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en:David A. Johnston oldid=661868331 から翻訳。1980年のセント・ヘレンズ山噴火で亡くなった USGS の火山学者の記事
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{{Otheruses|セント・ヘレンズ山で亡くなったアメリカの火山学者|第28代カナダ総督|デイヴィッド・ロイド・ジョンストン}}

{{Infobox 人物
|name = デイヴィッド・ジョンストン
|image = MSH80 david johnston at camp 05-17-80 med.jpg
|alt = 車とトレーラーのそばに据えた折りたたみ椅子に腰掛け、手にしたノートに書きつけるあいまに、カメラを向いて微笑みを浮かべた男性。
|image_size =
|caption = デイヴィッド・ジョンストン、[[セント・ヘレンズ山#1980年の噴火|セント・ヘレンズ山の1980年に起きた噴火]]により死亡する13時間前の姿。
|birth_name = デイヴィッド・アレクサンダー・ジョンストン
|birth_date = 1949年12月18日
|birth_place = [[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]][[シカゴ]]
|death_date = 1980年5月18日 (享年 {{年数|1949|12|18|1980|5|18}})
|death_place = アメリカ合衆国[[ワシントン州]][[セント・ヘレンズ山]]
|death_cause = セント・ヘレンズ山の噴火活動により死亡
}}

'''デイヴィッド・ジョンストン''' ({{lang-en|David Alexander Johnston}}、1949年12月18日-1980年5月18日)はアメリカ人の[[アメリカ地質調査所]] {{enlink|United States Geological Survey|USGS|s=off}} に所属していた[[火山学者]]である。アメリカ合衆国[[ワシントン州]]にある[[セント・ヘレンズ山]]が1980年に噴火活動を起こした際、観測チームの主任科学者として、山頂から6キロメートル離れた位置に設けられていた観測所で当番についていた時に、5月18日の朝に起きた[[山体崩壊]]を伴う噴火に巻き込まれて死亡した。最初に噴火発生を報告した人物であり、無線に "Vancouver! Vancouver! This is it!" (バンクーバー! バンクーバー! ついに来た!」)と叫んだ後、横薙ぎの爆風と火砕流に巻き込まれて亡くなっている。ジョンストンの遺体は見つからなかったが、彼が使用していたUSGSのトレーラーは、1993年に州道管理作業員によって発見されている。

ジョンストンの経歴を見ると、[[アラスカ州]]の{{仮リンク|オーガスティン火山|en|Augustine Volcano}}から[[コロラド州]]の{{仮リンク|サン・ファン火山地域|en|San Juan volcanic field}}、[[ミシガン州]]の長期間活動のない火山というように、アメリカ国内を渡り歩いて研究を行っている。彼は、[[火山ガス|火山性ガス]]の分析と噴火との関連に関する研究で、綿密で才能のある学者として認められていた。彼の示す熱情と前向きな姿勢は、多くの同僚から好意と敬意を受けており、彼の死後、幾人もの科学者が口頭もしくは献辞や書簡で彼の人柄を称えている。ジョンストンは自然災害から人々を守る一助となるために、科学者はリスクを取ってでも必要なことはやり遂げる必要があるとの信念を持っていた。彼と同僚のUSGSに所属する科学者の活動は、1980年の噴火に際して当局にセント・ヘレンズ山周辺への立ち入り規制の必要性を確信させた。解除を求める強い圧力のなか規制を維持し続けた結果、何千もの命が救われている。彼の物語は、一般の人々がもつ火山噴火と社会に対する脅威についてのイメージの中に組み込まれ、火山学の歴史の一部となった。2005年現在<ref group="訳注">出典の出版時点。</ref>、ジョンストンは火山噴火により死亡した2人のアメリカ人火山学者の一人である(もう一人は{{仮リンク|ハリー・グリッケン|en|Harry Glicken}})。

その死後、ジョンストンを記念していくつかの動きがあった。[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]は大学院生を対象とする彼の名を冠した記念基金を設立している。また、彼の名を冠する火山観測所が、ワシントン州[[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]]と彼が亡くなった尾根上の2ヶ所に設立された。彼の人生と死は、様々なドキュメンタリーや映画、ドラマ、書籍の題材となった。噴火の犠牲となった多くの人々とともに、ジョンストンの名前も彼の献身を悼み碑文に刻まれている。

== 経歴 ==
[[File:Dave Johnston with gas-detection instrument at Mount St. Helens, 4 April 1980 (USGS) 1.jpg|thumb|セント・ヘレンズ山から放出している[[二酸化硫黄]]ガスを計測するための紫外線を解析する[[分光器|相関分光計]]を操作するジョンストン(1980年4月4日撮影)。|alt=モノクロ写真、大きな観測機器に取り付けられた望遠鏡のマウスピースを片目で覗きこんでいる男性。]]
ジョンストンは1949年12月18日、{{関連仮リンク|シカゴ大学医学センター|ref=シカゴ大学}}でトーマス及びアリス・ジョンストン夫妻の子供として誕生した
<ref name=LDN>
{{cite news
|author=Brettman, Allan
|title=This Is It
|url=http://sthelenshero.homestead.com/Article.html
|work={{enlink|Longview Daily News|s=off|p=off}}
|publisher=McClelland-Natt family
|year=1995
|accessdate=2010-04-05
}}</ref>
<ref name="missing">
{{cite news
|url=http://news.google.com/newspapers?id=ysgsAAAAIBAJ&sjid=RhMEAAAAIBAJ&pg=7047,4878405
|title=Volcanologist reported missing
|work={{enlink|Star-News|s=off|p=off}}
|date=1980-05-21
|accessdate=2010-04-02
|publisher=Gruber, Bob
}}</ref>。
夫妻は[[イリノイ州]]{{仮リンク|ホームタウン (イリノイ州)|label=ホームタウン|en|Hometown, Illinois}}に居を構えていたが、ジョンストンが生まれてすぐに、同じ州内の{{仮リンク|オーク・ローン|en|Oak Lawn, Illinois}}に転居した<ref name=LDN/>。ジョンストンには一人の姉妹<ref group="訳注">出典からは姉か妹か判断不可。</ref>とともに育ち、父親は地元企業でエンジニアとして働き、母親は新聞の編集者をしていた。ジョンストンは時折、母親が関わる新聞用に写真を提供し、自分の学校新聞に寄稿している。彼に妻子はいない<ref name=LDN/>。

高校を卒業後、ジョンストンは[[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]]に入学し、当初はジャーナリズムを専攻する予定だったが、大きな講義クラスの程度の低さに失望し、受講した[[地質学]]の基礎クラスで興味を唆られて専攻を変更することにした<ref name=LDN/>。彼が最初に取り組んだ地質学の研究プロジェクトは、[[ミシガン州]]の[[アッパー半島]]を構成する[[先カンブリア時代]]の岩石を対象としたものだった。そこで彼は、[[変成作用|変成]]した[[玄武岩]]や[[斑糲岩]]の[[岩床]]、[[閃緑岩]]と斑糲岩の貫入の形態をした火山の基盤など、当時の火山の痕跡を調査した。この経験は、ジョンストンに火山への情熱の火をつけた。講義を熱心に受講し<ref name=LDN/>、1971年に首席で卒業した<ref name=Hildreth>
{{cite web
|url=http://www.nps.gov/history/history/online_books/geology/publications/circ/838/memoriam.htm
|title=Geological Survey Circular 838
|author=Hildreth, Wes
|publisher=アメリカ地質調査所
|date=2006-03-28
|accessdate=2010-04-02
}}</ref>
<ref name="dedication">
{{cite book
|last=Lipman
|first=Peter W.
|author2=Mullineaux, Donal R
|title=The 1980 eruptions of Mount St. Helens, Washington
|editor=Lipman, Peter W., and Mullineaux, Donal R
|publisher=アメリカ地質調査所
|series=USGS Professional Paper
|volume=1250
|chapter=Dedication, David A. Johnston, 1949–1980
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/Publications/PP1250/dedication.html
}}</ref>。

ジョンストンは卒業した夏に、[[コロラド州]]の{{仮リンク|サン・ファン火山地域|en|San Juan volcanic field}}に向かい、[[火山学者]]のピート・リップマンの2つの消滅した[[カルデラ]]に関する研究を手伝った<ref name=LDN/><ref name=Hildreth/>。この経験から、彼はサン・ファン西部にある[[漸新世]]の{{仮リンク|シマロン山|label=シマロン|en|Cimarron Volcano}}[[安山岩|安山岩質]]火山群に注目し、シアトルの[[ワシントン大学 (ワシントン州)|]における卒業研究の第一歩となる着想に結びついた<ref name=Hildreth/><ref name="masters">
{{cite book
|last=Johnston
|first=David A.
|title=Volcanistic facies and implications for the eruptive history of the Cimarron Volcano, San Juan Mountains, SW Colorado
|publisher=University of Washington
|location=Seattle, WA, US
|year=1978
|series=Master's Thesis
}}</ref>。
ジョンストンが行った活火山ではない火山の噴火史復元は、その後の活火山研究の基礎となった<ref name=Hildreth/>。活火山に最初に対峙したのは、[[アラスカ州]]の{{仮リンク|オーガスティン火山|en|Augustine Volcano}}における[[地球物理学|地球物理学的]]調査の際で、1975年のことだった。1976年にオーガスティン山が噴火するやいなや現地に舞い戻り、ひとまず[[修士論文]]としてまとめたシマロン火山の研究を打ち切り、オーガスティン山に集中して[[Ph.D|博士号]]研究を行った。その結果、ジョンストンは (1) [[火砕流]]の堆積作用は[[軽石|軽石質]]が弱くなるにつれ、時間とともに変わっていくこと、(2) マグマに揮発性の高い水、塩素、硫黄が大量に含まれていたこと、(3) 地下で、([[ケイ素]]を含む)[[無色鉱物|珪長質]]マグマに粘性の低い[[苦鉄質]](玄武岩質)マグマが混合することで噴火を引き起こしたこと、を示し、1978年に [[Ph.D]] を獲得した。また、彼にとってオーガスティン山は初めて火山の危険性を身にもって経験した場所となった。強風により2機の脱出用ヘリが離陸できず、噴火の最中で立ち往生する寸前まで追い込まれた。3機目のヘリがなんとか離陸でき、彼らを助け出すことになる。<ref name="eugene">
{{cite news
|url=http://news.google.com/newspapers?id=UXsRAAAAIBAJ&sjid=SeIDAAAAIBAJ&dq=david%20johnston%20augustine%20helicopter&pg=6058%2C5082171
|title=Geologist's kin delay sad visit: Parents await quieter time to see site where son died
|last=Associated Press
|date=1981-05-18
|publisher=Eugene Register-Guard
|pages=1B
|accessdate=2010-04-12
|location=Eugene, OR, US.
}}</ref>。

1978年と1979年の夏に、ジョンストンは[[カトマイ山]]の1912年の噴火で[[1万本の煙の谷]]に堆積した火山灰流層の研究を指揮した<ref name=Hildreth/>。 火山ガスの状態は、火山噴火の進展にきわめて重要である。この調査活動において、かれは過去の噴火において放出されたガスに関するデータの取得を可能にする、溶岩内に埋め込まれた{{仮リンク|斑晶|en|phenocryst}}の中に含まれているガラス質と気体の混合物を分析するのに必要な、多くの技術をマスターした。カトマイさんと1万本の煙の谷にある他の火山の研究活動は、その後の彼の経歴を切り開くことになる。彼の「快活さ、度胸、忍耐、そして{{仮リンク|マゲイク山|en|Mount Mageik}}の火口にあるジェット状の山頂噴気孔の近くで下した決断」は彼の同僚に強い印象を与えた<ref name=Hildreth/>。

