茅沼炭鉱軌道

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茅沼炭鉱軌道/専用鉄道
路線総延長(軌道)2.8 km
(専用鉄道)6.3 km
軌間(軌道)約1050 mm(35
→762 mm
(専用鉄道)1067 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
exBOOT exKDSTa
2.8 茅沼港
exSTR
1869-1931(軌道)
exKDSTe
0.0 茅沼炭鉱坑口
exAETRAM uexKDSTa
0.0* 選炭場
uexSTR+l uexSTRr
1931-1962(索道)
uexDST exKDSTa
0.0
4.5*
発足
exhKRZWae
堀株川
uexSTR exSTR
1946-1962(専用鉄道)
uexSTR exABZg+l
国鉄岩内線 1985廃止
uexKDSTe exSTR
10.0* 岩内港 -1946
BOOT exKBHFe
6.3 岩内

茅沼炭鉱軌道(かやぬまたんこうきどう)は、かつて北海道後志支庁管内古宇郡泊村茅沼炭鉱で運行されていた鉱山鉄道である。後に索道を経由する日本国有鉄道(国鉄)岩内線岩内駅までの茅沼炭鉱専用鉄道が運行されたが、敷設ルートは全く異なる。

茅沼炭鉱軌道は日本で最初の鉄道といわれている[1]。しかしながら鉄道=旅客鉄道という前提があるため、人を乗せることを主目的としない茅沼炭鉱軌道は日本初の鉄道とみなされないのが一般的で、1872年に開通した新橋横浜間が日本最初の鉄道とされている[2]

茅沼炭鉱軌道[編集]

建設の経緯[編集]

1856年安政3年)、茅沼にて石炭が偶然発見された。開港まもない箱館にとって、欧米の蒸気船用の石炭の確保は重要であった。直ちに箱館奉行所は茅沼にて石炭の調査を開始する。

1864年元治元年)、箱館奉行所はアメリカ人技師を招き、茅沼炭鉱の採掘を開始した。そのような中、鶴嘴もっこといった人力による採掘運搬を見て、イギリス人技師エラスムス・ガウワー[3]が、効率化のために鉄道トロッコ)の建設を提案する。1866年慶応2年)には測量が開始され、建設が始まる。しかし、1868年明治元年)からの戊辰戦争の影響により建設は中止される。やがて建設は江戸幕府から明治政府に受け継がれ、1869年明治2年)に開通する。1868年9月に現地を訪れたイギリス外交官アーネスト・サトウは、海岸から渓谷まで2マイル枕木とその上の木製レールが敷かれていたと書き残している[1]

日本最初の鉄道の状態[編集]

開業したのは、茅沼炭鉱坑口 - 茅沼港(積み出し港)の2.8km。鉄道とはいっても、仮設軌道やトロッコに近い。記録によれば、枕木は約150mm×150mm×1500mmの角材を用い、約900mm間隔で並べていた。レールは枕木と同じ寸法の角材に、補強用の幅15mmの鉄板を取り付けたものを使用していた。軌間(レールの間隔)は約1,050mm(35)であった。

貨車(トロッコ)は大型と小型のものがあった。茅沼炭鉱坑口から積み出し港までは緩やかな傾斜であることを利用し、茅沼炭鉱坑口→積み出し港は、貨車の重さを利用して坂を下らせた。制御のため、人が1名乗車していたという。積み出し港から茅沼炭鉱坑口へはの力、場合によっては人力で動かしたという。小型貨車は、茅沼炭鉱坑口に滑車を設置し、2台の貨車を長いロープで繋ぎ、井戸釣瓶のように2台を交互に動かす方法をとっていたという(日本最初期のインクライン)。貨車は4トン積めた。廃藩置県前、北海道の分領支配米沢藩が同地を任されており、馬廻組の山田民弥(たみや)と絵図方の浜崎八百寿(はまざきやおす)が1870年明治3年)3月上旬に滞在。山田の『恵曽谷日誌』には、浜崎の描いた絵入りでこの様子が記録されている[1][4]

軌道整備[編集]

