第一次ホムスの戦い

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座標: 北緯34度43分23秒 東経36度42分52秒 / 北緯34.723185度 東経36.714462度 / 34.723185; 36.714462

第一次ホムスの戦い

イルハン朝の創始者フレグとその妻ドクズ・ハトゥン
1260年12月10日
場所ホムス
結果 マムルーク朝の勝利
衝突した勢力
モンゴルイルハン朝 マムルーク朝
指揮官
バイドゥ アル・アフダル・ムハンマド英語版
アル・アシュラフ・ムーサー英語版
戦力
6,000[1][2] 1,400[3][2]
被害者数
不明 不明

第一次ホムスの戦いは、1260年12月10日モンゴル帝国ペルシアに建国したイルハン朝エジプトマムルーク朝シリアホムスで争った戦いである。

1260年アイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝がイルハン朝に歴史的勝利を収めて以降、イルハン朝のフレグ・ハンダマスカスアイユーブ朝スルタンと他のアイユーブ朝の王子を捕らえ、復讐のため処刑し、事実上シリアの王朝を滅亡させた。しかし、アイン・ジャールートでの敗北はシリアおよびレヴァント地域からイルハン朝の軍をシリアの外へ追いやった。

この結果、シリアの主要都市であるアレッポダマスカスはマムルーク朝の占領下に残された。しかし、ホムスおよびハマーは未成年のアイユーブ朝の王子が支配したままだった。カイロのマムルーク軍よりもむしろ、これらの王子らが、実際に第一次ホムスの戦いで勝利した[4]

フレグと彼のいとこのジョチ・ウルスベルケとの間でモンゴル帝国の内戦として開戦したベルケ・フレグ戦争英語版のため、イルハン朝はシリアの再征服のために6,000人の部隊しか送ることが出来なかった。アイン・ジャールートの戦いの前、マムルーク軍が優勢であった時にガザへの進軍を命じられたモンゴルの将軍キト・ブカのようなイルハン朝の将によって、この遠征は行われた[5]。イルハン朝の軍は素早くアレッポを奪還し、更にホムスへ南下したものの、決定的敗北を喫した。この後いくつかの侵略が行われたが、イルハン朝の最初のシリア侵略作戦は終わり、1年以上継続して占領できた土地は無かった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Waterson, p. 88
  2. ^ a b Amitai-Preiss, p. 51
  3. ^ Waterson, p. 89
  4. ^ Holt, P. M. - "Mamluks", in Encyclopaedia of Islam. Brill Online. http://www.brillonline.nl/subscriber/uid=1415/entry?entry=islam_COM-0658&authstatuscode=202
  5. ^ Reuven Amitai-Preiss-Mongols and Mamluks: the Mamluk-Īlkhānid War, 1260-1281, p.43

参考文献[編集]

  • Amitai-Preiss, Reuven (1995) Mongols and Mamluks: The Mamluk-Ilkhanid War, 1260–1281. Cambridge University Press, Cambridge. ISBN 978-0-521-46226-6
  • Nicolle, Warlords., p. 117
  • J. J. Saunders, The Mongol Defeat at 'Ain Jalut, in. Muslims and Mongols, (ed. by G.W.Rice), p. 69.
  • Waterson, James (2007) The Knights of Islam: The Wars of the Mamluks. Greenhill Books, London. ISBN 978-1-85367-734-2