1978年も押し詰まった頃、ジョンストンは[[アメリカ地質調査所]]に入所した。そこで彼はまず、[[カスケード山脈]]と[[アリューシャン列島]]の火山放出レベルの監視任務に就いた。その間に彼は、火山性ガスの組成変化から噴火の可能性をある程度予測する理論の改善を支援している<ref name=USGS>
{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/CVO_Info/david_johnston.html
|title=David A. Johnston December 1949&nbsp;– May 18, 1980
|author=Lyn Topinka
|publisher=USGS/Cascades Volcano Observatory, Vancouver, Washington
|date=2007-12-28
|accessdate=2009-04-11
}}</ref>。
同僚の火山学者、ウェス・ヘルドリッチはジョンストンについて、次のように語っている「自分が思うに、デイヴが大事に抱えこんでいた大望は、噴気孔から放出されるガスを系統的に分析することで、噴火の前兆を示す特徴的な変化の検知を可能にすることだった…デイヴは爆発的噴火に先立つマグマ内の揮発成分の振る舞いを一般的なモデルとして公式化し、噴火の危険性を推論する論理的根拠を確立することだった<ref name=Hildreth/>」 この頃、ジョンストンは夏になるとオーガスティン山に向かい、また、[[アゾレス諸島]]と[[ポルトガル]]の潜在的[[地熱発電|地熱エネルギー]]を評価している。また亡くなる寸前には、火山と人類活動により大気中に放出される物質が健康や農業、環境に与える影響に関心を示していた<ref name=Hildreth/>。

ジョンストンは[[カリフォルニア州]][[メンローパーク (カリフォルニア州)|メンローパーク]]にある USGS の支部に属していたが、彼が研究していた火山は北西太平洋地域全般に広がっていた。1980年5月16日に最初の[[地震]]がセント・ヘレンズ山で発生したとき、彼は近くの[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]にいた(彼がかつて博士号を獲得した大学である)。噴火の可能性に興味を持ち、ジョンストンは大学の地質学教授であるステファン・マローンに会いに行った。マローンは彼がコロラド州のサン・ファン火山群で研究していた時の指導教官で、ジョンストンは彼の業績を賞賛していた<ref name=LDN/>。マルーンは即座に「彼を仕事に引き入れ」、火山の近くまで関心をもつ記者を案内させる役割を与えた<ref name=Hill33>Hill, p. 33.</ref>。結果として、ジョンストンはセント・ヘレンズ山に赴いた最初の火山学者となり<ref name=Hildreth/>、すぐに USGS の観測チームのリーダーとして、放出される火山性ガスのモニタリングを担当した<ref name=Hill33/>。

== 噴火 ==
{{Main|{{関連仮リンク|セント・ヘレンズ山の1980の噴火活動|label=セント・ヘレンズ山#1980年の噴火|ref=セント・ヘレンズ山#1980年の噴火|en=1980 eruption of Mount St. Helens}}}}

=== 前兆活動 ===
[[File:Dave Johnston going into Mount St. Helens crater to sample lake, 30 April 1980 (USGS) cropped.jpg|thumb|right|火口内にある湖の湖水サンプルを採集するため、火口壁を下るジョンストン(1980年4月30日撮影)。かれが湖水を採集する様子は[[:File:Dave Johnston collecting sample from Mount St. Helens crater lake, 30 April 1980 (USGS) cropped.jpg|この写真]]を参照.|alt=火口底にある湖に向かって急峻な火口壁を注意深く降りている男性。]]
19世紀中頃に噴火して以後、セント・ヘレンズ山の活動は低調だった。[[地震計]]は1972年まで設置されていなかった。この100年以上に渡る平穏な期間は1980年の始めに終わることになる。3月15日、小規模な地震が数回発生し、山の周囲を揺り動かした。その後6日間に渡って、100回以上の地震がセント・ヘレンズ山周辺で起こり、地下におけるマグマの移動を示唆していた。とはいえ、この時点では地震を噴火の前兆と見なすだけの証拠は出揃っていなかった<ref name=EdKLT>{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/May18/MSHThisWeek/32228/32228.html
|author=Klimasauskas, Ed, and Topinka, Lyn
|title=Mount St. Helens Precursory Activity: March 22–28, 1980
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|year=2010
|accessdate=2010-03-24
}}</ref>。
3月20日には、[[マグニチュード]] 4.2 の地震が火山周辺の原野を揺り動かした。その翌日、地震学者は3つの地震計を増設している<ref>
{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/May18/MSHThisWeek/31521/31521.html
|author=Klimasauskas, Ed, and Topinka, Lyn
|title=Mount St. Helens Precursory Activity: March 15–21, 1980
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|year=2010
|accessdate=2010-03-24
}}</ref>。
3月24日になると、ジョンストン等 USGS の火山学者は、地震活動が切迫した噴火の前兆現象だと確信を深めていた。3月25日には、地震活動は劇的に増大し、26日にはマグニチュードが 4.0 より大きい地震が7回発生し、その翌日、火山災害に関する警告が公表された<ref name=EdKLT/>。その3月27日、最初の[[水蒸気爆発]]が発生し、噴煙は2,000メートルに達した<ref name=EdKLT/>。

その後も数週に渡って同様な活動が続き、少量の水蒸気や火山灰等の[[火山砕屑物]]を噴出しながら、火口を広げて隣接したカルデラを形成した。こういった新たな噴火において、噴煙は6,000メートルに達している。3月の末には、噴火回数は1日に100回を越えるようになった<ref name=Bryson220>Bryson, p. 220.</ref>。噴火の様子を見物しようと、観光客が山の近くまでやってくるようになった。レポーターがヘリで飛び回り、登山家も関心を向けていた<ref name=Bryson220/>。
4月17日、山の北側斜面の膨張が確認された。これはセント・ヘレンズ山で[[側火山|側面噴火]]が起こる可能性を示唆していた<ref name=Fisher91>Fisher, p. 91.</ref>。ジョンストンは、タコマ・コミュニティ大学の地質学教授のジャック・ハイドとともにその発生を確信していたが、関係者の中では少数派だった。ハイドはセント・ヘレンズ山に目に見える噴気孔が確認できず、爆発的噴火に至るまで圧力が増大すると示唆している。ハイドは USGS の職員ではなく、また責任を有する立場でもなかったので、彼の見解は一顧だにされなかった<ref>Bryson, p. 221.</ref>。しかしながら、その意見の正しさは後日証明されることになる。セント・ヘレンズ山の地下から上昇してきた[[マグマ]]は、山の北斜面へと逸れてゆき、その表面を膨張させていたのだ<ref name=Fisher91/>。

=== 最後の兆候と大爆発 ===
地震と火山活動の増大を受けて、USGS で働くジョンストンたち火山学者は、切迫する爆発的噴火を観測するために、バンクーバー支部で準備を進めていた。地質学者のドン・スワンソンのチームは、成長するドームやその周辺に反射板を設置し<ref>Parchman, pp. 108–109.</ref>、[[光波測距儀|レーザー測距計]]を使って、反射板との距離を測定し、ドームの形状変化を捉えるべく、コールドウォーターIおよびIIと命名された観測所を設置した。ジョンストンの最後の地となるコールドウォーターIIは、山頂の北10キロメートルに位置していた。USGS の地質学者が驚きをもって見つめるなか、山腹の隆起は1日に1.5から2.4メートルの割合で増大していった<ref name="NatGeo">
{{cite journal
|last=Balog
|first=James
|author-link=:en:James Balog|
|date=December 2004 – January 2005
|title=Back to the Blast
|journal=National Geographic Adventure
|publisher=[[ナショナルジオグラフィック協会]]
|location=Washington, DC, US
|url=http://www.nationalgeographic.com/adventure/0412/excerpt2.html
|accessdate=2010-04-11
}}</ref>。
[[File:David Johnston near crest of the bulge on the north side of Mount St. Helens, 17 May 1980 (USGS) cropped 2.JPG|thumb|left|[[噴気孔]]からガスを採集するためにセント・ヘレンズ山の膨張部を登るジョンストン(中央)。この写真はこの膨張部が爆発する前日に撮影された。全体像は[[:File:David Johnston near crest of the bulge on the north side of Mount St. Helens, 17 May 1980 (USGS).jpg|この写真]]を参照。|alt=周囲の巨大な岩に囲まれて小さく写っている険しい崖を登る男性。]]

火山の北側に設置された[[傾斜計]]は、山の斜面が北西に向けて傾斜していることを示していた。山の南側では、南西に傾斜する傾向が観測されている。地下におけるマグマ圧力の増大を懸念して、科学者は火口で火山性ガスを採取して分析した結果、高濃度の[[二酸化硫黄]]を検出した。この発見後、かれらは定期的な噴気活動の確認を開始し、火山の劇的な変化を捉えようと試みたが、何も観測されなかった。落胆はあったものの、彼らは次に、成長する隆起の調査へ矛先を向け、その崩壊が火山周辺の住民活動の脅威となるか調べ始めた
<ref name=TopinkaM1017>
{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/May18/MSHThisWeek/510517/510517.html
|title=Mount St. Helens Precursory Activity: May 10–17, 1980
|year=2010
|author=Topinka, Lyn
|accessdate=2010-04-01
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
}}</ref>。
調査の結論は、地すべりや崩壊が発生した場合、{{仮リンク|トゥートル川|en|Toutle River}}に大量の[[ラハール]]、もしくは泥流が流れ下る危険を示していた<ref name=Fisher91/>。

この時点で、最初は頻繁に生じていた水蒸気噴火も断続的になっていた。5月10日から17日にかけて、北斜面の隆起の膨張以外の変化は見受けられなかった。5月16日と17日には、水蒸気噴火がまったく起きなかった<ref name=TopinkaM1017/>。

[[File:Sthelens1.jpg|thumb|right|爆発前のかつてのセント・ヘレンズ山。ジョンストンがいたコールドウォーターII観測所から、ハリー・グリッケンが撮影。|alt=深い森林に覆われた谷を挟んだ尾根の上から望む、斜面に大きな割れ目が走り隆起して、大きく形を変えている火山の姿。山頂火口がわずかに見える。]]
[[File:MSH80 st helens from johnston ridge 09-10-80.jpg|thumb|right|噴火から4ヶ月後のセント・ヘレンズ山。、先の写真と概ね同じ場所から、ハリー・グリッケンが撮影。この間に、火山は噴火して、ジョンストンの命とともに以前の景観を破壊した。|alt=前の写真と同じ位置からみた噴火後の山容。山体の多くが失われ、巨大なカルデラ(火口)が生じている。以前森林に覆われていた景観は、火山の爆発で破壊され、未だ荒野が広がっている。]]

活動中のセント・ヘレンズ山は、平穏な時期とは根本的に様相を変え、巨大な隆起が生じ複数の火口が開いていた。爆発がおきた週には、山頂の北側に割れ目が生じ、マグマの動きが隆起部からカルデラへと向いたことを示していた<ref name=TopinkaM1017/>。

翌日(5月18日)の現地時間8時32分、マグニチュード 5.1 の地震が山域を揺るがして地すべりを誘発した。これが大噴火の引き金となった。数秒のうちに、地震の振動が山の山頂から北斜面にかけての、2.7 立法キロメートルに及ぶ岩石をぐらつかせ、大規模な地すべりを発生させた。山体がもたらしていた圧力が消失し、セント・ヘレンズ山のカルデラから急激に水蒸気と様々な火山ガスが放出し始める。数秒後、側面噴火が始まり、斜面から[[音速]]に近い速度で高速な[[火砕流]]が噴出した。その流れは後で合流し[[ラハール]]となった<ref>
{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/May18/description_may18_1980.html
|date=2005-03-28
|title=Description: May 18, 1980 Eruption of Mount St. Helens
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|accessdate=2010-04-03
}}</ref>。
爆風がジョンストンが居たところまで到達するのに、最速で1分はかからなかったと見られる。ジョンストンは無線で USGS の同僚に向けて "Vancouver! Vancouver! This is it!" と通信を送り<ref group="訳注">"Vancouver" は[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|カナダ]]ではなくUSGS支局のあったワシントン州[[バンクーバー (ワシントン州)|}}を指す。</ref> 、次の瞬間、無線はとぎれた<ref name=DBNJ/>。初期の段階では、ジョンストン生存の可能性について検討がなされた。しかしすぐに、ジョンストンの位置から北のコールドウォーター山の近くに居て、同じく噴火の犠牲となったアマチュア無線家のゲリー・マーティンによる、コールドウォーターII観測所が噴煙にのみこまれる目撃情報を報告した記録の存在が明らかになった。爆風がジョンストンの観測所を圧潰する様子を、マーティンは厳粛に「紳士諸君、あー、私の南に居たキャンパーと車が覆われてしまった。私のところにも向かって来ている。ここから逃げるのは無理なようだ…」と告げたのち、彼の無線は途絶えた<ref>
{{cite news
|author=Stepankowsky, Andre
|url=http://www.helenair.com/news/state-and-regional/article_314586af-d2be-5df2-a55d-4cfb5e370b8f.html
|title=Memories, lessons from mountain's fury
|work=The Daily News
|date=2005-05-16
|accessdate=2010-04-04
}}</ref>。

