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'''大雪丸'''(たいせつまる、Taisetsu Maru)は、[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[青函連絡船|青函航路]][[鉄道連絡船|車載客船]]。青函連絡船の大雪丸としては初代である。
'''大雪丸'''(たいせつまるは、かつて[[日本国有鉄道]](国鉄の[[青函連絡船|青函航路]]に就航していた[[鉄道連絡船|車載客船]]である。


青函連絡船の復興のため、[[運輸省]]鉄道総局が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の許可を受けて建造した[[鉄道連絡船|車載客船]]4隻の4番船。同型船には[[洞爺丸]]、[[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]]、[[摩周丸 (初代)|摩周丸]]がある。
青函連絡船の復興のため、[[運輸省]]鉄道総局が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の許可を受けて建造した[[鉄道連絡船|車載客船]]4隻の4番船。同型船には[[洞爺丸]]、[[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]]、[[摩周丸 (初代)|摩周丸]]がある。


[[洞爺丸台風]]に遭遇するも九死に一生の生還を果たし、その後も[[1964年]](昭和39年)8月末まで[[青函連絡船]]としての任務を全うした。 その後も中東紛争に巻き込まれるものの生き残るなど強運の船であったが、最後はアドリア海で火災による爆発で沈没するという数奇な運命をたどった。
[[洞爺丸台風]]に遭遇するも九死に一生の生還を果たし、その後も[[1964年]](昭和39年)8月末まで青函連絡船としての任務を全うした。その後も中東紛争に巻き込まれるものの生き残るなど強運の船であったが、最後は[[アドリア海]]で火災による爆発で沈没するという数奇な運命をたどった。

==車載客船建造までの経緯==
==車載客船建造までの経緯==
[[1945年]](昭和20年)7月14、15両日のアメリカ軍の空襲で、[[青函連絡船]]は一時全船稼働不能となり、終戦時稼働できたのは、比較的損傷が軽く、短期間で復帰できた[[第五青函丸|第七青函丸、第八青函丸]]の2隻と、船舶運営会から傭船した[[壱岐丸|樺太丸]](旧関釜連絡船初代[[壱岐丸]]1598総トン)<ref>青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>のみであった。しかし、終戦後、[[青函航路]]には多くの旅客や貨物が押し寄せたため、 [[関釜連絡船|関釜航路]]の[[景福丸]](3620総トン)、同航路の貨物船[[壱岐丸 (2代) |壱岐丸(2代)]](3519総トン)、[[稚泊連絡船|稚泊航路]]の[[宗谷丸]](3593総トン)をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱に対応し<ref>青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>、[[1947年]](昭和22年)9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船[[昌慶丸]]を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多―釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船[[徳寿丸]]も青函航路へ助勤させていた<ref>関釜連絡船史p117 p136~138 国鉄広島鉄道管理局1979</ref>。
[[1945年]](昭和20年)7月14、15両日のアメリカ軍の空襲で、[[青函連絡船]]は一時全船稼働不能となり、終戦時稼働できたのは、比較的損傷が軽く、短期間で復帰できた[[第五青函丸|第七青函丸、第八青函丸]]の2隻と、船舶運営会から傭船した[[壱岐丸|樺太丸]](旧関釜連絡船初代[[壱岐丸]]1598総トン)<ref>青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>のみであった。しかし、終戦後、[[青函航路]]には多くの旅客や貨物が押し寄せたため、 [[関釜連絡船|関釜航路]]の[[景福丸]](3620総トン)、同航路の貨物船[[壱岐丸 (2代) |壱岐丸(2代)]](3519総トン)、[[稚泊連絡船|稚泊航路]]の[[宗谷丸]](3593総トン)をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱に対応し<ref>青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>、[[1947年]](昭和22年)9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船[[昌慶丸]]を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多―釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船[[徳寿丸]]も青函航路へ助勤させていた<ref>関釜連絡船史p117 p136~138 国鉄広島鉄道管理局1979</ref>。

