カラ・クムの戦い

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カラ・クムの戦い
戦争モンゴルのホラズム・シャー朝征服
年月日己卯1219年
場所:カラ・クム
結果:引き分け
交戦勢力
指導者・指揮官
ジョチ アラーウッディーン・ムハンマド
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

カラ・クムの戦い(カラ・クムのたたかい)とは、1219年夏にアラーウッディーン・ムハンマド率いるホラズム軍と、ジョチ率いるモンゴル帝国軍との間で行われた戦闘。

ホラズム側は国王自ら率いる精鋭軍で、モンゴル側は王子の率いる一分遣隊に過ぎなかったにもかかわらず、戦闘は両者拮抗して痛み分けの形で終わった。この一戦を通じてモンゴル側はホラズム軍の実力を見極めて自信を深め、逆にホラズム側は野戦におけるモンゴル軍の恐ろしさを思い知り、以後の両国の戦略に多大な影響を与えたと評されている[1]

この戦いは2000年代まで1216年に起こったものとする説が主流で[2]モンゴルのホラズム侵攻とは直接関係ないとされていたが[3]杉山正明の論考によって実際には1219年に起こりモンゴルのホラズム侵攻とも密接に関わる戦闘であったことが明らかにされている。

背景[編集]

ホラズム・シャー朝の最大版図

13世紀初頭、中央ユーラシアの東方(モンゴル高原)ではテムジン率いるモンゴル部、西方(中央アジア)ではアラーウッディーン率いるホラズム国という2大勢力が急速に勢力を拡大した[4]。更に、1210年代にはモンゴル帝国は華北の金朝、ホラズム・シャー朝はイラン方面に進出することで、それぞれ多民族を統べる大帝国を築きつつあった[5]。同じ頃、両国の中間にあたるアルタイ山脈から天山山脈にかけては、かつてモンゴル帝国によって滅ぼされたメルキト部とナイマン部の残党が逃れ込み、ナイマン部のクチュルクはカラ・キタイ朝を乗っ取るに至っていた[6]

1216年丙子)、華北からモンゴル高原に帰還したチンギス・カンは、かつて滅ぼしたメルキト部・ナイマン部の残党が西方で復興をたくらんでいること、また一度はモンゴルに服属した西北方面の「森林の民(ホイン・イルゲン)」が叛乱を起こしたを知った[注釈 1]。そこで、翌1217年丁丑)にはスブタイ(「四狗」の一人)率いる軍団をケム・ケムジュートのメルキト部の下に、ボロクル(「四駿」の一人)率いる軍団を叛乱を起こした「森林の民(ホイン・イルゲン)」の下に、そして1218年(戊寅)にジェベ(「四狗」の一人)率いる軍団を天山山脈のナイマン部=カラキタイの下へ、それぞれ派遣した[注釈 2]。なお、金朝への出兵時に西北方面の抑えとして2千人隊を率い残留したトクチャルもスブタイ軍に合流するよう命じられている[注釈 3]

このうち、ジェベとスブタイは順調に敵軍を討伐したが、ボロクル軍のみは敵軍の奇襲を受けて指揮官のボロクルが死亡してしまうという事態に陥った[注釈 4]。そこで、1218年丙寅)に授軍として出征したのがチンギス・カンの長男ジョチであり、恐らくはスブタイらの軍団も指揮下に入れ、キルギス部を初めとする「森林の民(ホイン・イルゲン)」を平定した[注釈 5]。一方、スブタイらに敗れたメルキト部残党の中でクルトゥカン・メルゲンのみは更に西北方面に逃れてキプチャク草原東端に出[注釈 6]、これを迫ったモンゴル軍は期せずしてホラズム朝の支配圏に侵入することになった[14]

一方、ホラズムのアラーウッディーンもまた早い段階から自国領に侵入したメルキト部の動きを察知しており、これを撃退すべくサマルカンドからブハラを経由してジャンドに至った[1]。ジャンドに到着したアラーウッディーンはメルキト部を追撃するモンゴル軍もまた西進してきたことを知ると、モンゴル軍に打撃を与える絶好の機会と見てサマルカンドに戻って精鋭軍を招集し、自ら軍勢を率いて北上した。こうして、ともにメルキト部残党を討伐するべく出征したモンゴル軍とホラズム軍は、「カンクリ族の住まう地」カラ・クムで激突することになった[15]