ジョンストンやマーティンといった犠牲者をなぎ倒した爆風と火砕流の範囲、速さ、方向は、後日『セント・ヘレンズ山の1980年5月18日の爆発的噴火の経過と特徴』との題で、1984年に[[全米研究評議会]]地球物理学委員会から公判された書籍に収録される形で報告された<ref name="Moore and Rice">
{{cite book
|last=Moore
|first=James G.
|author2=Rice, Carl J.
|title=Explosive Volcanism: Inception, Evolution, and Hazards
|editor=[[全米研究評議会]]地球物理学委員会
|year=1984
|publisher=[[全米アカデミーズ]]
|series=Studies in Geophysics
|chapter=Chronology and Character of the May 18, 1980 Explosive Eruptions of Mount St. Helens
|url=http://books.google.com/?id=2j4rAAAAYAAJ&pg=PA133
}}</ref>。
この論文で、著者らは噴火の最初の数分間の活動経過と特徴を構成するため、噴火時の写真と衛星画像を検討した。論文には図10.3として、セント・ヘレンズ山の東方53キロメートルにある[[アダムス山 (ワシントン州)|アダムス山]]から撮影された連続写真が収録されている。この6枚の写真には、側面噴火の様子が横側からとらえられ、崩壊と火砕流の範囲と大きさがはっきりと示されており、ジョンストンがいた位置を越えて北へ届いていたことがわかる。同論文の図10.7は、火砕サージの到達範囲を30秒毎に示した平面図で、ジョンストンがいた位置(コールドウォーターII観測所)とマーティンのいた場所が含まれている<ref name="Moore and Rice"/>。

噴火の爆音は数百キロメートルはなれた場所でも聞き取れたが<ref name="Tilling">
{{cite book
|last=Tilling
|first=R.I
|author2=Topinka, L.
|author3=Swanson, D.A.
|title=Eruptions of Mount St. Helens: Past, Present, and Future
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|location=レストン, VA, US
|year=1990
|series=U.S. Geological Survey Special Interest Publication
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/Publications/MSHPPF/MSH_past_present_future.html
|accessdate=2010-04-11
}}</ref>、噴火から生き残った人々の中には、山を逃げ下っている間、地すべりと火砕流の物音は聞こえなかったと証言している者もいる。{{仮リンク|アメリカ合衆国林野局|en|United States Forest Service}} の職員、クラウ・キルパトリックは、「それから音はしなかった。音はなかったんだ。まるでサイレント・ムービーのようで、私達は完全にそのただ中にいたんだ。」と記憶を辿りそう述べている<ref>Sandler, p. 91.</ref>。このように証言が異なる理由は "quiet zone" と呼ばれる、空気の運動と温度に、現地の地形がある程度影響して生じる現象が原因である<ref name="Tilling"/>。

山の状態を表現するのにレポーターが述べた有名な言葉に「導火線に火がついたダイナマイトの詰まった容器のそばに立っているような」という言い回しがあるが<ref name="TSR">
{{cite news
|author=Associated Press
|url=http://news.google.com/newspapers?nid=1314&dat=19800328&id=w_gRAAAAIBAJ&sjid=RO4DAAAAIBAJ&pg=4234,6692615
|title=Speeding rock, ash possible
|work={{enlink|The Spokesman-Review|s=off|p=off}}
|date=1980-03-28
|accessdate=2010-05-01
}}</ref>、ジョンストンは火山が噴火する兆候に気づいた最初の火山学者の一人であり、すぐに火山性ガスのモニタリング・チームのチーフに任命されている。彼は用心深い分析者ではあったが、市民から死者を出すのを防ぐために、科学者地震がリスクを取って活動する必要があると強い信念を抱いており、その信念に従って、現地での危険な有人観測に着手した。彼を始めとする幾人もの火山学者たちは、噴火の前兆活動が続いていた数ヶ月の間火山のそばから人々を遠ざけ、閉鎖の解除を求める圧力に抗いぬいた<ref name=USGS/>。彼らの努力をしても、数十人の犠牲は避けられなかった。しかし、山域が閉鎖されていかなったならば、その死者数は数千に及んでいたであろう。ジョンストンは側面噴火に関する理論に貢献した。かれは、爆発的噴火は上向きではなく、横向きに起こると信じていた。また、ジョンストンは、噴火の前段として隆起が生じると考えていた。このことから、彼は北方向への噴火の可能性が最も高いと気づいていたのだ<ref name=USGS/>。

=== USGS チームと救助活動 ===
[[File:ColdwaterII LANDSAT7color.png|thumb|right|セント・ヘレンズ山の北斜面が崩壊した時、ジョンストンがいたコールドウォーターII観測所は、爆風の通り道にあった。|alt=地名が様々な位置に付与されたセント・ヘレンズ山周辺の衛星画像。記載された主な場所は以下のとおり:セント・ヘレンズ山(円形の黒い火口を有する火山の中央)、火山の北側に「コールドウォーターII観測所」(ジョンストンが宿直していた場所)、他の場所は3つの湖(スピリット湖、ベア・コーブ、コールドウォーター湖)と河川(ノース・フォーク・トゥートル川)。]]
USGS の多くの科学者が、火山の監視に取り組んでいた。しかし、噴火直前の2週間半の間、コールドウォーターII観測所に詰めていたのは大学院生の{{仮リンク|ハリー・グリッケン|en|Harry Glicken}}だった<ref name="Parchman46">Parchman, p. 46.</ref>。噴火前日の夕方、彼はカリフォルニア大学の大学院に戻って自分の研究を進めるために、USGSの地質学者ドン・スワンソンと交代するようスケジュールが組まれていた。しかし、スワンソンは、5月18日に帰国するドイツ人の院生と面会したいと考えていた。そこで、爆発の2日前、スワンソンは廊下で出会ったジョンストンをつかまえて、代わってくれるよう頼み込んだ。ジョンストンはたった1日だけ配置につくことをしぶしぶながら了承した<ref name="Parchman21"/>。噴火が起こる前日の土曜日、ジョンストンは山に向かい、地質学者のキャロライン・ドリージャーと火山を見回った。山は地震で揺れ動いていた。ドリージャーはその夜、火山を見下ろす尾根の一つでキャップする予定だったが、ジョンストンは帰宅するように彼女にいい、一人で火山に留まると告げた<ref name="Driedger">
{{cite news
|url=http://www.theworldlink.com/articles/2004/10/04/news/news07.txt
|title=For scientists, this volcano study is personal
|last=Callimachi
|first=Rukmini
|authorlink=:en:Rukmini Maria Callimachi
|date=2004-10-04
|publisher=The World
|accessdate=2010-04-10
}}</ref>。
コールドウォーターIIにいる間、ジョンストンは、噴火のさらなる兆候を見出そうと火山を観測する予定だった<ref>Harris, p. 205.</ref>。5月17日の夕刻、出発直前の午後7時、噴火の13時間半前、グリッケンは観測所のトレーラーの横に腰掛けてノートを手に笑みを浮かべたジョンストンの、後日有名となる写真を撮影した<ref name=TopinkaM1017/>。

次の朝、5月18日午前8時32分<ref name="USDA">
{{cite web
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|url=http://www.fs.fed.us/gpnf/mshnvm/
|title=Mount St. Helens National Volcanic Monument
|date=2006-11-26
|accessdate=2004-10-20
}}</ref>、火山は噴火した。即座に救助隊員が山に向かって出動した。山へ科学者を飛行機で送り届けていた USGS 所属パイロットのロン・スティックニーは、最初の救助活動の際、案内のため同行した。彼はヘリコプターを操縦して、傷ついた木々の残骸や谷筋を飛び越え、コールドウォーターII観測所のあった尾根の上空に辿り着いた。しかし、そこで彼の目に入ったのはむき出しの岩肌と根こそぎにされた木々だけだった。ジョンストンがいたトレーラーは影も形もなく、スティックニーは「ひどく取り乱して」パニックに陥った<ref>
{{cite news
|url=http://news.google.co.uk/newspapers?id=1IMRAAAAIBAJ&sjid=2OEDAAAAIBAJ&pg=5164,407410&dq
|title=U.S Geological Survey's pilot sees hot action over St. Helens
|author=McKean, Kevin
|work={{enlink|Eugene Register-Guard|s=off|p=off}}
|date=1980-06-02
}}</ref>。

罪悪感に打ちのめされ、気も狂わんばかりになったハリー・グリッケンは、3人のヘリコプターパイロットに、救助活動のために被災地上空を飛んでくれるように頼み込んだ。しかし、噴火はあたりの景色を完全に別のものに変えてしまい、彼らには、爆風に吹き飛ばされ埋もれてしまったコールドウォーターII観測所が存在したいかなる痕跡も見出すことはできなかった。彼とヘリのクルーは逃げようとした人を載せた車を発見したが、着陸して救助しようとしたものの、犠牲者の遺体の手から皮膚が剥がれおちる有り様だった<ref name="Parchman46"/>。噴火の直後に、ドン・スワンソンは瓦礫の中にジョンストンのバックパックとパーカが埋まっていたのを見つけた。しかし彼は、スカベンジャーども(連中はすでに山に入り込み噴火の犠牲者の遺品を持ち去って売りに出していた)が彼の友人の遺体や所持品を見つけて持ち去るのを怖れ、ごく数人を除き自分の発見を秘密にしていた<ref name="Parchman142"/>。1993年、ジョンストンリッジ観測所に至るようワシントン州道504号線(別名「スピリット湖記念ハイウェイ」)を14キロメートル延長する工事中、建設作業員がジョンストンのトレーラーの残骸を発見した<ref name="moscow-pullman">
{{cite news
|url=http://news.google.com/newspapers?id=zgwkAAAAIBAJ&sjid=1tAFAAAAIBAJ&dq=david%20johnston%20trailer%20construction%20workers&pg=3835%2C2980629
|title=Workers may have found body of man buried by volcanic ash
|last=Associated Press
|date=1993-06-29
|publisher=Moscow-Pullman Daily News
|pages=1A
|accessdate=25 April 2010
}}</ref>。
しかし、彼の遺体は発見できていない<ref>
{{cite news
|title=Across the USA: News From Every State
|work=[[USAトゥデイ]]
|date=1993-06-30
}}</ref>。

=== 結果と反響 ===

人々はその噴火の規模にショックを受けた。山頂が400メートルも低くなり、約600平方キロメートルもの森林が破壊され、火山灰は他の州やカナダにまで到達した<ref name=1980eruption>
{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/Publications/MSHPPF/MSH_past_present_future.html
|title=Report: Eruptions of Mount St. Helens: Past, Present, and Future
|author=Topinka, Lyn
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|date=2006-12-27
|accessdate=2010-04-03
}}</ref>。
ジョンストンを死に至らしめた側面噴火のスピードは、時速354キロメートルから始まり時速1,078キロメートルにまで達している<ref name="Tilling"/>。この事実に、USGS の科学者でさえ畏怖を覚えた。[[火山爆発指数]]は5と判定され、壊滅的な噴火であったことを示している。ジョンストンや山荘のオーナーだった[[ハリー・R・トルーマン|ハリー・ランドール・トルーマン]]、[[ナショナル・ジオグラフィック協会|ナショナル・ジオグラフィック]]の写真家だった{{仮リンク|リード・ブラックバーン|en|Reid Blackburn}}を含む57名の人々が死亡もしくは行方不明となった<ref name=1980eruption/>。

