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== 経歴 ==
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[[霊亀]]2年([[716年]])8月に第9次[[遣唐使]]の使節が任命されるが、馬養は遣唐副使に任ぜられ(遣唐押使は[[多治比県守]])、まもなく[[正六位|正六位下]]から二階昇進して[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。霊亀3年([[717年]])6月~7月ごろ入唐し、10月に[[長安]]に到着する。[[養老]]2年([[718年]])10月に遣唐使節一行は[[九州]]に帰着し<ref>『続日本紀』養老2年10月20日条</ref>、翌養老3年([[719年]])正月に復命を果たす<ref>『続日本紀』養老3年正月10日条</ref>。宇合は遣唐副使の功により[[正五位|正五位下]]から正五位上に昇叙された。なお、遣唐使節としての入唐を通じて、'''馬養'''から'''宇合'''に[[改名]]している。
[[霊亀]]2年([[716年]])8月に第9次[[遣唐使]]の使節が任命されるが、馬養は遣唐副使に任ぜられ(遣唐押使は[[多治比県守]])、まもなく[[正六位|正六位下]]から二階昇進して[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。この時の遣唐大使である[[大伴山守]]の[[位階]]も従五位下であり、大使と副使の位階を同じとすることは珍しく、この[[叙位]]に対して父・[[藤原不比等|不比等]]の政治力が働いていたことが想定される<ref>木本[2013: 33]</ref>。霊亀3年([[717年]])6月~7月ごろ入唐し、10月に[[長安]]に到着する。[[養老]]2年([[718年]])10月に遣唐使節一行は[[九州]]に帰着し<ref>『続日本紀』養老2年10月20日条</ref>、翌養老3年([[719年]])正月に復命を果たす<ref>『続日本紀』養老3年正月10日条</ref>。宇合は遣唐副使の功により[[正五位|正五位下]]から正五位上に昇叙された。なお、遣唐使節としての入唐を通じて、'''馬養'''から'''宇合'''に[[改名]]している。


同年7月の[[按察使]]設置時に、[[常陸国司|常陸守]]として[[安房国|安房]]・[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]3国の[[按察使]]に任ぜられる。養老4年([[720年]])8月に父の[[右大臣]]・[[藤原不比等]]が薨じると、翌養老5年([[721年]])正月にその子息である[[藤原四兄弟]]はそれぞれ大幅な加叙を受けるが、宇合は四階進んで[[正四位|正四位上]]に叙せられる。
同年7月の[[按察使]]設置時に、[[常陸国司|常陸守]]として[[安房国|安房]]・[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]3国の[[按察使]]に任ぜられる。養老4年([[720年]])8月に父の[[右大臣]]・[[藤原不比等]]が薨じると、翌養老5年([[721年]])正月にその子息である[[藤原四兄弟]]はそれぞれ大幅な加叙を受けるが、宇合は四階進んで[[正四位|正四位上]]に叙せられる。
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*時期不詳:[[正六位|正六位下]]
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*養老5年([[721年]]) 正月5日:[[正四位|正四位上]](越階)
*養老5年([[721年]]) 正月5日:[[正四位|正四位上]](越階)
*時期不詳:[[式部省|式部卿]]
*時期不詳:[[式部省|式部卿]]
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*『尊卑分脈 第二篇』[[吉川弘文館]]、1987年
*『尊卑分脈 第二篇』[[吉川弘文館]]、1987年
* 土佐朋子「藤原宇合の辺塞詩」『東京医科歯科大学教養部研究紀要』42、2012年
* 土佐朋子「藤原宇合の辺塞詩」『東京医科歯科大学教養部研究紀要』42、2012年
* 金井清一「高橋虫麻呂と藤原宇合」『国文学』23巻5号、[[1978年]]
* 金井清一「高橋虫麻呂と藤原宇合」『国文学』23巻5号、1978年
* 金井清一「藤原宇合年齢考」『万葉詩史の論』[[笠間書院]]、[[1984年]]
* 金井清一「藤原宇合年齢考」『万葉詩史の論』[[笠間書院]]、1984年
* [[木本好信]]「藤原宇合」『藤原式家官人の考察』[[高科書店]]、[[1998年]]
* [[木本好信]]「藤原宇合」『藤原式家官人の考察』[[高科書店]]、1998年
* [[利光三津夫]]「藤原宇合と大和長岡」『法学研究』40巻4号、[[1967年]]
* [[利光三津夫]]「藤原宇合と大和長岡」『法学研究』40巻4号、1967年
* 木本好信『藤原四子』[[ミネルヴァ書房]]、[[2013年]]
* 木本好信『藤原四子』[[ミネルヴァ書房]]、2013年


