モンゴルのラーンナー侵攻

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モンゴルのラーンナー侵攻

13世紀の東南アジア諸国。ジョルジュ・セデスはラーンナー(青色,Lan Na)・パヤオ(水色,Phayao)・スコータイ(濃青,Sukhothai)の3国はモンゴルの侵攻に対抗するために同盟を締結していたと提唱したが、現在では疑わしいと考えられている。
1301年
場所シップソーンパンナー(車里)、ラーンナー(八百媳婦国)
結果 モンゴル帝国の敗退
衝突した勢力
モンゴル帝国
大元ウルス
ラーンナー王国
指揮官
劉深
カラダイ(合剌帯)
鄭祐
マンラーイ
戦力
20,000人 不明
被害者数
7-8割の損害 不明

モンゴルのラーンナー侵攻(モンゴルのラーンナーしんこう)では、同時代の漢文史料上では八百媳婦国と称されていたラーンナー王国をはじめ、現在の雲南省南部からタイ王国北部にかけて存在したタイ系諸勢力に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。

1253年から1254年にかけて大理国を征服したモンゴル帝国はタイ系諸勢力と接するようになったが、この方面へのモンゴル軍の進出は低調で、大元ウルスを立てたクビライの治世中には小規模な遠征軍が散発的に送り込まれるに過ぎなかった。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世の1301年には最大規模の遠征軍がラーンナーに送り込まれたものの「10人中7,8人が倒れる」大失敗に終わり、以後モンゴル軍によるラーンナー方面への大規模な軍事侵攻は見られなくなった。14世紀に入るとラーンナー王によるモンゴル皇帝への朝貢が始まり、これが明朝にまで引き継がれることとなる。

かつては「モンゴル軍による東南アジア諸国侵攻」が13世紀における「タイ系諸勢力の南下と国家樹立を促した」とする史観が通説とされていたが、近年では両者を結びつける史料的根拠に乏しいことが指摘され、モンゴルとタイ系諸勢力の関係は見直されつつある。

背景[編集]

13世紀に至るまで、現在タイ王国が支配する領域の大部分はカンボジアアンコール朝の間接支配下にあったが、13世紀に入るとラヴォ王国スコータイ王朝などのタイ系民族による諸国家が次々と建設された。ラーンナー王国もまたこのような流れの中で建国され、一般的にマンラーイ王がピン川上流のウィエンクムカーム(現在のチエンマイ南部)に遷都したことを以てラーンナーの成立とする。東南アジア史研究の大家であるジョルジュ・セデス以来、これらタイ系諸民族の南下と国家樹立はモンゴル軍の東南アジア侵攻と結びつけて考えられており、特にラーンナー王国についてはモンゴル軍の雲南・大理遠征を切っ掛けに建国されたと説明されてきた。しかし近年の研究ではモンゴル軍の侵攻とタイ系諸民族の南下を直接結びつける史料は存在しないことが指摘され、ジョルジュ・セデスの学説は現在では比定されている。ただし、建国間もないタイ系諸勢力は政情が不安定であり、八百媳婦国=ラーンナー王国や車里=シップソーンパンナー王国の内乱がこの方面へのモンゴル軍の侵攻を誘発することとなった。

一方、モンゴルの側では大理国の征服に伴ってタイ系諸勢力と接するようになったものの、そもそも大理国の征服自体が南宋国を包囲する大戦略の一環として行われたものであり、1270年代に至るまで東南アジア諸国に対する関心は薄かった。しかし1283年に南宋が事実上滅亡するとモンゴル帝国は次なる進出先として東南アジア諸国に積極的に進出するようになり、特に1278年にはクビライ・カアンの命により南海諸国(=東南アジア諸国)に対して大々的に使者が派遣された。このような流れの中でラーンナー方面にも散発的にモンゴル軍は進出したものの、他の東南アジア諸国同様に過酷な気候に悩まされ、さしたる成果もなく撤退に追い込まれた。クビライの後を継いだオルジェイトゥ・カアンは1301年に最大規模の遠征軍をラーンナーに送り込んだが、後述するように「世祖(クビライ)に比べ今上(オルジェイトゥ・カアン)は武功がない」こと、すなわち内政的な要因から遠征が決められている。

モンゴル軍のラーンナー侵攻[編集]

現雲南省内のタイ系諸族征討[編集]

現代における雲南省の少数民族分布図。最南部のシップソーンパンナー・タイ族自治州を中心に多数のタイ族が居住している。

1253年、大理国を征服したモンゴル帝国はビルマのパガン朝・ヴェトナムの大越国陳朝・タイ系諸国家と接するようになったが、1259年のモンケ・カアンの急死もあってこの方面への進出は遅々として進まなかった[1][2]。そもそも旧大理国の領域全体が1253年の時点で全てモンゴルに服属していたわけではなく、後に開南州・威遠州と呼ばれた雲南南部地域は大理国時代から「金歯蛮(『東方見聞録』ではザルダンダンと呼ばれる)」や「白夷蛮」と呼ばれたタイ系勢力によって支配されており、中統3年(1262年)に至ってようやくモンゴル軍に服属したと伝えられる[1][3]

また、至元11年(1274年)より雲南行省に赴任したサイイド・アジャッルは至元13年(1276年)12月に「阿僰諸部蛮」を招論して降らせることに成功し[4]、この地は元江府(後に元江路と改名)と名付けられ[5]、ここに至って初めてモンゴルは現在のタイ王国に属する地域に至る道を確保することに成功した[1][6]。至元13年(1276年)は奇しくもモンゴル軍が南宋国の首都臨安を陥落させて事実上これを滅ぼした年でもあり、この翌年からモンゴルは大々的に南海諸国(東南アジア諸国)への進出を開始するようになった[1]

とりわけ、至元15年(1278年)8月30日(辛巳)には泉州に行省が設けられ、ソゲドゥ蒲寿庚らに以下の通り全国招諭が命じられた[7]

訳文:東南の島嶼にある諸蕃国は、みな慕義の心をもっているので、蕃舶諸人によって朕の意を宣布すべきである。誠に能く来朝するならば、朕はこれを手厚く礼遇し、その往来や互市は、各々の望むままに従わせよう。
原文:詔行中書省唆都・蒲寿庚等曰『諸蕃国列居東南島嶼者、皆有慕義之心、可因蕃舶諸人宣布朕意。誠能来朝、朕将寵礼之。其往来互巿、各従所欲』。 — クビライ・カアン、『元史』巻10世祖本紀7,至元十五年八月辛巳条[8]

この全国招諭の対象は主に海洋に面した諸国であったが、これにあわせて雲南から周辺諸国への進出も活発化することとなる[1]

1280年代の出兵[編集]

現在のシップソーンパンナー・タイ族自治州のチエンフン(景洪市

どのような経緯からモンゴルがラーンナー王国(当時の漢文史料上では「八百媳婦国」)と接触するに至ったかは記録がないが、普洱市瀾滄県に残る摩崖石刻によって至元19年(1282年)冬にモンゴル軍は初めてラーンナーに対して出兵したことが判明している[9]。しかしほぼ同時期にモンゴル軍の大部隊がビルマ方面に侵攻しており(バモーの戦い)、恐らくは小部隊であったラーンナー遠征軍は何ら見るべき戦果なく普耳一帯まで退却したようである[9]

至元21年(1284年)7月には騰越・永昌・羅必丹(羅必甸)といった雲南西南部一帯で金歯(ザルダンダン)が叛乱を起こしたため、四川方面のタンマチ(辺境鎮戍軍)司令官であったイェスデルをはじめ都元帥マングタイボロト・カダらが叛乱鎮圧のためタンマチ兵1千とともに派遣された[9][10][11]。マングタイはまず羅必丹(現タイ北部)の都城を攻略することを決め、ボロト・カダは遊兵を率いて先行したが、洪水(「江水暴溢」)に道を阻まれたため配下の兵を率いて水の流れをせき止めることでようやく渡河に成功した[9][12]。ボロト・カダは城から僅か300歩しか離れていない場所に陣営を築き、それから7日後に全軍が集結したため総攻撃を開始し、ボロト・カダ率いる部隊が真っ先に城壁を踏破したことで羅必甸の都城は陥落した[9][12]。この後、マングタイ率いる部隊はビルマ遠征中の宗王シャンウダルと合流し、「金歯道(ザルダンダンの支配するルート)」を抜けて雲南に帰還したと伝えられる[10][13]

「洪水を乗り越えた」との記録から羅必甸攻略は夏〜秋頃のことであったと見られるが、更にここからボロト・カダ率いる部隊は何らかの理由で八百媳婦国まで遠征することとなり、恐らくは同年末冬頃にシップソーンパンナー王国(当時の漢文史料上では「車里」。タイ・ルー族によって構成される国家[14])に入った。ここでも諸王ココの命を受けたボロト・カダが300騎を率いて先行し車里の酋長に降伏勧告を行ったが受け入れられなかった。そこで車里に対しても攻撃が行われ、都鎮撫が戦死するなど苦戦を強いられたが、ボロト・カダが北門を破壊し進入したことで城は陥落した。これによって車里=シップソーンパンナー王国は遂に平定されたと伝えられるが、恐らくは同時期にビルマ侵攻に兵力が割かれていたこともあって、モンゴル軍はこの時も結局ラーンナーまで兵を進めることはなかったようである[9][15]

1290年代の侵攻[編集]

