幌内炭鉱

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1966年に開坑した「幌内立坑」
幌内炭鉱門柱
1879年に開坑した「大抗道」(「音羽坑」とも呼ばれる )

幌内炭鉱(ほろないたんこう)とは、北海道三笠市(開山当時は幌内村)に存在した炭鉱

概要[編集]

お雇い外国人による指導で、石炭層の発見 - 採炭から輸送に至るまで機械化が進められた、日本の近代炭鉱の先駆け的存在。明治期の近代化から太平洋戦争後の復興期まで、縁の下で日本を支えた歴史的に重要な炭鉱の一つである。独立系の炭鉱会社も数社が開発を手がけたが、開発の主力を担ったのは北海道炭礦汽船(北炭)であった。北炭の本鉱の立坑は、海面下1,000mを越える日本最大規模となった。1975年に大規模なガス突事故があり13名の犠牲者をだした。事故後採鉱を再開し、最終的に北炭の生産量は100万トンを越えた。閉山後、多くの遺構が解体処分されたが、2018年現在は、三笠ジオパークの1つとして整備されている箇所もある。

構造[編集]

明治12年に北海道開拓使が掘った坑道は当時は大坑道と呼ばれ、その後「音羽坑」と呼ばれるようになった。 0片から7片までの坑道で構成されていた。0片坑道(地下520m)、2片坑道(地下650m)は比較的鉱区は狭いが、3片(地下720m)、4片(地下790m)、5片(地下860m)は広大な鉱区を有し、同鉱山の主要部分であった。6片と7片坑道はまた採掘が進んでおらず、鉱区が狭かった。最深部の7片で採掘された石炭は、中央運搬斜坑と中央ベルト斜坑によって5片坑道まで上げられ、ついで中央斜坑によって2片坑道まで上げられた。2片坑道からは、1952年(昭和27年)に完成したベルト二斜坑で地下135mまで運ばれ、その後ベルト一斜坑で標高95mの常磐坑口(1938年掘削)にある選炭場まで運ばれた。人員や機材は、1966年に造られた幌内立坑櫓(2段式ケージ、50人乗降)が使用された。立坑櫓は送気ルートとしても使用され、隣接して排気立坑が昭和49年に掘られており1600KWの排気装置が設置されていた。幌内立坑櫓は3-4-5-6片の坑道に接続しており、排気立抗は4-5-7片の坑道に接続されていた。そのほかにも標高127mの布引にも布引立坑があったが、こちらは地下164mまでの浅い坑道にしか接続していなかった。布引には600KWの排気装置が設置された。採掘された石炭は幌内から三笠を結ぶ幌内鉄道で搬出された。

1975年のガス突出事故[編集]

1975年11月27日午前2時5分、地下1000mにある最深部の7片坑道にてガス突出事故があり、10分後の2時15分にガス爆発が起きた。同日9時55分に救助隊が片坑道まで降りたものの、火災や崩落のために災害現場に接近することが出来なかった。布引排気斜坑の換気装置は全開で運転されたが、坑道は煙が充満しガス爆発も断続的に続いており、救助活動は不可能であった。行方不明者は13名であった。二次災害の危険が高かったために救助班は撤退した。家族の了承を得て11月30日17時51分より鎮火目的で坑道への注水を開始した。12月1日までに2万4810トンの注水が実施され、7片水平坑道を水没された。12月2日15時30分、注水後の調査のために調査隊が入坑したところ、地下860mの5片坑道付近で火災が継続しており、深部ではガス爆発が継続していることが分かった。12月3日より2回目の注水が開始。12月10日までに、6片坑道を水没させた。5片坑道については、坑道内での消火活動にて鎮火する方針であったが、それも危険であることが分かった。12月12日から翌年の1976年1月10日までかけて3回目の注水を実施、4片坑道(地下790m)まで水没させた。崩落した坑道を回避して別の坑道から消火活動を行おうとしたが、火災は坑道全体に波及しており、2月27日から3月27日までかけて4回目の注水を実施し、2片坑道(地下650m)まで水没させた。総注水量は408万トンにもなった。1977年になって坑内に残された遺体の探索が開始され、6月1日から7月3日にかけて13人全員の遺体が回収された。事故により主力坑道の全てを失ったが、その後水没した坑道を整備して操業を再開した。1989年閉山。

歴史[編集]