2014年12月9日 (火) 13:18時点における版

大雪丸

「Sol Phryne」時代の船影
船歴
建造所 三菱重工業神戸造船所
起工 1947年(昭和22年)3月26日
進水 1948年(昭和23年)3月13日
竣工 1948年(昭和23年)10月25日
就航 1948年(昭和23年)11月27日
終航 1964年(昭和39年)8月31日
要目(新造時)
船種 車載客船
総トン数 3,885.77トン
全長 118.7m
垂線間長 113.2m
幅(型) 15.85m
深さ(型) 6.80m
満載喫水(型) 4.90m
ボイラー(台数) 三菱三胴型水管缶(6)
主機械(台数) 三菱神戸式1段減速歯車付衝動反動タービン(2)
公試最大出力 6,070軸馬力
定格出力 2250軸馬力×2
公試最大速力 17.61ノット
航海速力 14.5ノット
乗組員 125名 
旅客定員 934名 
車両積載量 ワム換算18両
姉妹船 洞爺丸羊蹄丸摩周丸
船名符字 JTBP(JQQX)[1]

大雪丸(たいせつまる)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)の青函航路に就航していた車載客船である。

青函連絡船の復興のため、運輸省鉄道総局がGHQの許可を受けて建造した車載客船4隻の4番船。同型船には洞爺丸羊蹄丸摩周丸がある。

洞爺丸台風に遭遇するも九死に一生の生還を果たし、その後も1964年(昭和39年)8月末まで青函連絡船としての任務を全うした。その後も中東紛争に巻き込まれるものの生き残るなど強運の船であったが、最後はアドリア海で火災による爆発で沈没するという数奇な運命をたどった。

車載客船建造までの経緯

1945年(昭和20年)7月14、15両日のアメリカ軍の空襲で、青函連絡船は一時全船稼働不能となり、終戦時稼働できたのは、比較的損傷が軽く、短期間で復帰できた第七青函丸、第八青函丸の2隻と、船舶運営会から傭船した樺太丸(旧関釜連絡船初代壱岐丸1598総トン)[2]のみであった。しかし、終戦後、青函航路には多くの旅客や貨物が押し寄せたため、 関釜航路景福丸(3620総トン)、同航路の貨物船壱岐丸(2代)(3519総トン)、稚泊航路宗谷丸(3593総トン)をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱に対応し[3]1947年(昭和22年)9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船昌慶丸を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多―釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船徳寿丸も青函航路へ助勤させていた[4]

実施可能な旅客輸送力回復策として、本来は旅客設備を持たない車両渡船の船楼甲板に旅客用甲板室を造設し、客載車両渡船化する工事を、当時就航中および就航予定の全車両渡船に施工する方針をとり、1946年(昭和21年)年5月には 第八青函丸への旅客用甲板室設置と、建造中に旅客用甲板室を造設した新造船 第十二青函丸の就航を見たが、進駐軍はその直後の1946年(昭和21年)年6月に、就航中ならびに今後就航予定の全客載車両渡船を進駐軍専用船に指定する、との指令を出したため、この目論見は頓挫した。

当時の車両渡船は、新造船も含め、戦時標準船で劣悪な船質のうえ、十分な補修もされず酷使され続けたことで、故障や事故が頻発し[5]、一向に貨車航送能力は回復しなかった。これに業を煮やした進駐軍の命令で、貸与されたLST戦車揚陸艦)を車両渡船に改造し、1946年(昭和21年)3月31日から貨車航送を開始したが[6]、期待通りの結果は得られず[7]、青函航路の貨車航送能力は低迷したままで、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなった。

このような状況下の1946年(昭和21年)7月、運輸省鉄道総局はGHQより青函航路に車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻という大量の連絡船建造の許可を取り付けることに成功した[8]。この車載客船の1隻が大雪丸であった。