戦闘[編集]

スブタイの肖像画

メルキト部残党・モンゴル軍の跡を辿ってきたホラズム軍はチュー川河畔で無数のメルキト兵の死骸を見つけると、僅かな生き残りからモンゴル軍とメルキト部残党の戦いはその日のうちに行われたこと、モンゴル軍が戦場を去って間もないことを知った[16]。そこで、ホラズム軍は急ぎモンゴル軍を追跡し、遂に「カンクリたちの居住地であるカラ・クム」にて両軍は接触した[17]。当初、既にメルキト部残党を覆滅するという目的を遂げたモンゴル軍は戦闘に消極的で、ホラズム側から手出しさえしなければ戦闘する気はないと申し伝えたものの、ホラズム側は当然了承することなく、やむなくモンゴル軍が応戦する形で両軍は戦闘状態に入った[15]

カラ・クムの戦いについて唯一詳しく語るのはジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』であり、「クチュルクとトク・トガン(=トクトア・ベキ)」の章にて両軍の戦いを以下のように記述している。

(モンゴル軍の)帰還のさい、スルターン(・ムハンマド)は彼らを追尾した。(モンゴル軍は)戦いから一歩ひかんとしたのであったが、スルターンは手をひかず、妄念と邪道の荒野に顔をむけたのであった。警告しても顧みられなかったので、(モンゴル軍は)事を起こすことにこころ定めた。双方ともどもに攻撃しあい、それぞれの右翼はそのたがいの敵方をくずしあった。(モンゴル)軍は次第に優勢となり、スルターンがいる中軍に攻撃を仕掛け、スルターンは捕虜となりかけたが、ジャラールウッディーンがそれを撃退し、スルターンを危難から救い出した。《父親のまえで腰に帯を締めて取り掛かる獰猛な雄ライオンよりすぐれたものはなにか》。 その日、(両軍は)戦いつづけ、戦闘はより大きな光(太陽のこと)が隠れて、世界のかんばせが罪びとたちの顔のように黒ずみ、大地の背なかが井戸の腹中のように暗くなる晩の祈りにいたるまで、引きつづいたのであった。《昨夜、大地の翳りが光の馬を待ち伏せするときわれは見た、人が住まう四方を黒々とした惨めなあばら屋のようにただしくも汝はいえり、黒い穹魔を立てて天上にまでその頂きをかかげると》両軍は、戦闘の剣を鞘におさめ、おのが地にてやすらった。 — ジュヴァイニー、Juvayni,vol.1,pp.51-52/Boyle,vol.1,pp.69-70[18]

ジュヴァイニーにはモンゴル側の指揮官が明記されていないが、『集史』「チンギス・カン紀」には「ホラズム・シャーのカラウル(哨戒兵)たるかの諸部族は、モンゴル軍がこの境域に近づいているとの知らせをよこした。スルターンは彼らを追尾して進発した。モンゴルのある語り手がいうには、この諸軍団はといえば、チンギス・カンがスベエテイ(スブタイ)・バハードゥルとコンギラト部のトガチャルをそれらの指揮官となして、クドゥとの戦いにつかわしたものであった」と記され、先にメルキト部残党討伐のために派遣されたスブタイとトクチャルであったことがわかる[19]。ただし、全軍の司令官たるジョチも戦場にいたのか、もしくは前線指揮官たるスブタイとトクチャルの直属軍のみで戦闘に挑んだのか、定かではない[14]

ジュヴァイニーによると、両軍はともに遊牧国家伝統の右翼・中央・左翼からなる3軍体制を取って戦闘に臨んだが、やがてモンゴル側の右翼軍が優勢となってアラーウッディーン率いる中央軍が脅かされるようになった。ホラズム側の右翼軍を率いる王子ジャラールッディーン・メングベルディーが救援に入ったことでアラーウッディーンは危機を逃れたが、両軍ともに決めてを欠いたまま日没を迎え、遂に明確な勝敗が決まらないまま両軍は撤兵した[6]

