白藤江の戦い (1288年)

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白藤江の戦い
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戦争白藤江の戦い
年月日1288年4月9日(戊子3月8日)
場所:白藤江
結果:陳朝軍の勝利
交戦勢力
陳朝 元軍
指揮官
陳聖宗
仁宗
陳国峻(陳興道)
陳慶餘
トゴンベトナム語版中国語版
ウマルベトナム語版 (捕虜)
張文虎ベトナム語版
戦力
不明 9万
損害

白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい、バクダンの戦い、Trận Bạch Đằng 1288陣白藤1288?)は、1288年ベトナムで行われた陳朝ベトナム軍と軍との戦いである。

経過[編集]

経緯[編集]

1258年第1次元越戦争ベトナム語版および1283年第2次元越戦争ベトナム語版の二度の遠征に失敗したフビライ・ハーンは怒りを募らせ、1287年に三度目の出兵、第3次元越戦争ベトナム語版を行った。今回の遠征では元はトゴンベトナム語版中国語版(脱驩)を総司令官として9万の兵力を投入した。加えて何百にもなる戦船と、張文虎将軍率いる数十万石の糧食を運ぶ船団も備えていた。

今回の出兵にあたりフビライは「小国だからと交趾を甘く見てはいけない」とトゴンに入念に説いたといわれる。

1287年12月末、トゴン率いる元軍が国境を越えて諒山、北江に攻め入った。陳興道ベトナム語: Trần Hưng Đạo チャン・フン・ダオ)の別名で知られる陳国峻は隘路や要害の地で戦いながら、萬劫(ハイズオン省チーリン)とドゥオン川流域の数ヶ所に軍を後退させた。

明けて1288年になるとトゴンが直接指揮を取った部隊が萬劫を占領して、長期戦を戦うための陣地を構築し始めた。同じくしてウマル(烏馬兒)将軍が指揮する戦船船団が海より白藤江を遡り、トゴン軍と合流した。ウマルは張文虎の糧船船団を護衛する任務を与えられていたが、陳朝軍は阻止することができないと考え、萬劫へと向かったのである。

雲屯(ヴァンドン)の戦い[編集]

陳慶餘は、ウマルの戦船団が通過してしまえば糧船船団を攻撃できると考え、配属された部隊の一部を割いて待ち伏せした。数日後糧食を満載しているために鈍重となっていた張文虎の糧船船団を雲屯(クアンニン省ヴァンハイ)にて奇襲を仕掛け、糧船の多くを沈没または強奪した。

白藤江の戦い[編集]

1288年1月末、軍隊を3つに分けて進軍したトゴンは昇龍を占領したが、すでに都城の住民が朝廷の「清野」策(焦土作戦)を実行していて、もぬけの殻となっていた。元軍は陳朝の抗戦勢力を全滅させることができず、次第に守勢に立たされることになる。危機的な形勢に立たされたと判断したトゴンは、萬劫に兵を引き、そこから水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することを決めた。

元軍を全滅させ、国を解放する機会ととらえた仁宗と陳国峻は反撃を決断した。陳国峻は白藤江の潮位の上下を日々調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配した。

1288年4月初め、ウマルが指揮する船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上した。戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かると、陳軍の軽舟が出撃し、すぐに負けを装って後退した。懸命に追撃した元軍が伏兵された地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。ちょうど潮が引きはじめた時刻だったとされている。元軍の船団は慌てて退却したが、干潮で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれ、多くの船が壊れて沈没するに至った。さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させたといわれる。生き残った兵士は川岸へと逃げたが、伏兵していた歩兵による奇襲攻撃を受けた。元軍の水兵は全滅し、ウマルは生け捕りにされた。

トゴンが指揮した部隊は萬劫より諒山の方向へ逃走し、陳朝軍の追撃を受けつつ広西に逃げ帰った。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。