大雪丸は三菱重工神戸造船所で、第1船の洞爺丸が同造船所で進水したその日の 1947年(昭和22年)3月26日に起工し、翌1948年(昭和23年)10月25日竣工、同11月27日に青函航路に就航した。

概要

船体構造

車載客船としての基本構造は1924年(大正13年)に建造された翔鳳丸型に準じたもので、戦時中、博釜航路へ投入予定で設計されたH型戦時標準船石狩丸(初代)の船体線図を一部修整のうえ使用し[9]、二重底に変更するなど平時仕様で建造された。垂線間長113.2mはH型船と同一で、翔鳳丸型に比べ、全長が約9m延長され118.7mとなり、総トン数も3400トン級から3800トン級へと大型化した。船尾の車両積込口は開口した仕様のまま引き継がれた。

旅客定員は新造時934名[10][11][12]と、翔鳳丸型と同等であったが、車両甲板両舷中2階の、 翔鳳丸型では幅の狭い暴露甲板で、左舷のみ3等旅客に開放されていた下部遊歩甲板を拡幅し、舷側外板で囲い、大型の窓を多数設け、両舷とも3等船室とし、左舷には3等出入口、3等食堂、3等椅子席を、右舷には3等椅子席を設置した。車両甲板の船内軌道は、船尾端では1線で、すぐ分岐し、車両甲板の大部分で2線平行となるよう敷設され、積載車両数もワム換算18両と、翔鳳丸型より7両減であった[13][14]。しかし、1951年(昭和26年)9月施行の規程では、既にワム換算積載車両数19両に改定されていた[15]

3等船室はこのほか、翔鳳丸型同様に車両甲板下の第二甲板のボイラー室と機械室の前後に畳敷き雑居室が設けられた。

車両甲板天井に相当する上部遊歩甲板は、前方が個室寝台の1等船室区画で定員46名、その後方には、両舷にわたる1等出入口広間、その後方左舷側には1、2等食堂があった。この右舷側は通路兼用の喫煙室で、食堂との仕切りはガラス格子になっていた。食堂の後方は、開放2段寝台室で定員30名の2等寝台室、2等出入口広間と続き、その後方に定員194名のじゅうたん敷きの2等雑居室があった[16]

従来の青函連絡船同様、石炭焚きボイラーに蒸気タービン2台2軸を採用し、缶数も6台に戻ったが、本船と羊蹄丸(初代)では、乾熱室式円缶が調達できず、三菱式水管缶使用となった[17]。ボイラーからの煙路は第一青函丸以来の車両渡船同様両舷に振り分けたが、車両格納所が2線と狭いため、上部遊歩甲板の甲板室壁内に収まっていた。終戦後の粗悪炭使用を考慮し、煙道を太くしたこともあり、2列に並ぶ4本の煙突はわずかに後ろへ傾斜し、大きく立派なものとなったが、風圧面積を増加させる結果となった[14]。これにより、煙突は2列に並ぶ4本となり、堂々たる印象を与えた。

運航

青森函館間の所要時間は、1944年(昭和19年)4月からの翔鳳丸型とほぼ同様の、下り4時間30分、上り4時間40分とした。 1948年(昭和23年)11月27日の本船就航により、戦後建造に着手した車載客船4隻と車両渡船4隻全てが出揃った。これで、車両航送のできる船は14隻となり、数の上では戦時中の12隻を超えた。しかし、事故や故障が頻発して休航も多く、1949年(昭和24年)夏までは景福丸徳寿丸も運航に加わっていた。

これより前の 1947年(昭和22年)10月からはLSTを含む諸船を含めて15往復運航であったが、1949年(昭和24年)10月から旅客便5往復貨物便13往復の計18往復となり、同年の貨物輸送量は350万トンを突破して、1943年(昭和18年)の実績364万トンに迫るものであった[18]