なお、『元史』巻121スブタイ(速不台)伝に「己卯(1219年)、大軍は蟾河(チュー川)に至り、メルキト(滅里吉)と遭遇し、一戦してその二将を捕らえ、その衆を悉く降らせた。その部主クドゥはキプチャク(欽察)に逃れ、スブタイはこれを追って、キプチャクと玉峪に戦い、これを破った」とあるのは[20]、まさにジュヴァイニーの伝える「カラ・クムの戦い」と同じ戦役を指しているとみられる。

ロシア人史家V.V.バルトリドは同列伝でスブタイが出征した年が丙子(1216年)とされること、ジュヴァイニー以外のイスラム史家でこの戦役をヒジュラ暦612年(1215年〜1216年)する史家(ナサヴィー)がいることから、この戦いを1216年のこととする[21]。しかし、上述したようにスブタイ(速不台)伝は戦いのあった年を己卯(1219年)と明記する上、そもそもナサヴィー以外の同時代史書は一致してこの戦いを1218年〜1219年のこととしており、バルトリドの議論は成り立たないと杉山正明によって指摘されている[22]

影響[編集]

モンゴルのホラズム進出

ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』は、戦後の両軍の対応について以下のように記している。

モンゴル軍は後方へと旋回し、チンギス・カンのもとにいたると、チンギスはホラズム軍の勇敢さを品定めし、スルターン軍の程度と規模がはたしてどれほどのものなのか、かくてわれらにはどのような取り除けない壁も、抗しえない敵ももはやないとわかって、諸軍をととのえ、スルターンにむかって進軍した。(かたや)スルターンは、世界が恐るべき敵を一掃するまでの間、あたかもすべてをそのまえから取り除くチンギス軍の前衛かのようにせんとした。 — ジュヴァイニー、Juvayni,vol.1,pp.51-52/Boyle,vol.1,pp.69-70[18]

実際に、この記述を裏付けるように、『集史』や『聖武親征録』といった史料はジョチ率いる軍団の西北地方平定が済んだ直後に、チンギス・カン自ら軍を率いての「大征西」が始まったことを伝えている[注釈 7]。モンゴル帝のホラズム・シャー朝遠征は、1218年の「オトラル事件」を切っ掛けとして始まったとするのが一般的であるが[23]、実際にはその前年からメルキト部残党への対応を巡って両軍の駆け引きは始まっており、両国の全面衝突は既定の路線であったと現在では考えられている[24]。時系列としては、1216年のモンゴル高原への帰還時からすでにホラズム出兵の準備は始まり、その前段階として1217年から翌1218年にかけてメルキト・ナイマン残党の討伐が行われ、1219年夏の「カラ・クムの戦い」による「ホラズム軍の勇敢さを品定め」を経てモンゴル軍本隊の出征が始まったものとみられる[25]

一方、ホラズムの側では自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援がなければ自らの身すら危うかったスルターン=アラーウッディーンは自信喪失してしまった[26]。モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなく、オアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている[27]

