コンテンツにスキップ

北母子里駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北母子里駅
北母子里駅(1994年8月31日)
きたもしり
Kita-Moshiri
湖畔 (18.3 km)
(15.6 km) 天塩弥生
所在地 北海道雨竜郡幌加内町字母子里
北緯44度21分46秒 東経142度15分33秒 / 北緯44.36278度 東経142.25917度 / 44.36278; 142.25917
所属事業者 北海道旅客鉄道(JR北海道)
所属路線 深名線
キロ程 99.0 km(深川起点)
電報略号 キモ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線(廃止時)
開業年月日 1941年(昭和16年)10月10日
廃止年月日 1995年(平成7年)9月4日
備考 深名線廃線に伴い廃駅
テンプレートを表示
1977年の北母子里駅と周囲約500m範囲。右下が名寄方面。島式ホーム1面2線の他、駅舎側に朱鞠内側から貨物線が引き込まれている。この貨物線は、ホーム外側の本線に棒線化された後も撤去されず残されていた。ストックヤードは駅舎横の名寄側がかつて利用され、多くの木材が野積みされていた時期もあったが、既に長年使用されずに草生しており、保線車両用の白く長い車庫がその前に設置されている。駅裏には補機用蒸気機関車の転車台跡の窪みが残されている。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

北母子里駅(きたもしりえき)は、北海道空知支庁雨竜郡幌加内町字母子里にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線廃駅)である。事務管理コードは▲121414[1]

歴史

[編集]

駅名の由来

[編集]

当駅の所在する地名「母子里」より。根室本線に同音の茂尻駅(もしり)が既に存在したため「北」を冠した[2]

地名は、アイヌ語の「モシウンナイ(mosir-un-nay)」(島・がある・川[6])の前半部分に由来する[7]。当地は北海道大学農学部雨竜演習林のモシリウンナイ事業区に属し、1928年(昭和3年)に演習林が植民地区画を行って「茂知」植民地と名付けた[8]。その後最初の植民が行われ、その中の若い家族に子供が生まれたことから、当地の看守所[注 1]職員がこれを記念して植民地名を「母子里」と改名し、1930年(昭和5年)の村議会で正式な地区名となった[8][9]

駅構造

[編集]

廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(名寄方面に向かって左手側、旧上り線)に存在した[10]。そのほか深川方から駅舎側に分岐し駅舎東側の旧貨物ホームへの行き止まりの側線を1線有していた[10]。かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅で、駅舎側(北側)が下り線、外側(南側)が上り線となっていた[11]。使われなくなった駅舎側の1線(下り線)は、交換設備運用廃止後は撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた[10]

無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北側に位置し構内踏切で側線及び旧下り線跡を渡りホーム西側とを結ぶ通路で連絡した[10]。当駅所在地は1978年(昭和53年)2月に氷点下41.2度という戦後の公式日本最低気温を記録したことで有名であり、真冬は氷点下30度以下になることも多かったが、当駅設置の温度計は氷点下30度までしか計測出来ない物であった[11]。その後同年3月に国鉄総裁の高木文雄が当駅を訪れた際にその話を聞き、後日氷点下60度まで計れる寒暖計を特注して当駅と朱鞠内駅に贈呈している[12]。当駅待合室に駅ノートがあり、耐寒体験に訪れた人々の思い出が記されていたとのことである[10]

利用状況

[編集]
  • 1981年度(昭和56年度)の1日乗降客数は31人[11]
  • 1992年度(平成4年度)の1日乗降客数は24人[10]

駅周辺

[編集]

駅跡

[編集]

廃駅後しばらく駅舎が残っていたが1998年(平成10年)に解体され[14]、跡地はNTT携帯電話中継の基地局となった[15]。また、プラットホームは2000年(平成12年)時点では残存している[15]。2011年(平成23年)時点でも同様で、ルポルタージュによると生い茂る雑草に埋もれていたという[14]

隣の駅

[編集]
北海道旅客鉄道
深名線
湖畔駅 - 北母子里駅 - 天塩弥生駅
かつて湖畔駅と当駅との間に蕗ノ台駅白樺駅が存在した(1990年(平成2年)3月10日廃止)。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 植民地の運営管理の他、盗伐を監視するための事務所。実際、他の植民地では業者と組んで大規模な盗伐が行われた事件例がある(演習林60年の歩み)。

出典

[編集]
  1. ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、224頁。doi:10.11501/1873236https://doi.org/10.11501/18732362022年12月10日閲覧 
  2. ^ a b 『北海道 駅名の起源』(第1版)日本国有鉄道北海道総局、札幌市、1973年3月25日、115頁。ASIN B000J9RBUY 
  3. ^ 大蔵省印刷局(編)「鉄道省告示 第204号」『官報』第4425号、国立国会図書館デジタルコレクション、1941年10月6日。 
  4. ^ a b c d 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、848頁。ISBN 978-4-533-02980-6 
  5. ^ “「通報」●函館本線江部乙駅ほか49駅の駅員無配置について(旅客局)”. 鉄道公報 (日本国有鉄道総裁室文書課): p. 1. (1984年11月9日) 
  6. ^ 当時、川中島があったためとされる。このほか、幌加内町史では「国(部落)ある沢」の意としているが、通常村には「コタン(kotan)」を使うことが一般的である。
  7. ^ アイヌ語地名リスト モク~リ P131-140”. アイヌ語地名リスト. 北海道 環境生活部 アイヌ政策推進室 (2007年). 2017年10月19日閲覧。
  8. ^ a b 『北海道大学 演習林60年の歩み』1963年3月発行、P109。
  9. ^ 新幌加内町史 P219。
  10. ^ a b c d e f g 書籍『JR・私鉄全線各駅停車1 北海道630駅』(小学館1993年6月発行)77ページより。
  11. ^ a b c 書籍『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』(小学館、1983年7月発行)206ページより。
  12. ^ 新幌加内町史 2008年3月発行、 P589。
  13. ^ a b 書籍『北海道道路地図 改訂版』(地勢堂、1980年3月発行)15ページより。
  14. ^ a b 書籍『北海道の鉄道廃線跡』(著:本久公洋、北海道新聞社2011年9月発行) p.180
  15. ^ a b 書籍『鉄道廃線跡を歩くVII』(JTBパブリッシング2000年1月発行) p.36-37

関連項目

[編集]