ロクセラーナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ロクセラーナ
ヒュッレム・スルタン
Hürrem (Khurram or Karima)
Haseki Sultan, خرم سلطان
Roxelana
生誕 Alexandra Anastasia Lisowska
1506年
ロハティン(現:ウクライナ
死没 1558年4月18日
コンスタンティノープル(現:イスタンブル
墓地 イスタンブルスレイマニエ・モスク
民族 スラブ系
著名な実績 皇后
宗教 初めはギリシア正教、後にイスラム教へ改宗
配偶者 オスマン帝国スレイマン1世
子供 メフメト[† 1]ミフリマー英語版[† 2]、アブドゥラー[† 3]セリム、バヤズィト[† 4]、ジハンギル[† 5]
テンプレートを表示

ロクセラーナ もしくは ヒュッレム・ハセキ・スルタン[名前 1] (1506年[7] - 1558年4月17日、RoxelanaHürrem Haseki Sultanخرم سلطان) は、オスマン帝国スレイマン1世の后である。オスマン帝国の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一婦の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせオスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。

生涯[編集]

奴隷としてスレイマン1世に献上される[編集]

ロクセラーナとスレイマン1世を描いたドイツのアントン・ヒッケルの作品(1780年)。2人の関係はヨーロッパ人の想像力をかきたてた

スラブ系[8][9]で、ロシア人、もしくはポーランド人とされる[8]。ポーランドの伝承によるとルテニア地方ロハティン英語版[† 6]の貧しい司祭の娘で、元の名はアレクサンドラ・リソフスカ (Aleksandra Lisowska) であった[10]。ドニエストル、ルテニア地方を略奪したクリミア・タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブールへ売られ[8]スレイマン1世の大宰相イブラヒム・パシャ英語版に買われた後、スレイマン1世に献上されたといわれる[10]

スレイマン1世の寵愛を得、法的な婚姻関係を結ぶ[編集]

ロクセラーナはスレイマン1世の第2側室(カドン)となった。この時点でロクセラーナにとっての敵は、スレイマン1世の母后ハフサ・ハトゥンと、ハフサ・ハトゥンを後ろ盾とする[11]第1側室マヒデヴラン[† 7]、ロクセラーナの最初の所有者であったといわれる大宰相イブラヒム・パシャの3人であった[13]。1534年[11]にハフサ・ハトゥンが死去するとマヒデヴランはスレイマンの不興を買って宮殿を追われ、イブラヒム・パシャは暗殺された[13]。マヒデヴランが宮殿を追われた経緯について、ヴェネツィア共和国駐イスタンブール大使のベルナルドウ・ナヴァゲラは、マヒデヴランと口論を起こしたロクセラーナが、自ら顔に引っ掻き傷を作った上でスレイマン1世に呼び出されるよう工作をし、スレイマン1世の関心を惹くと同時にマヒデヴランをスレイマン1世から遠ざけることに成功したと報告している[14]。イブラヒム・パシャについても、ロクセラーナが処刑に関与した具体的な証拠は存在しない[13]が、人々は関与を疑った[15]

スレイマン1世の後継争いに策動[編集]

1549年にロクセラーナがジグムント2世へ宛てた手紙

ロクセラーナは、スレイマン1世との間にもうけた4人の皇子(メフメト、セリム、バヤズィト、ジハンギル)のいずれかを次期スルタンとするべく策動したといわれている[15]。一時メフメトが有力となったが1543年に天然痘に罹って[16]早世し、マヒデヴランの子ムスタファが有力となった。しかしムスタファは1553年、イラン遠征軍の陣中で処刑された。ムスタファは軍人として名声が高く[17]、とりわけイェニチェリから強く支持されており[18]、突然の処刑にイェニチェリは怒り反乱を起こす寸前にまで至った[17][18]。スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はロクセラーナが娘のミフリマー英語版とその婿で大宰相のリュステム・パシャ英語版とともに「徳の高いスルタンの目をくもらせた」と考えた[19][† 8]

16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマン1世と「ロシアの魔女」、すなわちロクセラーナを非難する詩を作った。

