公衆衛生
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公衆衛生(こうしゅうえいせい、Public Health)は、集団の健康の分析に基づく地域全体の健康への脅威を扱う。健康は多くの機関により、さまざまに定義されている。疾病の実態調査の標準を設定・提供する国際連合の機関である世界保健機関は、健康を「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」と定義している。
公衆衛生は多くの分野からなる。しかし典型的な区分としては疫学、生物統計学、医療制度がある。環境・社会・行動衛生、職業衛生も、重要な分野である。
世界保健機関は公衆衛生を「組織された地域社会の努力を通して、疾病を予防し、生命を延長し、身体的、精神的機能の増進をはかる科学であり技術である」と定義している。
大学の教室の名称等で公衆衛生学と称される場合もある。
臨床医学が個人水準で健康を扱うのに対して、公衆衛生は社会水準で健康を取り扱う。例えば、生活習慣病対策・伝染病(感染症)予防・公害対策・上水道・下水道・食品衛生など社会保障の基礎となる分野について研究する。
類義語に衛生学がある。
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[編集] 歴史
近代の公衆衛生は、19世紀に英国のロンドンでコレラの流行が起こったときに、流行エリアを分析し、ある上水道や井戸を利用した人たちを中心に感染が広がっていたことから感染源を特定するに至ったこと(ジョン・スノーによる疾病地図の作成)に始まるといわれている。(当時はコレラ菌は発見されていなかった)
日本においての公衆衛生の歩みとして、1722年(享保7年)に徳川吉宗の設けた目安箱への投書がきっかけで設立された小石川養生所の存在がある。
明治の文明開化以降の近代的な「公衆衛生」に相当する概念としては、当時医学の諸制度はドイツに倣っていたことが多かったため、ドイツ流に「独Hygiene(衛生または衛生学)」、あるいはイギリスの制度を模倣して導入されていった。 1874年(明治7年)に医制が公布され各地方に医務取締を設置、その後1879年(明治12年)には中央衛生会(地方には衛生課)を設置、公選によって衛生委員が置かれる、といった民主的な体制を布いた。しかし、1885年(明治19年)に廃止、1893年(明治26年)には、これらの機能を警察部に移管、上意下達式になった。これは、中央集権型政治体制に移行してきたこととともに、当時の急速な感染症拡大へ対応を素早くとりたい意図もあった。
昭和13年3月29日より、国立公衆衛生院が公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として事業を行ってきが、太平洋戦争降伏後、連合国軍最高司令官総司令部のもと、アメリカ教育使節団報告書の勧告により、全国の医学部に公衆衛生の講座が設置された。
[編集] 国立公衆衛生院
日本に初めて、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として米国ロックフェラー財団の支援により、昭和13年3月29日に国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。その後、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として活動を続けてきた。[1]
- 1923年(大正12年)9月1日:関東大震災後、米国ロックフェラー財団より、災害地復興援助の一部として公衆衛生技術員の養成訓練機関開設設立援助の妥当性、実現性に関する非公式連絡が有り。[1]
- 1930年(昭和5年):公衆衛生院及び学生の臨地訓練機関としての都市及び農村保健館の設計図と共に公衆衛生院の計画案を米国ロックフェラー財団へ送付した。これらの計画案は、米国ロックフェラー財団に於いて検討された結果、遂に了承されることとなり、次いで建築設計の実施案の作製に着手することとなった。[1]
- 1934年(昭和9年):内務省内に公衆衛生技術員養成機関建設委員会が設けられ、建設に関する一切の事務を処理することとなった。全施設(公衆衛生院の建物、設備、器具、機械、図書並びに両保健館の建物その他とを併せた施設)に対する米国ロックフェラー財団の経済的寄与は総額350余万ドルに達した。[1]
- 1937年(昭和12年):公衆衛生院及び都市、農村両保健館の建物、器具機器、図書、等の準備が完了し、米国ロックフェラー財団より、建設委員会を通じ、公衆衛生院は日本政府に、都市保健館は東京都に、農村保健館は埼玉県に寄附された。[1]
- 1938年(昭和13年)3月29日:国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。また、東京帝国大学名誉教授林春雄が初代院長となった。発足時の教授は、野辺地慶三博士(初代疫学部長)、斎藤潔博士(初代小児衛生部長、創立15周年記念誌編集委員長、第三代国立公衆衛生院長)、石川知福博士(初代環境生理科長、昭和23年東京大学医学部初代公衆衛生教授)、川上理一博士(初代衛生統計学部部長)があたった。[1][2]