この災害は、合衆国で発生した火山災害で最も死者数が多く破壊的な噴火だった。多くの死者・行方不明者に加え、降灰と火砕流により200軒もの家屋が破壊あるいは埋没し、たくさんの人が住む家を失った。人々の被害に加え、何千もの動物が命を失った。USGS による公式な推定によると、およそ7000もの狩猟動物が死に、40,000匹のサケと1200万匹に及ぶその稚魚が失われた<ref name=1980eruption/>。

噴火から2年後、合衆国政府は{{仮リンク|セント・ヘレンズ国立火山公園|en|Mount St. Helens National Volcanic Monument}}を設立し、450平方キロメートルもの土地を確保した。この保護地区には、ジョンストン・リッジ観測所を始めとする数カ所の観測施設やビジターセンターがあり、科学的調査や観光、教育目的に維持されている<ref>
{{cite web
|url=http://www.fs.fed.us/gpnf/mshnvm/
|title=Mount St. Helens National Volcanic Monument
|publisher=アメリカ合衆国林野局
|date=2010-03-31
|accessdate=2010-04-03
}}</ref>

== 遺産 ==

===科学分野===
[[File:Mt st helens Johnston ridge 25 years later.jpg|thumb|right|ジョンストン・リッジ観測所からのジョンストン・リッジの光景(2005年6月撮影)。噴火から25年経ち、倒れた木々の間に新たな草花が繁茂している。|alt=リッジの尾根筋に続く斜面に転がる枯れて久しい樹幹の狭間に繁茂する花々や小さな灌木。]]
友人たちからはデイヴと呼ばれていたジョンストンは、同僚の科学者と政府の双方から追悼を受けた。勤勉で綿密な性格で知られていた彼は、USGS からの献辞で「典型的な科学者」と称され、周囲を巻き込む好奇心と情熱を抱き、他人に感化されること無く純粋だった」とも述べられていた<ref name=USGS/>。彼は即座に「皮肉を打ち消し」、「伸長な評価と解釈」が仕事を進める上でベストな方法だと信じていた<ref name=USGS/>。ジョンストンの追悼記事には、死の時から、彼が「世界で代表的な若い火山学者の一員」となり、彼の「情熱と温情」が「科学的な長所と少なくとも同程度に失われてしまった」と述べた<ref>
{{cite journal
|title=Death of David Johnston at St. Helens
|url=http://www.volcano.si.edu/Reports/bulletin/contents.cfm?issue=special#sean_0505
|publisher=Bulletin of the Global Volcanism Network
|date=May 1980
|volume=SEAN 05:05
|journal=Scientific Event Alert Network
}}</ref>。
同僚のアンドリュー・オールデンは、ジョンストンが「多くの友人と明るい未来をもっていた」と断言し、大きなポテンシャルを秘めていたと述べた<ref name="Alden"/>。 噴火後、ハリー・グリッケンを始めとする USGS の地質学者は、自分たちの仕事をジョンストンに献呈している<ref name="Parchman142">Parchman, p. 142.</ref>。

ジョンストンはコールドウォーターII観測所が安全だと考えていたので、彼が死んだという事実は、友人たちと同僚に衝撃を与えた。しかし、彼のほとんどの同僚と家族は、ジョンストンは「やりたかったことを行いながら」死んだのだと断言している<ref name="missing"/>。彼の母親は噴火直後のインタビューで次のように答えている「世の中では、自分が本当にしたいことがそうそうできるわけではないけれど、私達の息子はやり遂げたのよ……彼は『裕福にはならないだろうけれどやりたいことをやっている。噴火が起きた時は近くに居たい』と望んでいた。母の日に電話をくれた時、かれはこんな光景を目にする事ができる地質学者なんてほとんどいないと教えてくれた<ref name="missing"/>」 ステファン・マローン博士は、ジョンストンが自分の愛することを行いながら亡くなったことに同意し、彼は「仕事がとても上手だった」と述べた<ref name=Hill33/>。

噴火に至るまでの日々における火山研究で果たした彼の役割に対し、1981年に「ワシントン州セント・ヘレンズ山の1980年噴火」と題された USGS のレポートの一部として公表された噴火の過程に関する論文において謝意が示されている。
{{quotation|セント・ヘレンズ山の1980年の噴火活動を系統だって復元するために、データ収集に寄与した数多のものの中でデイヴィッド・ジョンストンよりも本質的に不可欠だった人物は居ない。この報告書はその記憶とともに、彼に捧げられる。デイヴはあの大噴火に至る活動全体を通じてその場に立ち会い、あの噴火で命を失ったが、得られたデータをはるかに上回るものを我々に残してくれた。彼の洞察と徹底的に科学的な姿勢は、取り組み全体にとって重要だった。その全ては未だに規範として我々に役立ってくれている。|R. L. クリスチャンセン および D. W. ピーターセン、1980年の噴火活動の過程<ref>
{{cite book
|last=Christiansen
|first=R. L.
|author2=Peterson, D. W
|title=The 1980 eruptions of Mount St. Helens, Washington
|editor=Lipman, Peter W., and Mullineaux, Donal R
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|series=USGS Professional Paper
|volume=1250
|chapter=Chronology of the 1980 Eruptive Activity
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/Publications/PP1250/ChristiansenPeterson/chronology_1980_activity.html
}}</ref>}}

[[File:Johston Ridge Observatory in December 2005 (USGS).jpg|thumb|left|ジョンストン・リッジ観測所(2005年12月撮影)|alt=雪景色の中に建つガラス窓のある外壁が丸い建物。]]
ジョンストンの死後、彼が取り組んでいた[[噴火予知]]の分野は著しい進歩を見せた。そして今や火山学者は、数日から数ヶ月に渡って続く幾多の前兆現象を捉えて分析することで予知が可能になっている<ref name="dzurisin">
{{cite journal
|author=Dzurisin, Daniel
|title=A comprehensive approach to monitoring volcano deformation as a window on the eruption cycle
|url=http://www.agu.org/pubs/crossref/2003/2001RG000107.shtml
|publisher=[[アメリカ地球物理学連合]]
|date=February 2003
|volume=41
|issue=1
|page=1001
|doi=10.1029/2001RG000107
|journal=Reviews of Geophysics
|bibcode = 2003RvGeo..41.1001D
}}</ref>。
地質学者も特定のマグマの活動を示す特有のパターンを地震波から識別可能になった<ref>
{{cite book
|last=McNutt
|first=S.R
|title=International Handbook of Earthquake Engineering and Seismology
|editor=Lee, W.H.K, Kanamori, H., Jennings, P.C., and Kisslinger, C
|volume=Part A
|chapter=25. Volcano Seismology and Monitoring Eruptions
|isbn=978-0-12-440658-2
}}</ref>。
特に、火山学者は地殻をマグマが上昇していることを示す深発の長周期地震を観測している。また、マグマが供給される割合を示す指標として、[[二酸化炭素]]の放出量も計測している。ジョンストン等 USGS の科学者がコールドウォーターI および II 観測所で行っていた、マグマの貫入による地表面の変形量の観測についても、そのスケールと精度が向上している。火山周辺に設置された地形変化の観測ネットワークは、今や{{日本語版にない記事リンク|干渉合成開口レーダ|en|Interferometric synthetic aperture radar|label=InSAR}}や [[GPS]]測位ネットワーク、[[重力ポテンシャル]]や[[重力加速度]]の変化を計測する微小重力計、[[歪み計]]、[[傾斜計]]から構成されている。未だ成されなければならない仕事は残されているが、この多様な観測手法の組み合わせにより、科学者が火山噴火を予測する能力は格段に進歩している<ref name="dzurisin"/>。

その後起きてしまった[[雲仙岳|雲仙普賢岳]]や[[ガレラス山]]噴火の際の火山学者の死にもかかわらず、ジョンストンが用いたのと同様の予測手法により、科学者等は当局に[[ピナツボ山]]の周辺住人の避難の必要性を認めさせ、数千もの犠牲を防ぐことを可能とした<ref name="Alden">
{{cite web
|url=http://geology.about.com/od/volcanology/a/aa051897MSH.htm
|title=Mount St. Helens Eruption of 1980: The man who gave everything
|author=Alden, Andrew
|year=2010
|accessdate=2010-03-24
}}</ref>。
ジョンストンが取り組んだ仕事に加えて、彼そのものが火山噴火史の一部となっている。ハリー・グリッケンとともに、彼は火山噴火によって死亡した2名の合衆国の火山学者のひとりである<ref name="lopes">Lopes, p. 43.</ref>。前述のとおり、グリッケンはセント・ヘレンズ山噴火の13時間前に、コールドウォーターII観測所の当直をジョンストンに代わってもらった人物であり、彼を見習うべき先達と考えていた<ref name="Parchman46"/>。グリッケンは11年後の1991年、日本の雲仙普賢岳で発生した火砕流に巻き込まれて亡くなった<ref name="lopes"/><ref>
{{cite news
|url=http://news.google.com/newspapers?nid=110&dat=19910607&id=ms8LAAAAIBAJ&sjid=o1UDAAAAIBAJ&pg=6714,5350561
|title=Geologist Killed in Japan Eruption: Escaped Death when Mt. St. Helens Blew
|last=Siegel
|first=Lee
|date=1991-06-07
|publisher=Ludington Daily News
|accessdate=2010-04-10
}}</ref>。

===追悼===
[[File:Sign for Cascades Volcano Observatory on Open day 2005 (USGS) cropped.JPG|thumb|right|300px|完全な正式名称として彼の名が冠されているデイヴィッド・A・ジョンストン・カスケード火山観測所の門標|alt=キャプションを参照。]]

初期の追悼行事として、[[イスラエル]]の[[テルアビブ]]で2本の木が植樹された<ref name="eugene"/>。そして、ジョンストンの故郷のコミュニティー・センターが「ジョンストン・センター」と改名している。こういった行いは、1981年5月に噴火から1年を伝える新聞記事で紹介された<ref name="eugene"/><ref>
{{cite web
|url=http://www.olparks.com/parks%20&%20facilities/facilty_johnston.htm
|title=David Johnston Center, 9400 S. Oak Park Ave
|publisher=Oak Lawn Park District
|accessdate=2010-04-12
}}</ref>

噴火から2年を迎え、(1980年の噴火を受けて設立された)USGSのバンクーバー支局が、彼を記念して{{仮リンク|カスケード火山観測所|label=デイヴィッド・A・ジョンストン・カスケード火山観測所|en|Cascades Volcano Observatory}}{{enlink|Cascades Volcano Observatory|CVO|s=off}}と改名された<ref>
{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/CVO_Info/framework.html
|author=Topinka, Lyn
|date=2009-12-08
|title=Establishing the David A. Johnston Cascades Volcano Observatory
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|accessdate=2010-04-03
}}</ref>。
この火山観測所は、セント・ヘレンズ山の監視を最重要任務としており、1980年から1985年にかけてあらゆる火山について噴火予知の支援を行っていた<ref>
{{cite journal
|title=Volcano hazards program in the United States
|author=Tilling, Robert I.
|author2=Bailey, Roy A.
|publisher=Elsevier Ltd.
|journal=Journal of Geodynamics
|volume=3
|issue=3–4
|pages=425–446
|doi=10.1016/0264-3707(85)90045-6
|date=October 1985
|bibcode = 1985JGeo....3..425T
}}</ref>。
2005年の一般公開日には、CVO のロビーにジョンストンを追悼する展示が行われた<ref>
{{cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/OpenHouse2005/Images/index.html
|author=Topinka, Lyn
|title=CVO Open House, May 21, 2005
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|date=2005-05-21
|accessdate=2010-04-11
}}</ref>。