なお、従来ではホラズム領に侵攻したモンゴル軍は因縁の地オトラルで「集結」した後、いくつかの別働隊に分かれてホラズムの諸城をそれぞれ攻めたとされる[28]。しかし、杉山正明は「カラ・クムの戦い」の流れを明らかにした上で、シル河上流で得た優勢を棄ててまでジョチ軍がわざわざオトラルで他軍と合流するとは考えづらく、ジョチ軍のみは「カラ・クムの戦い」後に本隊と合流することなくそのままホラズム領侵攻に加わったのではないかと指摘している[29]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『集史』「チンギス・カン紀」には「チンギス・カンは、述べきたったように、ヒタイ(=金朝領華北)の諸邦の経略をおえて帰還したとき、メルキト部について耳にした。……彼らの蘇りについて(チンギス・カンは)懸念なされ、612年にあたる牛の歳(ヘジラ暦では1216年〜1217年、十二支暦では1217年)、スベエティ・バハードゥルを軍とともに クドゥとその甥たちとの戦いにつかわし、かつ軍のために多くの戦車をしつらえて鉄の釘で堅牢にし、岩石ばかりのところでもすぐにこわれることのないように命じられた」とある。また、『元史』巻121スブタイ(速不台)伝には「丙子(1216年)、帝(チンギス・カン)は諸将とトーラ(禿兀剌)河のカラ・トン(黒林)で会盟し、『誰か能く我が為に滅里吉(メルキト)を征する者あらんや』と問うた。速不台(スブタイ)が自ら行くことを請い、帝(チンギス・カン)は壮としてこれを許した(『元史』巻121列伝8速不台伝,「丙子、帝会諸将於禿兀剌河之黒林、問『誰能為我征滅里吉者』。速不台請行、帝壮而許之。乃選裨将阿里出領百人先行、覘其虚実。速不台継進。速不台戒阿里出曰『汝止宿必載嬰児具以行、去則遺之、使若挈家而逃者』。滅里吉見之、果以為逃者、遂不為備」)」とあり、同じく1216年にメルキト部残党の対処(スブタイの出征)が決められたことが記されている[7]
  2. ^ 『聖武親征録』は丁丑(1211年)にスブタイの出征とボロクルの出征、戊寅(1218年)にジェベのクチュルク・カン討伐を続けて記述している(「丁丑。上遣大将速不台抜都以鉄裹車輪、征蔑児乞部、与先遣征西前鋒脱忽察児二千騎合、至嶄河、遇其長、大戦、尽滅蔑児乞還。是歳、吐麻部主帯都剌莎児合既附而叛。上命博羅渾那顔・都魯伯二将討平之、博羅渾那顔卒於彼。戊寅。……別遣哲別攻曲出律可汗、至撒里桓地克之」)。一方、『モンゴル秘史』はこの前後の記述が混乱しており、巻8・199節でスブタイの出征を「乙丑(1205年)」に当たる「丑の年」のこととして詳しく語るが、巻10・236節でも同様にスブタイの出征について簡潔に述べる。巻10・236節では「[236節]スベエテイ・バアトルを、鉄の車もてメルキト(族長)のトクトアのクトゥ、チラウンを頭とする子どもらを追跡しに出征させた。(スペエテイは)チュイ河畔に追いつき、(彼らを)根絶やしにして来た。[237節]ジェベはナイマン(族長)のグチュルク・カンを追跡し、……」と記され、メルキト部残党をチュー河畔で撃滅したとする記述は『集史』・『聖武親征録』といった他の史書と完全に一致する上、スブタイとジェベの派遣がほぼ同時期に行われたという点も他の史書と合致する。そのため、『モンゴル秘史』の編者は「スブタイのメルキト部残党討伐」を誤って巻8・199節と巻10・236節に分けて、前者の記述を詳しくしたが、実際には後者の記述位置・内容こそが正しいと考えられている[8]
  3. ^ 『集史』「チンギス・カン紀」には「また、コンギラト部のトガチャル・バハードゥルについては、(チンギスは)ヒタイに出征したとき、彼に二千のカラウル(哨戒兵)を率いさせ、諸アウルク(輜重、兵站)と諸オルドを監守するためにはるか後方に置き、しばらくそこにとどめていたのであったが、(このたびは)軍に臨んでスベェテイ・バハードゥルに合流するよう命じられた」と記されている[9]。なお、『聖武親征録』には「丁丑。上遣大将速不台抜都以鉄裹車輪、征蔑児乞部、与先遣征西前鋒脱忽察児二千騎合、至嶄河、遇其長、大戦、尽滅蔑児乞還」と記され、1217年(丁丑)にメルキト部討伐に派遣されたスブタイ・バートル(速不台抜都)が「先に派遣された征西前鋒のトクチャル(脱忽察児)の2千騎」と合流したという記述は『集史』のそれと完全に一致する[10]
  4. ^ ボロクルの出征と戦死について、『聖武親征録』は「丁丑(1217年)……この歳、吐麻(トゥマト)部主の帯都剌莎児合に帰附していたにもかかわらず、叛した。上(チンギス・カン)は博羅渾那顔(ボロクル・ノヤン)と都魯伯(ドルベイ)の二将にこれを討ち平らげるよう命じたが、博羅渾那顔(ボロクル・ノヤン)は彼の地にて亡くなった(丁丑……是歳、吐麻部主帯都剌莎児合既附而叛。上命博羅渾那顔・都魯伯二将討平之、博羅渾那顔卒於彼)」と簡潔に記し、『集史』「チンギス・カン紀」や「キルギス」「ウラスト」「メルキト」各部族誌も同様の内容をより詳しく語る。一方、『モンゴル秘史』は巻10・239節でジョチによる西北諸部族の平定が記された後、同240節でボロクル・ノヤンの出征と死が描かれており、時系列が逆となっている[11]
  5. ^ 『聖武親征録』はジェベのカラキタイ討伐の同年のこととして、「戊寅(1218年)。……これより先、吐麻(トゥマト)部は叛し、上(チンギス・カン)は乞児乞思(キルギス)部に征兵を派遣したが、キルギス部もまた従わずして叛した。遂に大太子(=ジョチ)に命じてこれの討伐に往かせ、不花(ブカ)を前鋒とし、乞児乞思(キルギス)を追って、亦馬児河に至って帰った。大太子は兵を領して謙河水を渡り、河の流れに従って諸部族を招降させ、烏思・憾哈納思・帖良兀・克失的迷・火因亦児干(ホイン・イルゲン)諸部を克した(戊寅。……先、吐麻部叛、上遣征兵乞児乞思部。不従、亦叛去。遂命大太子往討之、以不花為前鋒、追乞児乞思、至亦馬児河而還。大太子領兵渉謙河水、順下、招降之、因克烏思・憾哈納思・帖良兀・克失的迷・火因亦児干諸部)」と記し、同様の内容が『集史』「キルギス」「ウラスト」「メルキト」各部族誌にも記される[12]
  6. ^ 『集史』「メルキト部族誌」には「最後の戦いにおいて、トクトアの末子で矢を極めて善く正確に射るクルトゥカン・メルゲンは、キプチャクの方へ逃げ去ったが、ジョチ・ハンはその追尾に軍を引き連れて彼を捕らえた」と記される[13]
  7. ^ 『聖武親征録』は戊寅(1218年)にジェベのクチュルク討伐とジョチのホイン・イルゲン平定を記した後、続けて「己卯(1219年)、上(チンギス・カンは)兵を統べて西域を征した(己卯、上総兵征西域)」と記す[11]