マンラーイ王の銅像

1280年代、モンゴルはチャンパー遠征(1282年〜1283年)、第二次・三次ヴェトナム遠征(〜1288年)、ビルマ遠征(〜1287年)と、東南アジア諸国に対して大規模な軍事得遠征を繰り返したがいずれも失敗に終わり、1289年(至元26年)には小康状態が訪れていた[9]。このような中で、至元27年(1290年)7月には車里(シップソーンパンナー)が再度モンゴルに内附し[16]、未だモンゴルに服属しない八百媳婦に軍を派遣するよう要請した[9]。これを受けてか、クビライは至元29年(1292年)8月に雲南行省のマングトゥルミシュ(忙兀禿児迷失)らに対して八百媳婦を征服するよう命じた[9][6][17]。同年12月に進発したマングトゥルミシュらはまず車里の地に至り、この地に「木来府」を置いてバイバク(布伯)をダルガチに任じ現地の民を登用したとされる[6][18][19]。しかし、この後本来の遠征先であった八百媳婦にまで進出したのかどうかについては全く記録がない[20]

一方、『ケントゥン(Kengtung)年代記』によると、 1291年(ビルマ暦653年)頃にマンラーイ王の子息の一人で、ケントゥンに冊封されたナムトゥアム(Namthum『元史』中では「南通」と表記される)が朝貢を要求する使者を拒絶したところ、侵攻を受けたという[20]。敵軍は河川から水を引いて水攻めにしようとするも、ナムトゥアムが祭礼を行うことで大雨が降り出し、逆に氾濫した水流に大打撃を受けた包囲軍はMuang leam(『元史』の「木来」、現代の勐海県を指すと見られる)まで退却したとされる[20]。これらの記述はそのまま史実とみなすことはできないが、時期から見て1291-1292年頃にケントゥンに踏み込んだモンゴル軍が現地軍に撃退された事実を反映しているのではないかと考えられる[20]

ここで視点をラーンナー側に転じると、グンヤーン国の王子として生まれたマンラーイは1262年に新首都チエンラーイに遷都し、また1292年にはハリプンチャイ王国を併合することによって勢力を拡大した。その後、マンラーイは1296年にチェンマイを建設したとされ、これが一般的にラーンナー王朝の成立と考えられている。このようにラーンナー王朝の建国者として名高いマンラーイ王について、タイ語史料にモンゴルとの関係について全く言及がないことは注目に値する[20]。ただし、『チェンマイ年代記』のマンラーイ王にまつわる伝承の中には「ムアン・ケーオ(Mueang Kaeo)の王がマンラーイの下を訪れてレガリアをもたらし、中国の国王がそうするようにマンラーイ王の即位式を執り行った」との記述がある[20]。これに関連して、『元史』などの漢文史料では1297年に「八百媳婦が叛乱した」との記述があり、この記述は1297年以前に「八百媳婦(ラーンナー)が大元ウルスに降っていた」ことを示唆する[20]。謝信業は『チェンマイ年代記』と『元史』の記述を比較して、恐らく「マンラーイ王の即位式を執り行ったケーオの王」は大元ウルスの支配下にあったタイ族の土官で、この土官が大元ウルスの意を受けて八百媳婦を招諭した史実が誤った形で『チェンマイ年代記』に採録されたのではないか、と推測した[20]

しかしいずれにせよマンラーイ王とモンゴルの接触を明記した史書は存在せず、マンラーイ王時代の両国の関係は不明な点が多い[20]。一方、大元ウルス朝廷は至元30年(1293年)正月に金歯(ザルダンダン)に使者を派遣し[21]、同年11月には木朶甸総管府を[22]、翌年10月には孟愛軍民総管府を[23]それぞれ設置している[24]。この2つの総管府は車里周辺とみられ[24]、大元ウルス朝廷は車里(シップソーンパンナー)に対しては13世紀末までには間違いなく統制を強めていた[20]。ところが、至元31年(1294年)1月にクビライが亡くなったことによってモンゴルの外交方針は大きく転換することとなる[20]

13世紀末の戦乱[編集]

1310年頃のビルマ周辺図。末期のパガン朝はシャン人勢力(Shan states)と内戦状態にあり、パガン朝側はシャン人との戦いのためにラーンナー軍をビルマに引き入れたと『元朝征緬録』は伝える。

クビライの死後、大元ウルスではオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位し、それまでの積極的拡張主義は改められたが、元貞2年(1296年)の末頃から急速にラーンナー状勢が悪化する[25]。同年11月、車里の渾弄は兵を興してビルマの要塞13箇所を占領し、また八百媳婦と組んで倒龍を攻めようとしたため、雲南行省が兵を派遣した[25][24][26]。12月、雲南行省は朝廷に対して「『大車里(大徹里)』 は八百媳婦と長年対立関係にあるが、大車里の胡念が既にモンゴルに降ったため、今度は『小車里(小徹里)』が八百媳婦と争った。そこで胡念は弟の胡倫を派遣して大元ウルスの官署を設置するよう乞うてきた」ことを報告し、これを受けて車里には「徹里軍民総管府」が設置された[25][24][27]。一連の経緯から、この時の戦乱が大・小車里(シップソーンパンナー)・八百媳婦(ラーンナー)・緬甸(ビルマ)の4ヶ国を巻き込む大規模なものであったこと、一方で車里のみは完全に雲南行省の掌握下にあったことが推察される[24]。なお、この戦乱がどのような経緯で起こったかは不明であるが、あるいはモンゴル軍の進出によってこの方面が緊張状態にあったことが一因ではないかとも考えられている[28]

大徳元年(1297年)、八百媳婦国は小車里の胡弄なる人物とともに車里の胡倫を攻め、ついでビルマ(緬国)にも侵攻したことが車里によって急ぎ報告されたため、大元ウルス朝廷は雲南行省に2,3千の兵を率いてこれを救うよう命じた[25][29]。更に、同年9月には朝廷は八百媳婦による車里攻撃がやまないことを理由に、エセン・ブカ(也先不花)を派遣したが効果は上がらず[30]、「時が経っても解決しない(経時不下)」状態にあった[25][31]。この頃、「前緬王」に引き入れられた八百媳婦国の軍団がビルマ各地の甘当・散当・只麻剌・班羅諸城を攻撃したことは『元朝征緬録』にも記載がある[25][32]。なお、『チェンマイ年代記』などにもマンラーイ王がビルマのパガン朝の内乱に介入してハンターワディー(Hamsavati=ペグー王朝を指す)にまで進出したとの記録があるが、時期は1297年をやや遡った1290年前後のこととされている[25]

大徳2年(1298年)3月、八百媳婦と車里の戦乱は激しさをましてモンゴル側が使者を出しても耳を貸さず[33]、八百媳婦国は小車里の胡弄とともに5万の兵で以て夢胡龍甸の土官や大車里の漢綱(先述の胡念の子)と抗争を繰り広げた[25]。更に、八百媳婦は配下の部曲に命じて10万の兵でもって雲南行省管下の蒙樣などにも侵攻したため、ここに至り雲南行省は2万の兵の出動を本国に要請するに至った[25][31][34]。また、1299年(大徳3年)にはビルマのパガン朝が再度モンゴルに反旗を翻しているが、これもまたラーンナーに影響を受けたためと考えられる[25]

14世紀初頭の侵攻[編集]

このような情勢を受けて、大元ウルス朝廷の中でもにわかにラーンナー出兵論が主張されるようになり、大徳4年(1300年)には当時「雲南王」であったスンシャン(松山)がラーンナーへの出兵を要請した[25]。これを受けて朝廷ではラーンナーへの出兵を巡って激論が交わされ、出兵を主張する雲南行省左丞の劉深は「世祖(クビライ)は神武で以て海内を統一し、その功は万世に語り継がれるものでありますが、今上は帝位を継いだものの未だ武功を立てて偉業を示していません。西南夷には未だモンゴルに服属していない八百媳婦国があるため、これを征服することを請います」と述べた[25][35]。一方、出兵に反対する中書左丞相のハルガスンは「遥か遠方でなおかつ険阻な地域を兵で以て征するのは困難であり、使者を派遣して投降を促すべきである」と述べたものの、結局は劉深の意見が採用されて八百媳婦国への大規模侵攻が行われることとなった[25][35]

この頃、雲南行省直属の軍団はビルマ方面に振り分けられていたため、この遠征では湖広・江西・河南・陝西・江浙の5省から2万人が新たに徴発され、劉深・カラダイ(合剌帯)・鄭祐らがこの遠征軍を率いることとなった[36][37]。これと同時に、雲南行省に対しても兵10名に対して馬5匹を供給し、不足分は牛で補うよう命じられている[38][39]。年が明けて大徳5年(1301年)正月15日(庚戌)には遠征軍に鈔92,000鍵が支給され[40]、また2月23日(丁亥)には遠征軍を管轄する「万戸府」が2つ設置された[38][41]。この二つの万戸府には計4名の万戸(万人隊長)が置かれ、四川・雲南からは囚人が微発されて兵に充てられることとなった[38]

こうして始まったラーンナー(八百媳婦)侵攻は多大な負担が周辺住民に課され、労役のため微発された民は数十万人が亡くなったとされる[36][42]。そのため同年4月には改めて雲南軍から兵を微発して遠征軍に充てられることになり[43]、5月には雲南内で新たにラーンナー遠征のため2千人を徴発することになったため[44]、遠征軍維持への負担は雲南全域に降りかかることとなった[38]

これに対して雲南南部の土官は反発を強め、5月には雲南士官の宋隆濟が水東・水西・羅鬼の諸蛮を率いて蜂起したが[45]、決起の際には「官軍は汝らを徴発し、髪を剪定して入墨をして兵にする。男は死ぬために戦陣に赴き、妻子は虜囚となる」と呼びかけて支持を集めたという[38][46]。宋隆濟は6月には猫・狫・紫江の諸蛮4千を率いて楊黄寨を攻め、更に東進して貴州を攻撃するに至った[38]。これを受けて梁王は雲南行省の平章幢兀児・参政不蘭奚らに反乱軍討伐を命じている[47][48]。この結果、本来はラーンナー遠征のために送り込まれたはずの張弘綱が宋隆濟の叛乱鎮圧に向かい、そこで戦死する結果に終わっている[49]。また一方で、雲南西南の金歯は「八百媳婦と互いに助け合い」「税賦を収めず、官史を殺害した」ことが報じられたため、8月には金歯に対しても討伐軍を派遣することになった[36][38][50]

