アルフレッド・マーシャル
新古典派経済学(ケンブリッジ学派) | |
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生誕 | 1842年7月26日 |
死没 | 1924年7月13日(81歳没) |
影響を 受けた人物 |
レオン・ワルラス ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ ヴィルフレド・パレート ジュール・デュピュイ |
影響を 与えた人物 |
ジョン・メイナード・ケインズ アーサー・セシル・ピグー |
実績 |
一般均衡理論における価格と需要の変動分析 貨幣数量説への貢献(マーシャルの k ) |
アルフレッド・マーシャル(英語: Alfred Marshall、1842年7月26日 - 1924年7月13日)は、イギリスの経済学者。新古典派の経済学を代表する研究者。マーシャルの理論はヘーゲルやドイツ歴史学派の多大な影響を受け、むしろ経済ナショナリズムであり、新古典派と激しく対立していたドイツ歴史学派に近かった[1]。ケンブリッジ大学教授を務め、ケンブリッジ学派と呼ばれる学派を形成した。同大学の経済学科の独立にも尽力した。主著は、『経済学原理』("Principles of Economics", 1890年)。ジョン・メイナード・ケインズやアーサー・セシル・ピグーを育てたことでも知られる。
マーシャルは、彼の時代において最も有力な経済学者の一人となった。彼の主著『経済学原理』では需要と供給の理論、すなわち限界効用と生産費用の首尾一貫した理論を束ね合わせた。この本は長い間、イギリスで最も良く使われる経済学の教科書となった。
ドイツ語が堪能で、若い頃ドイツに留学して、ドイツ哲学やドイツ歴史学派の影響を受けたマーシャルは、リカードやマルサスのような古典派経済学者の時代とは異なり、近代産業社会は、静学的・機械的な均衡状態にはならないのが通例であると指摘した。また新古典派経済学とは異なり、人間を、利己的で孤立した合理的な個人と仮定して理論を構築することを拒絶した。さらに新古典派経済学の理論的前提である方法論的個人主義を放棄し、その対局にある方法論的全体主義を採用した[2]。
伝記
マーシャルは、1842年ロンドンのベルモンジー (Bermondsey) で生まれた。ロンドン郊外のクラパン (Clapham) で成長し Merchant Taylor's School で教育を受け、そこで数学に対する素質を現した。父は息子に聖職者となることを望んでいたものの、マーシャル自身は数学研究を志し、ケンブリッジ大学への合格で彼に学問の道を取らせた。
1868年に道徳科学担当の講師に任命され、更にケンブリッジに創設された w:Newnham College, Cambridge(女性向けカレッジ)において経済学の講師となった。その傍ら、経済学の数学的厳密さについての研究を進め経済学をより科学的なものにする様努める。
1877年にカレッジでの教え子だったメアリ・ペイリーと結婚するが、フェローの独身規定によって退職を余儀なくされ、ブリストルに新設された University College で校長となって、そこで再び経済学の講義を行った。
1870年代にマーシャルは国際貿易と保護主義の問題点に関して何冊かリーフレットを著したが、1879年にこれらの著作の多くをまとめて『外国貿易の純粋理論: 国内価値の純粋理論』("The Pure Theory of Foreign Trade: The Pure Theory of Domestic Values" ) を公刊。
同じく1879年、妻と共に『産業経済学』("The Economics of Industry" ) を公刊、洗練された理論的基礎に立脚していたこの本はそれまで支配的であったジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』に代わる地位を得、毎年のごとく増刷された。 マーシャルはこの著作によって大きな名声を得、1882年にウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが死去すると、彼の時代において英国を代表する経済学者となった。
マーシャルはヘンリー・フォーセットが死去すると、1884年12月にケンブリッジ大学の政治経済学教授に選出され翌年の1885年1月にケンブリッジへ戻り、2月には教授就任講演を行った。 ケンブリッジでは、経済学のための新しい学科の創設に努力し、1903年にようやく実現した。この時まで、経済学は歴史と道徳科学の学士課程の下で教えられており、経済学に精力的で専門化された学生達がマーシャルが望むようには育ちにくかった。
