた湾ということでポロトゥキ(大酒椀)という地名になったとする戦後に出てきた新説がある[14]。しかし、本州の場合、北海道とは違いアイヌ遺跡は本州には無く、古くからこの辺りに継続して生活する本州和人とは対照的に後に遅れて北海道から本州に入ってきたアイヌが居住していたのはごく少数であり短期間だった(『東遊雑記』古川古松 《天明8年-1788年》)。アイヌ語継承者やアイヌ遺跡が存在しない本州においては山田秀三のアイヌ語由来地名説を裏付けるには根拠が希薄である[15]。したがって「袰月」(本来は『両翼突』《ほろづき》の漢字表記)の地名の由来は依然不詳のままである[5]

施設[編集]

高木恭造の石碑がある袰月会館。
  • 袰月郵便局(袰月字袰村元44-1)[16]
  • 海峡の家「ほろづき」(袰月字村下70)[17]
  • 袰月会館(袰月字袰村元84)[18]

統計[編集]

域内の統計は2020年10月実施の国勢調査によると、以下の通りとなっている[1][19][20]

  • 総人口 - 57人
  • 世帯数 - 33世帯
  • 男 - 30人
  • 女 - 27人
  • 外国人 - 0人
  • 労働力人口 - 26人
    • 管理的職業従事者 - 0人
    • 専門的・技術的職業従事者 - 1人、
    • 事務従事者 - 1人
    • 販売従事者 - 4人
    • サービス職業従事者 - 6人
    • 保安職業従事者 - 0人
    • 農林漁業従事者 - 9人
    • 生産工程従事者 - 1人
    • 輸送・機械運転従事者 - 0人
    • 建設・採掘従事者 - 2人
    • 運搬・清掃・包装等従事者 - 2人
    • 分類不能 - 2人
  • 非労働力人口 - 31人
    • 在学者 - 0人
  • 労働力状態不詳 - 0人

1960年(昭和35年)時点での人口は480人、世帯数は88世帯、1970年(昭和45年)時点での人口は331人、世帯数は80世帯、1980年(昭和55年)時点での人口は261人、世帯数は71世帯であったことから、2020年現在に至るまで、着実に過疎化が進行していることがうかがえる[7]

交通[編集]

鉄道[編集]

道路[編集]

  • 国道280号 - 地吹雪、落石・崩壊、および岩盤崩壊の危険を孕んでいる[21]

バス[編集]

  • 今別町巡回バス[22]

教育[編集]

公立学校であれば、今別町立今別小学校今別町立今別中学校に進学する。

ただし、域内の在学人口は2020年10月時点では0人である[20]

文化[編集]

茶めし[編集]

茶めしは袰月地区に伝わる郷土料理で、今別町内でも袰月地区以外の地区ではほとんど知られていないとされている[23]カワラケツメイの粉末と金時豆もち米うるち米と混ぜて炊いた料理で、主に葬式で振る舞われる[23]。近年では、この茶めしを中核とした観光商品の開発が進められている[24]

文化財・遺跡[編集]

産業[編集]

労働力人口は26人で、そのうち9人が農林漁業に従事しており、漁業に関しては、域内に一本木漁港が存在し、ワカメや天草、もずく、えご、昆布といった海藻類のほか、イカなどが名産である[26][27][5]

寺社仏閣[編集]

  • 稲荷神社 - 祭神は保食神旧村社[6]。開創は不明であるが[6]文政9年の棟札のある稲荷宮があるため、少なくとも文政9年には建立されていたとされる[7]明治元年の一時期は一本木村稲荷神社に合祀された[7]。祭日は9月20日[6]
  • 海雲洞釈迦堂 - 集落の西方にあり、聖観音が安置されており、巖屋観音堂とともに津軽三十三観音第21番札所となっている[7]
  • 鬼泊巖屋観音堂

人物[編集]