このような情勢を受けて朝廷では再び遠征反対論が持ち上がったが、右丞相オルジェイは劉深と同様に「江南の地(=南宋国)は世祖(=クビライ)によって尽く征服されました。陛下がこの戦役で成功しなければ、武功が無かったと後世で見なされるでしょう(江南之地尽世祖所取、陛下不興此役、則無功可見於後世)」と述べ遠征の続行を認めたとされる[36][42]。廷臣たちはオルジェイの権勢を慮って敢えて反対の意見を述べる者はおらず、董士選のみが不興を蒙るのを覚悟で遠征反対の意見を表明したものの、予想通りオルジェイトゥ・カアンは怒って董士選の進言を取り上げなかった[42]。これだけの犠牲を払って出発した遠征軍であったが、北方から来た将兵は現地の風土に順応できず、戦わずして10人中7,8人が倒れる有様であった[36]。このように、モンゴル兵にとって過酷な気候のラーンナーを郭貫は「炎瘴万里不毛之地」と表現し、この遠征を「国に益なし(無益於国)」と評している[51]。更に「論征西南夷事」によると遠征軍は食料不足にも悩まされて人肉相食む惨状に陥り、最終的には南軍の攻撃を受けて敗走し「1千里余を放棄した」という[36]

大徳6年(1302年)に敗報が朝廷にもたらされると、ようやくオルジェイトゥ・カアンも遠征の失敗を認め、「董二哥(董士選)の言が正しかった」と述べて遠征をやめさせたという[42]。2月日にはまず遠征軍の司令官であった劉深が罷免されて符印・駅券を没収された[52][53]。その後、遠征軍は撤退して雲南で起こった叛乱の鎮圧に充てるよう指示されている[36]

大徳7年(1303年)には朝廷で政変が勃発し、ラーンナー遠征を主導してきたオルジェイらが失脚して、遠征反対を主張していたハルガスンが右丞相に抜擢されることとなった。同年3月には遠征軍の首脳部であった劉深・カラダイ・鄭祐らが「八百媳婦への遠征で軍を失った」ことを理由に誅殺され、同時に雲南征緬分省も廃止となった[52][54]。これ以後、『元史』等の漢文史料では数年にわたって八百媳婦に言及されることがなくなり、ラーンナー遠征は全く放棄されたようである[52]。1301年のラーンナー侵攻失敗は、この方面に対する強圧的な武力制圧方針を転換させる大きな転機となり、結果的には雲南南部〜タイ北部の情勢安定化をもたらすこととなる[36]

朝貢関係の確立[編集]

現ミャンマー国内のシャン人勢力圏。ナムトゥアムが領地としたとされるケントゥン一帯は水色で示される。

オルジェイトゥ・カアンの没後、クルク・カアン(武宗カイシャン)の治世の至大2年(1309年)11月には雲南行省より大車里・小車里が乱を起こした事が報ぜられたため、朝廷は右丞の算只児威を派遣した[55]。ところが、算只児威は現地で賄賂として金・銀を各3錠を受け取ったことで油断したところ、弓弩の斉射を受けて敗退し撤退に追い込まれた[52][55][56]。至大3年(1310年)1月にも算只児威を派遣して八百媳婦を招諭させているが、事態は落着していない[57][58]

至大4年(1311年)1月、クルク・カアンが急死してブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)が即位し、同年5月には車里と八百媳婦が手を組んで攻撃を仕掛けてきたため、雲南王と右丞アグタイに命じてこれを討伐させている[57][55][59]。しかし、『招捕総録』によると同年中には雲南の土官が各地で叛乱を起こし蜂起したため、討伐の効果は上がらなかったようである[55][60]

皇慶元年(1311年)8月、再び雲南王及び雲南行省右丞アグタイ率いる軍団に八百媳婦蛮を討伐するよう命じられたが[57][61]趙世延らが「たとえラーンナーを征服したとしてもこれ以上兵や将官を失ってしまえば、国家にとっての損失はより大きくなる」と反対したことにより実施には至らなかったとされる[55][62]。なお、同年はマンラーイ王が死去したとされる年でもあり、これによってその息子クン・カーム(チャイソンクラーム)王が新たに即位している[63]。国王の代替わりが影響したためか、同年9月に八百媳婦側は大元に訓象・宝物を献上しており[64]、これがラーンナーからモンゴルに対する初めての朝貢となった[57]。これを受けて、ブヤント・カアンは同年9月に「八百媳婦蛮・大・小徹里蛮への征戦をやめ、璽書でもってこれを招論する」ことを宣言した[55][63][57][65]。同年中には車里も内附しており、雲南南部~タイ北部の情勢は急速に安定に向かいつつあった[66]

皇慶2年(1312年)、雲南行省が「胡知事」という人物を使者としてラーンナーに派遣し、これを受けてラーンナー側は乃愛らを大元ウルスに派遣した[55]。大元ウルス側はこれを「八百媳婦の出降」と見なし(後述するようにこれは誤解であった)、そこで重ねて難甸ダルガチのファフルッディーン(法忽剌丁)を派遣して八百媳婦の支配する乃愛・乃温・官哀・官吾・恰尼・哀当・吾化児・阿吾・阿散・阿哀といった諸地域を招論しようとした[55]。そして、延祐元年(1314年)正月にラーンナーに到着したファフルッディーンとラーンナー王との間で交わされた交渉を、『招捕総録」は以下のように伝えている。

延祐元年(1314年)正月、使者らが木肯に至ると、現地の酋長渾乞溢(クン・カーム/Khun Khram)とその妻南貢弄は配下の乃愛らを派遣した。乃愛らは柵を立てて使者を包囲し、来訪の理由を問うた。使者らは「聖旨を齎すのに、何を説明することがあるというのか」と述べ、敢えて聖旨の内容は述べずに渾乞溢の回答を待つことにしたため、乃要は渾乞溢の下に帰還して報告を行った。これに対し、南貢弄は「使臣は何故我らに告げるべきことを説明しないのか。 使者は我らの城塞に至った所で留めて帰らせよ」と述べたが、 ファフルッディーンはこれに従えないと回答したという。

2月13日に渾乞溢の息子南通(ナムトゥアム/Nam Thuan)が来見し、これに対して使者らは「[雲南]行省は先に汝らを招くために胡知事らを派遣した。汝らはそこで乃愛らを派遣して出降した。そのため聖旨により我らが派遣され汝ら父子を招いたのだ」と述べた。これに対し南通は「我らは降ったつもりはない。 胡知事は朝廷(モンゴル帝国)は地は広く軍は多いと説いたが故に、我らは家中の者を遣わして胡知事とともに見聞させたに過ぎない」と回答した。翌日、南通は乃要を派遣して「胡知事が来た時、我らに衣服と鞍馬を与えてくれた。今汝らも所有する馬を尽く献上せよ」と伝えさせた。
3月17日、ファフルッディーンらは国王の拠る「合二寨(恐らくチェンラーイを指す)[注釈 1]」に至り、クン・カーム王に謁見して詔を宜した。翌日、渾乞濫王は使者に息子の南通を護送し国境地帯を視察させるよう命じ、ファフルッディーンらは当初これを拒否しようとしたが、渾乞濫王が「もしこのまま土地を見させなければ、帰国した後に復命することは何もないだろう」と脅したためやむなく承諾した。しかしファフルッディーンらと南通らが孟范に至った所で比要(パヤオ王国/Phayao)が南通の叔父である力乞倫(クン・クア/Khun khura)が組んで攻撃を仕掛けたとの報が届いたため、南通はファフルッディーンらに自らを助けるよう要求した。そこで大元ウルスの使者たちはナムトゥアムとともに木丙山まで至ったところで敵軍を撃退し、パヤオは大元ウルスの使者が来ていることを知ると遂に退散した。ナムトゥアム一行が孟范に至った所で使者達は帰国することを望んだが、ナムトゥアムは「今や天は熱く水は漲ろうとしている。秋に涼しくなってから帰るとよい」と述べて使者たちを引き留めた。

8月に至ってようやく使者達は帰ることを許された。9月8日にクン・カームの下まで至ると、クン・カームは手ずから「白夷」と書いた奏章を使者たちに渡し、また大元ウルス朝廷に献上する象2頭を委ね、また配下の渾乞漏・渾八剌我・董賽・愛章闌の者達にも使者に随行するよう命じた。…… — 佚名、『招捕総録』八百媳婦条[68]

以上の『招捕総録』の記述と連動する記録がラーンナー側にもあり、『チェンマイ年代記』等によるとマンラーイ王の死後に即位したクン・カーム(チャイソンカーム)王は長子のセーンプーにチェンマイを治めさせ、自らはチェンラーイを拠点としていたとされる[69][70][71]。しかし、セーンプーがチェンマイに入ってから1年後にムンナーイの領主であるクン・カームの弟クン・クアが挙兵し、セーンプーからチェンマイを奪って王位に就いた[72][70][67]。これを受けてクン・カームはセーンプーの弟ナムトゥアムにチェンマイの奪還を命じ、これに成功したナムトゥアムは事前の約束通り王位に就いた[73]。しかし、それから2年目にナムトゥアムの不忠が発覚したため、ナムトゥアムはチャイントン(ケントゥン)に移されてセーンプーが再度チェンマイで王位に就いたという[73]。モンゴル側とラーンナー側の史料の記述を総合すると、1311年に入ってマンラーイ王が死去した後にラーンナー国内ではクン・カーム(渾乞溢)とその弟クン・クア(力乞倫)の間で王位を巡る内紛が勃発したが、モンゴルの助力を得たナムトゥアム(南通)によってクン・クア(力乞倫)は敗れた。武功によってナムトゥアムは一時的に王位を得るも、後に失脚してケントゥンに移されたが、それまでの経緯からラーンナーを代表してモンゴルへの朝貢を主導するようになったのだと考えられる[74]。『招捕総録』の記述と連動するように、延祐2年(1315年)には八百媳婦から使者が派遣され、馴象2頭が献上された記録が残されている[75]

