「東京ラーメン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
タグ: 2017年版ソースエディター
『実用家庭支那料理法』と赤堀料理学園について加筆。
タグ: 2017年版ソースエディター
8行目: 8行目:


== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[1910年]]([[明治]]43年)当時[[流行]]の発信基地で[[繁華街]]であった[[浅草]]の「[[来々軒]]」が[[草分け]]だとされる事が多い<ref name="rahaku" />。また、現在のラーメンの基本を作り上げ、醤油ラーメンの発祥となり、[[チャーシュー]](叉焼)と[[メンマ]](支那竹)を初めて載せたともされている<ref name="yougo" /><ref name="katei">ただし、浅草『来々軒』創業前の、[[1909年]]([[明治]]42年)[[3月25日]]に発行された『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849128 日本の家庭に応用したる支那料理法]』〔著者:柴田波三郎([[女子美術大学|女子美術学校]][[講師 (教育)|講師]]・[[かえつ有明中学校・高等学校|日本女子商業学校]]講師)、津川千代子([[成女学園中学校・成女高等学校|成女高等女学校]]講師) 序文:[[石黒忠悳]]、[[山根正次]]、[[嘉悦孝]] 出版者:日本家庭研究會〕には既に、材料に「[[醤油]]・[[塩]]・[[コショウ]]・[[中華麺|卵子饂飩]]・[[鶏肉]]・[[スープ]]・[[シイタケ]]・[[タケノコ]]・[[ホウレンソウ]]」を使った「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849128/50 鶏糸麺(鶏うどん)]」のように、醤油を用いたラーメンの調理法が掲載されている。(「国立国会図書館デジタルコレクション」 2018年9月12日閲覧。)</ref>。
[[1910年]]([[明治]]43年)当時[[流行]]の発信基地で[[繁華街]]であった[[浅草]]の「[[来々軒]]」が[[草分け]]だとされる事が多い<ref name="rahaku" />。また、現在のラーメンの基本を作り上げ、醤油ラーメンの発祥となり、[[チャーシュー]](叉焼)と[[メンマ]](支那竹)を初めて載せたともされている<ref name="yougo" /><ref name="katei">ただし、浅草『来々軒』創業前の、[[1909年]]([[明治]]42年)[[3月25日]]に発行された『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849128 日本の家庭に応用したる支那料理法]』〔著者:柴田波三郎([[女子美術大学|女子美術学校]][[講師 (教育)|講師]]・[[かえつ有明中学校・高等学校|日本女子商業学校]]講師)、津川千代子([[成女学園中学校・成女高等学校|成女高等女学校]]講師) 序文:[[石黒忠悳]]、[[山根正次]]、[[嘉悦孝]] 出版者:日本家庭研究會〕には既に、材料に「[[醤油]]・[[塩]]・[[コショウ]]・[[中華麺|卵子饂飩]]・[[鶏肉]]・[[スープ]]・[[シイタケ]]・[[タケノコ]]・[[ホウレンソウ]]」を使った「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849128/50 鶏糸麺(鶏うどん)]」のように、醤油を用いたラーメンの調理法が掲載されている。(「国立国会図書館デジタルコレクション」 2018年9月12日閲覧。)</ref><ref>[[1907年]](明治40年)に中華料理の教授を始めていた[http://www.cook.co.jp/about_akahori/history.html 赤堀料理教場](赤堀割烹教場、赤堀料理学園)の[[奥村繁次郎]]講師が記した『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849046 実用家庭支那料理法]』([[1912年]](明治45年)[[2月11日]]発行 校閲者:[[割烹]]大家・赤堀峯吉 発行者:林甲子太郎 印刷者:中村宗作 発行所:盛林堂)には、「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849046/56 叉焼肉(チャーシウユー)]」(材料:豚ロース、醤油、タケノコ、ネギ、古根[[ショウガ]]、スープ)や「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849046/76 醤油(ヂャンユー)]」(材料:豚肉、醤油、[[飲料水|水]]、古根ショウガ)のような、チャーシューやメンマに類似した料理の調理法が紹介されている。(リンク先:赤堀料理学園「赤堀料理学園のあゆみ」、国立国会図書館デジタルコレクション 2018年9月14日閲覧。)</ref>。


繊細な味を守り続ける店も多く、新規店でもこの東京ラーメンを追い求める店もある。ご当地ラーメンブームの中で強い脂や辛さを押し出す新種のラーメンとは対をなし、ブームを追いかけることなくラーメンの定番として昔からその人気は不変である。
繊細な味を守り続ける店も多く、新規店でもこの東京ラーメンを追い求める店もある。ご当地ラーメンブームの中で強い脂や辛さを押し出す新種のラーメンとは対をなし、ブームを追いかけることなくラーメンの定番として昔からその人気は不変である。

