「上杉謙信」の版間の差分
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・当時、謙信のことを「男もおよばぬ大力無双」と歌った歌がある。<br> |
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・当時、女性城主は珍しくなく、江戸時代に入ってから[[武家諸法度]]により初めて女性城主が認められなくなった。<br> |
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また、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家と対立しており、やっと許しをもらったばかりの上に、[[外様大名]]で立場が弱かった[[上杉家]]が、「謙信の代でお家断絶している」と言われるのを恐れ、謙信を無理矢理男にする必要があったのでは |
また、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家と対立しており、やっと許しをもらったばかりの上に、[[外様大名]]で立場が弱かった[[上杉家]]が、「謙信の代でお家断絶している」と言われるのを恐れ、謙信を無理矢理男にする必要があったのでは。<br> |
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・上杉謙信の肖像画は見るからに男であるが、これは江戸時代に作成されたもの。<br> |
・上杉謙信の肖像画は見るからに男であるが、これは江戸時代に作成されたもの。<br> |
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当然、書いた本人は謙信を見たことはない上に、武家諸法度により江戸時代以降の常識では「城主=男」である。<br> |
当然、書いた本人は謙信を見たことはない上に、武家諸法度により江戸時代以降の常識では「城主=男」である。<br> |
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更に、上記の男にする必要があったためヒゲを生やした肖像画を描かせた。と考えることが出来る。<br> |
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== 国人衆 == |
== 国人衆 == |
2006年7月3日 (月) 06:46時点における版
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 享禄3年1月21日(1530年2月18日) |
死没 | 天正6年3月13日(1578年4月19日) |
改名 | 虎千代(幼名)。長尾景虎、上杉政虎、輝虎、謙信 |
別名 | 平三、喜平次、越後の龍、軍神 |
戒名 | 不識院殿真光謙信 |
官位 | 従四位下、弾正少弼、死後に贈従二位 |
幕府 | 室町幕府 関東管領 |
主君 | 上杉定実、足利義輝 |
氏族 | 平氏、長尾氏、藤原氏、上杉氏 |
父母 | 父:長尾為景。母:虎御前、養父:上杉憲政 |
兄弟 | 兄:晴景。姉:仙桃院 |
子 | 養子:景虎、景勝、上条政繁 織田氏(文書上でのやりとりのみ) |
上杉 謙信(うえすぎ けんしん、享禄3年1月21日(1530年2月18日) - 天正6年3月13日(1578年4月19日))は、戦国時代の武将、越後の戦国大名である。元の名前は長尾景虎(ながお かげとら)。正式な名のりは、長尾氏の時は平景虎(たいら・の・かげとら)、上杉氏の時は藤原政虎(ふじわら・の・まさとら)、後に藤原輝虎(ふじわら・の・てるとら)。
越後国の守護代を務めた長尾氏に生まれ、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を継ぎ、周辺の武田信玄、北条氏康らと和戦を繰り広げた。
武田信玄と戦国の双璧をなし、自ら毘沙門天の転生であると信じ越後の虎とも越後の龍とも呼ばれる。室町幕府最後の関東管領でもある。
生涯
越後守護代
享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代長尾為景の子として春日山城に生まれる。天文5年(1536年)に父の為景が病死したため、家督は兄の長尾晴景が継ぎ、謙信は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受ける。天文12年(1543年)頃に元服して長尾景虎と改め、栃尾城主となる。越後では守護上杉定実が伊達稙宗の子を養子に迎える件で内乱が起こったおり、景虎は元服した同年、病弱な兄の晴景を見て反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾る。天文15年(1546年)には黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって定実から討伐を命じられ、総大将として黒田氏を滅ぼしたという。
天文17年(1548年)、定実の調停のもと、晴景は景虎に家督を譲って隠退する。景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。2年後の天文19年(1550年)には、守護・定実が子供を遺さずに死亡したため、景虎が越後の国主の地位に立つ事になった。
上杉氏の名跡継承と関東管領職補任
