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* [http://www.chuyakan.jp/ 中原中也記念館]
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* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person26.html 中原 中也:作家別作品リスト]([[青空文庫]])
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* [http://www.meisakulive.com/books/index/author:%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E4%B9%9F 中原 中也:作家別作品リスト]([[名作ライブ]])
* [http://www.geocities.jp/scaffale00410/chuyatop.htm 中原中也 誰がどの詩に作曲したかなど(日本詩人愛唱歌集)]
* [http://www.geocities.jp/scaffale00410/chuyatop.htm 中原中也 誰がどの詩に作曲したかなど(日本詩人愛唱歌集)]
* [http://www.yuda-nishimuraya.co.jp/ 中原中也が挙式をした旅館]
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2009年6月11日 (木) 10:46時点における版

中原中也(銀座有賀写真館で撮影)
中原中也記念館

中原 中也(なかはら ちゅうや、明治40年(1907年4月29日 - 昭和12年(1937年10月22日)は、山口県山口市湯田温泉生まれの詩人歌人翻訳家。旧姓柏村。350篇以上もの詩を残し、それらの一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』に収録されている。また、『ランボオ詩集』を出すなど、フランスの詩人の紹介にもつとめた。

略歴

  • 1907年(明治40年) 軍医であった父謙助と、母フクの長男として生まれる。
  • 1909年(明治42年) 父の転勤で広島金沢に移り住む。
  • 1914年大正3年) 山口に戻る。
  • 1915年(大正4年) 弟の亜郎が病死する。弟の死を歌ったのが最初の詩作だと、中也は後に書いている。
  • 1920年(大正9年) 雑誌『婦人画報』2月号にて、短歌『筆とりて』が入選。同時期に、地元の新聞『防長新聞』に短歌3首が掲載された。4月、県立山口中学(現山口県立山口高等学校)に入学。
  • 1922年(大正11年) 2人の友人とともに歌集『末黒野』を刊行。
  • 1923年(大正12年) 山口中学を落第し、京都の立命館中学校の3年生に転入。

   高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒するようになる。この年の末に女優志望で広島出身の長谷川泰子を知り、翌年より同棲。

  • 1924年(大正13年) 富永太郎と出会い、フランス詩への興味を抱く。
  • 1925年(大正14年) 立命館中学の卒業を待たず、泰子とともに上京早稲田大学予科を志すも果たさず。同年、小林秀雄と出会う。11月、泰子が小林の元に去る。富永病没。
  • 1926年(大正15年・昭和元年) 日本大学予科文科へ入学するも9月に退学する。11月頃、アテネ・フランセへ通う。『山繭』に『夭折した富永』を寄稿。
  • 1927年(昭和2年) 作曲家諸井三郎と出会い、彼を通して、諸井や河上徹太郎らにより結成されていた音楽団体「スルヤ」に出入りするようになる。
  • 1928年(昭和3年) 「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙介死去。
  • 1929年(昭和4年) 河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。
  • 1931年(昭和6年) 東京外国語学校専修科仏語部に入学。
  • 1933年(昭和8年) 東京外国語学校を卒業。5月に、同人誌『紀元』に参加。12月、遠戚の上野孝子と結婚する。『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を三笠書房より刊行。
  • 1934年(昭和9年)檀一雄山岸外史太宰治木山捷平津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。長男文也が生まれる。年末には、はじめての詩集である『山羊の歌』を文圃堂より刊行。
  • 1935年(昭和10年) 5月、草野心平逸見猶吉、高橋新吉らとともに『歴程』を創刊。12月には同人誌『四季』に参加。
  • 1936年(昭和11年) 定職を得ようとNHK入社を志すも面接で失敗。6月、『ランボオ詩抄』を山本書店より刊行。11月、文也死去。子供の死にショックを受け、精神が不安定になる(このため翌年1月~2月の間、千葉市中村古峡療養所に入院)。12月、次男愛雅が生まれる。退院後、鎌倉市寿福寺に転居。
  • 1937年(昭和12年) 2冊目の詩集『在りし日の歌』の刊行を計画し、9月に清書を終える。同月、『ランボオ詩集』を野田書店より刊行。10月、故郷に移住の予定であったが、結核性脳膜炎を発症し、死去。同月24日には寿福寺告別式法号は放光院賢空文心居士。墓所は山口市(旧吉敷郡)。
  • 1938年(昭和13年) 次男愛雅死去。創元社より『在りし日の歌』を刊行。
  • 1994年平成6年) 山口市湯田温泉の生家跡地に中原中也記念館が開館
  • 1996年平成8年) 山口市等が新たに中原中也賞を創設