ジョンストンが学んだワシントン大学(彼はここで修士と博士号研究を行っている)は、地球科学と宇宙科学の分野で研究する大学院生を対象とした奨学金のための記念基金を設立している。彼の死から1年で、その資金額は30,000ドルを超過した。"David A. Johnston Memorial Fellowship for Research Excellence" と名付けられたこの奨学金は、立ち上げられてから何年にもわたって、数多くの奨学生を輩出している<ref name="eugene"/><ref>
{{cite web
|url=http://www.ess.washington.edu/ess/education/studentservices/awards.html
|title=Student Awards|publisher=[[ワシントン大学 (ワシントン州)|]]
|year=2010
|accessdate=2010-04-11
}}</ref>。

噴火後、コールドウォーターII観測所があった一帯は所有権を区画分けされ、最終的にジョンストンの名を冠した観測所が建設されて、1,997年に開所した<ref>
{{cite news
|url=http://news.google.com/newspapers?id=s-syAAAAIBAJ&sjid=2QcGAAAAIBAJ&pg=4938,3606463
|title=Center allows views of mountain's crater
|author=Tim Klass (Associated Press)
|work={{enlink|The Free Lance-Star|s=off|p=off}}
|date=1997-05-17
|accessdate=2010-04-12
}}</ref>。
セント・ヘレンズ山の北麓からちょうど8キロメートル離れたところにある、ジョンストン・リッジ観測所 {{enlink|Mount St. Helens National Volcanic Monument#Johnston Ridge Observatory|JRO|s=off}} を訪れた人々は大きく開いた火口や新たな火山活動、そして広大な玄武岩の溶岩台地等を初めとする1980年の噴火の痕跡を目にすることができる。セント・ヘレンズ国立火山公園の一部として、JRO の建設には、配備された監視機器も合わせて1050万ドルの建設費を要している。JRO には館内ツアーやシアター、展示ホールが備えられ、年間数千人の観光客を出迎えている<ref>
{{Cite web
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/NatMonument/PointsInterest/johnston_ridge.html
|title=Mount St. Helens and Vicinity Points of Interest: Johnston Ridge and Johnston Ridge Observatory
|author=Topinka, Lyn
|publisher=[[アメリカ地質調査所]]
|date=2009-07-22
|accessdate=2010-04-02
}}</ref>。

ジョンストンの名が刻まれた、噴火による犠牲者を追悼する記念碑が複数設置されている。巨大な曲面の花崗岩で造られたそのひとつがジョンストン・リッチ観測所の屋外展望エリアにあり、2000年5月には、ホフスタッド・ブラフ・ビジター・センターに記念樹林の中へ配置する形で新たな碑文が設けられた<ref>
{{cite news
|url=http://news.google.com/newspapers?nid=1310&dat=20000520&id=iHcVAAAAIBAJ&sjid=tesDAAAAIBAJ&pg=2916,5446206
|title=Plaque dedication rekindles memories
|author=Associated Press
|work={{enlink|Eugene Register-Guard|s=off|p=off}}
|date=2000-05-20
|accessdate=2015-05-22
}}</ref>。

===映像化===
[[File:Mount St. Helens eruption memorial, Johnston Ridge.jpg|thumb|right|1980年5月18日の犠牲者の名が刻まれた花崗岩製の追悼碑(噴火から27年の記念日に撮影)。ジョンストンの名は、薔薇の下、やや左にある。|alt=キャプションを参照。]]
噴火時のジョンストンについて語るドキュメンタリーや映画、ドラマが何本か制作されている。“{{enlink|The Eruption of Mount St. Helens!|p=off|s=off}}”(1980) のような複数のドキュメンタリーが同じ年のうちに制作されているが、噴火をうけて1年をかけて撮影し、ちょうど1年の記念日にあわせて公開された映画もあった。セント・ヘレンズ山とジョンストンの物語は、噴火から数十年過ぎた今日でも、新たなドキュメンタリーで取り上げられたり、再放送が行われたりしている。

1981年公開の映画“{{仮リンク|セント・ヘレンズ (映画)|label=セント・ヘレンズ|en|St. Helens (film)}}”では、俳優の{{仮リンク|デイヴィッド・ハフマン|en|David Huffman}}が、ジョンストンの役(デイヴィッド・ジャクソンと改名されていたが)で主演した。ハフマンの演ずる役は情事にふけるようになり、その後山頂にいる間に噴火で死亡する議論を呼びおこす内容だった。ジョンストンの両親はこの作品を批判し、「この映画の中に、デイヴィッドの存在など1オンスたりとも有りはしない」、そして「慎重ではなく向こう見ずな科学者」として画かれていると抗議の声をあげた<ref name=DBNJ/>。息子の名誉が傷つけられたと感じた事実を持って、両親が訴訟に出る可能性もあった。ジョンストンの母親は、映画が噴火の際に起きた出来事を多くの面で改鼠しており、自分の息子を「規律の面で問題のあるならず者」として画かれていると申し立てた<ref name=DBNJ>
{{cite news
|url=http://news.google.com/newspapers?id=xY8zAAAAIBAJ&sjid=C-EFAAAAIBAJ&pg=2878,164920
|title=Family Unhappy With Film Portrayal Of Son
|work={{enlink|The Daytona Beach News-Journal|s=off|p=off}}
|publisher=The News-Journal Corporation
|date=1980-12-01
|accessdate=2010-04-02
}}</ref>。
噴火から1年の記念日に合わせた映画の公開に先立ち、ジョンストンを知る36人の科学者が抗議文に署名した。抗議文には「ジョンストンの人生は功績に満ち溢れ、虚構で飾り立てる必要はない」、そして「デイブは優秀で良心的、そして才気あふれた科学者だった」と記載されている<ref name="Parchman206">Parchman, p. 206.</ref>。USGSの地質学者で、ジョンストンの友人であり、他の約束があるために噴火の日のコールドウォーターII観測所の当直を代わってもらったドン・スワンソン<ref name="Parchman21">Parchman, pp. 21–22.</ref>は、映画がジョンソンの本当の人生と功績を基に制作されていたならば、友の人柄がヒットをもたらしていただろうと語った<ref name="Parchman206"/>。

記録映像やドラマ仕立てにしたジョンストンの物語を基に、噴火の経過を描いた複数のドキュメンタリーやドラマが制作されている。{{仮リンク|KOMO-TV|en|KOMO-TV}} 制作の“Up From the Ashes”(1990) や、[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]が2005年に制作した“[[衝撃の瞬間]]”第2シーズンのエピソード 4<ref>
{{cite web
|url=http://channel.nationalgeographic.com/series/seconds-from-disaster/2384/Overview
|title=Seconds From Disaster&nbsp;– Mount St. Helens Eruption
|work=[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]
|publisher=[[ナショナルジオグラフィック協会]]
|accessdate=2010-04-28
}}</ref>
<ref>
{{cite web
|url=http://natgeotv.com.au/tv/seconds-from-disaster/episodes.aspx?series=2
|title=Seconds From Disaster Series 2 Episodes
|work=[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]
|publisher=[[ナショナルジオグラフィック協会]]
|accessdate=2015-05-23
}}</ref>
<ref group="訳注">日本語版では放送順が異なる。</ref>、[[BBC]]と[[ディスカバリーチャンネル]]が2006年に放映した ''{{enlink|Surviving Disaster|p=off|s=off}}''<ref>
{{cite web
|url=http://www.bbcactive.com/BroadcastLearning/MediaSupportFiles/Surviving%20Disaster%20information.pdf
|title=Surviving Disaster, press release
|work=BBC Active
|publisher=[[ピアソン (企業)|ピアソン PLC]]
|accessdate=2010-04-03}}
{{Dead link|date=November 2010|bot=H3llBot}}
</ref><ref group="訳注">日本語版の有無や題名は不明。</ref>などである。

== 主な著作 ==
*{{cite book
|title=Guides to Some Volcanic Terranes in Washington, Idaho, Oregon, and Northern California
|editor=Johnston, David A., and Donnelly-Nolan, Julie
|publisher=アメリカ地質調査所
|year=1981
|series=U.S. Geological Survey Circular
|volume=838
|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/WesternUSA/Circular838/framework.html
|accessdate=2010-04-10
}}
*{{cite journal
|last=Johnston
|first=David A.
|title=Volcanic gas studies at Alaskan volcanoes
|publisher=アメリカ地質調査所
|journal=U. S. Geological Survey Circular
|volume=C 0804-B
|type=Report
|pages=B83–B84
|location=Reston, Virginia, USA
|year=1979
|issn=0364-6017
}}
*{{cite journal
|last=Johnston
|first=David A.
|title=Revision of the recent eruption history of Augustine Volcano; elimination of the "1902 eruption"
|publisher=アメリカ地質調査所
|journal=U. S. Geological Survey Circular
|volume=C 0804-B
|type=Report
|pages=B80–B84
|location=Reston, Virginia, USA
|year=1979
|issn=0364-6017
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*{{cite journal
|last=Johnston
|first=David A.
|title=Onset of volcanism at Augustine Volcano, lower Cook Inlet
|publisher=アメリカ地質調査所
|journal=U. S. Geological Survey Circular
|volume=C 0804-B
|type=Report
|pages=B78–B80
|location=Reston, Virginia, USA
|year=1979
|issn=0364-6017
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*{{cite book
|last=Johnston
|first=David A.
|title=Volatiles, magma mixing, and the mechanism of eruption of Augustine Volcano, Alaska
|publisher=ワシントン大学
|location=Seattle, Washington, USA
|year=1978
|series=Ph.D. Thesis
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*{{cite book
|last=Johnston
|first=David A.
|title=Volcanistic facies and implications for the eruptive history of the Cimarron Volcano, San Juan Mountains, SW Colorado
|publisher=ワシントン大学
|location=Seattle, Washington, USA
|year=1978
|series=Master's Thesis
}}

== 参照 ==
=== 出典 ===
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=== 訳注 ===
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=== 参考文献 ===

* {{cite book
|author=ビル・ブライソン
|author-link=ビル・ブライソン
|title={{仮リンク|人類が知っていることすべての短い歴史|en|A Short History of Nearly Everything}}
|publisher=[[日本放送出版協会]]
|year=2006
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* {{cite book
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|title=Out of the Crater: Chronicles of a Volcanologist
|url=http://books.google.com/?id=CLaOwiHsusYC
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|year=2000
|isbn=0-691-00226-6
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|author-{{enlink|link=Stephen L. Harris|s=off|p=off}}
|title=Fire Mountains of the West: The Cascade and Mono Lake Volcanoes
|publisher=Mountain Press Publishing Company
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* {{cite book
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|title=Volcanoes of the Cascades: Their Rise and Their Risks
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* {{cite book
|author={{仮リンク|ロザリー・ロープス|en|Rosaly Lopes-Gautier}}
|title=The volcano adventure guide
|url=http://books.google.com/?id=eRqrEwvIvKoC
|publisher=[[ケンブリッジ大学出版局]]
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|author=Parchman, Frank
|title=Echoes of Fury: The 1980 Eruption of Mount St. Helens and the Lives it Changed Forever
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|publisher=Kent Sturgis
|year=2005
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|author=Sandler, Martin W.
|title=America's Great Disasters
|url=http://books.google.com/?id=2qfsQU4E3aEC
|publisher=[[ハーパーコリンズ]]
|year=2003
|isbn=0-06-029107-9
}}

== 外部リンク ==
{{Portal|人物伝}}
{{Commonscat|David A. Johnston|デイヴィッド・ジョンストン}}

*[http://vulcan.wr.usgs.gov/CVO_Info/david_johnston.html The Legacy of David A. Johnston] - USGS カスケード火山観測所による死亡者略歴
*[http://sthelenshero.homestead.com/DavidJohnston.html David Johnston] - ジョンストンが火山に到着した時の有名な写真を掲載した記念ページ (St. Helens Hero website)
*[http://www.olywa.net/radu/valerie/mshvictims.html The Victims of the Eruption]&nbsp;– ホフスタッド・ブラフに設けられている追悼碑の写真を載せた記念ページ (The many faces of Mount St. Helens website)
*[http://www.tdn.com/app/helens/victims.php Mount St. Helens - Victims] – ジョンストン等噴火による被害者の位置を示した地図 ([[デイリーニューズ (ニューヨーク)|デイリーニューズ]], TDN.com)