マーシャルは1881年、彼の畢生の著作、『経済学原理』の著作に取り掛かり、それからの10年の多くをこの著作の完成のために費やした。その著作についての計画は徐々に拡張され、経済学の全体系を含む別の二巻本として公刊されることになる。 第一巻は1890年に出版され、世界的な喝采を受けて、彼の時代における主要な経済学者の一人としての地位を確立した。 第二巻では外国貿易、貨幣、貿易変動、課税、および集産主義が取り上げられる予定で、第一巻を刊行してから20年以上、彼は『経済学原理』の第二巻の完成に精力を傾けた。だが、細部に対しても妥協なく注意を払う完全主義的性格が災いし[3]、未完に終わった。
彼の健康問題は1880年代から徐々に悪化し、1908年には彼は教授職を自発的に退き、後任教授にピグーが選出されるように奔走した。彼は『経済学原理』の著作を続けることを望んだが、彼の健康は悪化し続け、計画は個々の更なる研究によって増大し続けた。
1914年の第一次世界大戦の勃発は彼に国際経済の診断を改訂するよう促し、1919年に彼は『産業貿易論』[4]を77歳にして出版した。この著作はより理論的な『経済学原理』に比べてより実証的なものであり、そのため理論経済学者達から同様の喝采を引き付けることはできなかった。
死去する前年の1923年には『貨幣・信用及び商業』("Money, Credit, and Commerce" ) を出版した。これは、過去半世紀に亘って出版したものと、出版しなかった経済学的着想を含んだものである。
マーシャルはケンブリッジの自宅である Balliol Croft で、1924年7月13日に81歳で死去した。
理論的貢献
マーシャルの経済学はジョン・スチュアート・ミル、アダム・スミス、およびデヴィッド・リカードの著作の拡張だった。彼はヴィルフレド・パレートやジュール・デュプイのような、他の経済学者の彼の著作への寄与を軽視し、彼自身に対するウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズの影響を渋々認めただけだった。
経済思想の歴史におけるマーシャルの影響は否定し難い。彼は、供給と需要の関数に対する価格決定について厳格に取り組んだ最初の経済学者であり、近代経済学者は価格のシフトと需給曲線のシフトの間の関係の解明をマーシャルに負っている。マーシャルは「限界革命」の重要な参与者であり、「消費者が各々の限界効用に対して同じ価格となるように試みる」という着想は、彼のもう一つの貢献である。
需要の価格弾力性は、これらの着想の拡張として、マーシャルによって初めて明瞭に概念化されたものである。生産者余剰と消費者余剰に分配された経済福利は、マーシャルによる貢献であり、実際、2つは時折「マーシャルの余剰」と評される。彼はこの余剰の着想を、課税と価格シフトが市場福利に与える影響の厳格な分析に用いた。 ただし晩年のマーシャルは、効用の加測性を前提としたこの概念の現実適用性には消極的な態度をとった。彼はまた、準地代を識別した。
マーシャルのkと所得流通速度
貨幣数量説におけるフィッシャーの交換方程式:
を V について解くと、
より V とは、財の取引額 PT とマネーサプライ M の比として捉えることができる。ここで P は価格水準、T は取引量である。 この V は貨幣の取引流通速度 (Velocity of circulation of money) と呼ばれる[5]。
一般的には GDP と関連させ、財の取引量 T を実質GDP Y に置き換え以下のように表すことが多い。
同様に流通速度 V について解くと、
V は名目GDP PY とマネーサプライ M の比として表せる。この V は貨幣の所得流通速度 (Income velocity of money) と呼ばれる。
ここで流通速度の逆数 1/V を k とすると、交換方程式より、名目GDPおよびマネーサプライとの関係は次のようになる。
この k はマーシャルの k と呼ばれる。名目 GDP に対するマネーの割合であり、この値が 1 であればマネーサプライと名目 GDP が等しくなる。 また GDP に含まれない取引があるため、所得流通速度は取引流通速度より小さい[6]。 ただし、GDPに含まれない取引を除外する場合、T = aY (T:財の取引量 a:定数, Y:実質GDP) と表すとき、定数 a は 1 と仮定する (T = Y )。
マーシャルの k の推移から、現在の経済でマネーが過剰なのか不足しているのかを調べる際の指標となる。 尚、マーシャルにおける元々の式
は(Md : 貨幣需要、A : 資産総額)、のちのケインズにおける貨幣需要関数(貨幣需要 = 取引需要 + 投機的(資産)需要)の原形といわれる。
人物