  • 1879年(明治12年) - 官営の炭鉱として開山
  • 1882年(明治15年) - 官営幌内鉄道全通開通(後の幌内線
  • 1889年(明治22年) - 北炭が幌内炭礦と幌内鉄道の払い下げを受け民営化
  • 1975年(昭和50年)11月27日 - ガス突出事故
  • 1987年(昭和62年)7月12日 - JR幌内線廃止[1]
  • 1989年(平成元年)9月29日 - 閉山[2]

幌内地区の町丁[編集]

  • 幌内町1丁目
  • 幌内町2丁目
  • 幌内町3丁目
  • 幌内春日町
  • 幌内金谷町
  • 幌内新栄町
  • 幌内住吉町
  • 幌内初音町
  • 幌内北星町
  • 幌内月光町
  • 幌内中央町
  • 幌内末広町
  • 幌内奔幌内町
  • 幌内本沢町
    • 2016年現在の幌内地区の人口は約500人。幌内月光町・幌内中央町・幌内末広町・幌内奔幌内町・幌内本沢町は消滅集落となっており居住者はいない。用途地域の指定も廃止されている。これらの町丁については住居表示は廃止されており、郵便番号も設定されていない。道路も廃道となっており、植物に覆われて森に戻った地区もある。

遺構等[編集]

  • 閉山後、安全性などの問題から多くの構造物が基礎を残して取り壊され、往時を偲ぶものは変電所や基礎、幌内神社(幌内本沢町、1880年鎮座)、炭鉱住宅群など僅かである。2004年(平成16年)夏に排気立坑櫓が解体撤去された。同年、立坑櫓横にあった巻揚げ機室も撤去された。立坑櫓後方にはズリ山が残る。幌内炭鉱があった場所は現在は工業団地となっている。
  • 2004年から炭鉱施設跡地・遺構・景観を歴史的遺産として保存するため、「みかさ炭鉱の記憶再生塾」により炭鉱施設跡を整備した景観公園「幌内炭鉱自然公園」の整備が進められている。公園内には音羽坑・常磐坑・坑内神社・幌内神社・選炭場などの遺構が残されている。
  • 幌内神社は炭鉱閉山後氏子が激減し、宮司も峯延神社(美唄市)に転出。無人社となった。神霊も峯延神社に遷され、祭祀も同社で挙行されることになった。祭器類は峯延神社内の祭器庫に移されたほか、榎本武揚筆の社号額(1882年5月奉納、三笠市指定文化財)は三笠市立博物館の所蔵となった。その後は峯延神社宮司の兼務社として境内・建物は管理されたが、廃墟化は避けられず、灯籠手水舎は倒壊。拝殿の老朽化も著しく進行し、2006年には境内の清掃を行っていた「みかさ炭鉱の記憶再生塾」や地元住民などが拝殿屋根を修理したものの、2008年3月、雪害により拝殿が全壊。鳥居狛犬を残して往時の建物はすべて失われた。2010年9月、拝殿跡に「幌内神社の碑」が建てられた。拝殿跡の基礎部分は保存されている。峯延神社に合祀はされておらず、神社としては名目上存続しているが、倒壊した建物の残骸が残るなど事実上神社の跡地となっている。
  • 炭鉱全盛時代は100軒を超える店舗があったという幌内商店街(幌内町1丁目)は炭鉱閉山後大半の商店が廃業。住民の多くは転出した。既に「商店街」ではなくなっているが、2016年現在、金物店が1軒営業している。かつての商店の建物の多くは撤去されている。廃屋として残っているものもあるが、管理されないまま倒壊に至り、残骸がそのままになっている例もある。
  • 閉山後は、建設残土や産業廃棄物の処分場として2005年頃まで使用された[3]。その後、2008年3月には旧坑内からの炭じん噴出・地表陥没事故が発生している[3]。炭鉱施設跡地周辺には私有地が広がっているほか、クマの出没も見受けられるため、不用意な立ち入りができない状態となっている。
  • TBS系番組「サバイバー」の2ndシリーズの舞台として使われた(通称:サバイバーパーク)。

脚注[編集]

  1. ^ “駆け抜けた105年 幌内線の歴史に幕”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1987年7月13日)
  2. ^ “ヤマの歴史に幕、揺れる地元”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1989年9月30日)
  3. ^ a b 2008 年3月13日付朝日新聞記事 『炭鉱の跡地 巨大な陥没』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]