公衆便所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公衆トイレから転送)
移動: 案内検索

公衆便所(こうしゅうべんじょ)または公衆トイレとは、使用者を特定せずに広く一般に開放されている共用便所(トイレ)である。

主に地方公共団体が、街頭や公園などに設置・管理する場合が多いが、国の外郭団体が設置する国立公園内の公衆便所や、商店会など民間が設置管理するものもある。特に通常の公園に設置されたものは、担当の清掃員が頻繁に立ち回ることが困難であるためか、あまり衛生的ではなく、建物もきれいとは言い難いことも多いが、高速道路サービスエリアパーキングエリア道の駅の休憩施設、北海道パーキングシェルター鉄道駅[1]観光地の便所など、よく管理された便所は衛生的であるし、建物の外観などに工夫を凝らしたものもある。

朝来市役所前のレンガ造風の公衆トイレ

設備[編集]

公衆トイレ内の大便器ブース

多くの公衆便所に備わっているのは便器を備えた個室、手洗い・化粧直しのための洗面台で、男子便所の場合は、これに加え、利用効率向上のために並列された小便器が設置してある。

個室に備えられた便器は、和式・洋式の両方があり得る。かつては和式のみを備えた便所が一般的であったものの、一般家庭での洋式の普及により、近年では洋式便所も備えることもあるが、すべて洋式便器というケースはほとんどなく、おおむね和式が主流となっている(ただし、身体障害者や高齢者の来訪が想定される病院役所などの公共施設では和式・洋式が併設されることもある)。

一般に、その楽な姿勢から洋式便所が好まれるものの、公衆便所においては、洋式便所は「不特定多数の人間の肌が直接触れることから不衛生」「座りっぱなしで居られるので長時間占有される」という理由で嫌う人もいる。このため、近年では使い捨て便座シートや消毒液などが設置されている場合がある。

かつては非水洗が主流であったものの、現在は多くが水洗式である。しかし、山地・海岸などでは、今でも汲み取り式便所が用いられている。水洗においても簡易水洗などがあり、山や観光地などにおいて排水を直接処理することが困難な地域でよく用いられている。

公衆便所で水洗便所の場合、大便器の洗浄にはハイタンク式のシスタンバルブ式(ハイタンクの下部にフラッシュバルブ同様のバルブを設けた物)洗浄が多く採用されていたが、タンクが満水になるまで次の洗浄が出来ず、連続で洗浄出来ない欠点や露出した長い給水管が錆びたり汚損が多いことなどで不潔感もあり、最近は採用例が減り、壁内や離れた場所にフラッシュバルブを設置し、センサーで人体を感知して使用後に自動で起動する自動フラッシュバルブや手かざしセンサーや薄型のタッチスイッチで電磁弁を作動させ起動する電装式のフラッシュバルブが主体になってきており衛生的になっている。

また公衆便所の大便器としては陶器製の便器では悪戯で破損される恐れがあることから。黒色プラスチック製のたらいに足場を設けたような風貌で、便器全体を洗浄するという便器があった。この便器は中東からアフリカにかけてのイスラーム文化圏等に多く見られる様式の便器をモチーフにした製品で、金隠しがなく、しゃがみこむ際に足を乗せる部分も一体になっている。かつては国鉄の主要駅や全国の公衆便所で採用されたが、いずれも金隠しがない、ボウル面が狭い、しゃがみこんだ時の足幅が狭いなど、和式ほど洗練されていなかったこと、日本型の水洗便所に適さなかったなど、文化的に受け入れられなかったかったことから現存数は少ない。

公衆便所の小便器の場合、古い施設では混雑時に複数人同時に並んで用が足せるように、、個別に便器が無く、タイルコンクリートの壁、あるいはFRP製の壁のような便器があり、その場合人の立つ場所が一段高くなって、向かい側の溝に流す形で、水洗式の場合でも、その壁に水を流す管が付いているだけのトイレが多用されていた。しかしこのタイプは水洗式であっても、尿石からの悪臭やなどの衛生害虫が発生しやすい等、利用者から臭くて不潔な印象としてかなり不評であり、最近は個別に小便器を設置したトイレに改修された場所も多く、急速に減少している。

