石川晶

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石川 晶(いしかわ あきら、1934年11月10日 - 2002年2月10日)は、日本ジャズドラマースタジオ・ミュージシャン

生涯[編集]

神奈川県横須賀市出身。三浦学苑高等学校を卒業後、田中雅一と松本伸に音楽を学ぶ。松本伸とニュー・パシフィックにドラム担当で加わり、宮沢昭モダン・オールスターズ、保坂俊雄とエマニアーズとバンドを渡り歩く。後に宮間利之とニューハードのドラマーになり活動。

後年の独立後に、後のカウントバッファローズの母体となるバンド・ゲンチャーズ(現地人の集まりという意味)を結成。彼のライフワークとなるアフリカへ行き、ドラム以外の打楽器を多く学んだ後、帰国してリサイタルを開いた。後にフジテレビの音楽番組「ビートポップス大橋巨泉司会)」のレギュラーとなる。番組終了後はスタジオ・ミュージシャンとしてテレビの劇伴を務めた。

ジャズ・ミュージシャンとして活動する一方、子供の音楽教育にも全力を尽くしておりNHK教育テレビの「ワンツー・どん」では、バックバンドにカウントバッファローズを率いて出演。上柴はじめやクニ河内とも競演。通称「石川のおじさん」としてファンキーなキャラクターで人気者になる。番組進行役のお兄さんお姉さん、そして子供たちの歌う歌の伴奏を務め、色々な打楽器リズムをやさしく教えていた。

生涯アフリカを愛しており、恵比寿で「ピガピガ」(2001年3月末で閉店)というアフリカ料理店を経営しつつ、アフリカ音楽の生演奏を行っていた。その後、1990年に本人は一家ごとケニアに移住。晩年はアフリカで飢餓に苦しんでいる子供たちを救う「フューチャーキッズ・プロジェクト」を発足させ活動していたが、2002年2月10日に現地で脳出血で亡くなった。日本とケニアで追悼のあと、本人の遺言で遺骨の一部はケニアの地に散骨され、残りは東京の墓地に埋葬された。

参加アルバム[編集]

※主としてカウントバッファローズ関連

親族[編集]

参考文献[編集]