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== 生涯 ==
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[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]])、父が[[小野道高]]の讒言により[[今川義元]]に殺害されたために、幼少の直親は[[信濃国]]へ落ち延び、成人した後、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に井伊谷へ復帰した。[[永禄]]3年([[1560年]])、先代当主で養父の[[井伊直盛|直盛]]が[[桶狭間の戦い]]で戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野道高の息子・[[小野道好]]の讒言により[[徳川家康|松平元康]]との内通を主君の[[今川氏真]]にれ、永禄5年12月14日(1563年1月8日)今川家の重臣・[[朝比奈泰朝]]に攻められ死した。享年28。
[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]])、父が[[小野道高]]の讒言により[[今川義元]]に殺害されたために、幼少の直親は[[信濃国]]へ落ち延び、成人した後、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に井伊谷へ復帰した。[[永禄]]3年([[1560年]])、先代当主で養父の[[井伊直盛|直盛]]が[[桶狭間の戦い]]で戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「[[遠州錯乱]]」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野道高の息子・[[小野道好]]の讒言により、主君の[[今川氏真]]から[[徳川家康|松平元康]]との内通の疑い受ける。縁戚であった[[新野親矩]]の取りなしで、弁明のためにわずかな供で駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)、掛川で今川家の重臣・[[朝比奈泰朝]]に襲撃を受け討ちした。享年28。


これにより井伊氏は一時的に衰退した。家督は養父直盛の娘・[[井伊直虎|直虎]]が継いだ。嫡男の虎松は流浪した末に直虎に代わって当主となり、[[徳川氏]]に仕え、のちの[[徳川四天王]]の[[井伊直政]]となった。また、遠江国が家康の支配下になった後、直親の無実が証明され、讒言した小野道好は[[獄門]]になっている。
これにより井伊氏は一時的に衰退した。家督は養父直盛の娘・[[井伊直虎|直虎]]が継いだ。嫡男の虎松は流浪した末に直虎に代わって当主となり、[[徳川氏]]に仕え、のちの[[徳川四天王]]の[[井伊直政]]となった。また、遠江国が家康の支配下になった後、直親の無実が証明され、讒言した小野道好は[[獄門]]になっている。

2016年1月9日 (土) 12:07時点における版

 
井伊直親
時代 戦国時代
生誕 天文4年(1535年
死没 永禄5年12月14日1563年1月8日
改名 亀之丞(幼名)→直親
戒名 大藤寺院剣峯宗惠大居士
墓所 龍潭寺
官位 肥後受領名
主君 今川義元氏真
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直満、母:鈴木重勝娘か
養父:井伊直盛
婚約:次郎法師井伊直盛娘)
正室:奥山親朝
直政政元
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井伊 直親(いい なおちか)は、戦国時代武将今川氏の家臣。遠江国国人井伊氏当主。井伊直満の子。

生涯

天文13年(1544年)、父が小野道高の讒言により今川義元に殺害されたために、幼少の直親は信濃国へ落ち延び、成人した後、弘治元年(1555年)に井伊谷へ復帰した。永禄3年(1560年)、先代当主で養父の直盛桶狭間の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野道高の息子・小野道好の讒言により、主君の今川氏真から松平元康との内通の疑いを受ける。縁戚であった新野親矩の取りなしで、弁明のためにわずかな供で駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)、掛川で今川家の重臣・朝比奈泰朝に襲撃を受けて討ち死にした。享年28。

これにより井伊氏は一時的に衰退した。家督は養父直盛の娘・直虎が継いだ。嫡男の虎松は流浪した末に直虎に代わって当主となり、徳川氏に仕え、のちの徳川四天王井伊直政となった。また、遠江国が家康の支配下になった後、直親の無実が証明され、讒言した小野道好は獄門になっている。

なお、具体的な事績には乏しいが、遠江国から逃れる際に直親を射殺そうとした右近次郎を復帰後に機略を用いて成敗したという伝承や、笛の名手で逃亡した際に援助を受けた僧に愛用の笛(青葉の笛)を寄進した伝承などがある。