しかし、1951年(昭和26年)5月から1953年(昭和28年)9月までは、たびたび出現する浮遊機雷への警戒のため、夜間運航中止を余儀なくされることがたびたびあったが、以後は18往復に戻されていた[19]。それでも貨物輸送量は1951年(昭和26年)には440万トンと戦時中の実績(1944年385万トン)を上回り、旅客輸送人員も1953年(昭和28年)には215万人と戦時中の実績(1943年210万人)を上回っていた[20]

1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風では連絡船が5隻も沈没し、9月28日には上り11航海、下り9航海を行い、9月29日から13往復、10月1日からは下関に係船中の徳寿丸 [21]の、10月13日からは室蘭または戸畑から国鉄川崎火力発電所への石炭輸送に従事していた 宗谷丸の助勤を得て[22]、10月18日より旅客便5往復貨物便11往復の計16往復を開始した[23]。更に急遽新造した車両渡船檜山丸(初代)、空知丸(初代)の就航により、1955年(昭和30年)10月1日からは旅客便5往復貨物便13往復の計18往復に1往復の臨時便の設定となった[24]

1957年(昭和32年)9月には徳寿丸が去り、10月には洞爺丸の代替船として建造した車載客船 十和田丸(初代)が就航し、再び車両航送できる船14隻の体制に戻ったが、折りしも、なべ底不況で、しばらくこの便数に変化はなかった。なお1958年(昭和33年)の貨物輸送量は439万トンに留まったが、旅客輸送人員は景気動向に関係なく263万人に増加した[25]

しかし1959年(昭和34年)後半からは岩戸景気の影響で貨物輸送量が伸び、1961年(昭和36年)夏には滞貨を擁する事態となり、この年の貨物輸送量は521万トン、旅客は319万人に達した[26]

このため、1961年(昭和36年)10月1日ダイヤ改正では、連絡船の機関整備のための休航から休航までの間隔を延ばして運航数を増やす手法で[27]、客貨便5往復、貨物便14往復計19往復に臨時便2往復と増発した。またこの改正では、函館旭川間に北海道初の特急おおぞら」1往復が新設され、上野発着の常磐線経由の東北本線特急「はつかり」、新設の大阪発着の日本海縦貫線特急「白鳥」と青函連絡船の深夜便を介して接続されることになり、下り1便では4時間25分、上り2便では4時間30分運航と、わずかながらスピードアップを果たした[28]

1964年(昭和39年)5月10日には津軽丸、8月12日には 八甲田丸が就航し、本船は1964年(昭和39年)8月31日、沈没を免れた洞爺丸型3隻の中で最初に終航を迎えた。

洞爺丸事件

洞爺丸沈没の原因

洞爺丸台風当夜の函館湾は波高6m、波周期9秒、波長約120mで、洞爺丸型の水線長115.5mよりわずかに長く、このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたピッチング状態の、まさにそのとき、下がった船尾は波の谷間ではなく、谷の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に突っ込んでしまい、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減ることも判明した。

しかし、洞爺丸型のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入しても、その滞留量は250トンとも360トンとも言われ[29][30]るが、この程度では転覆することはない、とされた[31]。しかし、石炭焚き蒸気船では、石炭積込口等、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これらの閉鎖が不完全で、滞留した海水がこれら開口部から機関室へ流入し、機関停止に至り、操船不能に陥ったことが洞爺丸沈没の要因とされた[32]

洞爺丸台風の夜の大雪丸

当初は防波堤内で錨泊してこの台風をかわそうとしたが、他船、自船の走錨があり、避難船で輻輳する防波堤内では衝突の恐れが出たため、急遽防波堤外へ脱出して錨泊した。しかし、そこでも猛烈な波浪に翻弄され、走錨激しく、やむなく風に向かって船首を立て、蜘躊しつつ「南西の風は桶元へ行け」との経験則に従い木古内湾南端の桶元錨地を目指した。浸水による機関や舵の故障に見舞われながらも、乗組員の懸命の努力により桶元錨地手前の知内沖にたどり着き、沈没を免れた[33]

