山背大兄王

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山背大兄王
聖徳太子二王子像」。向かって右の人物が山背大兄王とされる。
続柄 厩戸皇子第一王子

身位
出生 不明
日本の旗 日本
死去 皇極天皇2年11月11日643年12月30日
日本の旗 日本
配偶者 舂米女王
子女 難波麻呂古王、麻呂古王、弓削王、甲可王、尾治王、佐々女王、三嶋女王
父親 厩戸皇子
母親 蘇我刀自古郎女
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山背大兄王(やましろのおおえのおう、生年不詳[1][2] - 皇極天皇2年11月11日643年12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。『上宮聖徳法王帝説』より厩戸皇子(聖徳太子)の子。母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。

生涯[編集]

『日本書紀』皇極紀[3][4]によると、推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子らと皇位を争うが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位(舒明天皇)する。

山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、山背大兄王が用明天皇の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかった[5]

他にも、まだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説、彼の母親が大王家ではない蘇我家の出という卑しい出自、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある[要出典]

だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、山背大兄王と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。

皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多土師猪手大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、菟田諸石伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる[注釈 1]。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。

当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。

さらに山背大兄王の襲撃には、軽王(のちの孝徳天皇)など、多数の皇族が加わっていたと言われており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。

山背大兄王が逃げるよう進言された深草屯倉は、上宮王家が所有し、秦氏が管理経営した屯倉であり、東国の乳部を頼るように言われたのは、秦氏が上宮王家の所有した乳部の管理者だったからである[6]

上宮王家滅亡事件の真の首謀者は、皇極天皇であり、動機は敏達天皇後裔王統の復活や、上宮王家から仏教興隆の権威や建築技術、経済開発の主導権を奪うことにあったとする説が存在する[7]

史料に見える山背大兄王[編集]

上宮聖徳法王帝説[編集]

上宮聖徳法王帝説[8][9]では、厩戸豊聰耳聖徳法王、聖王の児、山代大兄(此王有賢尊之心棄身命而愛人民也、後人与父聖王相濫非也)とされ、母は、蘇我馬古叔尼大臣娘の刀自古郎女、妻は舂米女王、子は難波麻呂古王、麻呂古王、弓削王、佐々女王、三嶋女王、甲可王、尾治王が生まれたとされる。

癸卯年10月14日に、蘇我豊浦毛人大臣の子の入鹿臣□□林太郎が伊加留加宮にいた山代大兄とその昆弟等、合せて15人をことごとく滅した(「飛鳥天皇御世 癸卯年十月十四日 蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣□□林太郎 坐於伊加留加宮 山代大兄及其昆弟等 合十五王子等悉滅之也」)と記述されている(□は欠字)。

聖徳太子伝補闕記[編集]

『聖徳太子伝補闕記』[10]には、

癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害 (今見計名有廿五王)山代大兄王蘇、殖栗王、茨田王、乎末呂王、菅手古女王 舂米女王膳 近代王 桑田女王 礒部女王 三枝末呂古王膳 財王蘇 日置王蘇 片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王 于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王

とある。

癸卯年11月11日(643年12月30日)丙戌亥時に太子子孫を宗我大臣并林臣入鹿が殺し、6日後の辛卯辰時に大狛法師[注釈 2]が事件後6日後に斑鳩寺にいた山背大兄王の息子弓削王を殺したと記述されている。

系譜[編集]

山背大兄王の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第26代 継体天皇(=20)
 
 
 
 
 
 
 
8. 第29代 欽明天皇(=10)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 手白香皇女(=21)
 
 
 
 
 
 
 
4. 第31代 用明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 蘇我稲目(=12,22)
 
 
 
 
 
 
 
9. 蘇我堅塩媛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 厩戸王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 第26代 継体天皇(=16)
 
 
 
 
 
 
 
10. 第29代 欽明天皇(=8)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 手白香皇女(=17)
 
 
 
 
 
 
 
5. 穴穂部間人皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 蘇我稲目(=12,18)
 
 
 
 
 
 
 
11. 蘇我小姉君
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 山背大兄王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 蘇我高麗
 
 
 
 
 
 
 
12. 蘇我稲目(=18,22)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 蘇我馬子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 刀自古郎女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
兄弟姉妹

母・刀自古郎女

  • 財王
  • 日置王
  • 片岡女王

母・橘大郎女

  • 白髪部王
  • 手島女王

母・膳大郎女

妻子

舂米女王

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富郷陵墓参考地
奈良県生駒郡斑鳩町
西宮古墳
(奈良県生駒郡平群町

山背大兄王に関して、宮内庁による治定墓はない。ただし、奈良県生駒郡斑鳩町三井にある宮内庁の富郷陵墓参考地(とみさとりょうぼさんこうち)では、山背大兄王が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「三井岡原古墳」。直径約30メートルの円墳である[11]

山背大兄王の墓について、『延喜式諸陵寮では「平群郡北岡墓」として記載され、大和国平群郡の所在で、兆域は東西3町・南北2町で墓戸2烟を毎年あてて、頒幣の例には入らないとする[12]。陵墓名に郡名が入るのは本墓のみになる[12]。現在の富郷陵墓参考地(三井岡原古墳)は、法輪寺付近の「岡の原」と称される丘陵頂上に位置する古墳で、かつて山背大兄王の墓所とする伝承があったことから陵墓参考地に治定された。しかし考古学的には、当該時期の古墳が丘陵頂部に築造される例はほとんどないことから、否定的な見解が強い[13]

一方で近年では、奈良県生駒郡平群町西宮にある西宮古墳を山背大兄王の真墓とする説が挙げられている[13]。同説では、江戸時代の『大和名所記』・『和漢三才図会』に北岡墓は平群川(現在の竜田川)西側に所在する旨が記されることや、築造時期、墳丘規模、石室規模が根拠とされる[13]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、上宮王家がこの時に全員死亡したとする説には疑問を持つ見方もある。例えば、『聖徳太子伝補闕記』において山背大兄王とともに自殺したとされる片岳女王(片岡女王)について、東野治之は『法隆寺資財帳』に見える金泥銅灌頂幡を寄進した「片岡御祖命」と同一人物とし、女王が一族の滅亡後も生き延びて法隆寺の再建に立ち会った可能性があるとしている(東野 校注『上宮聖徳法王帝説』(岩波書店岩波文庫、2013年)P22)。
  2. ^ 狛大法師、大化の改新の大化元年(645年)8月8日に孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により十師に選ばれたうちの1人

出典[編集]

  1. ^ 「山背大兄王」『日本人名大辞典』講談社。
  2. ^ 山背大兄王(国史).
  3. ^ 日本書紀 皇極紀”. 日本書紀. 2008年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月20日閲覧。
  4. ^ 日本書紀 皇極紀
  5. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  6. ^ 加藤謙吉『秦氏とその民 渡来氏族の実像』(白水社、1998年)
  7. ^ 木本好信『古代史論聚』(岩田書院、2020年)
  8. ^ 上宮聖徳法王帝説
  9. ^ 上宮聖徳法王帝説
  10. ^ 上宮聖德太子傳補闕記
  11. ^ 「三井村」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。
  12. ^ a b 平群郡北岡墓(国史).
  13. ^ a b c 河上邦彦『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 73-75。

参考文献[編集]

  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 仁藤敦史「山背大兄王」戸原純一「平群郡北岡墓」(山背大兄王項目内)

関連項目[編集]