開拓長官であった黒田清隆は停滞していた北海道開拓を促進するため、幌内炭鉱の開発と茅沼炭鉱の整備を行うための予算を政府に上申し、1878年明治11年)5月に裁可された。この予算の茅沼炭鉱関係の内容は「輪車路改築」と「渋井築港」の2点であったが、渋井は港に適さなかったため後に茅沼築港に改められている。1881年(明治14年)に完工したこの整備工事によりレールが製に置き換えられた。

茅沼炭鉱専用鉄道[編集]

石炭生産量[5]
年度 生産量
1950 93
1955 124
1960 167
1965 25
  • 単位1000トン

茅沼港は港が小さいため大型船が接岸できず、荷役により岩内港へ石炭を運んでいた。沢口汽船から鉱区を買い取った茅沼炭礦株式会社(後に茅沼炭化礦業と改称)は岩内港まで索道を設け、茅沼炭鉱軌道を廃止して効率化を図った。しかしながら、冬期間には海の湿気を含んだ風雪によって海沿いの滑車やロープが凍結して運行が停滞することが頻繁であった。このため、これを軌道化することが早くから求められたが、第二次世界大戦後になって炭鉱に近い平野部の発足(はつたり)に貨物駅を設けて岩内駅から専用鉄道を敷設し、選炭場から発足駅までは索道で搬出する形に切り替えられた。
この山側に残った索道については、1948年昭和23年)7月から、選炭場から発足駅近傍まで隧道を掘削して、駅から隧道出口まで側線を延伸するという切り替え工事に着手したが、進捗の遅れと会社経営悪化により、当初の竣工予定年であった1950年(昭和25年)になって工事半ばで中止された。

歴史[編集]

1976年、茅沼炭鉱専用鉄道発足駅跡と軌道跡、周囲約1km×1.5km範囲。写真外左上方向に茅沼炭鉱選炭場、下が岩内線岩内駅方面。写真上側に発足の街があり、右から左上へ国道229号線が街を貫いているが、街の中心部の道路海側に長細い空き地がある。ここが発足駅跡で写真右下から細道が堀株川へ向かって北上し、対岸からまた左へ緩くカーブして駅跡へ向かう細道風の白い線が延びている。これがかつての軌道跡で、この地点の堀株川の川幅は、軌道が敷かれていた頃の3倍程に広がって、鉄橋を崩落させた氾濫の爪痕を残している。発足駅構内の構造は、『茅沼炭化礦業社史』によれば、1948年(昭和23年)の時点でホッパーと石炭積み出し線の他に3本の側線と車庫線、転車台機回し線を有していた。また同書では貯炭場が無いのをどうするかが今後の課題と当駅について記している。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  • 1869年(明治2年) - 茅沼炭鉱軌道 坑口 - 茅沼港間が開通。人力および牛力による運用。
  • 1881年(明治14年) - レールを鉄製に交換。軌間を762mmに変更。
  • 1884年(明治17年) - 茅沼炭鉱が民間に払い下げ。
  • 1927年(昭和2年) - 沢口汽船鉱業株式会社[6]茅沼鉱業所により蒸気化。新潟より機関車2台購入。
  • 1930年(昭和5年)3月21日 - 茅沼炭礦株式会社[7]に事業を継承。
  • 1931年(昭和6年)
    • 11月27日 - 茅沼炭礦株式会社により選炭場 - 岩内港[8]間(約10km)に索道が完成。
    • 同月同日 - 茅沼炭鉱軌道が廃止。
  • 1940年(昭和15年)8月15日 - 茅沼炭化礦業株式会社に社名変更。
  • 1946年(昭和21年)
    • 10月27日 - 茅沼炭化礦業株式会社により、軌間1,067mmの茅沼炭鉱専用鉄道 発足 - 岩内間(6.3km)が開通。
    • 同月同日 - 選炭場 - 岩内港間の索道を廃止し、選炭場 - 発足駅構内ホッパー間のルート(約4.5km)に変更。
  • 1962年(昭和37年)
    • 10月12日 - 台風の影響で堀株川(ほりかっぷがわ)の鉄橋が崩壊[9]
    • 11月12日 - 茅沼炭鉱専用鉄道線が廃止。
  • 1964年(昭和39年)8月30日 - 茅沼炭鉱閉山。

車両[編集]

蒸気機関車[編集]

  • 1948年(昭和23年)時点で、機関車8100形、機関車C15形、貨車10両保有(C15形については自重30t牽引力100tとのみ記載され正体不明)[10]
  • 1956年(昭和31年)時点で、機関車2台、客車2両、貨車15両保有[11]