2018年9月13日 (木) 19:16時点における版

典型的な東京ラーメン
叉焼メンマ鳴門巻き海苔ネギ

東京ラーメンとうきょうラーメン)は、「醤油ラーメン」の代表であり、日本ラーメンの原型となっている[1][2]。多くの場合、和風だし醤油タレ、中細縮れ中華麺が使用される。

東京には数千のラーメン店があり[3]、提供されるラーメンの味も多岐にわたる。

来歴

1910年明治43年)当時流行の発信基地で繁華街であった浅草の「来々軒」が草分けだとされる事が多い[1]。また、現在のラーメンの基本を作り上げ、醤油ラーメンの発祥となり、チャーシュー(叉焼)とメンマ(支那竹)を初めて載せたともされている[2][4][5]

繊細な味を守り続ける店も多く、新規店でもこの東京ラーメンを追い求める店もある。ご当地ラーメンブームの中で強い脂や辛さを押し出す新種のラーメンとは対をなし、ブームを追いかけることなくラーメンの定番として昔からその人気は不変である。

スタイル

現在まで続くオーソドックスなラーメンであり、違いはあるものの多くの場合は次のようなスタイルである。鶏がらをメインに野菜豚骨(煮干しなども使用する店もある)を加えて沸騰させずに煮出した澄んだスープに、合わせるタレは醤油の和風タレで、表面にうっすらと脂が浮く。は20~40番の中細で、スープが絡みやすい縮れ麺を使用する[6]チャーシューメンマ(シナチク)、薬味はネギ、色気はなると、青みはほうれん草を入れる。半熟海苔を添える店もある。

異論もあるが、同種のラーメンとして、「八王子ラーメン」(ネギの代わりにタマネギを使用する)、「背脂チャッチャ系」(スープ表面に背脂を浮かせる)、「荻窪ラーメン」(荻窪駅周辺の蕎麦屋グループがメインで、スープの煮干しが強い)、「恵比寿ラーメン」(恵比寿駅周辺を中心とし、支那蕎麦や支那竹蕎麦が多い)などが挙げられることがある。

販売

ラーメン専門店、昔ながらのいわゆる中華料理店、インスタントラーメンカップ麺袋麺)、生麺スーパーマーケットなど)、冷凍生麺で販売されている。

東京のラーメン店

東京のラーメン店数は日本一[3]となっているが、東京発祥の代表的なラーメンとしては、「つけ麺」-中野、「油そば」-武蔵野、「東京トンコツ醤油」-武蔵野、「ラーメン二郎」- 港区三田、など多数ある。

出典

  1. ^ a b 新横浜ラーメン博物館[リンク切れ] 「ラーメン黎明期」 日本初の店舗を構えたラーメン専門店
  2. ^ a b BIGLOBEラーメン帝国 用語集 「来々軒」 現在のラーメンの礎
  3. ^ a b ラーメン店舗数の都道府県ランキング(平成24年)”. 2017年2月9日閲覧。
  4. ^ ただし、浅草『来々軒』創業前の、1909年明治42年)3月25日に発行された『日本の家庭に応用したる支那料理法』〔著者:柴田波三郎(女子美術学校講師日本女子商業学校講師)、津川千代子(成女高等女学校講師) 序文:石黒忠悳山根正次嘉悦孝 出版者:日本家庭研究會〕には既に、材料に「醤油コショウ卵子饂飩鶏肉スープシイタケタケノコホウレンソウ」を使った「鶏糸麺(鶏うどん)」のように、醤油を用いたラーメンの調理法が掲載されている。(「国立国会図書館デジタルコレクション」 2018年9月12日閲覧。)
  5. ^ 1907年(明治40年)に中華料理の教授を始めていた赤堀料理教場(赤堀割烹教場、赤堀料理学園)の奥村繁次郎講師が記した『実用家庭支那料理法』(1912年(明治45年)2月11日発行 校閲者:割烹大家・赤堀峯吉 発行者:林甲子太郎 印刷者:中村宗作 発行所:盛林堂)には、「叉焼肉(チャーシウユー)」(材料:豚ロース、醤油、タケノコ、ネギ、古根ショウガ、スープ)や「醤油(ヂャンユー)」(材料:豚肉、醤油、、古根ショウガ)のような、チャーシューやメンマに類似した料理の調理法が紹介されている。(リンク先:赤堀料理学園「赤堀料理学園のあゆみ」、国立国会図書館デジタルコレクション 2018年9月14日閲覧。)
  6. ^ 東京ラーメン

関連項目