単行本・全集

  • 詩集
    • 『山羊の歌』(1934年。文圃堂)
    • 『在りし日の歌』(1938年。創元社)
  • 翻訳
    • 『ランボオ詩集(学校時代の詩)』(1933年。三笠書房)
    • 『ランボオ詩抄』(1936年。山本書店)
    • 『ランボオ詩集』(1937年。野田書店)
  • 全集(これまでに4度刊行)
    • 『新編中原中也全集』(全5巻、別巻1。2000~2004年。角川書店)…最新の全集

詩碑

  • 桑名駅1番ホームの桑名駅開業100周年碑に『桑名の駅』

中也と作曲

中也の詩のなかで、最初に活字になったものは『朝の歌』と『臨終』である。それらは諸井三郎により歌曲になり、1928年の第2回スルヤ演奏会で歌われたのだが、その際、機関誌『スルヤ』に歌詞として掲載されたのである。詩集どころか詩さえも発表していない、ゆえにまったくの無名といっていい詩人の作品に音楽がつくのは、きわめて珍しいケースであるといえる。

諸井は、中也の生前、彼の詩『空しき秋』『妹よ』『春と赤ン坊』に曲をつけ、中でも『妹よ』はJOBKで放送された。また、『スルヤ』の同人であった内海誓一郎は、1930年に『帰郷』『失せし希望』に作曲している。

中也の死後、石渡日出夫清水脩多田武彦らをはじめとして多くの作曲家が曲をよせている。クラシック系の歌曲、合唱曲が多いが、演歌フォークソングも生まれている。とりわけ、友川かずきによるアルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』が知られている。中也の友人であった作家の大岡昇平も、『夕照』『雪の宵』の2篇に作曲している。

海援隊の「思えば遠くに来たものだ」という曲は中也の「頑是ない歌」を基にしてる物と思われるほど共通点が多いが、クレジットには作詞:武田鉄矢とのみ記載され、武田自身もインタビューで「この詩は自分が20代の時に感じた物を素直に書いたもので、今考えると20代の若造がよくもこんな深い詩が書けた物だと、自画自賛ながら感心してしまう」と自らのオリジナル作品であると述べている。

関連書籍

ここでは、中也の親族や知人の手によるものを紹介する。

  • 村上護編、中原フク述『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』(講談社文芸文庫
  • 中原思郎『中原中也ノート』(審美社)
  • 中原呉郎『海の旅路 中也・山頭火のこと』(昭和出版)
  • 大岡昇平『中原中也』(講談社文芸文庫)、『生と歌 中原中也その後』(角川書店
  • 村上護編、長谷川泰子述『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』(講談社
  • 河上徹太郎『わが中原中也』(昭和出版)
  • 安原喜弘『中原中也の手紙』(玉川大学出版部)
  • 野々上慶一『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』(小沢書店)、『中也ノート 私と中原中也』(かまくら春秋社)
  • 野田真吉『中原中也 わが青春の漂泊』(泰流社

映像

  • 『汚れっちまった悲しみに』(1990年フジテレビ系にてドラマ化)
  • ETV特集「2007年は中原中也生誕100周年」(NHK)
  • 火宅の人」(東映)
  • ウルトラマン』第18話「遊星から来た兄弟」(1966年11月13日放送) のザラブ星人登場時の御釜帽にマントの姿は中原中也を模していると思われる

関連

外部リンク