しかしこうして始まったモンゴルとの国交は延祐3年(1316年)に車里で叛乱が起こったことで一時絶たれてしまった。『招捕総録』によると、延祐3年(1316年)に車里の兀竹魯は阿尼必礙寨の阿白出麻を攻撃して焼き払い、また罕旺とその弟の胡念・愛俄らは銀沙羅甸兀里鹽井部曰女具落索を攻撃してその財物を略奪した。この時も大元ウルス朝廷は使者を派遣して降伏を促した所、白衣の阿愛は偽って己の子を差し出し、引き続き略奪を続けた。その後、愛俄が死ぬと、その一族の罕塞昭愛刺構木力夢兀仲ら5人が後継者の地位を巡って内乱を起こし、火頭郭力を派遣した所、象牙等を齎して投降したという[76]。このように、1310年代後半から起こった車里の内乱は約10年に渡ってモンゴル・ラーンナー間の交渉を滞らせたが、この間にラーンナー側の史料によると1327年(ビルマ暦689年)にクン・カーム王が死去しその息子セーンプー王への代替わりが行われていた。これによってモンゴル・ラーンナーの関係は1320年代末から新たな段階に入ることとなる[74]

宣慰司都元帥府の設置[編集]

モンゴル軍の侵攻した、タイ北部の地形図。この頃のラーンナーは、東北のチェンラーイ(Chiang Rai)と、西南のチェンマイ(Chiang Mai)という二つの地区に分けられていたと見られる。

泰定2年(1325年)、10年近くに渡って内乱を続けてきた大・小車里が再度内附し、7月には車里総官府が設置された[57]。これによって交通が確保されたためか、翌泰定3年(1326年)5・7月にはナムトゥアム(招南道/Cao nam Thuan)がその息子招三らを派遣して訓象・方物を献上し[77][78]、ここにラーンナーからモンゴルへの朝貢は復活した[74][57][79]。泰定4年(1327年)1月には八百媳婦のナムトゥアム(南通)が再び朝貢を行い[80]、これを受けて7月には再びモンゴルの側からラーンナーに使者を派遣し[81]、そして大元ウルス朝廷は同年閏9月に蒙慶宣慰司都元帥・木安府(kengthun 東部の Mong Ngom)・孟傑府(kengthun 南部の Mong Khok)を設置し、同知烏撒を宣慰司事に、ナムトゥアムを宣慰司都元帥に、その子招三斤を知木安府に、甥の混盆を知孟傑府に、それぞれ任命した[82][57][83]。この時大元ウルスに使者を派遣した「招南道」はラーンナー史料に見える「ナムトゥアム」に他ならず、「蒙慶」はナムトゥアムが領地とするケントゥンの古称「Mueng khuen」の音写で、木安府・孟傑府もケントゥン周辺の地名と見られる[84][注釈 2]

致和元年(1328年)は大元ウルスで天暦の内乱が勃発した時期であるが、八百媳婦は同年中の5月[85]と11月[86]の2度に渡って「哀牢」なる人物を使者として派遣している[82]。しかし、1328年に派遣された「哀牢」はそれまでの記録に見られない名前であり、黎道綱は1327年にラーンナー王の代替わりが起こっていることを踏まえ、1328年以降に使者を派遣したのは既にナムトゥアムではなく新王のセーンプーではないかと推測している[84]天暦2年(1329年)2月にも八百媳婦は周辺諸族とともに朝貢を行っているが[87]、同年末には天暦の内乱に連動したバイクの乱が雲南で勃発しており、一時期両国の折衝は絶たれた[82]

「天暦の内乱」終結からしばらく経った至順2年(1331年)6月20日、「八百等処宣慰司都元帥府」がラーンナーに設置され、土官の昭練(セーンプー)が「宣慰使都元帥」に任命された[82][88][89]。またこれと連動して臨安元江等処宣慰司兼管軍万戸府、孟定路と孟肙路には軍民総管府(従三品)、者線・蒙慶甸・銀沙羅等甸には軍民府(従四品)、孟併・孟広・者樣等甸には軍民長官司(従五品)が、それぞれラーンナーの領域内に設置されている[82]。なお、同年8月には麓川(現在の徳宏タイ族チンポー族自治州一帯)に[90]後至元4年(1338年)には老告(現在のラオス)に[91]、それぞれ軍民総管府が設置されており、1330年代にはラーンナーのみならずエーヤワディー川からメコン川に至るタイ族諸政権にモンゴルの影響力が浸透していたようである[92]

元明交替とラーンナー王国[編集]

また、至正元年(1341年)12月には車里の寒賽刀らが叛乱を起こし、これによって再び大元ウルスと八百媳婦を繋ぐ道は一時的に閉ざされた[93][94]。そのためか至正2年(1342年)4月には蒙慶宜慰司が廃止されたが、至正6年(1346年)12月1日には「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置され、土官の韓部(パーユー/phayu)が「父の爵位を承襲した」とされる[82][88][95]。この時の宣慰司都元帥府再設置についてはムアン・マオ中国語版(Möng Mao/麓川)の情勢が関係していたと考えられ、『雲南機務抄黄』によると、おおよそ至正3年(1343年)頃に麓川が瀾滄江沿岸の遠干府・威遠府を占領するという事件があったという[93]。八百媳婦や車里もまた麓川の侵攻の対象となっていたがために、韓部(=パーユー)は大元ウルスの後ろ盾を得る必要が生じ、「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置されるに至ったと見られる[93]

しかし至正10年代頃から大元ウルスでは紅巾の乱が勃発し、支配力を低下させた大元ウルスとラーンナーの通行関係は途切れた[93]。紅巾の乱の首領の一人から成りあがった朱元璋は1368年(至正28年/洪武元年)初頭に明朝を建国し、同年8月に大都を陥落させたため、中国史上ではこれを以て「元朝の滅亡」とする。しかし、実際には1368年以降も各地でモンゴル系の勢力が健在であり、明朝が梁王バツァラワルミの支配する雲南を征服したのは洪武14年(1381年)末のことであった[93]。翌洪武15年(1382年)3月、明朝によって雲南布政司とこれに属する52府・63州・54県が設置されたが、その中にラーンナーに属する孟傑・木按・孟絹・蒙慶といった地名が見られる[93][96]。そして洪武21年(1388年)8月には初めて八百媳婦国が明朝に対して朝貢を行い[97]、これより八百媳婦=ラーンナーと明朝の外交が始まることとなる。

影響[編集]

モンゴルのラーンナー侵攻がもたらした影響として、まず最初に挙げられるのは、この遠征を通じてモンゴルの支配体制が雲南南部地区まで浸透したことである[98]。『元史』地理志が述べるように、雲南南部地区は大理国時代から諸民族が半ば自立する状態にあり、モンゴルが大理国を滅ぼした後も状況は変わらなかった[98]。ラーンナー遠征は惨憺たる結果に終わり、重い軍事負担が雲南内部での叛乱を引き起こしもしたが、長期的な視点で見れば後方基地となった雲南南部地区での支配体制の確立をもたらしたと評されている[98]

また、この遠征がもたらしたもう一つの影響として、メコン川を通じた中国大陸と東南アジア諸国との交流が活発化したことが挙げられる[98]。ラーンナーはメコン川の中流域に位置してメコン川交易の要衝に当たり、雲南方面から東南アジア諸国に入る玄関口という側面を有していた[98]。ラーンナー遠征は中国-雲南-ラーンナー-東南アジア諸国という交易ルートを活発化させたと考えられ、1338年に八百が設置された7年後に現在のラオスに位置すると見られる「老告」に軍民総管府が設置されたことは、その最たる例と言える[98]

中国人研究者の謝信業はモンゴルのラーンナー侵攻を総括して、モンゴルの対ラーンナー政策は「征討(征服・討伐)」「招討(招論・討伐)」「招撫(招諭・安撫)」の3段階に分けられると指摘した[99]。クビライは「海内海外諸国を臣属させる」という目的の下、他の東南アジア諸国同様にラーンナーにも遠征軍を派遣し、このようにラーンナーを征討対象と見る傾向はオルジェイトゥ・カアンの治世まで引き継がれた[99]。しかし、オルジェイトゥ・カアンの時代にラーンナーへの遠征軍が大敗を喫するとモンゴルは軍事的にラーンナーを征服する意欲を失った[99]。一方で1330年代に入るとラーンナー内部で内乱が生じ、ラーンナーの王族たちは自らの立場を有利とするためにモンゴルとの交流を求め、モンゴル側は要求に応えて援軍を派遣すると同時に官位を授けた[99]。両国の関係はセーンプー王の時代にラーンナーの内紛が収まり、大元ウルスが「八百等処宣慰司都元帥府」を設置したことで安定化した[99]

ラーンナー側の伝承[編集]