ロシアの魔女の言葉を耳に入れ

企みと魔術にだまされて、あの悪女の言いなりとなり

生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした

ああ、無慈悲なる世界の王よ

かつてあなたが若かった時、あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに

その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに

年老いた今、悪しき不正義を行うとは


林1997、155-156頁。

スレイマン1世はムスタファの子や側近も処刑する一方、政権内の不満を抑えるためにリュステム・パシャを罷免した[21]。さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ロクセラーナは助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは3年で大宰相の地位に返り咲いた[22]。ロクセラーナの庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成して政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された[22]

ロクセラーナは、スルタン・ワーリデ(スルタンの母后)や第一カドン(側室)、宦官らハレムの住人たちが権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する「カドンラル・スルタナティ(女人の天下[23]、女性の統治)」と呼ばれる時代の幕を開けたと評価されている[24]。ロクセラーナは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザ的な役割をしていたともいわれ、外交政策国際関係の政治問題に影響がみられる。一例として彼女からポーランド王ジグムント2世アウグストへ出した手紙が現存している。存命中、オスマン帝国とポーランドとの間の同盟関係が保たれた。

後継争いの行方を見届けることなく死去[編集]

ロクセラーナの霊廟

ムスタファの処刑によりスレイマン1世の後継候補はロクセラーナが産んだ3人の男子に絞られた[25]が、このうちジハンギルはムスタファ処刑の直後に死亡した(処刑にショックを受けたことが原因ともいわれている)[26]。残るセリムとバヤズィトのうち、ロクセラーナはより有能なバヤズィトの即位を望んでいたとされるが、いずれが後継者となるかを見届けることなく、1558年4月18日に死去した[25]。遺体はミマール・スィナンスレイマニエ・モスク境内に建てた霊廟(テュルベ)に葬られた。後にスレイマン1世の霊廟も、スレイマニエ・モスク境内に建てられた。2つの霊廟は八角形でドームを複雑に配置した構造で、「単純多角形の本体にドームが1つ」という当時の伝統的なデザインとは大きく異なっている[27]

死後[編集]

セリムとバヤズィトの衝突を抑えていた[28]ロクセラーナの死後、両者の後継争いは激化し[29][30]、セリムは側近のララ・ムスタファ・パシャの策謀によってバヤズィトに対するスレイマン1世の評価を低下させることに成功した[31][32]。形勢不利を悟ったバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、スレイマン1世の支持を受けたセリムの前に敗れ、イラン(サファヴィー朝)に亡命したが最終的にはセリムに引き渡され、処刑された[33]。「サルホシュ(酔っぱらい)」と呼ばれた[34][35]セリムが後継争いに勝利したのは、臆病であったがゆえに自ら積極的な行動に出なかったためともいわれている[36]。スレイマン1世の死後スルタンに即位したセリム(セリム2世)は、国家の運営を官人に任せきりにし[37]、「バーブ・ウッサーデ(至福の家)」と呼ばれる館で酒と女に溺れる日々を過ごした[38]。セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官人による支配にスルタンが従う形で行われるようになった[39]

人物[編集]

ロクセラーナについてヴェネツィア共和国の大使ブラガディーノは、美人ではないが愛想がよく、陽気な性格であると評している[40]。同じくヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」と報告している[41]

後世への影響[編集]

慣習への挑戦[編集]

ロクセラーナは自身のため、スレイマン1世にオスマン帝国の慣習を次々と破らせた。まず、帝国には1人の女性がスルタンとの間に男子を2人以上産むことは許されず、男子を産んだ女性はスルタンから遠ざけられるという慣習があった。しかしスレイマン1世はロクセラーナが男子を出産した後も側に置き、最終的にロクセラーナとの間に5人の男子をもうけた[42]。さらに、帝国では14世紀後半に在位したムラト1世以来、妃と法的な婚姻関係を結ぶスルタンは存在しなかった[13]が、ロクセラーナはこの慣習を破らせることにも成功した[43]。婚姻関係を結ぶに当たり、スレイマン1世はロクセラーナを奴隷の地位から解放する法的手続きをとったとされる[42]。ロクセラーナはさらに、自らの地位を脅かしうる美貌の側室数人を降嫁させ[44]、事実上の一夫一婦の関係を構築して自らの地位を盤石なものとした[42]。2人の関係に対するイスタンブール市民の反応についてイタリア人バッサーノは「スレイマンのロクゼラナに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての臣民があきれかえるほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」と書き記している[45]

