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長福丸

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長福丸
基本情報
船種 貨客船客船
船籍 日本の旗 日本
所有者 九州汽船→九州商船(1926-1957)
伊豆箱根鉄道(1957-1966)
東海汽船(1966-1973)
運用者 九州汽船→九州商船(1926-1957)
伊豆箱根鉄道(1959-1966)
東海汽船(1966-1973)
建造所 三菱重工業長崎造船所(第422番船)
信号符字 JEDB
改名 長福丸(1926-1957)
伊豆箱根丸(1957-1968)
さつき丸(1968-1973)
経歴
起工 1925年8月15日
進水 1926年1月30日
竣工 1926年3月31日
就航 1926年4月5日
引退 1973年
最後 1973年解体
要目
総トン数 526 トン
垂線間長 48.77 m
型幅 8.23 m
型深さ 4.72 m
機関方式 (竣工時)レシプロ式蒸気機関
(改装後)ディーゼル
主機関 (竣工時)3連成レシプロ 1基
(改装後)柳原鉄工 6YFS36 1基
推進器 1軸
出力 (竣工時)985 HP
(改装後)850 PS
最大速力 13.826 ノット
旅客定員 476名
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長福丸(ちょうふくまる)は、九州商船が運航していた貨客船。太平洋戦争で一時徴用されるも戦没を逃れ、後に伊豆箱根鉄道東海汽船で就航、1970年代まで約半世紀に渡って活躍した。

船歴

九州汽船の発注で三菱重工業長崎造船所で建造され、1926年3月31日に竣工した。1926年4月5日に長崎 - 玉之浦(福江島)航路に就航後、下五島 - 屋久島航路に転配された。1928年6月6日、社名変更により九州商船の保有となる。

1949年大阪商船から購入した小型客船28隻組の藤丸、1952年尼崎汽船から購入した大衆丸椿丸として五島航路に就航したため、本船は1952年11月に屋久島・種子島航路に転配された。

1940年12月15日、海軍に徴用され、三菱重工業長崎造船所で艤装工事に着手、12月25日佐世保鎮守府所管の特設捕獲網艇となり大湊防備隊に配属された。1941年1月15日、第52駆潜隊に編入され司令艇となった。2月3日から3月22日にかけて名村造船所で艤装工事を行い、3月5日第521号捕獲網艇と略称が制定された。この間、2月2日から3月1日まで同隊の司令艇は第17昭南丸が引き継いだ。5月15日、第52駆潜隊の編成から解かれ6月25日に除籍となり、7月7日に徴用を解除された。その後、艤装を撤去して同年12月22日に長崎 - 玉之浦航路に復帰した。

1945年5月14日、奈良尾沖で米軍の哨戒機2機から銃爆撃を受け多数の死傷者を生じた[1]。操舵室が大破したものの福見港内への退避に成功、奈良尾港へ曳航され、負傷者は救護所となった映画館へ収容された。

戦後は再び五島航路に就航、1957年楓丸の就航により引退した。

1957年10月、伊豆箱根鉄道に売却され、伊豆箱根丸となった。新設の熱海 - 大島航路に就航する予定であったが東海汽船と競願となり、本船の老朽化が衆議院運輸委員会で議題に上るなどして[2]、航路の認可は遅れ、就航は1959年4月となった。

1966年8月、伊豆箱根鉄道の大島航路撤退により東海汽船に売却され、熱海 - 大島航路に就航した。1967年はまゆう丸の就航により転配され、1968年4月にさつき丸と改名された。

1973年小笠原海運に用船されていた椿丸が返却されたため引退、その後解体された。

設計

当初はレシプロ式蒸気機関を搭載した貨客船であったが、伊豆箱根鉄道へ売却後の1960年12月に主機をディーゼル機関に換装、貨物艙を廃して純客船となった。

脚注

  1. ^ 長崎新聞ホームページ県内トピックス(2017年1月14日更新)戦中の五島の空襲写真入手 http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennaitopix/2017/01/14090154050116.shtml (2017年3月2日閲覧)
  2. ^ 衆議院会議録情報 第28回国会 運輸委員会第7号. 国立国会図書館. 20 February 1958. 2017年2月7日閲覧