マンラーイ(中央)、ガムムアン(左)、ラームカムヘーン(右)による「三王の同盟」を描いた銅像

ジョルジュ・セデスはパーリ語史書『ジナカーラマーリー(Jinakālamāli)』などに「1287年にチェンラーイの王マンラーイ、パヤオの王ガムムアン、スコータイの王ラームカムヘーンという三つのタイ人国家の首長が同盟を結んだ」という記述があることを紹介し、また「1287年」がモンゴル軍がパガンを占領した年であることからこれをモンゴル軍の脅威に対抗するための同盟であると論じた[100][101]。セデスが提唱したこの学説は東南アジア史の通説として定着し、チエンマイ県旧庁舎前にはこの「三王の同盟」を描いた銅像が築かれるに至っている[102]

しかし、日本人研究者の飯島明子はそもそも『ジナカーラマーリー』は16世紀前半に成立した史書であって史料的価値は低く、また原テキストには「朋友たる三王、Mamrāya,Purachādana,Rocarāja」としかなくこれを「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーン」と読むのはセデスの解釈に過ぎない、と指摘した[103][104]。また、セデスは1581年に製作されたとみられる「チェンマン寺刻文」に「1298年のチエンマイ建設にパニャー・マンラーイ・チャオとパニャー・ガムムアン、パニャー・ルアンの三人が参画した」旨の記述があることも「三王の同盟」の傍証であると論じているが、これは『ジナカーラマーリー』よりも更に成立が遅く、やはり13世紀末の歴史を知る上での良好な史料とは言いがたい[103][104]

更に、『ジナカーラマーリー』よりも成立が古い『ムーラサーサナー』には「チエンマイ建設に三王が協力した」旨の記述がないことも、三王にまつわる伝承が後世になって成立したことを裏付ける[105]。結局の所、「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーンら三王の同盟」は史実とは認めがたく、「16世紀当時に『三王の同盟』にまつわる伝承が存在した」という以上のことはいえないのが現状である[103][104]

なお、チエンマイとパヤオには「クン・チュアン」という共通の英雄的祖先にまつわる伝承があり、年代記上でも「父祖の代(cen pu)よりの朋友関係」「同一の家(huean diaw)」といった表現がなされる[106][105]。このような同族意識はチエンマイとパヤオに留まるものではなく、ベトナム北部に比定されるケーオ・プラカンの王がマンラーイに対して「ともにチュアンの血を引く両者は同じ一族である」と述べたという伝承や、シップソーンパンナーの初代王が「チュアン」に通ずる「パヤー・チュン」と呼ばれていたことなどが知られている[106][105]。このように、チエンマイとパヤオを初めとして北方のタイ系諸勢力には同族意識があり、このような意識が「三王の同盟」伝承の背景にあったと推測される[107][108]

また、セデスがラームカムヘーンに比定した「パニャー・ルアン」も特定の歴史上の人物というよりは神話・伝説上の人物と見るべきで、「チュアン」と同様に13世紀を遡る時代に起源を有する集合的シンボルと見なすべきであると考えられている[109][108]

モンゴルとタイ湾諸勢力との関係[編集]

1300年前後の東南アジア諸国。紫色のラーンナー(八百媳婦)、橙色のスコータイ(速孤底)、灰色のパヤオ(比要)、水色のロッブリー(羅斛)がタイ系民族による国家であった。

13世紀におけるタイ湾諸勢力の独立[編集]

上述したようにモンゴル軍の現タイ王国の領域への軍事侵攻はタイ北部に留まったが、一方でタイ中部タイ南部のタイ湾に面する諸勢力とは海上交易路を通じて交渉があった。13世紀頃の漢文史料上に現れるタイ湾に面する諸勢力としては、「必察不里(ペッチャブリー)」「真里富(スパンブリー)」「蘇門傍(スパンブリー)」「羅斛(ロッブリー)」「暹(シャム)」などが知られている[110]。この中で最も重要なのが「暹」で、 かつてはこれをスコータイ朝と見なしてきたが、現在では後のアユタヤ朝に連なる勢力と見なすのが主流である[111][112]。『宋史』陳宜中伝によると、陳宜中は南宋復興のため占城にまで至るも、至元19年(1282年)にモンゴル軍が占城まで侵攻してきたために「暹」まで更に逃れ、その地で客死したとされる[113][114][115][116]。これは「暹」に関する記録の中でも最初期のものであるが、この記述から1280年代には中国大陸~チャンパー~暹を繋ぐ海洋交易路が確立していたこと、暹には既に華人移住者が存在していたことが読み取れる[115]。また一方で、モンゴル側にも同年に暹国に何子志という使者を派遣したが占城国に拘束されてしまったとの記録があり[117][118]、この時既に「暹」の存在を認識して外交接触を始めていたことが分かる[119]

この頃のタイ湾情勢を窺える貴重な史料が『大徳南海志』(1304年成立)で、当時の東南アジア諸国を以下のように記している[120]

真臘国は真里富·登流眉·蒲甘·茸里を管する。

羅斛(ロッブリー)国。
暹(シャム)国は上水(ナコーンサワン)・速孤底(スコータイ)を管する。
単馬令(ターンブラリンガ)国は小西洋日囉亭・達刺希・崧古囉・凌牙蘇家・沙里・仏囉官・吉蘭丹・晏頭・丁伽蘆・迫嘉・朋亨・口蘭丹を管する。

※ただし真里高は羅斛よりも更に西方に位置し、真臘国がこの頃真里高を管轄していたというのは古い情報に基づく誤った情報であると考えられる[121] — 陳大震、『大徳南海志』

これを宋代に編纂された『諸番志』(1225年成立)の記述と比較すると、真臘国の属国であった羅斛国、三仏斉の属国であった単国がそれぞれ強国に成長し、この2つの大国に挟まれる位置に「暹国」という新興国が登場したことが読み取れる[121][122]。一方、アンコール朝のジャヤヴァルマン7世が建造したクメール寺院がマレー半島の付け根辺りに現存しており、13世紀初頭まではタイ湾北部一帯がアンコール朝の支配下にあったこと、13世紀半ば以後からタイ系諸勢力が自立を始めたことが確認される[123]

13世紀後半のモンゴル-タイ湾諸勢力関係[編集]

『元史』には羅斛国がタイ湾諸国の中でいち早く至元26年(1289年)・至元28年(1291年)に朝貢を行ったことが記録されており、この頃既にアンコール朝から独立していたことを裏付ける[124]。これに遅れて至元29年(1292年)110月に初めての派遣した朝貢使が広州に到着し、これを受けてモンゴル朝廷は至元30年(1293年)4月に逼国に対して招論使を派遣した[124]。そして、至元31年(1294年)6月にはペッチャブリー国のカムラテンが使者を派遣したのに対して、モンゴル側は同年7月に「暹国主、カムラテンに来朝するよう招論した」との記録があり、これによってこの時期の「暹」はペッチャブリーに位置していたことが確認される[125]。なお、『元史』暹伝の冒頭には「元貞元年(1295年)に国が派遣した使者がモンゴル側からの使者と入れ違いになって到着した」旨の記述があるが[126]、この入れ違いになったモンゴル側の使者とはまさしく1294年7月に派遣された使者のことと考えられる[125]

更に『元史』暹伝は続けて、モンゴル朝廷に至った国からの朝貢使は急ぎ帰国させられ、「人は古くからマレーと敵対していたが、今では皆元に服属したのであるから、マレーを攻撃してはならない」との命を本国に持ち帰ったと記述する[127][128]。この記述から、新興国である暹国は南下してマレー半島まで進出し、マレー人と敵対関係にあったようである[127][115]。なお、1293年にモンゴル海軍がジャワ島へ侵攻する途上でマレーに対しても使者が派遣しており、この招論に応じたマレーが派遣した使者が1294年に到着したとの記録がある[127]。モンゴルが暹国=ペッチャブリーに対してマレーへの侵攻をやめるよう要求したのは、まさにこの時マレーがモンゴルに使者を派遣すると同時に国の侵攻に歯止めをかけるよう求めたためと考えられる[127]

14世紀前半のモンゴル-タイ湾諸勢力関係[編集]

クビライが亡くなりオルジェイトゥ・カアンが即位して以後も暹国を始め東南アジア諸国から相次いで使者が派遣されたが、とりわけ大徳3年(1299年)には多くの国から使者が訪れた。この年、暹国=ペッチャブリーの「世子」も使者を派遣して「父が与えられたを同様に賜りたい」と申し出ており、この頃カムラテンが亡くなってその息子が跡を継いだようである[129]。しかしモンゴル側は丞相のハルガスンが「馬を下賜することで近隣への侵攻に用いられることを恐れる」と進言したことによって国の要求を拒絶しており、これもまた同年に使者を派遣しているマレーの働きかけによるものであったと考えられる[129]。しかしマレーはこの1299年と1301年を除いてモンゴルに朝貢した記録がなく、モンゴルに対しての外交交渉は卓越していたが、全体としては暹国に劣勢であったようである[129]

ところが、暹国からの朝貢は至治3年(1323年)を最後に途切れ、代わってジャワからの来貢が盛んとなり、1320年代から1330年代にかけてマジャパヒト王国が東南アジアの海上交易の覇権を握ったようである[129]。汪大淵の『島夷志略』(1349年成立)にはこれを裏付ける記述があり、「近年(1340年代頃か)」に暹国は70余りの船でシンガポールに侵攻したが、ジャワの使節が近づいているのを聞くとすぐに逃げ出してしまったという[130][115]。そして、同じく『島夷志略』によると、至正己丑(1349)夏5月に暹国は羅斛国に降伏したとされる[130][131][132]。これに対応するように、タイ語の諸史料では1351年にスパンブリーとロッブリーが統合することで「アユタヤーの基礎が置かれた」とされる[133][134][135]。すなわち、何らかの理由で拠点をペッチャブリーからスパンブリーに移していた暹国は1349年に羅斛国に征服され、暹国を併合した羅斛国によって改めて1351年に暹羅斛=アユタヤ朝が建国されたこととなる[133]