またロクセラーナは1541年、自らが従える女奴隷や宦官とともにトプカプ宮殿内の、スレイマン1世の居住区画に住むことを許された[13]

慈善事業[編集]

ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム

ロクセラーナはカリフ・ハールーン・アッ=ラシードの妃ズバイダにならって慈善財団をつくり、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わった。最初にモスクと2つの学校(マドラサ)、噴水と女性用の病院を、コンスタンティノープルの女性奴隷市場の近くに建築した。1556年に建設された公共浴場(ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム)は建築家ミマール・スィナンの設計によるもので、収入は当時モスクであったアヤソフィアへの財政支援に充てられた[46][47]。エルサレムでは1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルタン・イマレトを設けた。

ヨーロッパ[編集]

ロクセラーナはヨーロッパでは有名で、現代トルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、ヨーゼフ・ハイドン交響曲第63番を含む音楽作品、オペラ、バレエ、ウクライナ語英語フランス語ドイツ語で書かれた小説などのテーマとなった。

2007年、ウクライナの港町マリウポリムスリムは、ロクセラーナを祭るためにモスクを建設した[48]

肖像画[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

名前[編集]

  1. ^ 彼女は主にハセキ・ヒュッレム・スルタン (Haseki Hürrem Sulta ) または ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン (Hürrem "balsaq" Haseki Sulta ) として知られていた(Haseki は妾の意)。ヨーロッパではロクセラーナ (Roxolena) として知られ(ペンザー1992、262頁。)、ヨーロッパの言語では Roksolana、Roxolana、Roxelane、Rossa、Ruziac として表記される。トルコ語で Hürrem とはペルシア語の خرم(Khurram、陽気な人の意)とアラビア語の كريمة(Karima、高貴な人の意)に由来している。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの東スラヴ人(現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま「ルーシ人の女」を意味する。

注釈[編集]

  1. ^ 1521-1543。天然痘に罹り病死[1]
  2. ^ 1522- ?。大宰相リュステム・パシャ英語版に嫁ぐ[2]イスタンブールにはその名を冠したモスクが2つある[3]
  3. ^ ? -1526。疫病に罹り病死[4]
  4. ^ ? -1562。ロクセラーナの死後、セリムとの後継争いに敗れ処刑された[5]
  5. ^ ? -1553。くる病を患い、「エーリ(せむし)」と呼ばれた。腹違いの兄ムスタファの処刑の直後に病死[6]
  6. ^ ポーランド王国の一部である紅ルーシの主要都市リヴィウから南東へ68kmに位置する。
  7. ^ ギュルバハルとも[12]。'GülbaharGülはバラを意味し、Baharは春を意味する。
  8. ^ イスタンブールの住民の間では、ドゥカーギンザーデ・ヤフヤーによる、ムスタファの死を悼みリュステム・パシャ(および暗にその任命権者であるスレイマン1世)を批判する詩が流行した[20]

出典[編集]

