来々軒

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来々軒, 1915

来々軒(らいらいけん)は、東京府東京市浅草区浅草新畑町3番地(現在の東京都台東区浅草1丁目辺り)にてラーメンを提供していた大衆的料理店である[1]。「東京ラーメン醤油ラーメン)」の草分けであり[2][3]、ラーメン店の原点でもある[2][3]

概要[編集]

1910年明治43年)に浅草で創業。当時、すでに存在していた中国料理店とは違って庶民的な店であり、ラーメン、ワンタンシュウマイなどを初めて提供した[3]中華丼天津飯の発祥店とも称されることがある[4][5]

祐天寺の来々軒のラーメン(2019年9月)

浅草の来々軒は1944年昭和19年)に閉店したが、戦後の1945年(昭和20年)に東京駅八重洲口に新たに店を構えた。しかし、創業家の3代目にあたる尾崎一郎には後継者がなく、1976年昭和51年)に閉店した。血を引いた店は千葉市進来軒[2]郡山市トクちゃんがある。また、来々軒で働いていた傅興雷が1933年(昭和8年)に独立して大森(後に目黒区祐天寺に移転)に開業した来々軒が現存する。2020年には創業者の子孫の協力を得て「浅草来々軒」が新横浜ラーメン博物館でオープンした[6]。今は2023年を目途に発祥地である浅草に店舗の復活開業を目指している[7]。なお、浅草橋駅付近に『来々軒』を名乗る店が既に在るが、創業家の系統とは無関係とされている。

沿革[編集]

  • 1910年明治43年) - 初代・尾崎貫一が横浜中華街中国人広東省出身)12名を招き、浅草公園に来々軒を開業する。
  • 1922年大正11年) - 初代・貫一の死去により長男・新一が経営を引き継ぐ。
  • 1927年昭和02年) - 夫・新一の死去により妻・あさが経営を引き継ぐ。この時、11歳であった長男・一郎の子育てもあり、家業を維持するため、堀田久助(義兄)および高橋武雄(義弟)の補佐により運営する。
  • 1935年(昭和10年) - 一郎が商業学校を卒業して家業を継ぐ。堀田久助は独立して上野来々軒を創業する。
  • 1944年(昭和19年) - 尾崎家の息子3人が出征したため、浅草の店を閉店する。
  • 1945年(昭和20年) - 一郎が戦地から復員し、東京駅八重洲口に来々軒を新たに出店する。
  • 1976年(昭和51年) - 廃業。
  • 2020年令和02年)10月14日 - 新横浜ラーメン博物館に店舗『淺草 来々軒』を構える形で復活。

脚注[編集]

  1. ^ 小菅桂子著『にっぽんラーメン物語・第五話 浅草来々軒誕生物語』
  2. ^ a b c 新横浜ラーメン博物館 「東京ラーメン」東京ラーメンの草分け、浅草来々軒。東京ラーメンは日本ラーメンの原点
  3. ^ a b c ラーメンの歴史 【東京ラーメンの歴史】
  4. ^ 横田文良「『天津飯』のルーツを探る」『中国の食文化研究<天津編>』辻学園調理・製菓専門学校、ジャパンクッキングセンター、2009年、10頁。ISBN 978-4-88046-409-1 
  5. ^ 林陸朗高橋正彦村上直、他(編)、1991、『日本史総合辞典』、東京書籍 ISBN 978-4487731756 p. 947
  6. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2020年10月21日). “日本初のラーメンブーム生んだ「来々軒」復活 ラー博で今月から”. 産経ニュース. 2020年10月21日閲覧。
  7. ^ 来々軒が復活、3年後は故郷浅草での開業を目指す 日刊スポーツ 2020年10月09日閲覧

関連項目[編集]