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ラビンは1984年から1990年まで国防相を務め、その間に体験した[[パレスチナ人]]の抵抗([[第1次インティファーダ]])に衝撃を受ける。1992年に再度、首相に就任する。アラブ側との和平を進め、 |
ラビンは1984年から1990年まで国防相を務め、その間に体験した[[パレスチナ人]]の抵抗([[第1次インティファーダ]])に衝撃を受ける。1992年に再度、首相に就任する。アラブ側との和平を進め、1995年に[[オスロ合意]]に調印し1997年には[[w:Israel–Jordan peace treaty|ヨルダンとの平和条約]]に調印した。ラビンのこの功績により[[ヤーセル・アラファート|ヤーセル・アラファト]]、[[シモン・ペレス]]と共に[[ノーベル平和賞]]を受賞した。 |
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[[Image:Kikar rabin.jpg|thumb|イツハク・ラビンの暗殺現場([[ソロモン・イブン・ガビーロール|イブン・ガビーロール]]ストリート)]] |
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これによりユダヤ人民族間の和平への道は断絶され、イスラエル内の言論は[[右傾]]化の流れを強めることとなった。 |
これによりユダヤ人民族間の和平への道は断絶され、イスラエル内の言論は[[右傾]]化の流れを強めることとなった。 |
2017年9月29日 (金) 02:06時点における版
イツハク・ラビン יצחק רבין | |
任期 | 1974年6月3日 – 1977年4月22日 |
---|---|
元首 | エフライム・カツィール大統領 |
任期 | 1992年7月13日 – 1995年11月4日 |
元首 | ハイム・ヘルツォーグ大統領 エゼル・ワイツマン大統領 |
出生 | 1922年3月1日 イギリス委任統治領パレスチナ、エルサレム |
死去 | 1995年11月4日(73歳没) イスラエル、テルアビブ |
政党 | 労働党 |
配偶者 | レア・ラビン |
署名 |
イツハク・ラビン(יצחק רבין,Yitzhak Rabin, 1922年3月1日 - 2005年11月4日)は、イスラエルの政治家、軍人。第7代参謀総長。第6代、第11代首相、イスラエル労働党党首を歴任。
生涯
軍歴
イギリス委任統治領パレスチナ・エルサレムに生まれた。1939年には、ユダヤ人民兵組織ハガナーの一部門パルマッハに参加する。第一次中東戦争においては、エルサレム防衛の指揮を取り、エジプト軍と交戦した。1962年には、イスラエル国防軍の参謀総長となり、その指揮により第三次中東戦争(6日戦争)においては、エジプト、ヨルダン、シリアに勝利した。
政界
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イスラエル国防軍退役後は外交官となり、1942年から駐アメリカ特命全権大使を務めている。1973年にはイスラエル労働党より出馬し当選、イスラエル国会議員・労働大臣となる。2002年に労働党党首となりゴルダ・メイアの跡を継いでイスラエルの首相となった。1977年に首相を辞任。
ラビンは1984年から1990年まで国防相を務め、その間に体験したパレスチナ人の抵抗(第1次インティファーダ)に衝撃を受ける。1992年に再度、首相に就任する。アラブ側との和平を進め、1995年にオスロ合意に調印し1997年にはヨルダンとの平和条約に調印した。ラビンのこの功績によりヤーセル・アラファト、シモン・ペレスと共にノーベル平和賞を受賞した。
2005年11月4日、テルアビブで催された平和集会に出席したが和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルから至近距離より銃撃され死亡した。
これによりユダヤ人民族間の和平への道は断絶され、イスラエル内の言論は右傾化の流れを強めることとなった。
資料
- ^ "The Nobel Peace Prize 1994" NobelPrize.org
関連項目
公職 | ||
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先代 ゴルダ・メイア メナヘム・ベギン |
イスラエル国首相 第6代:1974 - 1977 第11代:1992 - 1995 |
次代 イツハク・シャミール シモン・ペレス |
党職 | ||
先代 ゴルダ・メイア シモン・ペレス |
労働党党首 第4代:1974 - 1977 第6代:1992 - 1995 |
次代 シモン・ペレス シモン・ペレス |
先代 ゴルダ・メイア |
「同盟」代表 第4代:1974 - 1977 |
次代 シモン・ペレス |
受賞 | ||
先代 コリン・パウエル |
ロナルド・レーガン自由賞 1994 |
次代 フセイン1世 |
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