「楫取美和子」の版間の差分
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玄瑞の死後、彼の遺稿や、文に宛てた書簡21通をまとめて「涙袖帖」<ref>この題は、[[赤穂浪士]]の一人・[[小野寺秀和|小野寺十内]]が討ち入り後の細川家預かりの身の時に妻・丹と交わした書簡をまとめた「涙襟集」に由来している(『物語 幕末を生きた女101人』33頁)。</ref>と題したのは次姉・寿の夫であった小田村伊之助だった。伊之助は22歳にして未亡人となった文の境遇を憐れみ、その身を案じている<ref>慶応元年 楫取素彦書簡</ref>。この間、文は藩世子[[毛利元徳|毛利定広]]正室・安子の女中、およびその長男[[毛利元昭|興丸]]の守役を勤めており、また美和の名もこの頃から使い始めている。 |
玄瑞の死後、彼の遺稿や、文に宛てた書簡21通をまとめて「涙袖帖」<ref>この題は、[[赤穂浪士]]の一人・[[小野寺秀和|小野寺十内]]が討ち入り後の細川家預かりの身の時に妻・丹と交わした書簡をまとめた「涙襟集」に由来している(『物語 幕末を生きた女101人』33頁)。</ref>と題したのは次姉・寿の夫であった小田村伊之助だった。伊之助は22歳にして未亡人となった文の境遇を憐れみ、その身を案じている<ref>慶応元年 楫取素彦書簡</ref>。この間、文は藩世子[[毛利元徳|毛利定広]]正室・安子の女中、およびその長男[[毛利元昭|興丸]]の守役を勤めており、また美和の名もこの頃から使い始めている。 |
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[[1876年]]より楫取素彦は群馬県令となるが、その妻であり文の実姉である寿は中風症に罹っていたため、文がしばしば楫取家に出入りし素彦の身辺の世話や寿の看病、家政全般を取り仕切っていた。 |
[[1876年]](明治9年)より楫取素彦は群馬県令となるが、その妻であり文の実姉である寿は中風症に罹っていたため、文がしばしば楫取家に出入りし素彦の身辺の世話や寿の看病、家政全般を取り仕切っていた。 |
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[[1881年]]([[明治]]14年)1月30日、次姉の寿が[[胸膜炎]]を併発し43歳で死去。2年後の[[1883年]](明治16年)、文は楫取素彦(小田村伊之助)と再婚するが、これには素彦の身辺と二人の孫の行く末を案じた母・瀧子の勧めがあった<ref>木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』159頁</ref>。 |
[[1881年]]([[明治]]14年)1月30日、次姉の寿が[[胸膜炎]]を併発し43歳で死去。2年後の[[1883年]](明治16年)、文は楫取素彦(小田村伊之助)と再婚するが、これには素彦の身辺と二人の孫の行く末を案じた母・瀧子の勧めがあった<ref>木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』159頁</ref>。 |
2014年12月28日 (日) 07:50時点における版
かとり みわこ 楫取 美和子 | |
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楫取美和子(萩博物館蔵) | |
生誕 |
杉 文 1843年[1] 長門国阿武郡萩 |
死没 |
1921年9月7日 日本 山口県佐波郡防府町 |
墓地 | 大楽寺(山口県防府市桑山) |
国籍 | 日本 |
職業 | 毛利家世子守役、皇女御付 |
配偶者 |
久坂玄瑞 (1857 - 1864) 楫取素彦 (1883 - 1912) |
親 |
父:杉百合之助(常道) 母:児玉瀧 |
親戚 |
杉修道(梅太郎・民治)(兄) 吉田松陰(寅次郎)(兄・吉田氏8代) 児玉芳子(姉・児玉祐之妻) 楫取寿(姉) 杉艶(姉) 杉敏三郎(弟) 玉木文之進(叔父・玉木氏7代) 吉田庫三(甥) 楫取道明(甥) 杉道助(大甥) 小田村四郎(義曾孫) |
楫取 美和子(かとり みわこ、天保14年(1843年)[1] - 1921年(大正10年)9月7日[2])は、江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての女性。幕末の思想家・吉田松陰の妹。松陰門下の秀才・久坂玄瑞に嫁いだが、禁門の変で久坂が自害して未亡人となる。後に実姉の元夫で群馬県令や貴族院議員を歴任した楫取素彦と再婚して多忙な素彦を支えた。旧姓名は杉 文(すぎ ふみ)。
生涯
天保14年(1843年)、杉百合之助(常道)の四女として誕生。文と名付けられ、これは叔父であり松下村塾の創立者である玉木文之進から一字をとって与えられた[3]。兄に梅太郎、寅次郎(吉田松陰、この頃すでに吉田家へ養子に出て家督を継いでいた)、姉に千代、寿、艶、弟に敏三郎がいた。艶は文の生後すぐに夭折し、長女の千代は児玉祐之に、次女の寿は小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとへそれぞれ嫁ぐ。