以上みてきたモンゴルとタイ湾諸勢力との関係をまとめると以下のようになる。タイ湾沿岸部は13世紀初頭までアンコール朝の間接支配下にあったが、13世紀半ばよりペッチャブリー・スパンブリー・ロッブリーといったタイ系諸勢力が一斉に成立した。その内最も勢いがあったのが「暹国」で、マレー半島にまで南下してマレー人を脅かしたが、マレー人は13世紀末に東南アジアに進出しつつあったモンゴル軍の勢威を利用して暹国に対抗しようとした。一方、これと並行して暹国もモンゴルに使者を派遣しており、この時の支配者が「ペッチャブリーのカムラテン」であったことから、この頃の暹暹はペッチャブリーに位置していたことがわかる。1300年代から1310年代にかけて暹国は積極的にモンゴルに来朝し海上交易路の覇権を握っていたようであるが、1320年代に入るとジャワ島のマジャパヒト王国がこれに取って代わり暹国とモンゴルの交流は途切れる。そして1349年に暹国(スパンブリー)が羅斛国(ロッブリー)に征服されることで新たなタイ系国家アユタヤ朝=暹羅が成立し、1368年には中国大陸でも元明交代が起こることでタイ史は新たな段階に入ることとなる。

漢文史料上から見るラーンナー王統[編集]

 
 
 
 
 
マンラーイ/Mangrai
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クン・カーム/Khun Khram
「蛮酋」渾乞溢
 
 
 
 
 
クン・クア/Khun Khura
「南通叔父」力乞倫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セーンプー/Saen Phu
「八百等処宣慰使都元帥」昭練
 
 
 
 
 
ナムトゥアム/Nam Thuan
「渾乞濫子」南通
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カムフー/Khamfu
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
パーユー/Phayu
「八百宣慰司」韓部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クーナー/Kuna
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セーンムンマー
Saen Muang Ma
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サームファンケーン/Sam Fang Kaen
「八百大甸二軍民宣慰使」招散