以前のい公衆便所のトイレでの小便器の洗浄装置はハイタンク式による連立一斉洗浄方式があり、設定されたタイマーにより、電磁バルブでサイホン作用を起こしハイタンク内に貯水された水を、排水して複数の小便器を洗浄する。この方式は利用者が全く居ない時でも洗浄水が流れたり、逆に利用者が集中している時でもタイマーの設定時間が来るまで洗浄水が流れないので悪臭の原因になるなどのデメリットが多い。

またハイタンク式による連立一斉洗浄方式でも自動サイホン式があり、絶えずタンクに少量の水が給水され、タンクの水が満水に達する頃に自動でサイホン作用が働いて排水して連立した複数の小便器に給水する。利用者が居ない時でも、この動作が繰り返されるので、大量に無駄な水を消費してしまう他、タイマー式同様、利用者が集中している時でもタンクの水が満水に達しないと洗浄水が流れないので悪臭の原因になるなどのデメリットが多い。

これを改良したのが人感センサ式自動サイホンでトイレの入口付近に設置された人感センサにより検知した利用者をカウントし、設定された利用者まで検知するとハイタンクに給水が始まり、タンクの水が満水に達する頃にサイホン作用が働いて自動で排水して小便器に給水する。

これらのハイタンク式による連立一斉洗浄方式は、人感センサフラッシュバルブが普及するまで公衆便所でで多く採用されていたが、最近ではトイレの改修などにより徐々に採用が減ってきている。


近年に新設、改修されたトイレではセンサーで人体を感知して自動で洗浄する便器がほとんどであり、公衆トイレにおいても大便器、小便器共にトイレの空間の向上が図られている。

小さい子どもがいる利用者のためのベビーシート

また、駅や観光地では、個室内に幼児を座らせておく椅子や、ベッドを備え付けたりおむつを替えるためのベビースペースを設けている所も多い。

高速道路サービスエリアパーキングエリアの和風便器は長らく半トラップ式で便器の半トラップからU字下水溝に流し込む特殊な便器(TOTOではC183R型便器)が採用されていたが、現在は通常の市販品の掃除口付き和風便器(TOTOではC755CU)が採用されており、改修工事等で半トラップ式の和風便器は急速に減少している。

手洗いの水の出しっぱなしを防ぐため、自動水栓を備えることも増えてきている。

一部施設では、公衆便所の利用は無料なものの、個室トイレにトイレットペーパーが設置されておらず、入口で有料販売を行っているケースもある。

構造[編集]

公衆便所は、多くの場合、男女の別のために二つで区切られているか、車椅子での利用を含めて三つに区切られている。

利用者が多くない公衆便所では、男女共用の箇所も存在するが、最近急速になくなりつつある。

それぞれの区画は、個室や、男子用小便器が備えられている。流しについては、それぞれの区画にある場合と、共用スペースにある場合とがある。

また、清掃を迅速に行うため、特定の時間になると床一面に自動的に水が流れる仕組みのものも登場している。

建物[編集]

観光地では、観光物にちなんだトイレが設置されていることがある。

有料公衆便所[編集]

有料トイレ(JR新宿駅東口)

基本的に公衆の利益のために無料で開放されているのが公衆便所ではあるが、衛生面を考えると十全な管理が必要であり、そのためには経費がかかる。税金だけで管理することが困難であるため、有料化が試行されるようになった。主にチップトイレと言われるもので、使用者が一定額の料金を支払う(またはトイレットペーパーが別売)というシステムになっている。当然のことながら、採算が合うためには、多くの使用者が見込まれる場所であることが望ましく、したがって、大型のターミナルに設置されていることが多い。なお欧米の公衆トイレには有料制が多く、小銭1枚程度の定額を支払う方式が一般的である。

最古の公衆便所[編集]

