丁家洲の戦い

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丁家洲の戦い
戦争モンゴル・南宋戦争
年月日至元12年/徳祐元年2月19日21日1275年3月17日19日[1][2]
場所:丁家洲(現在の安徽省銅陵市義安区
結果大元ウルスの勝利
交戦勢力
モンゴル帝国 南宋
指導者・指揮官
バヤン
アジュ
賈似道
孫虎臣
夏貴

丁家洲の戦い(ていかしゅうのたたかい)は、1275年モンゴル帝国南宋との間で行われた戦闘。南宋にとっては首都臨安を守るための最後の防戦という位置づけであったが、結果として南宋軍はモンゴル軍に為す術もなく敗れた。その後、モンゴル軍に抵抗する術を失った南宋は戦わずして臨安を開城したため、南宋の命運を事実上決定づけた戦いであると言える。

概要[編集]

長江という天然の防壁と強力な水軍を擁する南宋はモンゴル帝国にとって難敵であり、既に第2代皇帝オゴデイ時代のクチュの南征、第4代皇帝モンケの親征と2度に渡って南宋遠征が失敗してきた。しかし、第5代皇帝として即位したクビライは従来の失敗を踏まえて長期戦によって南宋を屈服させる方策を選び、数年に渡る包囲戦、水軍の育成、新兵器の投入によって遂に南宋防衛の要衝の襄陽を攻略した(襄陽・樊城の戦い)。襄陽の陥落から1年後、モンゴル軍はバヤンを総司令として遂に南宋への全面侵攻を開始し、呂文煥ら投降兵を丁重に扱ったこともあって瞬く間に長江中流域を平定した[8]

一方、南宋側では前線の諸将が次々と投降していったのを受けて、遂に宰相たる賈似道自らが水陸両軍を率いてモンゴル軍の迎撃のため出陣した。蕪湖に辿り着いた賈似道は最後の希望を抱いて和議の使者を派遣し、かつて南宋軍に使者として訪れたこともあるナンギャダイがこれに対応した[9]。この頃、江南の炎暑や多雨がモンゴル軍にとって不利なことを慮ったクビライが進軍を緩めるようバヤンに命じており、バヤンはクビライの指示を尊重して南宋と一時的に和議を結ぶべきかどうかを副将のアジュと協議した。アジュは「もし今南宋と和議を結んだとしたら、既に降伏した南宋領を夏まで維持できないだろう。また、南宋は一方で和議を進めながら未だ我が軍の軍船に弓を射る者がいるなど、信じがたい。今は一挙に進軍すべきである。もしこの決断が失敗に終わったとしても、その罪は我に帰すだろう」と主張し、バヤンもこの意見に賛同してこのまま進軍することを決め、賈似道に対しては「もし和議を求めるのならば、賈似道自らが来て交渉せよ」と回答した。

1275年3月17日(旧暦では至元12年/徳祐元年の2月庚申/19日)、池州を出発したモンゴル軍は2日後の3月19日(旧暦2月21日壬戌)に丁家洲に辿り着き、この地で南宋軍と遭遇した。賈似道率いる南宋軍はなおも13万の兵と2500の軍船を擁する大軍であり、歩軍指揮使の孫虎臣が陸上の主力を、淮西制置使の夏貴が水軍をそれぞれ率い、総大将の賈似道が後軍を率いるという布陣であった。これに対し、バヤンはまず左右両翼の騎兵を進撃させ、ついで「巨炮」を長江を埋めつくさんばかりの南宋水軍の中央に撃ち込ませた。「巨炮」の轟音に夏貴率いる南宋水軍は早くも動揺し、夏貴は真っ先に敗走してしまった。これを聞いた賈似道は動揺して平静を失い、退却の鐘を鳴らしてしまったために南宋軍は一斉に潰走し、モンゴル兵は「宋軍敗れたり」と歓呼したという[10]

敗走した南宋軍に対してアジュ率いる部隊がこれを追撃し、アジュとその配下の何瑋・李庭らは自ら敵船に乗り込んでこれを奪い、南宋水軍の軍船の大部分を鹵獲した[11][12][13][14][15]。バヤンは配下の歩兵・騎兵にアジュの追撃を助けるよう命じ、150里余りにわたって行われた追撃戦によって南宋軍は壊滅し溺死した者は数え切れないほどであったという。敗走した賈似道は揚州に、夏貴は廬州に、孫虎臣は泰州にそれぞれ逃れたが、もはやモンゴル軍に対抗するすべはなく、南宋の首都臨安はモンゴル軍に対して無防備となった。