系図の基本形とアルファベット転写はパヤオの「スワンナマハーウィハーン寺刻文」に拠った。太字は最古のラーンナー史料であるランプーンの「プラユーン寺刻文」に見える王名。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 黎道綱は『招捕総録』とラーンナー側の史料の比較により、渾乞溢(クン・カーム)の拠る「合二寨」はチェンラーイを指すだろうと推定した。その上で、タイ人はR音をH音で発音することがあることから、「合二(HAI)」はチェンラーイの「RAI」の部分を誤って聞き取ったものであろう、と述べる[67]
  2. ^ ただし、唐立は木安府は現在のチエンコーン郡(chiang khong)、孟傑府は現在のFaangのMoeng caesakと解釈する説を挙げている[79]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 謝 2022, p. 59.
  2. ^ 喜田 1974, p. 73.
  3. ^ 『元史』巻61志13地理志4雲南諸路行中書省,「開南州、下。……至蒙氏興、立銀生府、後為金歯・白蛮所陷、移府治於威楚、開南遂為生蛮所拠。自南詔至段氏、皆為徼外荒僻之地。元中統三年平之、以所部隸威楚万戸。至元十二年、改為開南州。威遠州、下。……至蒙氏興、開威楚為郡、而州境始通。其後金歯・白夷蛮酋阿只步等奪其地。中統三年征之、悉降。至元十二年、立開南州及威遠州、隸威楚路」
  4. ^ 『元史』巻61志13地理志4雲南諸路行中書省,「元江路、下。……憲宗四年内附、七年復叛、率諸部築城以拒命。至元十三年、遙立元江府以羈縻之」
  5. ^ 『元史』巻9世祖本紀6,「[至元十三年十二月]丁卯、改雲南蘿葡甸為元江府路」
  6. ^ a b c 喜田 1974, p. 74.
  7. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十五年……進参知政事、行省福州。徴入見、帝以江南既定、将有事於海外、陞左丞、行省泉州、招諭南夷諸国」
  8. ^ 向 2013, p. 73.
  9. ^ a b c d e f g h i 謝 2022, p. 60.
  10. ^ a b 松田 1993, p. 38.
  11. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年]秋七月丁丑朔……雲南省臣言『騰越・永昌・羅必丹民心攜貳、宜令也速帯児或汪総帥将兵討之』。制曰『可』」
  12. ^ a b 松田 1993, p. 37.
  13. ^ 『元史』巻149列伝36耶律禿花伝,「忙古帯、宝童之子也。……従攻羅必甸、至雲南、詔以其衆入緬、迎雲南王。金歯・白衣・答奔諸蛮、往往伏険要為備、忙古帯奮撃破之、凡十餘戦、至緬境、開金歯道、奉王以還、遷副都元帥」
  14. ^ 喜田 1974, p. 80.
  15. ^ 『元史』巻132列伝19歩魯合荅伝,「二十一年、命統蒙古探馬赤軍千人従征金歯蛮、平之。都元帥蒙古歹征羅必甸、歩魯合荅率游兵先行、江水暴溢、率衆泅水而渡、去城三百歩而営。居七日、諸軍会城下、乃進攻之、歩魯合荅先登、抜其城、遂屠之。又従征八百媳婦国、至車厘、車厘者、其酋長所居也。諸王闊闊命歩魯合荅将游騎三百往招之降、不聴、進兵攻之、都鎮撫侯正死焉。歩魯合荅毀其北門木、遂入其寨、其地悉平。賜金虎符、授懐遠大将軍・雲南万戸府達魯花赤、卒」
  16. ^ 『元史』巻16世祖本紀13,「[至元二十七年秋七月]丙寅、雲南闍力白衣甸酋長凡十一甸内附」
  17. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年八月]戊午……。詔不敦・忙兀魯迷失以軍征八百媳婦国」
  18. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年]十二月庚寅、中書省臣言『皇孫晋王甘麻剌昔鎮雲南、給梁王印、今進封晋王、請給晋王印。北安王府尉也里古帯・司馬荒兀、並為晋王中尉、仍命不只答魯帯・狄琮並為司馬。金歯適当忙兀禿児迷失出征軍馬之衝、資其芻糧、立為木来府』」
  19. ^ 『元史』巻61志13地理志4雲南諸路行中書省,「木来軍民府。至元二十九年、雲南省言『新附金歯適当忙兀禿児迷失出征軍馬之衝、資其芻糧、擬立為木来路』。中書省奏置散府、以布伯為達魯花赤、用其土人馬列知府事」
  20. ^ a b c d e f g h i j k 謝 2022, p. 61.
  21. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元]三十年春正月壬戌、詔遣使招諭漆頭・金歯蛮」
  22. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,[至元三十年十一月]戊辰、以金歯木朶甸戸口増、立下路総管府、給其為長者雙珠虎符」
  23. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年冬十月]乙未……金歯新附孟愛甸酋長遣其子来朝、即其地立軍民総管府」
  24. ^ a b c d e 喜田 1974, p. 75.
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m 謝 2022, p. 62.
  26. ^ 『招捕総録』雲南条,「[元貞二年]十一月、車里蛮渾弄興兵、占奪甸寨十又三所、結構八百媳婦蛮、欲攻倒龍等、雲南省遣兵招捕」
  27. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年]十二月戊戌、立徹里軍民総管府。雲南行省臣言『大徹里地与八百媳婦犬牙相錯、今大徹里胡念已降、小徹里復占扼地利、多相殺掠。胡念遣其弟胡倫乞別置一司、択通習蛮夷情状者為之帥、招其来附、以為進取之地』。詔復立蒙樣剛等甸軍民官」
  28. ^ 喜田 1974, p. 76.
  29. ^ 『招捕総録』八百媳婦条,「大徳元年、八百媳婦国与胡弄攻胡倫、又侵緬国。車里告急、命雲南省以二千或三千人往救」
  30. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年八月]甲子、八百媳婦叛、寇徹里、遣也先不花将兵討之」
  31. ^ a b 喜田 1974, p. 77.
  32. ^ 『元朝征緬録』,「[大徳二年]六月、管竹思加至太公城、緬人阿只不伽闌等来言『旧緬王帖滅的実行刼奪於尔、今已去位。鄒聶為王、遣我輩召尔、議遣人赴朝』。管竹思加至蒲甘、鄒聶曰『帖滅的引八百媳婦軍破我甘当・散当・只麻剌・班羅等城、又刼奪尔登籠国人物。尔等回朝、不知其故、必加兵於我。今帖滅的已廃、特差大頭目密得力・信者・章者思力三人、奉貢入朝』。又移文雲南省、称『木連城土官阿散哥也、皇帝命佩大牌子、為官人。初実無罪,前緬王欲殺之。聖旨令安治僧民、前緬王却通叛人八百媳婦、引兵来、壞甘当・散当・只麻剌・班羅四族百姓、又刼奪登籠国貢物。是故阿散哥也・阿剌者僧吉藍・僧哥速等廃前緬王、令我爲王』。行省以聞」
  33. ^ 『招捕総録』車里条,「大徳二年三月、小車里結八百媳婦為乱、経時不下、数遣使奉詔招之、不聴」
  34. ^ 『招捕総録』八百媳婦条,「[大徳]二年、与八百媳婦国為小車裏胡弄所誘、以兵五万与夢胡龍甸土官及大車里胡念之子漢綱争地相殺、又令其部曲混乾以十万人侵蒙樣等、雲南省乞以二万人征之」
  35. ^ a b 『元史』巻136列伝23哈剌哈孫伝,「五年、同列有以雲南行省左丞劉深計倡議曰『世祖以神武一海内、功蓋万世。今上嗣大歴服、未有武功以彰休烈、西南夷有八百媳婦国未奉正朔、請往征之』。哈剌哈孫曰『山嶠小夷、遼絶万里、可諭之使来、不足以煩中国』。不聴、竟発兵二万、命深将以往。道出湖広、民疲於餽餉。及次順元、深脅蛇節求金三千両・馬三千匹。蛇節因民不堪、挙兵囲深於窮谷、首尾不能相救。事聞、遣平章劉国傑往援、擒蛇節、斬軍中、然士卒存者纔十一二、転餉者亦如之、訖無成功。帝始悔不用其言。会赦、有司議釈深罪。哈剌哈孫曰『徼名首釁、喪師辱国、非常罪比、不誅無以謝天下』。奏誅之」
  36. ^ a b c d e f g h 謝 2022, p. 63.
  37. ^ 『招捕総録』八百媳婦条,「[大徳]四年、梁王上言請自討賊、朝議調湖広・江西・河南・陝西・江浙五省軍二万人、命前荊湖占城行省左丞劉深等率以征。既而道経順元、土官宋隆濟作乱、道路不通、官軍死傷、深領軍回、不果徵」
  38. ^ a b c d e f g 喜田 1974, p. 77-78.
  39. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳四年十二月]癸巳……遣劉深・合剌帯・鄭祐将兵二万人征八百媳婦、仍敕雲南省每軍十人給馬五匹、不足則補之以牛」
  40. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年春正月]庚戌、給征八百媳婦軍鈔、総計九万二千餘錠」
  41. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年二月]丁亥、立征八百媳婦万戸府二、設万戸四員、発四川・雲南囚徒従軍」
  42. ^ a b c d 『元史』巻156列伝43董士選伝,「時丞相完沢用劉深言、出師征八百媳婦国、遠冒煙瘴、及至未戦、士卒死者十已七八。駆民転粟餉軍、谿谷之間不容舟車、必負擔以達。一夫致粟八斗、率数人佐之、凡数十日乃至。由是民死者亦数十万、中外騒然。而完沢説帝『江南之地尽世祖所取、陛下不興此役、則無功可見於後世』。帝入其言、用兵意甚堅、故無敢諫者。士選率同列言之、奏事殿中畢、同列皆起、士選乃独言『今劉深出師、以有用之民而取無用之地。就令当取、亦必遣使諭之、諭之不従、然後聚糧選兵、視時而動。豈得軽用一人妄言、而致百万生霊於死地』。帝色変、士n選猶明辨不止、侍従皆為之戦慄、帝曰『事已成、卿勿復言』。士選曰『以言受罪、臣之所当。他日以不言罪臣、臣死何益』。帝麾之起、左右擁之以出。未数月、帝聞師敗績、慨然曰『董二哥之言験矣、吾愧之』。因賜上尊以旌直言、始為罷兵、誅劉深等。世祖嘗呼文炳曰董大哥、故帝以二哥呼士選」
  43. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年夏四月]壬午……調雲南軍征八百媳婦」
  44. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年五月]丙寅、詔雲南行省自願征八百媳婦者二千人、人給貝子六十索」
  45. ^ 『元史』巻63地理志6湖広等処行中書省,「貴州、下。……大徳六年、雲南行省右丞劉深征八百媳婦、至貴州科夫、致宋隆濟等糾合諸蛮為乱、水東・水西・羅鬼諸蛮皆叛、劉深伏誅」
  46. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年五月]壬戌、雲南土官宋隆濟叛。時劉深將兵由順元入雲南、雲南右丞月忽難調民供餽、隆濟因紿其衆曰『官軍徵発汝等、将尽剪髮黥面為兵、身死行陣、妻子為虜』。衆惑其言、遂叛」
  47. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年六月]丙戌、宋隆濟率猫・狫・紫江諸蛮四千人攻楊黄寨、殺掠甚衆。……壬辰、宋隆濟攻貴州、知州張懐徳戦死。梁王遣雲南行省平章幢兀児・参政不蘭奚将兵禦之、殺賊酋撒月、斬首五百級」
  48. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年秋七月]癸丑……命雲南省分蒙古射士征八百媳婦」
  49. ^ 『元史』巻165列伝52張弘綱伝,「弘綱字憲臣……従右丞劉深徵八百媳婦国、師次八番、与叛蛮宋隆濟等力戦而没」
  50. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年秋八月]甲戌、遣薛超兀而等将兵征金歯諸国、時征緬師還、為金歯所遮、士多戦死。又接連八百媳婦諸蛮、相效不輸税賦、賊殺官吏、故皆征之」
  51. ^ 『元史』巻174列伝61郭貫伝,「郭貫、字安道、保定人。……大徳初、遷湖北道、言『今四省軍馬、以数万計、徵八百媳婦国、深入為炎瘴万里不毛之地、無益於国』」
  52. ^ a b c d 喜田 1974, p. 78.
  53. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳六年二月]丙戌……罷征八百媳婦右丞劉深等官、收其符印・駅券」
  54. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳七年三月]乙巳、以征八百媳婦喪師、誅劉深、笞合剌帯・鄭祐、罷雲南征緬分省」
  55. ^ a b c d e f g h 謝 2022, p. 64.
  56. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年三月]十一月庚辰朔……雲南行省言『八百媳婦・大徹里・小徹里作乱、威遠州谷保奪拠木羅甸、詔遣本省右丞算只児威往招諭之、仍令威楚道軍千五百人護送入境。而算只児威受谷保賂金銀各三錠、復進兵攻劫、谷保弓弩乱発、遂以敗還。匪惟敗事、反傷我人、惟陛下裁度』。帝曰『大事也、其速擇使復賫璽書往招諭、算只児威雖遇赦、可厳鞫之』」
  57. ^ a b c d e f g h 喜田 1974, p. 79.
  58. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年春正月]壬寅、詔諭八百媳婦、遣雲南行省右丞算只児威招撫之」
  59. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年五月]癸酉、八百媳婦蛮与大・小徹里蛮寇辺、命雲南王及右丞阿忽台以兵討之」
  60. ^ 『招捕総録』八百媳婦条,「至大四年、雲南省上言、八百媳婦・大小車里作乱、蒲蛮阿婁銀僭平章都元帥、七十城門土官緬察、犯臨安・建水、普定路土官的謀害遷調官吏、似此蜂起、数年不息、乞進討、朝廷命齎詔招之」
  61. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年八月]辛卯、敕雲南省右丞阿忽台等、領蒙古軍従雲南王討八百媳婦蛮」
  62. ^ 『元史』巻180列伝67趙世延伝,「[至大]四年、升中奉大夫・陝西行台侍御史。先是、八百媳婦為辺患、右丞劉深往討之、兵敗而還、坐罪棄市。及是、右丞阿忽台当継行、世延言『蛮夷事在羈縻、而重煩天討、致軍旅亡失、誅戮省臣、藉使尽得其地、何補於国。今窮兵黷武、實傷聖治。朝廷第当選重臣知治体者、付以辺寄、兵宜止勿用』。事聞、枢密院臣以為用兵国家大事、不宜以一人之言為興輟。世延聞之、章再上、事卒罷」
  63. ^ a b 黎 1955, p. 38.
  64. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年二月]己卯……八百媳婦来献馴象二」
  65. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年九月]戊戌、罷征八百媳婦蛮・大・小徹里蛮、以璽書招諭之。辛丑……八百媳婦・大・小徹里蛮献馴象及方物」
  66. ^ 謝 2022, p. 65.
  67. ^ a b 黎 1995, p. 39.
  68. ^ 『招捕総録』八百媳婦条,「皇慶二年、雲南省命■〈礙,角代石〉難甸達魯花赤法忽剌丁等、領元招出八百媳婦部曲、乃愛・乃温・官哀・官吾・恰尼・哀当・吾化児・阿吾・阿散・阿哀等往其地。延佑元年正月、至其境木肯寨、其蛮酋渾乞濫・妻南貢弄使火頭乃要弄来迎、詔至寨、立柵、囲使者、問来故、答之、又曰『齎来聖旨、有何説』。使者言、未開読、不敢言、俟見渾乞濫言之、乃要還報。既又来、致南貢弄之言曰『使臣有何説可告我、前此使者止至我寨即回』。法忽剌丁等不可。二月十三曰、渾乞濫子南通来見、使者言『行省先遣胡知事招爾等、爾等遣乃愛等出降、故聖旨令遣我輩来招爾父子』。南通曰『我等非降也、胡知事言爾朝廷地闊軍多、故使家中一二人、従胡知事往観之耳』。明曰、南通遣乃要来言『胡知事来時、与我衣服鞍馬、今爾等所有馬可尽牽来』。言訖、一時牽去。明曰、又来取去衣服。既而、渾乞濫遣南忿来曰『可令使臣来見我』。三月十七曰、法忽剌丁等至合二寨、与渾乞濫相見、宣詔。明曰、渾乞濫令使者送其子南通、往孟范甸把辺可就観我地境。使者不従曰『若不観我地土、帰朝何以復命』。使者従之。至孟范、別有生蛮比要与南通叔父力乞倫来侵、南通言使者『不可不助我』。使者従南通、至木丙山拒敵、比要聞有詔使、遂退還。至孟范、使者欲返、南通曰『天熱水漲、秋涼令爾回』。八月終始得出。九月四曰至渾乞濫寨、渾乞濫手書『白夷』字奏章、献二象、令其部曲渾乞漏・渾八剌我・董賽・愛章闌等、隨使者赴闕」
  69. ^ 飯島 2001, p. 267.
  70. ^ a b 飯島 2020, p. 106.
  71. ^ 黎 1995, p. 38-39.
  72. ^ 飯島 2001, p. 267-268.
  73. ^ a b 飯島 2001, p. 268.
  74. ^ a b c 謝 2022, p. 66.
  75. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年冬十月]癸卯、八百媳婦蛮遣使献馴象二、賜以幣帛」
  76. ^ 『招捕総録』車里条,「延佑三年、車里兀竹魯、侵阿尼必礙寨阿白出麻燒劫。又罕旺及其弟胡念・弟愛俄等、侵銀沙羅甸兀里鹽井部曰女具落索等甸劫民財、嚇取官所征差発、遣使招降、遣白衣阿愛詐為己子出官、劫掠如故。既而、愛俄死、其兄弟子姪、罕塞昭愛刺構木力夢兀仲等五人、分党争愛俄位、相殺久之、遣火頭郭力看、齎象牙一・金信答一来降」
  77. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年五月]甲寅、八百媳婦蛮招南道遣其子招三聴奉方物来朝」
  78. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年秋七月]己未……八百媳婦蛮招南通遣使来献馴象方物」
  79. ^ a b 唐 2017, p. 18.
  80. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年春正月]庚寅、八百媳婦蛮酋招南通来献方物」
  81. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年秋七月]戊午、謀粘路土官賽丘羅招諭八百媳婦蛮招三斤来降、銀沙羅土官散怯遮殺賽丘羅、敕雲南王遣人諭之」
  82. ^ a b c d e f 謝 2022, p. 67.
  83. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年]閏月甲午、八百媳婦蛮請官守、置蒙慶宣慰司都元帥府及木安・孟傑二府于其地、以同知烏撒宣慰司事你出公・土官招南通並為宣慰司都元帥、招諭人米徳為同知宣慰司事副元帥、南通之子招三斤知木安府、姪混盆知孟傑府、仍賜鈔・幣各有差」
  84. ^ a b 黎 1995, p. 40.
  85. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[致和元年五月]己巳、八百媳婦蛮遣子哀招献馴象」
  86. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[致和元年十一月]癸酉、八百媳婦国使者昭哀、雲南威楚路土官胒放等、九十九寨土官必也姑等、各以方物来貢」
  87. ^ 『元史』巻33文宗本紀2,「[天曆二年二月]辛丑……雲南行省蒙通蒙算甸土官阿三木、開南土官哀放、八百媳婦・金歯・九十九洞・銀沙羅甸、咸来貢方物」
  88. ^ a b 飯島 2020, p. 142.
  89. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年五月]己丑、置八百等処宣慰司都元帥府、以土官昭練為宣慰使都元帥。又置臨安元江等処宣慰司兼管軍万戸府。孟定路・孟肙路並為軍民総管府、秩従三品。者線・蒙慶甸・銀沙羅等甸並為軍民府、秩従四品。孟併・孟広・者樣等甸並設軍民長官司、秩従五品」
  90. ^ 『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年八月]癸巳……置麓川路軍民總管府」
  91. ^ 『元史』巻39順帝本紀2,「[至元四年八月]甲申、雲南老告土官八那遣姪那賽賫象馬来朝、為立老告軍民総管府」
  92. ^ 唐 2017, p. 19.
  93. ^ a b c d e f 謝 2022, p. 68.
  94. ^ 『元史』巻40順帝本紀3,「[至正元年十二月]壬戌、雲南車里寒賽刀等反、詔雲南行省平章政事脱脱木児討平之」
  95. ^ 『元史』巻41順帝本紀4,「[至正六年十二月]甲午……復立八百宣慰司、以土官韓部襲其父爵」
  96. ^ 『太祖実録』巻143洪武十五年三月己未(十日)条,「更置雲南布政司所属府州県。為府五十有二大理・永昌・姚安・楚雄・武定・臨安・騰衝・普安・仁徳・澂江・広西・元江・和泥・柔遠・芒施・鎮康・南甸・麓川・鎮西・平緬・麗江・北勝・曲靖・烏撒・芒部・烏蒙・東川・建昌・徳昌・会川・栢興・普定・雲遠・徹里・孟傑木按・蒙憐・蒙萊・木孕・孟愛・通西・木来・木連・木邦・孟定・謀粘・蒙光・孟隆・孟絹・太公・蒙慶・木蘭。州六十有三……」
  97. ^ 『太祖実録』巻193洪武二十一年八月丙辰(十五日)条,「八百媳婦国遣人入貢方物」
  98. ^ a b c d e f 謝 2022, p. 70.
  99. ^ a b c d e 謝 2022, p. 69.
  100. ^ 飯島 2001, p. 259.
  101. ^ 飯島 2020, p. 90.
  102. ^ 飯島 1998, p. 105-106.
  103. ^ a b c 飯島 2001, p. 261.
  104. ^ a b c 飯島 2020, p. 91.
  105. ^ a b c 飯島 2020, p. 92.
  106. ^ a b 飯島 2001, p. 263.
  107. ^ 飯島 2001, p. 264.
  108. ^ a b 飯島 2020, p. 93.
  109. ^ 飯島 2001, p. 263-264.
  110. ^ 石井 2020, p. 152.
  111. ^ 石井 2020, p. 155-156.
  112. ^ 石井 2001, p. 235.
  113. ^ 『宋史』巻418列伝177陳宜中伝,「陳宜中、字与権、永嘉人也。……井澳之敗、宜中欲奉王走占城、乃先如占城諭意、度事不可為、遂不反。二王累使召之、終不至。至元十九年、大軍伐占城、宜中走暹、後没於暹」
  114. ^ 深見 2013, p. 74.
  115. ^ a b c d 石井 2020, p. 156.
  116. ^ 石井 2001, p. 234.
  117. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]己亥、命何子志為管軍万戸、使暹国」
  118. ^ 『元史』巻210列伝97外夷3占城伝,「[至元]十九年……既而其子補的專国、負固弗服、万戸何子志・千戸皇甫傑使暹国、宣慰使尤永賢・亞闌等使馬八児国、舟経占城、皆被執、故遣兵征之」
  119. ^ 深見 2013, p. 73-74.
  120. ^ 深見 2013, p. 75.
  121. ^ a b 深見 2013, p. 76.
  122. ^ 石井 2020, p. 153.
  123. ^ 深見 2013, p. 73.
  124. ^ a b 深見 2013, p. 77.
  125. ^ a b 深見 2013, p. 78.
  126. ^ 『元史』巻210列伝97外夷3暹伝,「暹国、当成宗元貞元年、進金字表、欲朝廷遣使至其国。比其表至、已先遣使、蓋彼未之知也。賜来使素金符佩之、使急追詔使同往。以暹人与麻里予児旧相讎殺、至是皆帰順、有旨諭暹人『勿傷麻里予児、以踐爾言』。大徳三年、暹国主上言、其父在位時、朝廷嘗賜鞍轡・白馬及金縷衣、乞循旧例以賜。帝以丞相完沢答剌罕言『彼小国而賜以馬、恐其鄰忻都輩譏議朝廷』、仍賜金縷衣、不賜以馬」
  127. ^ a b c d 深見 2013, p. 79.
  128. ^ 石井 2001, p. 233.
  129. ^ a b c d 深見 2013, p. 84.
  130. ^ a b 深見 2013, p. 85.
  131. ^ 石井 2020, p. 157.
  132. ^ 石井 2001, p. 237.
  133. ^ a b 深見 2013, p. 86.
  134. ^ 石井 2020, p. 158.
  135. ^ 『島夷誌略』暹条,「白新門台入港、外山崎嶇、内嶺深邃。土瘠、不宜耕種、穀米歲仰羅斛。気候不正。俗尚侵掠。每他国乱、輒駕百十艘以沙糊満載、舍生而往、務在必取。近年以七十餘艘来侵單馬錫、攻打城池、一月不下。本処閉関而守、不敢与争。遇爪哇使臣経過、暹人聞之乃遁、遂掠昔里而帰。至正己丑夏五月、降於羅斛。凡人死、則灌水銀以養其身。男女衣著与羅斛同。仍以𧴩子権銭使用。地産蘇木・花錫・大風子・象牙・翠羽。貿易之貨、用硝珠・水銀・靑布・銅鐵之属」

