中央アジア
中央アジア(ちゅうおうアジア、英語: Central Asia)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタン[注釈 1]を指したが[1]、現在でも使用される。
概要
[編集]広義には、「アジアの中央部」を意味し、トルキスタン地域のほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む[2]。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル、チベット、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、シベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。
トルキスタン地域は東西の2ヶ所に分けられていて、それぞれ「西トルキスタン」「東トルキスタン」と呼ばれている。
西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。
東トルキスタンは清に併合されて新疆省となり、中華人民共和国のもと、1955年以降新疆ウイグル自治区となっている[注釈 2]。
定義
[編集]中央アジアの概念はドイツのアレクサンダー・フォン・フンボルトが1843年に提唱した。その他、古生物学などでは、モンゴルを中央アジア、中央アジア5か国を中部アジアと言って区別することがある。
旧ソ連における定義
[編集]ソビエト連邦は、現代の中央アジア5か国からカザフスタンを除いた地域にあたる、キルギスССР、タジクССР、トルクメンССР、ウズベクССРの4共和国をСредняя Азияと定めていた。一方、より広い範囲(歴史的ロシアに含まれない範囲)を示すЦентральная Азияという語もあった。これらはともに中央アジア (Central Asia) と訳された。
ソビエト連邦の崩壊後、中央アジア5か国はカザフスタンが中央アジアに含まれると宣言した。これが現在もっともよく使われる中央アジアの定義である。
旧ソ連の文献では「スレドニャヤ・アジア(ミドルアジア)」と「ツェントラリナヤ・アジア(中央アジア)」とが使い分けられてもいた[2]。「ソ連中央アジア(ソビエツカヤ・スレドニャヤ・アジア)」という言い方もあった。
UNESCOにおける定義
[編集]UNESCOは、より広い範囲を中央アジアと定めている。それには中央アジア5か国のほか、中国の新疆ウイグル自治区、モンゴル地域(モンゴル国、内蒙古自治区など)、チベット地域(チベット自治区、青海省など)、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インドのジャム・カシミール、ロシアのシベリア南部が含まれる。なお、この範囲が定められたのはソ連崩壊前である。
東洋史研究における定義など
[編集]日本をはじめとする東洋史研究においては従来、中央アジアという概念は、次の3つの観点から用いられてきた[4]。
- シルクロードなどの東西交渉史
- 中国による西域統治史
- トルコ民族史
このような「東西」軸の見方に対して、歴史家間野英二は中央アジア住民が意識していたのはむしろ、北方遊牧民との関係であり、南北軸の見方を提唱しながら、東のゴビ砂漠、西のカスピ海、南のコペト・ダウ、ヒンドゥークシュ山脈、コンロン山脈、北のアルタイ山脈とカザーフ草原に囲まれた地域を、中央アジアとした[5]。
日本の外務省における管轄
[編集]日本の外務省においては、中央アジア5か国は欧州局中央アジア・コーカサス室の管轄となっている。これは旧ソ連諸国が欧州局の管轄である為である[6]。
トルキスタン
[編集]トルキスタンには、以下の国がある。いずれの国名も「スタン (stan)」で終わっているが、これは「国」を表す語であり、それぞれ特定の民族の国を意味している。
- カザフスタン - カザフ人の国。ウラル山脈より西側はヨーロッパ地域に属している。北部地域を北アジアに含む場合もある。
- キルギス(クルグズスタン) - クルグズ人(キルギス人)の国
- タジキスタン - タジク人の国。 ゴルノ・バダフシャン自治州は民族的には南アジアに近く、地理的区分では西アジアに属す。
- トルクメニスタン - トルクメン人の国
- ウズベキスタン - ウズベク人の国
歴史
[編集]中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異にするが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする遊牧民族、およびオアシス国家[4]の歴史を指す。
歴史上、中央アジアの遊牧民は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア・イラン高原・アゼルバイジャン・カフカス・キプチャク草原・アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカンまでを活動領域としてきた。匈奴・サカ・スキタイの時代から、パルティア・鮮卑・突厥・ウイグル・セルジューク・モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術、卓越した移動力、騎兵戦術に裏打ちされた軍事力、そして交易で歴史を動かしてきた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国の火薬などの技術がモンゴル帝国を通じてヨーロッパに伝わってもいる[7]。
言語
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]- グレート・ゲーム
- マー・ワラー・アンナフル
- ソグディアナ
- トゥーラーン
- 色目人
- 西域
- 社会主義法
- 中央アジア協力機構
- 中央アジア地域経済協力機構
- 中央アジア出身者の一覧
- 中央アジアの人口統計
- 中央アジアの映画
- 中央アジアのスポーツ
- 中央アジアの農業
- 中央アジアの美術
- 中央アジアの建築
- 中央アジアにおける被服
外部リンク
[編集]- ウィキボヤージュには、中央アジアに関する旅行情報があります。
- 一橋大学経済学部 水岡ゼミナール巡検報告 中央アジア2003夏
- 斎藤稔、「ソ連解体後の中央アジア諸国」『経済志林』 1997年 65巻 1号 p.111-140, 法政大学経済学部学会, NCID AN00071028
- JETROアジア経済研究所 中央アジアリンク集
- 日本中央アジア学会
- 中央アジア・コーカサス研究所
- 国際協力銀行 中央アジアへの円借款業務 (PDF)
- 『中央アジア』 - コトバンク