世界史最古の公衆便所は、西暦74年ローマ帝国で設置されたものである。これはウェスパシアヌスが内乱後に財政立て直しのために行ったもので、敵対者の嘲笑を買ったが、それに対する反論、Pecunia non olet(「金は臭わない」)は有名な文句である。

現在でもヨーロッパの公衆便所は、ウェスパシアヌスの名前(正確にはその各国語への翻訳)で呼ばれる。

なお、上記の有料公衆便所と異なり、ウェスパシアヌスの設置した公衆便所は用を足す利用者から料金を徴収するものではない。当時は羊毛の油分を洗い流す目的で人間の尿が使われていたため、公衆便所で集めた尿を羊毛加工業者に有料販売したのである。

日本における公衆便所の始まり[編集]

江戸後期の長家の共同便所(深川江戸資料館)
オープンスタイル(岡山)

江戸時代[編集]

江戸時代においては、農村部で大小便(し尿)を農作物を栽培する際の肥料としても使うようになり、高価で取引されるようになった。そこで江戸、京都、大阪など人口集積地の共同住宅である長屋などでは、共同便所が作られ収集し商売するものがあらわれた。実質的に現在の公営公衆便所のような役割を果たしていた。

1872年(明治5年)[編集]

1872年(明治5年)、東京において次の条例が公布された。第49条 市中往来筋において便所にあらざる場所へ小便するもの 違反したら鞭罪とか拘留が規定されていた。[2] 

  • 同年2月17日の横浜毎日新聞は次の記事を報道している。仮名垣魯文、立ち小便で科料とられる。1872年(明治5年)11月に、横浜市街33か所に共同便所が新設された。それは四斗ダルを地面に埋め込み板で囲っただけで不衛生であった。浅野総一郎はそれを改善し農家に運んだ。1879年(明治12年)年のことである。[3]

辻便所と肥後の医育[編集]

  • 1872年(明治5年)年上記の条例により、むち刑や拘留が規定された。白川県(現在の熊本県)には参事山田武甫、権参事に嘉悦氏房水島貫之あり。共に横井小楠門下の俊秀で大いに進取的文化施設をなしつつあった。熊本においては古城(ふるしろ)医学校兼病院に命じて対策をとらせた。そこにはマンスフェルトConstant George van Mansvelt (1832-1912)がおり、欧州先進国の例を汲みて、辻便所を設けるべく提案された。この医学校からは北里柴三郎が卒業したので知られる。古城病院では無理であったので、水島貫之は農家に命じてくみ取り料を徴収させることを考えた。すなわち熊本市を4区にわけて監督させる。大きい所は大小用、小さい所は小専用としその数50か所。一荷を7銭ないし8銭とした。(1年1か所を3円ないし3円50銭)当時北岡病院(通町病院の後身で、医学生の教育をしていた)が作り公衆便所とした。これは相当、病院を経済的に潤したようで、北岡病院の事務員古賀信一郎は小便古賀とあだ名された。しかしその後辻便所は熊本市へ売り渡され、収入が減ったので医学教育を辞めざるを得なかった。1896年(明治29年)に127か所を725円で熊本区(現在の熊本市)に売り渡している。熊本県庁文書、熊本市役所文書、田代家文書などにも残っている、[4][5]

文献・脚注[編集]

  1. ^ 国鉄時代の駅の便所は、規模の大きな主要駅を除くと、古く汚いものが多かった。
  2. ^ 山崎正董 『肥後医育史』補遺 p118
  3. ^ 荒井保男  『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社 ISBN 978-4-12-004204-1. 私書版である「浅野総一郎」は1923年(大正12年)6月出版とある。また 『横浜市史稿、風俗編、産業編 』 1932年(昭和7年) 横浜市 にも記載がある
  4. ^ 『肥後医育史』鎮西医海時報社 熊本、1929年(昭和4年)
  5. ^ 同補冊、鎮西医海時報社 熊本、1931年(昭和6年) 118-122

関連項目[編集]