客車[編集]

木製2軸車

  • ハフ1 - 1921年日本車輌製。履歴は富士身延鉄道ハユニ2→クユニ2→胆振縦貫鉄道ユニ2(1940年)→日鉄鉱業ユニ2(1944年)→茅沼ユニ2(1949年)→ハ1(1952年)→ハフ1
  • ハ2 - 1913年天野工場製。履歴は富士身延鉄道ハ1→胆振縦貫鉄道ハ1(1940年)→日鉄鉱業ハ1(1944年)→茅沼ハ2(1948年)

木製ボギー車

  • ナハフ1 - 国鉄ナニ6311(1908年日本車輌製造製)を購入。ロングシートを設置したが、外観は荷物車そのままで使用していた。履歴は横浜鉄道ハボ2→国鉄フホハ8461→フホハ7881→ホハユニ18311→ホハユニ3611→ナニ6311→茅沼ナハフ2865→ナハフ1

貨車[編集]

  • ワ1-5 1949年に国鉄より払下げ。竣功は1951年。
  • ト1-2
  • トム1-10 1944年立山重工業製。1963年、寿都鉄道に譲渡。
  • キ1 1913年大宮工場製前国鉄キ35

福井鉄道トム11-13(廃車済み)の前歴は茅沼炭化工業トム11-13(1946年立山重工業製)となっているが入線した記録が無い[12]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 【時を訪ねて 1870】日本最古の鉄道 旧茅沼炭鉱(泊)新橋-横浜間より早く『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2020年7月5日1-2面
  2. ^ ライフサイエンス「北海道には幻の日本初の鉄道が走っていた!?」『日本の歴史地図』三笠書房、2022年、210-211頁。 
  3. ^ 文献により名前が違う。ガール(E.H.Gaal) 、ガワー(E.H.M.Gower) 、ジェウェア(E.H.M.Geware)。中西 26-27頁。
  4. ^ 北海道大学北方関係資料総合目録には『恵曽谷日誌』が収録されている
  5. ^ 青木栄一「北海道の石炭産業と鉄道」『鉄道ジャーナル』No.197
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第36回(昭和3年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 『日本全国銀行会社録. 第47回(昭和14年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 岩内港の索道原動所からは専用桟橋のみならず岩内駅へ接続する専用線も設置された。
  9. ^ 『鉱山のSLたち』55頁、「茅沼炭化工業専用鉄道の想い出」52頁
  10. ^ 茅沼炭化礦業株式会社『開礦百年史 』昭和31年出版 P116-124 「石炭関係輸送施設調査 昭和23年3月9日」のうち、P120 五-3-C「機関車及び貨車の台数及び状況」より。
  11. ^ 茅沼炭化礦業株式会社『開礦百年史』昭和31年出版 P156-164「企業規模概要」のうち、P158「主要機械設備/専用鉄道設備」より。
  12. ^ 岸由一郎「福井鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.626

参考文献[編集]

  • 宮脇俊三(編著)『鉄道廃線跡を歩く』 9巻、JTB、2002年8月。ISBN 4-533-04374-7 
  • 川上幸義「日本最初の鉄道を茅沼炭山に訪ねる」『鉄道ピクトリアル』通巻35号、1954年6月。 
  • KEMURI PRO「茅沼炭化工業専用鉄道の想い出」『鉄道ファン』通巻377号、1992年9月。 
  • 信賀喜代治『鉱山のSLたち』みやま書房、1973年。 54-55頁
  • 澤内一晃・星良助『北海道の私鉄車両』北海道新聞社、2016年。
  • 澤内一晃・星良助「北海道の専用鉄道車両」『鉄道史料』No.120 2008年
  • 中西隆起『日本の鉄道創世記』河出書房新社、2010年。 
  • 星良助『北国の汽笛 1』ないねん出版、2000年、186 - 188頁
  • 茅沼炭化礦業株式会社『開礦百年史』昭和31年発行
  • 日本国有鉄道北海道総局『北海道鉄道百年史 上巻』昭和51年発行
  • 『北海道炭鉱案内』昭和8年版、北海道石炭鉱業会(国会図書館デジタルコレクション)