このとき、大雪丸は、積載車両を降ろしており、その分喫水が浅く車両甲板位置が高く、海水の浸入が相対的に少なかった。そのうえ車両がなかったため車両甲板の開口部閉鎖作業に支障をきたすものがなかった等の幸運に恵まれた[34]。それでもボイラー室や機械室への浸水は少なくなく、潤滑油ポンプが故障し、主機も一時的に停止する等の事故は起きていた。

洞爺丸事件後の安全対策

洞爺丸事件の重大さに鑑み、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同年11月にやはり学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した[35]。これらの審議会では、青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、答申書が出された。それに従って、沈没を免れた連絡船も種々の改良工事を受けた。

1955年(昭和30年)12月には下部遊歩甲板の角窓を水密丸窓として完全な予備浮力とし、照明を蛍光灯とした[36]

救命艇を吊り下げるボートダビットは、端艇甲板から救命艇を海面に降ろすとき、まず救命艇を手動で舷外へ振り出す操作が必要で、これでは人手と時間がかかり、非常時の間に合わないため、ブレーキを外すだけで、救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットに交換された[37]

非常時の車両甲板下の第二甲板の3等船室から上部遊歩甲板への脱出路となる階段は、従来は最も面積をとらないよう、各階とも同一場所に同一方向に設置されていたため、各階ごとに後ろへ回り込まなければ上がれなかったのを、階段配置が直線になるよう改造された[38][36]

車両甲板上の石炭積込口を含む開口部の敷居の高さを61cm以上とし、車両甲板上に大量の海水が浸入しても、機械室やボイラー室へ流れ込まないようにし[39][40]、これらの部屋の換気口も閉鎖して電動換気とした。それに伴い200kVAの補助発電機1台を追加設置したが、主発電機(500kVA 2台)との並列運転はできなかった。また、従来は機械室床下にあった発電機を床上に上げて、ビルジに浸からないようにした[41][42]

1960年(昭和35年)3月には、1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)と同構造の船尾水密扉が設置された[43][44]。この工事では、船尾扉設置位置をできるだけ船尾側へ寄せるため、甲板室後部端から船尾に至る船内軌道の“屋外”部分を鋼鉄製の“トンネル”で覆い、その後端に船尾扉を設置した。このため、車両甲板後端(エプロン甲板との段差)から船尾扉下端まで約2mと十和田丸(初代)より約4mも船尾側に船尾扉を設置できたため、ワム換算積載車両数19両を維持できた。これに伴い、端艇甲板の船尾側を“トンネル”の上へ張り出し、“トンネル”上に組んだ櫓でこの部分を支え、後部操縦室(ポンプ操縦室)をその上に移した。

この工事では、無煙化と車両甲板面の一層の水密性向上を目指し、石炭積込口不要のC重油専燃式にボイラーを改造した。重油焚きでは石炭焚きに比べ1缶当たりの蒸発量が増大し、5缶で同等性能が確保されるため、右舷最後部の6号缶を撤去し、そのあとに燃料タンクを設置した[45][46]。このとき外舷色は黒から十和田丸(初代)に似た緑(10GY5/4)に変更された[47]。船尾水密扉設置により車両格納所容積も加算されて5855.01総トンとなった。

青函航路終航後

1966年(昭和41年)2月に売却され、その後海外に転売された。機関をディーゼルに換装するなど大改装、ギリシャEfthymiades Lineで「AEOLIS」として使用された後、キプロス・Sol Linesで「Sol Phryne」の名でピレウス(ギリシャ)~ロードス(ギリシャ)~リマソール(キプロス)や、チュニス(チュニジア)~リマソール~ベイルート(レバノン)間のカーフェリーなどとして活躍したが、その後PLOに売却され、リマソール港で停泊中にイスラエルの特殊部隊の破壊工作により船体外板に損傷を受け、修理復帰するなど流転の運命をたどった。しかし、1991年12月 6日、ホンジュラス船籍の船としてアドリア海を航行中に火災が発生し、搭載車両に引火・爆発し沈没、その数奇な運命を閉じることとなった。

