船津伝次平

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船津伝次平

船津伝次平(ふなつ でんじべい、天保3年11月1日1832年11月22日) - 明治31年(1898年6月15日)は、幕末から明治時代にかけて活動した農業研究家。

幼名は船津市造。上野国原之郷(後の群馬県勢多郡富士見村大字原之郷、現・群馬県前橋市富士見町原之郷)出身。篤農家として評価された「明治の三老農」の一人であり、元駒場農学校及び東京帝国大学講師。

幕末、出身地の名主・村役人として名望を集める傍ら、実践的な農業技術の改良にあたり、成功を収める。その実績を買われて明治維新後は中央に招かれ、引き続き農業技術の改良に取り組みながら、講演等で生涯にわたって各地の農業振興に努めた。日本の在来農法を基礎に改良しながら、西洋農法の手法をも部分的に折衷した「船津農法」の考案者である。46歳の時に群馬県赤城山麓の農業指導者から駒場農学校の教官に抜てきされ、講義の傍ら、自ら先頭に立って学生達と一緒に駒場の原野に開墾のクワをふるって農場を拓き、実習田をつくった。経験を重んじる在来の日本農業に西洋の近代農法を積極的に採り入れた「混同農事」に力を入れ、その後、この農法は全国に普及していった。

略歴[編集]

逸話・趣味[編集]

名主の家の出であることから学があり、多趣味・多才な人物であった。

伝次平は、若い頃から名望が高く、周囲に推されて原之郷の村役人を何年も続けて勤めさせられた。これに閉口し、村役人就任を断るために、髪を剃って坊主頭になった。坊主頭の者に村役人を頼むわけにはいくまいという考えからである。しかし周囲はお構いなしに村役人就任を要請し続けたため、結局折れた伝次平は、坊主頭の上に、まげを結ったかつらを被って、引き続き村役人を務める羽目になった。

顕彰[編集]

顕彰碑[編集]

郷土史教育において[編集]

  • 1947年に発行された群馬県の郷土かるた「上毛かるた」では、「ろ」の札に「老農 船津伝次平」として採録されている。

著書[編集]

  • 「里芋栽培法」
  • 「農家の薬」
  • 「蚕糸の教」
  • 「稲作小言」
  • 「太陽暦耕作一覧」

登場する作品[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.45

外部リンク[編集]