菱川文博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

菱川 文博(ひしかわ ふみひろ、1925年2月1日 - 2017年1月11日[1])は、元兵庫県企画部長、阪神県民局長、元コナミ工業株式会社名誉会長、株式会社G-7ホールディングス元社外取締役。

経歴[編集]

兵庫県明石市出身。

菱川家は京都伏見の出身(現在の伏見区羽束師菱川町付近)。第47代淳仁天皇(舎人親王の子、淡路廃帝)に侍従として仕えていたが、天皇が孝謙上皇と対立して淡路に流されることになった。先祖はその際に天皇が随行を許した一人とされる。天皇の陵墓は現兵庫県南あわじ市南淡町賀集にあるが、当初はその当たりに住して陵墓を守っていたとも言われる。以降父の兵次郎が明石に出るまで淡路南部で農業を営んでいた。

父の菱川兵次郎(1898-1980)(淡路島洲本市出身)は、兵庫県の寺社課長、沼島村長を経て市政を敷いたばかりの兵庫県高砂市に請われ助役に就任し2期務めたが、いわゆる大塩事件(現姫路市の大塩町が姫路市・高砂市のどちらに統合されるかもめた事件)で初代の中州市長が失職し無投票で高砂市の市長に当選した。湾岸埋立地に有力企業を誘致し市の財政を安定したものにするなど功績を挙げたが、1期で市長を退任し明石市に戻った。晩年は行政相談員として地域に貢献した。 母のたまの(1900-1992)は助産婦と看護婦の資格を持ち明石に移ってから助産婦として家計を支えた。晩年まで仕事を続け最後に子を取り上げたのは81歳の時。本人曰く、終生1万人以上の子を取り上げたとのこと。 文博はその二人の長男として1925年(大正14年)に明石市大蔵町で出生。兄妹は姉1人と妹3人の5人。母が仕事で忙しかったので、兄弟は祖母ために育てられた。明石市立人丸小学校卒業後、兵庫県立明石高等学校旧制明石中学校に進学する。相撲が好きで強かったが体が小さかったので諦め、吹奏楽部に入り大太鼓を担当した。県の選抜演奏チームにも選ばれ、中学校野球大会(今の高校野球)の入場行進は、5年間皆勤で出場した。軍国主義に反対し、神戸商科大学(現神戸大学経済学部)で処分を受ける。

最初の徴兵検査は19歳の1944年(昭和19年)6月に受けたが、姉が結核を患っていたこともあり不合格となった。2度目の検査は翌1945年(昭和20年)6月で、甲種合格。その間の1年間は、明石市内の軍需工場で働いていた。召集から2ヶ月後の1945年8月6日、駐屯地の長崎市に向かう貨物列車の中で広島で投下された原子爆弾により被爆。さらに3日後の8月9日、駐屯地の長崎でも被爆する。被爆した場所は、爆心地から2.7キロしか離れていない五島町であった。翌日から所属する部隊は長崎市内で被爆者の救助活動を行うことになったが、中隊長に宿営地の留守役を小隊長と2名で行うよう命じられる。駐屯地が土井の首小学校と郊外にあったため、浴びた放射能の量が少なかった。他の隊員の多くは被爆の後遺症で短命の者が多かったという。

終戦後、父の勧めもあり兵庫県庁に入庁。1955年(昭和30年)、自治大学校を主席で卒業し、青少年局長・阪神県民局長・企画部長を務める。また金井元彦坂井時忠県知事の側近として手腕を発揮。定年前に行われる予定の明石市市長選への出馬の要請を受けていたがコナミ工業創業者・上月景正の要請を受け、1984年、同社の会長に就任。1987年から1992年までは社長職に就き、コナミ神戸ビルへの本社移転や東証大証一部上場など、神戸時代のコナミを支えた。

名誉会長を4年経験した後、武庫川女子大学短期大学部の講師を務める。その後、G-7ホールディングスの社外取締役として約10年勤務の他、講演活動も行った。

趣味は、英会話、海外旅行、ボディビル。英語は38歳の時のアメリカ視察旅行(県から派遣、約1か月)で英会話能力の必要性を痛感し翌年から神戸YMCAで猛勉強を始めた。3年後に英検1級を取得したが、その後も勉強を続けた。90歳になってもJAPAN TIMESを愛読していた。海外旅行は出張を含めて200回以上渡航している。気に入って良く行っていたのが、アメリカ、カナダ、オーストラリアの3国。前述の如くアメリカ空軍が投下した原爆で被爆し健康被害をこうむったが、アメリカを恨まず愛し良く足を運んだ。兵庫県庁勤務時代は、海外旅行同好会の会長を長く務めたという。ボディビルは神戸YMCAで結婚直後から没頭、全盛期は胸囲125センチを誇った。また、全日本ボディビル選手権の司会は第2回から10年以上勤めた。80歳を過ぎても尚神戸ポートピアホテルのジムに週3回通って筋トレに励んでいた。

結婚は22歳の時。相手は、香淳皇后の洋服のデザイナーだった田中千代の教え子で、神戸市のますやでチーフデザイナーをしていた女性。一男一女をもうけた。

2013年5月、88歳にして長女が住む千葉県に妻と移り住む。静かに余生を過ごしていたが、被爆の後遺症もあって甲状腺がん、腎臓がんが悪化し、2017年1月11日に千葉県船橋市の自宅にて91歳で逝去した。最後は妻に手を握られて眠るように息を引き取った。

著書は、「2000年に生き残る社長の条件」などがある。

脚注[編集]

  1. ^ 菱川文博さん死去 コナミでファミコンソフト参入 神戸新聞NEXT 2017年1月20日
ビジネス
先代:
上月景正
コナミ社長
2代:1987年 - 1992年
次代:
西村靖雄