==関連項目==
==関連項目==

2017年8月26日 (土) 17:56時点における版

 
藤原宇合
藤原宇合(『前賢故実』より)
時代 奈良時代
生誕 持統天皇8年(694年
死没 天平9年8月5日737年9月3日
改名 馬養→宇合
官位 正三位参議式部卿大宰師
主君 元正天皇聖武天皇
氏族 藤原氏式家
父母 父:藤原不比等、母:蘇我娼子
兄弟 武智麻呂房前宇合麻呂宮子長娥子光明子多比能
石上国盛、高橋阿禰娘、小治田功麿男牛養女、久米若女、佐伯家主娘
広嗣良継清成綱手田麻呂百川蔵下麻呂掃子 ほか
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藤原 宇合(ふじわら の うまかい、持統天皇8年(694年) - 天平9年8月5日737年9月3日))は、奈良時代公卿。初名は馬養右大臣藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位正三位参議勲等は勲二等。

経歴

霊亀2年(716年)8月に第9次遣唐使の使節が任命されるが、馬養は遣唐副使に任ぜられ(遣唐押使は多治比県守)、まもなく正六位下から二階昇進して従五位下叙爵する。この時の遣唐大使である大伴山守位階も従五位下であり、大使と副使の位階を同じとすることは珍しく、この叙位に対して父・不比等の政治力が働いていたことが想定される[1]。霊亀3年(717年)6月~7月ごろ入唐し、10月に長安に到着する。養老2年(718年)10月に遣唐使節一行は九州に帰着し[2]、翌養老3年(719年)正月に復命を果たす[3]。宇合は遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙された。なお、遣唐使節としての入唐を通じて、馬養から宇合改名している。

同年7月の按察使設置時に、常陸守として安房上総下総3国の按察使に任ぜられる。養老4年(720年)8月に父の右大臣藤原不比等が薨じると、翌養老5年(721年)正月にその子息である藤原四兄弟はそれぞれ大幅な加叙を受けるが、宇合は四階進んで正四位上に叙せられる。

神亀元年(724年)3月に海道の蝦夷が反乱を起こして、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂を殺害する[4]。そのため、宇合は式部卿の官職にあったが、4月に持節大将軍に任命され反乱を鎮圧するために遠征し、11月に帰還[5]。この功により翌神亀2年(725年)正月に従三位勲二等叙位叙勲を受け、公卿に列する。

その後も長く式部卿を務める一方で、神亀3年(726年知造難波宮事に任ぜられ、後期難波宮造営の責任者を兼ねる。神亀6年(729年)の長屋王の変に際しては、長屋王の謀反に関して密告が行われると、直ちに宇合は六衛府の兵士を率いて長屋王邸を包囲するなど、軍事面で主要な役割を果たした[6]。なお、変での活躍にも拘わらず、既に藤原氏から2名(武智麻呂房前)の議政官を出していたこともあり、この時点での宇合の参議昇進は見送られている。

天平3年(732年)8月に諸官人の推薦により、6名もの大量の参議抜擢が行われ、宇合は弟の麻呂とともに参議に昇進。藤原四兄弟が全員議政官となり、藤原四子政権が確立された。同年11月に畿内に惣管、諸道鎮撫使が設置されると、畿内副惣管に任ぜられる(畿内大惣管は新田部親王)。天平4年(732年)、地方軍備体制の整備を行うために節度使が置かれると、宇合は西海道節度使に任ぜられ、九州に赴任する。赴任にあたって宇合が作成した漢詩が『懐風藻』にあり[7]高橋虫麻呂の見送る和歌が『万葉集』に残る。九州では軍事行動マニュアルとして「式」を整備する。約50年後の宝亀11年(780年)になっても大宰府に対して、宇合の式に基づいて警固を行うように勅令が出ており[8]、宇合が整備した式が後世に引き継がれ活用されていた様子が窺われる[9]。天平6年(734年正三位に至る。

天平9年(737年平城京中を疫病猖獗しょうけつを極める中、8月5日に藤原四兄弟の最後に薨去した。享年44。最終官位は正三位参議式部卿兼大宰帥

官歴

続日本紀』による。

系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 木本[2013: 33]
  2. ^ 『続日本紀』養老2年10月20日条
  3. ^ 『続日本紀』養老3年正月10日条
  4. ^ 『続日本紀』神亀元年3月25日条
  5. ^ 『続日本紀』神亀元年11月29日条
  6. ^ 『続日本紀』天平元年2月10日条
  7. ^ 『懐風藻』93
  8. ^ 『続日本紀』宝亀11年7月15日条
  9. ^ 土佐[2012: 4]
  10. ^ 木本[2013: 35]
  11. ^ 『尊卑分脈』等。ただし、反対論も根強くはっきりしたことは不明。
  12. ^ 『公卿補任』

参考文献

  • 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
  • 土佐朋子「藤原宇合の辺塞詩」『東京医科歯科大学教養部研究紀要』42、2012年
  • 金井清一「高橋虫麻呂と藤原宇合」『国文学』23巻5号、1978年
  • 金井清一「藤原宇合年齢考」『万葉詩史の論』笠間書院、1984年
  • 木本好信「藤原宇合」『藤原式家官人の考察』高科書店、1998年
  • 利光三津夫「藤原宇合と大和長岡」『法学研究』40巻4号、1967年
  • 木本好信『藤原四子』ミネルヴァ書房、2013年

関連項目