天文19年(1550年)、一族の長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。しかし景虎は、翌年にこれを鎮圧している。この頃には小田原後北条氏による攻勢を受けていた上野国平井城に拠る関東管領の上杉憲政が越後に対して救援を求めている。謙信はただちに出兵して北条軍を破り、憲政を平井城へ戻した。越後の隣国・上野へ力を伸ばす北条氏は、越後の安全を確保する上でも脅威だった。
天文22年(1553年)、景虎は上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見している。同年、甲斐国の武田信玄(当時は晴信)の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清らの信濃国人が領地復権を望んで景虎のもとへ逃亡してくると、景虎はこれに応じて信濃に出兵し、川中島(長野県長野市南郊)で武田信玄と対峙する。これが第一次川中島の戦いで、以後、武田氏とは断続的に抗争を続ける。天文23年(1554年)、家臣の北条高広が武田信玄と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣してこれを鎮圧する。同年、信玄と川中島で再び対峙したが(第二次川中島の戦い)、決着はつかず(其の時代には、武田側の勝利と思われていたようだ。)駿河の今川義元の仲介のもとに和睦して撤退した。
弘治元年(1556年)、突如として景虎は家督と越後を捨てて比叡山に入って出家すると宣言する。この頃の景虎は、武田信玄との抗争や、家臣である長尾政景、北条高広、大熊朝秀らの反乱で心身が疲れきっていたとも言われ、天室光育、長尾政景らの説得で出家を撤回する。
永禄2年(1559年)、景虎は再度上洛して正親町天皇や将軍義輝に拝謁する。景虎は義輝から管領並の待遇を与えられたという。永禄4年(1561年)、景虎は北条氏康に再び追われた関東管領上杉憲政を擁して十万の大軍で小田原城を攻める。しかし小田原城は堅城であり、景虎も落とすことはできずに1ヶ月の攻防戦の末に鎌倉に退去した。このとき、上杉憲政の要請もあって景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉氏の家督と関東管領職を相続することとなり、名を上杉政虎と改めた。
そもそも上杉氏の家督と関東管領職は藤原姓にして足利将軍家の外戚としての名門の地位にあった。長尾氏は上杉氏の家臣筋であり、しかも上杉氏の本姓が藤原氏なのに対して長尾氏は平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が何故、上杉氏の名跡を継承するに至ったのか。これはたんに長尾氏が主筋を凌いだからというわけではない。かねて上杉氏に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉氏から養子を出したことのある佐竹氏からの養子を断られ、同じく上杉氏から養子を出したことのある家臣筋の長尾氏に依頼が来たものである。つまり、景虎の父系の祖先の中に上杉氏の血が入っているのである。
周辺諸国との戦い
永禄4年(1561年)、武田信玄と信濃をめぐって第四次川中島の戦いを行うが決着は着かず、結局のところ信濃は北辺の一部を掌握したのみで、村上氏、高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。永禄7年(1564年)にも信玄と川中島で再び対峙したが(第五次川中島の戦い)、決着は着かなかったという。
武田信玄と川中島において抗争を繰り返している隙を突いて、北条氏康が反攻を開始した。これによって上杉輝虎(政虎と名乗った後、京の将軍・足利義輝から「輝」の字をもらって改名)が拡大した関東における所領の大半は後北条氏に奪われることとなり、輝虎はこれを奪還すべく、以後、関東に連年にわたって出陣する。しかしこの関東出陣は領土の固定化がうまくいかなかった。例えば下野唐沢山城や常陸小田城では、上杉と北条の間を幾度も行きつ戻りつを繰り返している。結局わずかに上野の一部、主に東上野を領有するに留まった。
このため輝虎は矛先を変え、永禄11年(1568年)に越中に向けて侵攻を開始したが、同年に信玄に通じた重臣の本庄繁長の謀反が起こってうまく進まなかったという。ちなみに翌年、繁長の謀反は輝虎によって鎮圧されている。元亀元年(1570年)、武田信玄を牽制するために関東管領である輝虎にとっては宿敵である北条氏康と同盟を結んだ。このとき、氏康の七男である北条三郎を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って上杉景虎という自身の幼名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。なお、輝虎という名を謙信と改めたのは、この頃であったという。
晩年
元亀2年(1571年)、氏康の死によって後北条氏との同盟は破棄となったため、元亀3年(1572年)に織田信長と同盟を結んで武田信玄を牽制するとともに、北陸に転じて越中の一向一揆勢力と戦う。元亀4年(1573年)、宿敵・信玄が病没して武田氏の脅威が無くなり、謙信も越中を制圧、加賀を攻める。天正2年(1574年)には関東へ出陣し、北条氏政と戦った。しかし強大化する信長に対抗すべく、天正4年(1576年)には本願寺顕如と講和することで、信長との同盟を破棄して反信長勢力の重鎮となった。天正5年(1577年)には畠山氏を滅ぼして能登を完全に平定するとともに、手取川の戦いにおいて柴田勝家率いる織田軍に勝利する。
天正6年(1578年)3月13日、遠征を準備中に急死する、享年49。
未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも言われる(近年の研究では関東侵攻説が有力になりつつある)。信玄亡き後、織田信長と唯一互角以上に渡り合うことができた謙信の死は、反信長勢力に大きな打撃を与えることとなったのである。