安政4年(1857年)12月5日、久坂玄瑞と結婚する。時に玄瑞18歳、文15歳。当初は勤王僧侶・月性が文を桂小五郎(後の木戸孝允)の妻に推したこともあったが、最終的には玄瑞の才を高く評価する松陰の強い勧めがあったという[4]。また、玄瑞に対しては松下村塾の年長者である中谷正亮が文との縁談を持ちかけた。この時、玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしたが、中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したという[5]。玄瑞はまもなく京都・江戸に遊学したり尊皇攘夷運動を率いて京都を拠点に活動するなど不在がちであった。元治元年7月19日(1864年8月20日)、禁門の変が起こり玄瑞は奮闘ののち自害した。
玄瑞の死後、彼の遺稿や、文に宛てた書簡21通をまとめて「涙袖帖」[6]と題したのは次姉・寿の夫であった小田村伊之助だった。伊之助は22歳にして未亡人となった文の境遇を憐れみ、その身を案じている[7]。この間、文は藩世子毛利定広正室・安子の女中、およびその長男興丸の守役を勤めており、また美和の名もこの頃から使い始めている。
1876年(明治9年)より楫取素彦は群馬県令となるが、その妻であり文の実姉である寿は中風症に罹っていたため、文がしばしば楫取家に出入りし素彦の身辺の世話や寿の看病、家政全般を取り仕切っていた。
1881年(明治14年)1月30日、次姉の寿が胸膜炎を併発し43歳で死去。2年後の1883年(明治16年)、文は楫取素彦(小田村伊之助)と再婚するが、これには素彦の身辺と二人の孫の行く末を案じた母・瀧子の勧めがあった[8]。
晩年は山口県防府市で過ごし、1921年(大正10年)に79歳で死去した。
年譜
- 天保14年(1843年)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東)に杉百合之助と瀧の四女として誕生。
- 嘉永6年(1853年)、次姉の寿と小田村伊之助(のち楫取素彦)が結婚。
- 安政4年(1857年)、久坂玄瑞と結婚。
- 安政6年(1859年)、兄・吉田松陰が江戸にて刑死。
- 元治元年(1864年)、玄瑞が禁門の変において自害。甥の粂次郎(寿と伊之助の子、のち道明)が養子となり久坂家を継ぐ。
- 慶応元年(1865年)、毛利定広の長男興丸(後の毛利元昭)が誕生し、文が興丸の守役となる。父・百合之助が死去。
- 慶応3年(1867年)、小田村伊之助が楫取素彦と改める。
- 明治12年(1879年)、玄瑞の遺児・秀次郎が久坂家を相続し、道明は楫取家へ戻る。
- 明治14年(1881年)、寿が病没。
- 明治16年(1883年)、楫取素彦と結婚。正式に美和子と改める。
- 明治23年(1890年)、母・瀧が死去。
- 明治25年(1892年)、夫・素彦と共に華浦幼稚園(現・鞠生幼稚園)[9]の設立に携わる[10]。
- 明治29年(1896年)、前年より教師として台湾に赴任していた道明が芝山巌事件により死亡。
- 明治30年(1897年)、夫・素彦が貞宮多喜子内親王の御養育主任を命じられる。美和子も貞宮御付となる。
- 大正元年(1912年)、夫・素彦が死去。
- 大正10年(1921年)、山口県防府町にて死去。防府市の大楽寺に夫・素彦と並んで眠る。
子女
久坂玄瑞、楫取素彦のいずれの間にも子はいないが、久坂家は玄瑞の京都妻の子・秀次郎、楫取家は素彦の前妻である寿の子・道明(道明の死後はその子・三郎)がそれぞれ家を継いでいる。
登場作品
小説
- 田郷虎雄『久坂玄瑞の妻』(1943年、翼賛出版協会)
テレビドラマ
- 楫取美和子(杉文)が主人公のテレビドラマ
- それ以外のテレビドラマ
脚注
- ^ a b ただし、『平成新修旧華族家系大成』上巻 440頁では弘化2年(1845年)3月1日生まれとなっている。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻 440頁
- ^ 吉田松陰書簡「文妹久坂氏に適くに贈る言」
- ^ 『物語 幕末を生きた女101人』31頁(なお、出典元では「月照」と記されているが、吉田松陰と親交があったのは月性の方である)
- ^ 関厚夫『ひとすじの蛍火―吉田松陰 人とことば』278頁
- ^ この題は、赤穂浪士の一人・小野寺十内が討ち入り後の細川家預かりの身の時に妻・丹と交わした書簡をまとめた「涙襟集」に由来している(『物語 幕末を生きた女101人』33頁)。
- ^ 慶応元年 楫取素彦書簡
- ^ 木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』159頁
- ^ ほうふweb歴史館 歴史年表「明治」
- ^ 鞠生幼稚園について
参考文献
- 木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』(大和書店、1980年)
- 日本史籍協会編『楫取家文書〈1・2〉』(東京大学出版会、1984年)
- 『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)
- 関厚夫『ひとすじの蛍火―吉田松陰 人とことば』(文春新書、2007年)
- 「歴史読本」編集部編『物語 幕末を生きた女101人』(新人物往来社、2010年)