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| NAME = Johnston, David A.
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2015年5月23日 (土) 05:09時点における版

デイヴィッド・ジョンストン
車とトレーラーのそばに据えた折りたたみ椅子に腰掛け、手にしたノートに書きつけるあいまに、カメラを向いて微笑みを浮かべた男性。
デイヴィッド・ジョンストン、セント・ヘレンズ山の1980年に起きた噴火により死亡する13時間前の姿。
生誕 デイヴィッド・アレクサンダー・ジョンストン
1949年12月18日
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
死没 1980年5月18日 (享年 30)
アメリカ合衆国ワシントン州セント・ヘレンズ山
死因 セント・ヘレンズ山の噴火活動により死亡
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デイヴィッド・ジョンストン英語: David Alexander Johnston、1949年12月18日-1980年5月18日)はアメリカ人のアメリカ地質調査所  (USGS)  に所属していた火山学者である。アメリカ合衆国ワシントン州にあるセント・ヘレンズ山が1980年に噴火活動を起こした際、観測チームの主任科学者として、山頂から6キロメートル離れた位置に設けられていた観測所で当番についていた時に、5月18日の朝に起きた山体崩壊を伴う噴火に巻き込まれて死亡した。最初に噴火発生を報告した人物であり、無線に "Vancouver! Vancouver! This is it!" (バンクーバー! バンクーバー! ついに来た!」)と叫んだ後、横薙ぎの爆風と火砕流に巻き込まれて亡くなっている。ジョンストンの遺体は見つからなかったが、彼が使用していたUSGSのトレーラーは、1993年に州道管理作業員によって発見されている。

ジョンストンの経歴を見ると、アラスカ州オーガスティン火山英語版からコロラド州サン・ファン火山地域英語版ミシガン州の長期間活動のない火山というように、アメリカ国内を渡り歩いて研究を行っている。彼は、火山性ガスの分析と噴火との関連に関する研究で、綿密で才能のある学者として認められていた。彼の示す熱情と前向きな姿勢は、多くの同僚から好意と敬意を受けており、彼の死後、幾人もの科学者が口頭もしくは献辞や書簡で彼の人柄を称えている。ジョンストンは自然災害から人々を守る一助となるために、科学者はリスクを取ってでも必要なことはやり遂げる必要があるとの信念を持っていた。彼と同僚のUSGSに所属する科学者の活動は、1980年の噴火に際して当局にセント・ヘレンズ山周辺への立ち入り規制の必要性を確信させた。解除を求める強い圧力のなか規制を維持し続けた結果、何千もの命が救われている。彼の物語は、一般の人々がもつ火山噴火と社会に対する脅威についてのイメージの中に組み込まれ、火山学の歴史の一部となった。2005年現在[訳注 1]、ジョンストンは火山噴火により死亡した2人のアメリカ人火山学者の一人である(もう一人はハリー・グリッケン)。

その死後、ジョンストンを記念していくつかの動きがあった。ワシントン大学は大学院生を対象とする彼の名を冠した記念基金を設立している。また、彼の名を冠する火山観測所が、ワシントン州バンクーバーと彼が亡くなった尾根上の2ヶ所に設立された。彼の人生と死は、様々なドキュメンタリーや映画、ドラマ、書籍の題材となった。噴火の犠牲となった多くの人々とともに、ジョンストンの名前も彼の献身を悼み碑文に刻まれている。

経歴

モノクロ写真、大きな観測機器に取り付けられた望遠鏡のマウスピースを片目で覗きこんでいる男性。
セント・ヘレンズ山から放出している二酸化硫黄ガスを計測するための紫外線を解析する相関分光計を操作するジョンストン(1980年4月4日撮影)。

ジョンストンは1949年12月18日、シカゴ大学医学センター(シカゴ大学医学センター)でトーマス及びアリス・ジョンストン夫妻の子供として誕生した [1] [2]。 夫妻はイリノイ州ホームタウン英語版に居を構えていたが、ジョンストンが生まれてすぐに、同じ州内のオーク・ローン英語版に転居した[1]。ジョンストンには一人の姉妹[訳注 2]とともに育ち、父親は地元企業でエンジニアとして働き、母親は新聞の編集者をしていた。ジョンストンは時折、母親が関わる新聞用に写真を提供し、自分の学校新聞に寄稿している。彼に妻子はいない[1]

高校を卒業後、ジョンストンはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に入学し、当初はジャーナリズムを専攻する予定だったが、大きな講義クラスの程度の低さに失望し、受講した地質学の基礎クラスで興味を唆られて専攻を変更することにした[1]。彼が最初に取り組んだ地質学の研究プロジェクトは、ミシガン州アッパー半島を構成する先カンブリア時代の岩石を対象としたものだった。そこで彼は、変成した玄武岩斑糲岩岩床閃緑岩と斑糲岩の貫入の形態をした火山の基盤など、当時の火山の痕跡を調査した。この経験は、ジョンストンに火山への情熱の火をつけた。講義を熱心に受講し[1]、1971年に首席で卒業した[3] [4]

ジョンストンは卒業した夏に、コロラド州サン・ファン火山地域英語版に向かい、火山学者のピート・リップマンの2つの消滅したカルデラに関する研究を手伝った[1][3]。この経験から、彼はサン・ファン西部にある漸新世シマロン英語版安山岩質火山群に注目し、シアトルの[[ワシントン大学 (ワシントン州)|]における卒業研究の第一歩となる着想に結びついた[3][5]。 ジョンストンが行った活火山ではない火山の噴火史復元は、その後の活火山研究の基礎となった[3]。活火山に最初に対峙したのは、アラスカ州オーガスティン火山英語版における地球物理学的調査の際で、1975年のことだった。1976年にオーガスティン山が噴火するやいなや現地に舞い戻り、ひとまず修士論文としてまとめたシマロン火山の研究を打ち切り、オーガスティン山に集中して博士号研究を行った。その結果、ジョンストンは (1) 火砕流の堆積作用は軽石質が弱くなるにつれ、時間とともに変わっていくこと、(2) マグマに揮発性の高い水、塩素、硫黄が大量に含まれていたこと、(3) 地下で、(ケイ素を含む)珪長質マグマに粘性の低い苦鉄質(玄武岩質)マグマが混合することで噴火を引き起こしたこと、を示し、1978年に Ph.D を獲得した。また、彼にとってオーガスティン山は初めて火山の危険性を身にもって経験した場所となった。強風により2機の脱出用ヘリが離陸できず、噴火の最中で立ち往生する寸前まで追い込まれた。3機目のヘリがなんとか離陸でき、彼らを助け出すことになる。[6]

1978年と1979年の夏に、ジョンストンはカトマイ山の1912年の噴火で1万本の煙の谷に堆積した火山灰流層の研究を指揮した[3]。 火山ガスの状態は、火山噴火の進展にきわめて重要である。この調査活動において、かれは過去の噴火において放出されたガスに関するデータの取得を可能にする、溶岩内に埋め込まれた斑晶の中に含まれているガラス質と気体の混合物を分析するのに必要な、多くの技術をマスターした。カトマイさんと1万本の煙の谷にある他の火山の研究活動は、その後の彼の経歴を切り開くことになる。彼の「快活さ、度胸、忍耐、そしてマゲイク山英語版の火口にあるジェット状の山頂噴気孔の近くで下した決断」は彼の同僚に強い印象を与えた[3]

1978年も押し詰まった頃、ジョンストンはアメリカ地質調査所に入所した。そこで彼はまず、カスケード山脈アリューシャン列島の火山放出レベルの監視任務に就いた。その間に彼は、火山性ガスの組成変化から噴火の可能性をある程度予測する理論の改善を支援している[7]。 同僚の火山学者、ウェス・ヘルドリッチはジョンストンについて、次のように語っている「自分が思うに、デイヴが大事に抱えこんでいた大望は、噴気孔から放出されるガスを系統的に分析することで、噴火の前兆を示す特徴的な変化の検知を可能にすることだった…デイヴは爆発的噴火に先立つマグマ内の揮発成分の振る舞いを一般的なモデルとして公式化し、噴火の危険性を推論する論理的根拠を確立することだった[3]」 この頃、ジョンストンは夏になるとオーガスティン山に向かい、また、アゾレス諸島ポルトガルの潜在的地熱エネルギーを評価している。また亡くなる寸前には、火山と人類活動により大気中に放出される物質が健康や農業、環境に与える影響に関心を示していた[3]

ジョンストンはカリフォルニア州メンローパークにある USGS の支部に属していたが、彼が研究していた火山は北西太平洋地域全般に広がっていた。1980年5月16日に最初の地震がセント・ヘレンズ山で発生したとき、彼は近くのワシントン大学にいた(彼がかつて博士号を獲得した大学である)。噴火の可能性に興味を持ち、ジョンストンは大学の地質学教授であるステファン・マローンに会いに行った。マローンは彼がコロラド州のサン・ファン火山群で研究していた時の指導教官で、ジョンストンは彼の業績を賞賛していた[1]。マルーンは即座に「彼を仕事に引き入れ」、火山の近くまで関心をもつ記者を案内させる役割を与えた[8]。結果として、ジョンストンはセント・ヘレンズ山に赴いた最初の火山学者となり[3]、すぐに USGS の観測チームのリーダーとして、放出される火山性ガスのモニタリングを担当した[8]

噴火

前兆活動

火口底にある湖に向かって急峻な火口壁を注意深く降りている男性。
火口内にある湖の湖水サンプルを採集するため、火口壁を下るジョンストン(1980年4月30日撮影)。かれが湖水を採集する様子はこの写真を参照.

19世紀中頃に噴火して以後、セント・ヘレンズ山の活動は低調だった。地震計は1972年まで設置されていなかった。この100年以上に渡る平穏な期間は1980年の始めに終わることになる。3月15日、小規模な地震が数回発生し、山の周囲を揺り動かした。その後6日間に渡って、100回以上の地震がセント・ヘレンズ山周辺で起こり、地下におけるマグマの移動を示唆していた。とはいえ、この時点では地震を噴火の前兆と見なすだけの証拠は出揃っていなかった[9]。 3月20日には、マグニチュード 4.2 の地震が火山周辺の原野を揺り動かした。その翌日、地震学者は3つの地震計を増設している[10]。 3月24日になると、ジョンストン等 USGS の火山学者は、地震活動が切迫した噴火の前兆現象だと確信を深めていた。3月25日には、地震活動は劇的に増大し、26日にはマグニチュードが 4.0 より大きい地震が7回発生し、その翌日、火山災害に関する警告が公表された[9]。その3月27日、最初の水蒸気爆発が発生し、噴煙は2,000メートルに達した[9]

その後も数週に渡って同様な活動が続き、少量の水蒸気や火山灰等の火山砕屑物を噴出しながら、火口を広げて隣接したカルデラを形成した。こういった新たな噴火において、噴煙は6,000メートルに達している。3月の末には、噴火回数は1日に100回を越えるようになった[11]。噴火の様子を見物しようと、観光客が山の近くまでやってくるようになった。レポーターがヘリで飛び回り、登山家も関心を向けていた[11]。 4月17日、山の北側斜面の膨張が確認された。これはセント・ヘレンズ山で側面噴火が起こる可能性を示唆していた[12]。ジョンストンは、タコマ・コミュニティ大学の地質学教授のジャック・ハイドとともにその発生を確信していたが、関係者の中では少数派だった。ハイドはセント・ヘレンズ山に目に見える噴気孔が確認できず、爆発的噴火に至るまで圧力が増大すると示唆している。ハイドは USGS の職員ではなく、また責任を有する立場でもなかったので、彼の見解は一顧だにされなかった[13]。しかしながら、その意見の正しさは後日証明されることになる。セント・ヘレンズ山の地下から上昇してきたマグマは、山の北斜面へと逸れてゆき、その表面を膨張させていたのだ[12]