参考文献[編集]

  • 飯島明子「北方の「タイ人」諸国家」『タイ史』山川出版社、2020年
  • 飯島明子「ラーンナーの歴史と文献に関するノート」『黄金の四角地帯:シャン文化圏の歴史・言語・民族』慶友社、1998年
  • 飯島明子「「タイ人の世紀」再考」『岩波講座 東南アジア史2 東南アジア古代国家の成立と展開』岩波書店、2001年
  • 石井米雄「前期アユタヤとアヨードヤ」『岩波講座 東南アジア史2 東南アジア古代国家の成立と展開』岩波書店、2001年
  • 愛宕松男『東方見聞録 2』平凡社、1971年
  • 喜田幹生「車里・八百嬉婦と元朝の覊縻」『東南アジア』4、1974年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)杉山2014A
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)杉山2014B
  • 向正樹「モンゴル・シーパワーの構造と変遷」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会、2013年
  • 渡辺佳成「モンゴルの東南アジア侵攻と『タイ人』の台頭」『モンゴル帝国と海域世界:12-14世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 10〉、2023年
  • C.M.ドーソン著/佐口透訳『モンゴル帝国史 3巻』平凡社、1971年
  • 謝信業「元朝経略八百媳婦国政策転変及影響」『中国辺疆史地研究』第3期、2022年
  • 唐立「元代八百媳婦宣慰司使是否漢族」『遵義師範学院学報』第1期、2017年
  • 黎道綱「八百媳婦請屬元廷考」『東南亜南亜研究』第1期、1995年