- 国立公衆衛生院の誕生までには、当時の内務省衛生局、ついで厚生省の当事者のなみなみならぬ苦心があったことはいうまでもないが、特に建設委員会幹事野辺地慶三博士(国立公衆院発足時に伝染病研究所疫学研究室は、国立公衆衛生院疫学部として、新発足することとなった。初代疫学部長には、野辺地慶三博士が就任した。伝染病研究所疫学部研究室時代は、その性格上微生物関係の研究は、直接行っていなかったが、新設の疫学部は、この方面の研究も併せ行うこととなった)の献身的な努力に負う所が大であった。[1]野辺地慶三博士は、東京帝国大学医科大学を卒業後、伝染病研究所に入り、コレラ菌の血清学的分類法を発見し、この業績は、現在でも適用されている。[3]
- 1940年(昭和15年)12月に厚生科学研究所に改められ、昭和17年11月に厚生省所管の全研究機関と共に厚生省研究所に統合された。終戦後の昭和21年5月に元の公衆衛生院に戻った。[1]
- 国立公衆衛生院 創立15周年記念誌の序文において国立公衆衛生院の古屋 芳雄 二代院長が下記の通り述べている。[1]
本院の現在のあり方、またあるべき方向を決定するためには、本院がいかなる経緯を経てここに到つたかを知る必要がある。……例えば、本院の運営が多数の先輩諸士の援助によつて漸く軌道に乗った如くみえた後でも本院がいかに多くの難関に逢着せねばならなかつたか、特に曠古の大戦争の余波をうけて、度重なる組織の変更に逢い、本院職員がいかに苦闘をつづけねばならなかつたかも本誌に戴するところの本院官制の変革を見れば、これを偲ぶことが出来るのである。
本院は今漸く本院の当然あるべき姿に復帰し、本院のもつ16のコースはすでに7千の卒業者を出し、また多数の責重な研究成果の累積を見ているのであるが、その何れもが本職員の日々の精進苦闘の痕跡である。従つて本院がこの長い年月を通して到着した今日の態勢が容易に動かすべからざるものであること、況んや外部からの一時的な思い付きで簡単に動かしてならないものであることは、この記念誌を読む人のひとしく感ずるところであろう。
といって私たちは徒らに過去を尊重し、現状に甘んじようとするものではない。本院の主な事業が、国の機関に働いている公衆衛生技術者の養成訓練にある以上、それは時代の動きと政治情勢の変化に応じで改められねばならないのは勿論である。然しそのためにも過去の私たちの経験というものは大きく物をいうのである。この記念誌はそうした場合にも役立つことを私は信じでいる。
- 1965年(昭和40年)に世界保健機関(WHO)は、国立公衆衛生院のDiploma in Public Healthを諸外国の公衆衛生大学修士M.P.H.と同等のものと認め、「世界公衆衛生大学年鑑」に収録している。[2]
- 世界保健機関は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している。[2][4]
[編集] 公衆衛生上最近のできごと
- BSE(Bovine Spongiform Encephalopathy)牛海綿状脳症又は伝達性海綿状脳症。
- 重症急性呼吸器症候群(SARS、Severe Acute Respiratory Syndrome)サースまたはサーズと発音する。新型肺炎。
- トリインフルエンザ(高病原性トリインフルエンザ、旧称家禽ペスト、Orthomyxoviridae Influenza virus A)
- 2004年2~3月猛威をふるう。
- 関係府県の情報は、二転三転した。正確な情報を消費者に伝えることができなかった。
- 関係府県の情報の発表が後手後手に回った。BSEの反省を全く生かせていなかった。
- アスベスト問題(石綿問題)
- たばこ規制枠組条約(2005年2月27日締結の多数国間条約。世界初の公衆衛生分野における条約[5]
- 健康増進法の制定(2002年8月2日)
[編集] 部門
[編集] 主な施策
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
- 衛生
- 大学 - 医学部、歯学部、薬学部 - 公衆衛生大学院
- 衛生学 - 産業衛生学
- 細菌学(口腔細菌学)/ウイルス学/寄生虫学/真菌学/病理学
- 国立保健医療科学院
- 社会保障
- 世界保健機関/日本公衆衛生学会/国際保健/グローバル・ヘルス
- 細菌叢調査(細菌調査)/サーベイランス
- 医師/歯科医師/獣医師/薬剤師/感染症専門医/インフェクションコントロールドクター/看護師/保健師/臨床検査技師/歯科衛生士/栄養士/食品衛生監視員/環境衛生監視員/建築物環境衛生管理技術者
- 公衆衛生法
- エドウィン・チャドウィック
- ジョン・スノー
- ルイ・パスツール
- 志賀直哉
- 北里柴三郎