人物
通説によれば、生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣はおろか、豪族達の心をつかんだとされている。毘沙門天の熱心な信者で、自らの旗印にも「毘」の文字を使った。いわゆる天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめたという。武田信玄・北条氏康といった当時屈指とされる武将と戦い続け、一度も敗北しなかった能力は高く評価されている。
27歳の時、突然国を出て出家騒動を起こしている。直接の原因は不明であるが、絶えず起こる家臣達同士の争い・離反に嫌気がさしたものともいわれ、一方で人身掌握のための狂言であるともいわれる。混乱の激化を恐れた家臣団は謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出し、騒動は治まった。
青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峰寺の清胤から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。
一般には「戦上手の内政下手」という印象があるが、実際には領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。謙信が死去した時、春日山城には27140両の蓄えがあったという。上杉軍の行動を支える軍費の大半は通商によって得られており、頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」エピソードも、実際には軍費調達の必要上から甲斐商人への塩販売を禁じなかったということに過ぎない。だが越後国人たちの離反にはたびたび悩まされている。
1561年(永禄4年)、関東管領の就任式では忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝えるエピソードとして知られる。
宿敵武田信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「惜しい男を亡くした。」と箸を落とし号泣。「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けた。
生涯不犯(未婚)であり、子供は二人(景勝・景虎)とも養子だった。未婚の理由としては諸説があるが、一説には謙信が若いときに敵将の娘と恋に落ち、家臣の猛烈な反対によって引き裂かれた後、娘は出家、最終的に自害したため、未婚を貫いたという。また、半陰陽であったためとする説もある。
死因について、一般的には大の酒好きだったため脳溢血と言われているが、信長の遣わした刺客に殺害されたとも言われている。他に、大虫(婦人病の一種)で亡くなったと記載された文献も存在する。
辞世の句は「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」及び「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」
謙信の死後
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉仙桃院と長尾政景の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。つまり、謙信が築き上げた強大な勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである。だが、上杉景勝と直江兼続の尽力により再度勢力が拡大し120万石を要すことになった。だが関ヶ原の戦いにて西軍に属したため、30万石へ減封されたものの上杉米沢藩として明治維新まで存続することとなった。
江戸時代に景勝の子孫が藩主となった米沢藩では、謙信は藩祖として崇敬を集め、明治維新後に米沢城に謙信を祭る上杉神社が建立され、従二位を贈られた。
墓所・霊廟
遺骸は米沢城内に安置されていたが、維新後米沢藩の歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に改葬された。その他、春日山林泉寺(新潟県上越市)と高野山にも墓がある。1872年(明治5)に米沢城本丸跡に上杉神社(別格官幣社)が創建された。
女性説
上杉謙信には根強い女性説があり、数々の証拠や仮説が挙げられている。主な女性ではないかと考えられる内容は以下の通りである。
・謙信の死因について、現代で言うところの婦人病の一種である「大虫」と記載されている文献が存在する。
・合戦中にも関わらず1ヶ月周期で腹痛を訴え、兵を引き部屋に引き篭もったりしている。
・スペインの国王宛に書かれた手紙には「景勝の叔母」と記載されている。
・謙信の遺品の衣類を見てみると真っ赤であったり、男物とは思えない。
・当時、謙信のことを「男もおよばぬ大力無双」と歌った歌がある。
・当時、女性城主は珍しくなく、江戸時代に入ってから武家諸法度により初めて女性城主が認められなくなった。
また、関ヶ原の戦い以前から徳川家と対立しており、やっと許しをもらったばかりの上に、外様大名で立場が弱かった上杉家が、「謙信の代でお家断絶している」と言われるのを恐れ、謙信を無理矢理男にする必要があったのでは。
・上杉謙信の肖像画は見るからに男であるが、これは江戸時代に作成されたもの。
当然、書いた本人は謙信を見たことはない上に、武家諸法度により江戸時代以降の常識では「城主=男」である。
国人衆
関連項目
小説
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