沿革

青函連絡船時代

  • 1947年(昭和22年)3月26日三菱重工神戸造船所にて起工。
  • 1948年(昭和23年)3月13日 ― 進水。
  • 1950年(昭和25年)12月―レーダー装備(飯野産業舞鶴造船所[49][50]
  • 1951年(昭和26年)5月18日―浮遊機雷流入のため―洞爺丸型による寝台車航送休止[48]
  • 1954年(昭和29年)9月26日― 洞爺丸台風に遭遇
    • 10:00 青森を出港。
    • 14:40 函館港に到着したが、函館第1岸壁には洞爺丸着岸しており、第2岸壁では第十一青函丸が着岸作業中のため防波堤外で錨泊待機[51][33]
    • 16:55 函館第2岸壁に着岸[52]
    • 17:25 乗客と貨車を降ろし離岸[33]
    • 17:40 防波堤内に錨泊[51][33]
    • 19:16 防波堤内は避難船で輻輳しており、イタリア船籍の修繕船アーネスト号(7341総トン)の走錨、自船の走錨もあり、防波堤外への脱出を決定、揚錨開始[52][51]。揚錨中日高丸に接近[33]
    • 19:20 右舷錨が第六青函丸 に接触[53]
    • 19:31 55mを超える暴風雨で防波堤灯台は消灯し、視界が利かないまま、レーダーに頼って防波堤外へ脱出[33]
    • 19:40 防波堤外に投錨[33]
    • 19:58 走錨激しく、北防波堤に接近したため、揚錨開始、車両甲板へ打ち込んだ海水はボイラー室前方に達した[52]、機械室では海水が夕立のように降り注いだ[54]
    • 20:07 機関停止し1分ほどで回復揚錨完了後、蜘躊開始、桶元を目指す[52][33]
    • 20:30 錨泊中の北見丸に接近[33]
    • 20:10 葛登支岬灯台並航、風速40m、この時のプロペラ回転数150rpmで対地速力2ノット弱[33]
    • 21:40 操舵機室浸水のため操舵不能となり、以後両舷機を種々使用して針路維持[52][33]
    • 22:00 機関室排気口鉄フタ間隙より浸水し、潤滑油ポンプ故障、約5分間機関停止[52][33]
    • 9月27日 0:10 木古内湾知内沖に投錨。沈没は免れたが航行不能となる[52][33]
    • 15:40 補助汽船の助けで操舵機室排水完了。
    • 9月28日 6:05抜錨、人力操舵で函館に向かう[55]。 
  • 1955年(昭和30年)12月 ―下部遊歩甲板 水密丸窓化 重力型ボートダビット装備(新三菱重工神戸造船所[37][44]
  • 1956年(昭和31年)6月1日 ―国鉄が1等を廃止したため、1等船室は2等A寝台に、2等寝台は2等B寝台となった[56]
  • 1958年(昭和33年)4月 ―2等B寝台撤去し2等婦人雑居室とし、右舷下部遊歩甲板の3等椅子席の船尾部分を2等雑居室に改装[36]
  • 1960年(昭和35年)3月 ― 船尾水密扉設置 ボイラー重油専燃化 6缶から5缶に 塗装変更(川崎重工神戸工場)5855.01総トン[43] [57][58]
    • 7月1日―国鉄が、従来の2等を1等に、従来の3等を2等に呼称変更し、3等の呼称を廃止した[56]
  • 1961年(昭和36年)6月28日―1等出入口広間から喫煙所にかけての広間に1等指定椅子席としてリクライニングシート60席が設置された[36][59]
    • 10月1日 特急接続便の1便4時間25分運航 2便4時間30分運航[28]
  • 1964年(昭和39年)8月31日 ―青函航路での終航。