  • 高木恭造津軽弁方言詩家で、当地での生活が方言詩集『まるめろ』のモチーフとなった[28]。域内の袰月会館には高木恭造の文学碑が設置されている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 津軽郡之絵図などに見える。
  2. ^ 北行日記や東奥沿海日誌、新撰陸奥国誌などに見える。
  3. ^ 津軽一統志などに見える。
  4. ^ 津軽一統志などに見える。
  5. ^ 奥平部を指す。
  6. ^ 大泊村のこと。

出典[編集]

  1. ^ a b c 国勢調査 / 令和2年国勢調査 / 小地域集計 (主な内容:基本単位区別,町丁・字別人口など) 02:青森県”. 独立行政法人統計センター. 2023年7月20日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2021年7月20日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2021年7月15日閲覧。
  4. ^ a b 自動車登録関係コード検索システム”. 国土交通省. 2023年8月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1985.
  6. ^ a b c d e f g h i j k 虎尾俊哉 1982, p. 306.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1985, p. 857.
  8. ^ 青森県東津軽郡今別町袰月鋳釜崎”. NAVITIME. 2021年7月16日閲覧。
  9. ^ 袰月海岸”. 今別町. 2023年7月5日閲覧。
  10. ^ 谷川健一 2010, p. 514.
  11. ^ 谷川健一 2010, p. 515.
  12. ^ a b c 昭和の軌跡”. 今別町. 2023年7月16日閲覧。
  13. ^ a b c 平成の軌跡”. 今別町. 2023年7月20日閲覧。
  14. ^ 谷川健一 2010, p. 519.
  15. ^ 菊池 慧「早池峰の東麓を訪ねる」岩手県立博物館だより No.129 2011
  16. ^ 袰月郵便局 (ほろつきゆうびんきょく)”. 日本郵政グループ. 2023年7月20日閲覧。
  17. ^ 海峡の家「ほろづき」”. 今別町. 2023年7月20日閲覧。
  18. ^ 今別町ハザードマップ” (PDF). 今別町. 2023年8月7日閲覧。
  19. ^ 総務省統計局統計調査部国勢統計課. “国勢調査 / 令和2年国勢調査 / 小地域集計 (主な内容:基本単位区別,町丁・字別人口など) 02:青森県 - 男女,職業(大分類)別就業者数(15歳以上)-町丁・字等”. 独立行政法人統計センター. 2023年7月20日閲覧。
  20. ^ a b 総務省統計局統計調査部国勢統計課. “国勢調査 / 令和2年国勢調査 / 小地域集計 (主な内容:基本単位区別,町丁・字別人口など) 02:青森県 - 男女,在学学校・未就学の種類別人口-町丁・字等”. 独立行政法人統計センター. 2023年7月20日閲覧。
  21. ^ 資料編” (PDF). 今別町. pp. 51-53. 2021年7月15日閲覧。
  22. ^ 今別町巡回バス”. 今別町. 2023年8月7日閲覧。
  23. ^ a b 郷土料理「茶めし」核に旅行商品を 今別町” (2022年12月1日). 2023年7月2日閲覧。
  24. ^ “郷土料理「茶めし」核に旅行商品を/今別”. 東奥日報. (2022年11月30日). https://www.toonippo.co.jp/articles/amp/1435264 2023年7月2日閲覧。 
  25. ^ 遺跡地名表” (PDF). 青森県. 2023年8月7日閲覧。
  26. ^ 東青の環境公共だより” (pdf). 青森県 (2017年1月10日). 2023年7月20日閲覧。
  27. ^ 袰月海宝”. 袰月海宝. 2023年7月20日閲覧。
  28. ^ 高木恭造(たかぎ・きょうぞう)☆常設展示作家”. 青森県近代文学館. 2022年10月26日閲覧。

参考文献[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店〈1版〉、1985年12月1日。ISBN 4040010205 
  • 虎尾俊哉『日本歴史地名体系 2 青森県の地名』平凡社、1982年7月10日。ISBN 4582490026 
  • 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
  • 谷川健一 編『列島縦断地名逍遥』冨山房、2010年5月。