最後の兆候と大爆発

地震と火山活動の増大を受けて、USGS で働くジョンストンたち火山学者は、切迫する爆発的噴火を観測するために、バンクーバー支部で準備を進めていた。地質学者のドン・スワンソンのチームは、成長するドームやその周辺に反射板を設置し[14]レーザー測距計を使って、反射板との距離を測定し、ドームの形状変化を捉えるべく、コールドウォーターIおよびIIと命名された観測所を設置した。ジョンストンの最後の地となるコールドウォーターIIは、山頂の北10キロメートルに位置していた。USGS の地質学者が驚きをもって見つめるなか、山腹の隆起は1日に1.5から2.4メートルの割合で増大していった[15]

周囲の巨大な岩に囲まれて小さく写っている険しい崖を登る男性。
噴気孔からガスを採集するためにセント・ヘレンズ山の膨張部を登るジョンストン(中央)。この写真はこの膨張部が爆発する前日に撮影された。全体像はこの写真を参照。

火山の北側に設置された傾斜計は、山の斜面が北西に向けて傾斜していることを示していた。山の南側では、南西に傾斜する傾向が観測されている。地下におけるマグマ圧力の増大を懸念して、科学者は火口で火山性ガスを採取して分析した結果、高濃度の二酸化硫黄を検出した。この発見後、かれらは定期的な噴気活動の確認を開始し、火山の劇的な変化を捉えようと試みたが、何も観測されなかった。落胆はあったものの、彼らは次に、成長する隆起の調査へ矛先を向け、その崩壊が火山周辺の住民活動の脅威となるか調べ始めた [16]。 調査の結論は、地すべりや崩壊が発生した場合、トゥートル川英語版に大量のラハール、もしくは泥流が流れ下る危険を示していた[12]

この時点で、最初は頻繁に生じていた水蒸気噴火も断続的になっていた。5月10日から17日にかけて、北斜面の隆起の膨張以外の変化は見受けられなかった。5月16日と17日には、水蒸気噴火がまったく起きなかった[16]

深い森林に覆われた谷を挟んだ尾根の上から望む、斜面に大きな割れ目が走り隆起して、大きく形を変えている火山の姿。山頂火口がわずかに見える。
爆発前のかつてのセント・ヘレンズ山。ジョンストンがいたコールドウォーターII観測所から、ハリー・グリッケンが撮影。
前の写真と同じ位置からみた噴火後の山容。山体の多くが失われ、巨大なカルデラ(火口)が生じている。以前森林に覆われていた景観は、火山の爆発で破壊され、未だ荒野が広がっている。
噴火から4ヶ月後のセント・ヘレンズ山。、先の写真と概ね同じ場所から、ハリー・グリッケンが撮影。この間に、火山は噴火して、ジョンストンの命とともに以前の景観を破壊した。

活動中のセント・ヘレンズ山は、平穏な時期とは根本的に様相を変え、巨大な隆起が生じ複数の火口が開いていた。爆発がおきた週には、山頂の北側に割れ目が生じ、マグマの動きが隆起部からカルデラへと向いたことを示していた[16]

翌日(5月18日)の現地時間8時32分、マグニチュード 5.1 の地震が山域を揺るがして地すべりを誘発した。これが大噴火の引き金となった。数秒のうちに、地震の振動が山の山頂から北斜面にかけての、2.7 立法キロメートルに及ぶ岩石をぐらつかせ、大規模な地すべりを発生させた。山体がもたらしていた圧力が消失し、セント・ヘレンズ山のカルデラから急激に水蒸気と様々な火山ガスが放出し始める。数秒後、側面噴火が始まり、斜面から音速に近い速度で高速な火砕流が噴出した。その流れは後で合流しラハールとなった[17]。 爆風がジョンストンが居たところまで到達するのに、最速で1分はかからなかったと見られる。ジョンストンは無線で USGS の同僚に向けて "Vancouver! Vancouver! This is it!" と通信を送り[訳注 3] 、次の瞬間、無線はとぎれた[18]。初期の段階では、ジョンストン生存の可能性について検討がなされた。しかしすぐに、ジョンストンの位置から北のコールドウォーター山の近くに居て、同じく噴火の犠牲となったアマチュア無線家のゲリー・マーティンによる、コールドウォーターII観測所が噴煙にのみこまれる目撃情報を報告した記録の存在が明らかになった。爆風がジョンストンの観測所を圧潰する様子を、マーティンは厳粛に「紳士諸君、あー、私の南に居たキャンパーと車が覆われてしまった。私のところにも向かって来ている。ここから逃げるのは無理なようだ…」と告げたのち、彼の無線は途絶えた[19]

ジョンストンやマーティンといった犠牲者をなぎ倒した爆風と火砕流の範囲、速さ、方向は、後日『セント・ヘレンズ山の1980年5月18日の爆発的噴火の経過と特徴』との題で、1984年に全米研究評議会地球物理学委員会から公判された書籍に収録される形で報告された[20]。 この論文で、著者らは噴火の最初の数分間の活動経過と特徴を構成するため、噴火時の写真と衛星画像を検討した。論文には図10.3として、セント・ヘレンズ山の東方53キロメートルにあるアダムス山から撮影された連続写真が収録されている。この6枚の写真には、側面噴火の様子が横側からとらえられ、崩壊と火砕流の範囲と大きさがはっきりと示されており、ジョンストンがいた位置を越えて北へ届いていたことがわかる。同論文の図10.7は、火砕サージの到達範囲を30秒毎に示した平面図で、ジョンストンがいた位置(コールドウォーターII観測所)とマーティンのいた場所が含まれている[20]

噴火の爆音は数百キロメートルはなれた場所でも聞き取れたが[21]、噴火から生き残った人々の中には、山を逃げ下っている間、地すべりと火砕流の物音は聞こえなかったと証言している者もいる。アメリカ合衆国林野局英語版 の職員、クラウ・キルパトリックは、「それから音はしなかった。音はなかったんだ。まるでサイレント・ムービーのようで、私達は完全にそのただ中にいたんだ。」と記憶を辿りそう述べている[22]。このように証言が異なる理由は "quiet zone" と呼ばれる、空気の運動と温度に、現地の地形がある程度影響して生じる現象が原因である[21]

山の状態を表現するのにレポーターが述べた有名な言葉に「導火線に火がついたダイナマイトの詰まった容器のそばに立っているような」という言い回しがあるが[23]、ジョンストンは火山が噴火する兆候に気づいた最初の火山学者の一人であり、すぐに火山性ガスのモニタリング・チームのチーフに任命されている。彼は用心深い分析者ではあったが、市民から死者を出すのを防ぐために、科学者地震がリスクを取って活動する必要があると強い信念を抱いており、その信念に従って、現地での危険な有人観測に着手した。彼を始めとする幾人もの火山学者たちは、噴火の前兆活動が続いていた数ヶ月の間火山のそばから人々を遠ざけ、閉鎖の解除を求める圧力に抗いぬいた[7]。彼らの努力をしても、数十人の犠牲は避けられなかった。しかし、山域が閉鎖されていかなったならば、その死者数は数千に及んでいたであろう。ジョンストンは側面噴火に関する理論に貢献した。かれは、爆発的噴火は上向きではなく、横向きに起こると信じていた。また、ジョンストンは、噴火の前段として隆起が生じると考えていた。このことから、彼は北方向への噴火の可能性が最も高いと気づいていたのだ[7]

USGS チームと救助活動

地名が様々な位置に付与されたセント・ヘレンズ山周辺の衛星画像。記載された主な場所は以下のとおり:セント・ヘレンズ山(円形の黒い火口を有する火山の中央)、火山の北側に「コールドウォーターII観測所」(ジョンストンが宿直していた場所)、他の場所は3つの湖(スピリット湖、ベア・コーブ、コールドウォーター湖)と河川(ノース・フォーク・トゥートル川)。
セント・ヘレンズ山の北斜面が崩壊した時、ジョンストンがいたコールドウォーターII観測所は、爆風の通り道にあった。

USGS の多くの科学者が、火山の監視に取り組んでいた。しかし、噴火直前の2週間半の間、コールドウォーターII観測所に詰めていたのは大学院生のハリー・グリッケンだった[24]。噴火前日の夕方、彼はカリフォルニア大学の大学院に戻って自分の研究を進めるために、USGSの地質学者ドン・スワンソンと交代するようスケジュールが組まれていた。しかし、スワンソンは、5月18日に帰国するドイツ人の院生と面会したいと考えていた。そこで、爆発の2日前、スワンソンは廊下で出会ったジョンストンをつかまえて、代わってくれるよう頼み込んだ。ジョンストンはたった1日だけ配置につくことをしぶしぶながら了承した[25]。噴火が起こる前日の土曜日、ジョンストンは山に向かい、地質学者のキャロライン・ドリージャーと火山を見回った。山は地震で揺れ動いていた。ドリージャーはその夜、火山を見下ろす尾根の一つでキャップする予定だったが、ジョンストンは帰宅するように彼女にいい、一人で火山に留まると告げた[26]。 コールドウォーターIIにいる間、ジョンストンは、噴火のさらなる兆候を見出そうと火山を観測する予定だった[27]。5月17日の夕刻、出発直前の午後7時、噴火の13時間半前、グリッケンは観測所のトレーラーの横に腰掛けてノートを手に笑みを浮かべたジョンストンの、後日有名となる写真を撮影した[16]

次の朝、5月18日午前8時32分[28]、火山は噴火した。即座に救助隊員が山に向かって出動した。山へ科学者を飛行機で送り届けていた USGS 所属パイロットのロン・スティックニーは、最初の救助活動の際、案内のため同行した。彼はヘリコプターを操縦して、傷ついた木々の残骸や谷筋を飛び越え、コールドウォーターII観測所のあった尾根の上空に辿り着いた。しかし、そこで彼の目に入ったのはむき出しの岩肌と根こそぎにされた木々だけだった。ジョンストンがいたトレーラーは影も形もなく、スティックニーは「ひどく取り乱して」パニックに陥った[29]

罪悪感に打ちのめされ、気も狂わんばかりになったハリー・グリッケンは、3人のヘリコプターパイロットに、救助活動のために被災地上空を飛んでくれるように頼み込んだ。しかし、噴火はあたりの景色を完全に別のものに変えてしまい、彼らには、爆風に吹き飛ばされ埋もれてしまったコールドウォーターII観測所が存在したいかなる痕跡も見出すことはできなかった。彼とヘリのクルーは逃げようとした人を載せた車を発見したが、着陸して救助しようとしたものの、犠牲者の遺体の手から皮膚が剥がれおちる有り様だった[24]。噴火の直後に、ドン・スワンソンは瓦礫の中にジョンストンのバックパックとパーカが埋まっていたのを見つけた。しかし彼は、スカベンジャーども(連中はすでに山に入り込み噴火の犠牲者の遺品を持ち去って売りに出していた)が彼の友人の遺体や所持品を見つけて持ち去るのを怖れ、ごく数人を除き自分の発見を秘密にしていた[30]。1993年、ジョンストンリッジ観測所に至るようワシントン州道504号線(別名「スピリット湖記念ハイウェイ」)を14キロメートル延長する工事中、建設作業員がジョンストンのトレーラーの残骸を発見した[31]。 しかし、彼の遺体は発見できていない[32]

結果と反響

人々はその噴火の規模にショックを受けた。山頂が400メートルも低くなり、約600平方キロメートルもの森林が破壊され、火山灰は他の州やカナダにまで到達した[33]。 ジョンストンを死に至らしめた側面噴火のスピードは、時速354キロメートルから始まり時速1,078キロメートルにまで達している[21]。この事実に、USGS の科学者でさえ畏怖を覚えた。火山爆発指数は5と判定され、壊滅的な噴火であったことを示している。ジョンストンや山荘のオーナーだったハリー・ランドール・トルーマンナショナル・ジオグラフィックの写真家だったリード・ブラックバーン英語版を含む57名の人々が死亡もしくは行方不明となった[33]