賈似道の大敗によって南宋朝廷はモンゴル軍に抗する術を失い、結果として臨安は無血開城することになった。そのため、後にモンゴル帝国に仕えるようになった南宋の旧臣の多くは南宋滅亡の責任を賈似道一人に押しつけたが、クビライはこのような南宋旧臣の態度を皮肉る言葉を残している[16]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十二年二月]辛酉……大軍次丁家洲、戦船蔽江而下。宋賈似道分遣歩帥孫虎臣及督府節制軍馬蘇劉義、集兵船於江之南北岸、似道与淮西制置使夏貴将後軍。戦船二千五百餘艘、横亘江中。翌日、伯顔命左右翼万戸率騎兵、夾岸而進、継命挙巨炮撃之。宋兵陣動、夏貴先遁、似道錯愕失措、鳴鉦斥諸軍散、宋兵遂大潰。阿朮与鎮撫何瑋・李庭等舟師及歩騎、追殺百五十里、得船二千餘艘、及軍資器仗・督府図籍符印、似道東走揚州。阿先不花言『夏貴縦北軍岳全還、称欲内附、宜降璽書招諭』。遂遣其甥胡応雷持詔往諭之」
  2. ^ 『宋史』巻47,「[徳祐元年二月]庚申、虎臣与大元兵戦於丁家洲、敗績、奔魯港、夏貴不戦而去。似道・虎臣以単舸奔揚州、諸軍尽潰、翁応龍以都督府印奔臨安」
  3. ^ 『元史』巻133列伝20忽剌出伝,「至元十二年、攻宋六安軍、行省命領諸軍戦艦、遇宋軍、敗之、有旨褒賞。軍次安慶、忽剌出及参政董文炳領山東諸軍与宋将孫虎臣等戦於丁家洲、大敗之、俘其将校三十七・軍五千・船四十」
  4. ^ 『元史』巻131列伝18完者都伝,「十二年春、与宋将孫虎臣戦於丁家洲、大捷、進武義将軍」
  5. ^ 『元史』巻151列伝38高鬧児伝,「進兵丁家洲、与宋将孫虎臣等大戦、殺五百餘人、奪其船及鎧仗無算」
  6. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「従伯顔南征……従破沙洋・新城、敗孫虎臣於丁家洲、戦甚力、進万戸」
  7. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「十二年、敗宋将孫虎臣於丁家洲、尋移屯黄池、以断宋救兵」
  8. ^ 杉山1996,81-97頁
  9. ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝,「賈似道督師江上、遣宋京来請和。軍至池州、遣嚢加歹偕宋京報似道。似道復遣阮思聡偕嚢加歹至軍中、仍請議和。時暑雨方漲、世祖慮士卒不習水土、遣使令緩師。伯顔・阿朮与諸将議、乗勢径前、遂進軍至丁家洲、似道師潰、大軍次建康。帝聞嚢加歹親与賈似道語、召赴闕、具陳其説、遣還諭旨於伯顔、以北辺未靖、勿軽入敵境、而大軍已入平江矣。宋使柳岳・夏士林・呂師孟・劉岊等踵至、皆命嚢加歹同往報之。師逼臨安、復遣嚢加歹入取降表・玉璽、徴宋将相文武百官出迎王師」
  10. ^ 『元史』巻127列伝14伯顔伝,「十二年春正月……宋宰臣賈似道遣宋京致書。請還已降州郡、約貢歳幣。伯顔遣武略将軍嚢加歹同其介阮思聡報命、止京以待、且使謂似道曰『未渡江、議和入貢則可、今沿江諸郡皆内附、欲和、則当来面議也』。嚢加歹還、乃釈宋京。庚申、発池州、壬戌、次丁家洲。賈似道都督諸路軍馬十三万、号百万、歩軍指揮使孫虎臣為前鋒、淮西制置使夏貴以戦艦二千五百艘横亘江中、似道将後軍。伯顔命左右翼万戸率騎兵夾江而進、砲声震百里。宋軍陣動、貴先遁、以扁舟掠似道船、呼曰『彼衆我寡、勢不支矣』。似道聞之、倉皇失措、遽鳴金收軍、軍潰。衆軍大呼曰『宋軍敗矣』。諸戦艦居後者、阿朮促騎召之、挺身登舟、手柁衝敵船、舳艫相蕩、乍分乍合。阿朮以小旗麾何瑋・李庭等並舟深入、伯顔命歩騎左右掎之、追殺百五十餘里、溺死無算、得船二千餘艘、及其軍資器仗・図籍符印。似道東走揚州、貴走廬州、虎臣走泰州」
  11. ^ 『元史』巻128列伝15阿朮伝,「宋丞相賈似道擁重兵拒蕪湖、遣宋京來請和。伯顔謂阿朮曰『有詔令我軍駐守、何如』。阿朮曰『若釈似道而不撃、恐已降州郡今夏難守、且宋無信、方遣使請和、而又射我軍船、執我邏騎。今日惟当進兵、事若有失、罪帰於我』。二月辛酉、師次丁家洲、遂与宋前鋒孫虎臣対陣。夏貴以戦艦二千五百艘横亘江中、似道将兵殿其後。時已遣騎兵夾岸而進、両岸樹砲、撃其中堅、宋軍陣動、阿朮挺身登舟、手自持柂、突入敵陣、諸軍継進、宋兵遂大潰。以上詳見『伯顔伝』」
  12. ^ 『元史』巻150列伝37何瑋伝,「宋丞相賈似道率舟師拒於丁家洲、瑋将勇敢士出戦、奪舟千餘艘、似道遁去」
  13. ^ 『元史』巻162列伝49李庭伝,「十二年春、与宋将孫虎臣戦於丁家洲、奪船二十餘、宋軍潰、以功加宣威将軍」
  14. ^ 『元史』巻129列伝16百家奴伝,「東定池州、撃宋平章賈似道及孫虎臣於丁家洲、追逐百里餘、奪戦船五艘及旗幟器甲、擒宋統制王文虎、因定黄池」
  15. ^ 『元史』巻133列伝20脱歓伝,「従丞相阿朮攻陽邏堡、累有戦功。渡江攻鄂漢諸州、下之。会宋軍於丁家洲、脱歓突入、奪戦艦数艘、攻建康・太平等郡、下之」
  16. ^ 宮崎1992,314頁

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書、講談社、1996年
  • 宮崎市定「南宋末の宰相賈似道」『宮崎市定全集11』、岩波書店、1992年