終航後

外部リンク


脚注

  1. ^ 1949年1月から( )内の符字へ変更:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p260 成山堂書店1988
  2. ^ 青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  3. ^ 青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  4. ^ 関釜連絡船史p117 p136~138 国鉄広島鉄道管理局1979
  5. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p96 朝日イブニングンニュース社1983
  6. ^ 青函連絡船史巻末附表p6 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  7. ^ 青函連絡船栄光の航跡p322 北海道旅客鉄道株式会社1988
  8. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p114 成山堂書店1988
  9. ^ 山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960
  10. ^ 山本煕 車両航送 巻末表30 日本鉄道技術協会1960
  11. ^ 航跡p273 国鉄青函船舶鉄道管理局1979
  12. ^ 鉄道連絡船100年の航跡p341 成山堂書店1988
  13. ^ 鉄道技術発達史第6篇(船舶)p59 日本国有鉄道1958
  14. ^ a b 山本煕 車両航送p262 日本鉄道技術協会1960
  15. ^ 青函連絡船車両航送取扱手続 第5条 青函鉄道管理局報1951.8.29.
  16. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p121~126 成山堂書店1988
  17. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p285 成山堂書店1988
  18. ^ 青函連絡船史p239 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  19. ^ 青函連絡船史p201~203 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  20. ^ 青函連絡船史p225、p237、p239 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  21. ^ 1957年8月31日まで運航、9月13日広島鉄道管理局へ転属:青函連絡船史p203、p227、附表p10 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  22. ^ 1954年12月25日広島鉄道管理局へ返還:青函連絡船史附表p10 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  23. ^ 青函連絡船史附表p10 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  24. ^ 青函連絡船史p203 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  25. ^ 青函連絡船史p203~205、p227、p241 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  26. ^ 青函連絡船史p227、p241、242 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  27. ^ 青函連絡船史p220 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  28. ^ a b 日本国有鉄道監修時刻表第37巻10号p350、351 p358、359日本交通公社1961
  29. ^ 360トン:古川達郎 連絡船ドックp63 船舶技術協会1966
  30. ^ 250トン:田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p155 成山堂書店1997
  31. ^ 古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966
  32. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p318、319 成山堂書店1988
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m 台風との斗いp14、15 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  34. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p81 成山堂書店1997
  35. ^ 古川達郎 連絡船ドックp63、64 船舶技術協会1966
  36. ^ a b c d 青函連絡船史p90 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  37. ^ a b 古川達郎 連絡船ドックp132 船舶技術協会1966
  38. ^ 古川達郎 連絡船ドックp130 船舶技術協会1966
  39. ^ 山本煕 車両航送p292 日本鉄道技術協会1960
  40. ^ 古川達郎 連絡船ドックp73 船舶技術協会1966
  41. ^ 洞爺丸海難誌p254 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  42. ^ 青函連絡船史p162 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  43. ^ a b 古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966
  44. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p322 成山堂書店1988
  45. ^ 青函連絡船史p166 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  46. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 成山堂書店1988
  47. ^ 古川達郎 連絡船ドックp191 船舶技術協会1966
  48. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船細見p146 JTBパブリッシング2008
  49. ^ 青函連絡船史p216 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  50. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p309 成山堂書店1988
  51. ^ a b c 洞爺丸海難誌p67 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  52. ^ a b c d e f g 山本煕 車両航送p287、288 日本鉄道技術協会1960
  53. ^ 台風との斗いp18 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  54. ^ 復刻・台風との斗いp59 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  55. ^ 青函連絡船史p466 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  56. ^ a b 北海道鉄道百年史(下巻)p191 国鉄北海道総局1981
  57. ^ 青函連絡船史p217 巻末附表p16 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  58. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 p322 成山堂書店1988
  59. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp15 船舶技術協会1971
  60. ^ 北海道鉄道百年史下巻p163 国鉄北海道総局1981
  61. ^ 青函連絡船栄光の航跡p370 北海道旅客鉄道株式会社1988