この災害は、合衆国で発生した火山災害で最も死者数が多く破壊的な噴火だった。多くの死者・行方不明者に加え、降灰と火砕流により200軒もの家屋が破壊あるいは埋没し、たくさんの人が住む家を失った。人々の被害に加え、何千もの動物が命を失った。USGS による公式な推定によると、およそ7000もの狩猟動物が死に、40,000匹のサケと1200万匹に及ぶその稚魚が失われた[33]

噴火から2年後、合衆国政府はセント・ヘレンズ国立火山公園英語版を設立し、450平方キロメートルもの土地を確保した。この保護地区には、ジョンストン・リッジ観測所を始めとする数カ所の観測施設やビジターセンターがあり、科学的調査や観光、教育目的に維持されている[34]

遺産

科学分野

リッジの尾根筋に続く斜面に転がる枯れて久しい樹幹の狭間に繁茂する花々や小さな灌木。
ジョンストン・リッジ観測所からのジョンストン・リッジの光景(2005年6月撮影)。噴火から25年経ち、倒れた木々の間に新たな草花が繁茂している。

友人たちからはデイヴと呼ばれていたジョンストンは、同僚の科学者と政府の双方から追悼を受けた。勤勉で綿密な性格で知られていた彼は、USGS からの献辞で「典型的な科学者」と称され、周囲を巻き込む好奇心と情熱を抱き、他人に感化されること無く純粋だった」とも述べられていた[7]。彼は即座に「皮肉を打ち消し」、「伸長な評価と解釈」が仕事を進める上でベストな方法だと信じていた[7]。ジョンストンの追悼記事には、死の時から、彼が「世界で代表的な若い火山学者の一員」となり、彼の「情熱と温情」が「科学的な長所と少なくとも同程度に失われてしまった」と述べた[35]。 同僚のアンドリュー・オールデンは、ジョンストンが「多くの友人と明るい未来をもっていた」と断言し、大きなポテンシャルを秘めていたと述べた[36]。 噴火後、ハリー・グリッケンを始めとする USGS の地質学者は、自分たちの仕事をジョンストンに献呈している[30]

ジョンストンはコールドウォーターII観測所が安全だと考えていたので、彼が死んだという事実は、友人たちと同僚に衝撃を与えた。しかし、彼のほとんどの同僚と家族は、ジョンストンは「やりたかったことを行いながら」死んだのだと断言している[2]。彼の母親は噴火直後のインタビューで次のように答えている「世の中では、自分が本当にしたいことがそうそうできるわけではないけれど、私達の息子はやり遂げたのよ……彼は『裕福にはならないだろうけれどやりたいことをやっている。噴火が起きた時は近くに居たい』と望んでいた。母の日に電話をくれた時、かれはこんな光景を目にする事ができる地質学者なんてほとんどいないと教えてくれた[2]」 ステファン・マローン博士は、ジョンストンが自分の愛することを行いながら亡くなったことに同意し、彼は「仕事がとても上手だった」と述べた[8]

噴火に至るまでの日々における火山研究で果たした彼の役割に対し、1981年に「ワシントン州セント・ヘレンズ山の1980年噴火」と題された USGS のレポートの一部として公表された噴火の過程に関する論文において謝意が示されている。

セント・ヘレンズ山の1980年の噴火活動を系統だって復元するために、データ収集に寄与した数多のものの中でデイヴィッド・ジョンストンよりも本質的に不可欠だった人物は居ない。この報告書はその記憶とともに、彼に捧げられる。デイヴはあの大噴火に至る活動全体を通じてその場に立ち会い、あの噴火で命を失ったが、得られたデータをはるかに上回るものを我々に残してくれた。彼の洞察と徹底的に科学的な姿勢は、取り組み全体にとって重要だった。その全ては未だに規範として我々に役立ってくれている。 — R. L. クリスチャンセン および D. W. ピーターセン、1980年の噴火活動の過程[37]
雪景色の中に建つガラス窓のある外壁が丸い建物。
ジョンストン・リッジ観測所(2005年12月撮影)

ジョンストンの死後、彼が取り組んでいた噴火予知の分野は著しい進歩を見せた。そして今や火山学者は、数日から数ヶ月に渡って続く幾多の前兆現象を捉えて分析することで予知が可能になっている[38]。 地質学者も特定のマグマの活動を示す特有のパターンを地震波から識別可能になった[39]。 特に、火山学者は地殻をマグマが上昇していることを示す深発の長周期地震を観測している。また、マグマが供給される割合を示す指標として、二酸化炭素の放出量も計測している。ジョンストン等 USGS の科学者がコールドウォーターI および II 観測所で行っていた、マグマの貫入による地表面の変形量の観測についても、そのスケールと精度が向上している。火山周辺に設置された地形変化の観測ネットワークは、今やInSAR英語: Interferometric synthetic aperture radarGPS測位ネットワーク、重力ポテンシャル重力加速度の変化を計測する微小重力計、歪み計傾斜計から構成されている。未だ成されなければならない仕事は残されているが、この多様な観測手法の組み合わせにより、科学者が火山噴火を予測する能力は格段に進歩している[38]

その後起きてしまった雲仙普賢岳ガレラス山噴火の際の火山学者の死にもかかわらず、ジョンストンが用いたのと同様の予測手法により、科学者等は当局にピナツボ山の周辺住人の避難の必要性を認めさせ、数千もの犠牲を防ぐことを可能とした[36]。 ジョンストンが取り組んだ仕事に加えて、彼そのものが火山噴火史の一部となっている。ハリー・グリッケンとともに、彼は火山噴火によって死亡した2名の合衆国の火山学者のひとりである[40]。前述のとおり、グリッケンはセント・ヘレンズ山噴火の13時間前に、コールドウォーターII観測所の当直をジョンストンに代わってもらった人物であり、彼を見習うべき先達と考えていた[24]。グリッケンは11年後の1991年、日本の雲仙普賢岳で発生した火砕流に巻き込まれて亡くなった[40][41]

追悼

キャプションを参照。
完全な正式名称として彼の名が冠されているデイヴィッド・A・ジョンストン・カスケード火山観測所の門標

初期の追悼行事として、イスラエルテルアビブで2本の木が植樹された[6]。そして、ジョンストンの故郷のコミュニティー・センターが「ジョンストン・センター」と改名している。こういった行いは、1981年5月に噴火から1年を伝える新聞記事で紹介された[6][42]

噴火から2年を迎え、(1980年の噴火を受けて設立された)USGSのバンクーバー支局が、彼を記念してデイヴィッド・A・ジョンストン・カスケード火山観測所英語版 (CVO) と改名された[43]。 この火山観測所は、セント・ヘレンズ山の監視を最重要任務としており、1980年から1985年にかけてあらゆる火山について噴火予知の支援を行っていた[44]。 2005年の一般公開日には、CVO のロビーにジョンストンを追悼する展示が行われた[45]

ジョンストンが学んだワシントン大学(彼はここで修士と博士号研究を行っている)は、地球科学と宇宙科学の分野で研究する大学院生を対象とした奨学金のための記念基金を設立している。彼の死から1年で、その資金額は30,000ドルを超過した。"David A. Johnston Memorial Fellowship for Research Excellence" と名付けられたこの奨学金は、立ち上げられてから何年にもわたって、数多くの奨学生を輩出している[6][46]

噴火後、コールドウォーターII観測所があった一帯は所有権を区画分けされ、最終的にジョンストンの名を冠した観測所が建設されて、1,997年に開所した[47]。 セント・ヘレンズ山の北麓からちょうど8キロメートル離れたところにある、ジョンストン・リッジ観測所  (JRO)  を訪れた人々は大きく開いた火口や新たな火山活動、そして広大な玄武岩の溶岩台地等を初めとする1980年の噴火の痕跡を目にすることができる。セント・ヘレンズ国立火山公園の一部として、JRO の建設には、配備された監視機器も合わせて1050万ドルの建設費を要している。JRO には館内ツアーやシアター、展示ホールが備えられ、年間数千人の観光客を出迎えている[48]

ジョンストンの名が刻まれた、噴火による犠牲者を追悼する記念碑が複数設置されている。巨大な曲面の花崗岩で造られたそのひとつがジョンストン・リッチ観測所の屋外展望エリアにあり、2000年5月には、ホフスタッド・ブラフ・ビジター・センターに記念樹林の中へ配置する形で新たな碑文が設けられた[49]

映像化

キャプションを参照。
1980年5月18日の犠牲者の名が刻まれた花崗岩製の追悼碑(噴火から27年の記念日に撮影)。ジョンストンの名は、薔薇の下、やや左にある。

噴火時のジョンストンについて語るドキュメンタリーや映画、ドラマが何本か制作されている。“The Eruption of Mount St. Helens!”(1980) のような複数のドキュメンタリーが同じ年のうちに制作されているが、噴火をうけて1年をかけて撮影し、ちょうど1年の記念日にあわせて公開された映画もあった。セント・ヘレンズ山とジョンストンの物語は、噴火から数十年過ぎた今日でも、新たなドキュメンタリーで取り上げられたり、再放送が行われたりしている。

1981年公開の映画“セント・ヘレンズ英語版”では、俳優のデイヴィッド・ハフマン英語版が、ジョンストンの役(デイヴィッド・ジャクソンと改名されていたが)で主演した。ハフマンの演ずる役は情事にふけるようになり、その後山頂にいる間に噴火で死亡する議論を呼びおこす内容だった。ジョンストンの両親はこの作品を批判し、「この映画の中に、デイヴィッドの存在など1オンスたりとも有りはしない」、そして「慎重ではなく向こう見ずな科学者」として画かれていると抗議の声をあげた[18]。息子の名誉が傷つけられたと感じた事実を持って、両親が訴訟に出る可能性もあった。ジョンストンの母親は、映画が噴火の際に起きた出来事を多くの面で改鼠しており、自分の息子を「規律の面で問題のあるならず者」として画かれていると申し立てた[18]。 噴火から1年の記念日に合わせた映画の公開に先立ち、ジョンストンを知る36人の科学者が抗議文に署名した。抗議文には「ジョンストンの人生は功績に満ち溢れ、虚構で飾り立てる必要はない」、そして「デイブは優秀で良心的、そして才気あふれた科学者だった」と記載されている[50]。USGSの地質学者で、ジョンストンの友人であり、他の約束があるために噴火の日のコールドウォーターII観測所の当直を代わってもらったドン・スワンソン[25]は、映画がジョンソンの本当の人生と功績を基に制作されていたならば、友の人柄がヒットをもたらしていただろうと語った[50]

記録映像やドラマ仕立てにしたジョンストンの物語を基に、噴火の経過を描いた複数のドキュメンタリーやドラマが制作されている。KOMO-TV 制作の“Up From the Ashes”(1990) や、ナショナルジオグラフィックチャンネルが2005年に制作した“衝撃の瞬間”第2シーズンのエピソード 4[51] [52] [訳注 4]BBCディスカバリーチャンネルが2006年に放映した Surviving Disaster[53][訳注 5]などである。

主な著作

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  • Johnston, David A. (1979). “Onset of volcanism at Augustine Volcano, lower Cook Inlet”. U. S. Geological Survey Circular (Reston, Virginia, USA: アメリカ地質調査所) C 0804-B: B78–B80. ISSN 0364-6017. 
  • Johnston, David A. (1978). Volatiles, magma mixing, and the mechanism of eruption of Augustine Volcano, Alaska. Ph.D. Thesis. Seattle, Washington, USA: ワシントン大学 
  • Johnston, David A. (1978). Volcanistic facies and implications for the eruptive history of the Cimarron Volcano, San Juan Mountains, SW Colorado. Master's Thesis. Seattle, Washington, USA: ワシントン大学 

参照

出典

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訳注

  1. ^ 出典の出版時点。
  2. ^ 出典からは姉か妹か判断不可。
  3. ^ "Vancouver" はカナダではなくUSGS支局のあったワシントン州[[バンクーバー (ワシントン州)|}}を指す。
  4. ^ 日本語版では放送順が異なる。
  5. ^ 日本語版の有無や題名は不明。

参考文献

外部リンク