ジョン・スチュアート・ミルの著作を読むことによって、社会正義を主張したミルに共鳴し、人間の内面的な幸福・豊かな生活を得るためどうすればよいかということを考えるようになった[7]。また、ロンドンの貧民街を自分の目で見たことにより、人々を貧困から救済したいという使命感から、経済学の研究へ転向した[7]。ミクロの価格理論などの分析手法を用いて、労働者の低賃金を高くする、或いは過酷な労働を和らげることを目標としたのがマーシャルの経済学である[8]。
またマーシャルは、理論が現実から乖離すれば「単なる暇つぶし」に過ぎないとしており、現実の課題と理論上の問題を混同しないように警告していた[9]。
1890年から彼が死去する1924年まで、彼は経済学の専門職の尊敬される父であり、彼の死後も半世紀に亘り、ほとんどの経済学者にとって尊敬すべき祖父であった。彼はその生涯を通じて、彼以前の経済学の指導者達がためらわなかったような論争を、ある意味で避けた。彼の公平さが経済学者仲間からの大きな尊敬と公平な崇敬を作り上げ、Balliol Croftと名付けられた彼の自宅は来賓で絶えることがなかった。
ケンブリッジでの彼の学生達は、ジョン・メイナード・ケインズやアーサー・セシル・ピグーを含む、経済学史上の大物となった。彼の最も重要な遺産は、20世紀の残りの期間に亘って経済学の分野の気風を作る、尊敬され、学術的で、科学的根拠に基いた経済学者達のための専門職を創設したことである。
マーシャルに可愛がられたケインズは、後に彼のことをこう評した。
説教者としてまた人間の牧師として、彼はほかの同様な人物よりも格別優れていた訳ではない。しかし科学者としては、彼はその専門の分野において、百年間を通じて世界中で最も偉大な学者であった。にもかかわらず、彼自身好んで優位を与えようとしたのは彼の本性の第一の側面であった。…鷲のような鋭い眼と天翔ける翼とは、道を説く人の言い付けに従うためにしばしば地上に呼び返された — ケインズ『人物評伝』東洋経済新報社
語録
- 「経済学者は、cool head, but warm heart 冷静な頭脳と温かい心 を持たねばならない」(1885年ケンブリッジ大学経済学教授の就任講演)[10]
著作
- 1879年 - The Economics of Industry (メアリ・ペイリーとの共著)
- 1879年 - The Pure Theory of Foreign Trade: The Pure Theory of Domestic Values
- 1890年 - Principles of Economics
- 1919年 - Industry and Trade
- 1923年 - Money, Credit and Commerce.
- 1925年 - Memorials of Alfred Marshall(ピグー編集による遺稿集)
脚注
- ^ 中野剛志『国力論』以文社2008年、pp.143-149
- ^ 中野剛志『国力論』以文社2008年、pp.147-149
- ^ この様な性格から、1890年代の大蔵大臣のための貿易政策に関するメモなど、マーシャルの著作には未完で終わったものが多い
- ^ 原題『産業と貿易:産業技術とビジネス機構、及び様々な階級と国民の状態に関するその影響』, "Industry and Trade : A Study of Industrial Technique and Business Organization, and their Influences on the Conditions of Various Classes and Nations"
- ^ 貨幣を回転させた、使った回数と考えても良い
- ^ ドーンブッシュ、フィッシャー。
- ^ a b 橘木 (2012)、71頁。
- ^ 橘木 (2012)、73頁。
- ^ 日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、201頁。
- ^ Marshall (1885), p. 57.
参考資料
- ルディガー・ドーンブッシュ、スタンリー・フィッシャー 著、廣松毅 訳『マクロ経済学』シーエーピー出版。
- Alfred Marshall (1885). The present position of economics : an inaugural lecture given in the Senate House at Cambridge, 24 February, 1885. Macmillan and Co.
- 橘木俊詔 (2012). 朝日おとなの学びなおし 経済学 課題解明の経済学史. 朝日新聞出版
- 橋本昭一『マーシャル経済学』ミネルヴァ書房。ISBN 4623020452。
関連項目
- 新古典派経済学(ケンブリッジ学派)
- レオン・ワルラス
- ジョン・メイナード・ケインズ
- アーサー・セシル・ピグー