出典[編集]

  1. ^ a b 杉山2010,35頁
  2. ^ 佐口1968,181-182頁
  3. ^ 佐口1968,183頁
  4. ^ 杉山2010,28頁
  5. ^ 杉山2010,29-30頁
  6. ^ a b 杉山2010,34-35頁
  7. ^ 杉山2010,40-41頁
  8. ^ 杉山2010,42-43頁
  9. ^ 杉山2010,39頁
  10. ^ 杉山2010,41-42頁
  11. ^ a b 杉山2010,44頁
  12. ^ 杉山2010,44-45頁
  13. ^ 杉山2010,45頁
  14. ^ a b 杉山2010,46頁
  15. ^ a b 杉山2010,36-37頁
  16. ^ 杉山2010,35-36頁
  17. ^ 杉山2010,36頁
  18. ^ a b 訳文は杉山2010,34頁より引用
  19. ^ 杉山2010,39-40頁
  20. ^ 『元史』巻121列伝8速不台伝,「己卯、大軍至蟾河、与滅里吉遇、一戦而獲其二将、尽降其衆。其部主霍都奔欽察、速不台追之、与欽察戦于玉峪、敗之」
  21. ^ 杉山2010,31-32頁
  22. ^ 杉山2010,32-33頁
  23. ^ 佐口1968,177-178頁
  24. ^ 杉山2010,57-58頁
  25. ^ 杉山2010,56-57頁
  26. ^ 杉山2010,38頁
  27. ^ 杉山2010,59-60頁
  28. ^ 杉山2010,71-73頁
  29. ^ 杉山2010,73-75頁

参考文献[編集]

  • 杉山正明「知られざる最初の東西衝突」『ユーラシア中央域の歴史構図-13~15世紀の東西』総合地球環境学研究所イリプロジェクト、2010年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • C.M.ドーソン著/佐口透訳『モンゴル帝国史 1巻』平凡社、1968年