  1. ^ フリーリ2005、244・250頁。
  2. ^ フリーリ2005、244・249頁。
  3. ^ 陳1992、189-190頁。
  4. ^ フリーリ2005、244頁。
  5. ^ 林1997、165-168頁。
  6. ^ フリーリ2005、244・255頁。
  7. ^ http://web.archive.org/web/20060615093437/www.4dw.net/royalark/Turkey/turkey4.htm
  8. ^ a b c 三橋1984、131頁。
  9. ^ 陳1992、177頁。
  10. ^ a b クロー2000、93頁。
  11. ^ a b 鈴木1992、159頁。
  12. ^ 三橋1984、132頁。
  13. ^ a b c d e ペンザー1992、263頁。
  14. ^ 三橋1984、132頁。
  15. ^ a b 林1997、157頁。
  16. ^ フリーリ2005、250頁。
  17. ^ a b 鈴木1992、168-169頁。
  18. ^ a b フリーリ2005、255頁。
  19. ^ 林1997、157-158頁・161-162頁。
  20. ^ 林1997、162-164頁。
  21. ^ 林1997、161頁。
  22. ^ a b 林1997、158頁。
  23. ^ フリーリ2005、259頁。
  24. ^ ペンザー1992、281-282頁。
  25. ^ a b 鈴木1992、169頁。
  26. ^ 林1997、161-162頁。
  27. ^ 陳1992、175頁。
  28. ^ 林1997、165頁。
  29. ^ 林1997、165頁。
  30. ^ 三橋1984、140頁。
  31. ^ 鈴木1992、169頁。
  32. ^ クロー2000、219-220頁。
  33. ^ 林1997、166-168頁。
  34. ^ フリーリ2005、256頁。
  35. ^ クロー2000、207頁。
  36. ^ 林1997、167頁。
  37. ^ 林1997、170-172頁。
  38. ^ フリーリ2005、258-259頁。
  39. ^ 林1997、172頁。
  40. ^ クロー2000、93頁。
  41. ^ 三橋1984、131頁。
  42. ^ a b c 林1997、156頁。
  43. ^ 三橋1984、133頁。
  44. ^ ペンザー1992、264頁。
  45. ^ フリーリ2005、244頁。
  46. ^ フリーリ2005、253-254頁。
  47. ^ 陳1992、201-202頁。
  48. ^ Religious Information Service of Ukraine

参考文献[編集]

日本語の文献[編集]

  • アンドレ・クロー(著) 『スレイマン大帝とその時代』 浜田正美(訳)、法政大学出版局、2000年ISBN 4-588-23802-7
  • 鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社〈講談社現代新書 1097〉、1992年ISBN 4-06-149097-4
  • 陳舜臣 『イスタンブール』 文藝春秋〈世界の都市の物語4〉、1992年ISBN 4-16-509560-5
  • 林佳世子 『オスマン帝国の時代』 山川出版社〈世界史リブレット19〉、1997年ISBN 4-634-34190-5
  • ジョン・フリーリ(著) 『イスタンブール 三つの顔をもつ帝都』 鈴木董(監修)、長縄忠(訳)、NTT出版2005年ISBN 4-7571-4066-5
  • N.M.ペンザー(著) 『トプカプ宮殿の光と影』 岩永博(訳)、法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1992年ISBN 4-588-02130-3
  • 三橋富治男 『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』 清水書院〈清水新書 010〉、1984年ISBN 4-389-44010-1

日本語以外の文献[編集]

  • Thomas M. Prymak, "Roxolana: Wife of Suleiman the Magnificent," Nashe zhyttia/Our Life, LII, 10 (New York, 1995), 15–20. 英語で書かれた写真入りのバイオグラフィ。
  • Zygmunt Abrahamowicz, "Roksolana," Polski Slownik Biograficzny, vo. XXXI (Wroclaw-etc., 1988–89), 543–5. ポーランド人トルコ研究家が書いたポーランド語の記事。
  • Galina Yermolenko, "Roxolana: The Greatest Empresse of the East," The Muslim World, 95, 2 (2005), 231–48. ヨーロッパ人(特にイタリア人)からみたもので、ウクライナ語とポーランド語の文献に精通している。

関連文献[編集]

日本語の文献[編集]

日本語以外の文献[編集]

  • ロクセラーナについては、英語で多くの歴史小説が書かれた。 Barbara Chase Riboud's Valide (1986); Alum Bati's Harem Secrets (2008); Colin Falconer, Aileen Crawley (1981–83), and Louis Gardel (2003); Pawn in Frankincense, the fourth book of the Lymond Chronicles by Dorothy Dunnett; Robert E. Howard in The Shadow of the Vulture.
  • ウクライナ語の小説では右記がある。 Osyp Nazaruk (1930), Mykola Lazorsky (1965), Serhii Plachynda (1968), and Pavlo Zahrebelnyi (1980).
  • その他の言語で書かれた小説がある。フランス語では、Willy Sperco の伝記小説 (1972) ; ドイツ語では Johannes Tralow の小説 (1944) ; セルビア語では Radovan Samardzic の小説 (1987); トルコ語では Ulku Cahit (2001).

外部リンク[編集]