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'''原 マルティノ'''(はら マルティノ、Martinão, [[永禄]]12年([[1569年]])頃 - [[寛永]]6年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[1629年]][[10月23日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の[[キリシタン]]で、[[天正遣欧少年使節]]の副使。[[肥前国]](現在の[[長崎県]][[波佐見町]])出身。[[イエズス会]]員で[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]。'''マルチノ'''、は'''マルチィノ'''とも言う。使節の少年4人の中では最年少であったが、語学に長けており、ローマからの帰途[[ゴア州|ゴア]]で[[ラテン語]]の演説を行って有名になる。
'''原 マルティノ'''(はら マルティノ、Martinão, [[永禄]]12年([[1569年]])頃 - [[寛永]]6年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[1629年]][[10月23日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[キリシタン]]。[[イエズス会]]員で[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]。'''マルチノ'''、または'''マルチィノ'''とも。[[天正遣欧少年使節]]の副使で、使節の少年4人の中では最年少であったが、語学に長け、ローマからの帰途[[ゴア州|ゴア]]で[[ラテン語]]の演説を行有名になる。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[ローマ]]に残された資料から彼は肥前国波佐見の生まれであった考えられ、大村領の名士[[原中務]]の子。両親共に[[キリスト教徒]]であった彼は[[司祭]]を志して、有馬の[[セミナリヨ]]に入った。
[[ローマ]]に残された資料によると[[肥前国]](現在の[[長崎県]][[波佐見町]])出身いわれ、大村領の名士[[原中務]]の子。両親共に[[キリスト教徒]]であり、[[司祭]]を志して、有馬の[[セミナリヨ]]に入った。


巡察師として日本を訪れた[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]](ヴァリニャーニ)は、キリシタン大名であった[[大村純忠]]と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直すためまた次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節を[[ローマ]]に派遣しようと考えた。
巡察師として日本を訪れた[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]は、[[キリシタン大名]]・[[大村純忠]]と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節を[[ローマ]]に派遣しようと考えた。そこでセミナリヨで学んでいたマルティノを含む4人の少年たちに白羽の矢が当てられ、マルティノは副使となった。


{{main|天正遣欧少年使節}}
そこでヴァリニャーノに白羽の矢をたてられたのが、セミナリヨで学んでいた4人の少年たちであった。その選考基準は容姿端麗で、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることであった。また正使の2人はあくまでキリシタン大名の名代ということで、彼らとの血縁にあたるものが選ばれているが、副使に関してはそこまで厳密に血縁は問われなかったようである(ただ原氏と[[大村氏]]は数代遡った血縁関係にはある)。


[[1590年]]、日本に戻ってきたマルティノらは翌年、[[聚楽第]]で[[豊臣秀吉]]と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、みなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった[[ノビシャド|修練院]]に入り、[[コレジオ]]に進んで勉学を続けた。[[1593年]][[7月25日]]、他の3人と共にイエズス会に入会した
(彼らのヨーロッパ旅行に関しては[[天正遣欧少年使節]]の項を参考。)


[[1601年]]には[[神学]]の高等課程を学ぶため、[[マカオ]]のコレジオに移った(この時点で[[千々石ミゲル]]は退会)。[[1608年]]、[[伊東マンショ]]、原マルティノ、[[中浦ジュリアン]]はそろって司祭に[[叙階]]された。
[[1590年]]、日本に戻ってきたらは翌年、[[聚楽第]]で[[豊臣秀吉]]と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、彼らはみなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった[[ノビシャド|修練院]]に入り、[[コレジオ]]に進んで勉学を続けた。[[1593年]][[7月25日]]、他の3人と共にイエズス会に入会。


マルティノは当時の司祭の必須教養であった[[ラテン語]]にすぐれ、語学の才能があった。彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『'''イミタチオ・クリスティ'''』(Imitatio Christi, 『キリストにならう』)の日本語訳「'''こんてんつすむんぢ'''」<!--contemus mundi?-->などを出版している。渉外術にすぐれ、[[小西行長]]や[[加藤清正]]とも折衝にあたり、当時の日本人司祭の中ではもっとも知られた存在であった。
[[1601年]]には[[神学]]の高等課程を学ぶため、[[マカオ]]のコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。[[1608年]]、伊東マンショ、原マルノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に[[叙階]]された。


[[1614年]]、[[江戸幕府]]によるキリシタン追放令を受けて[[11月7日]][[マカオ]]にむかって出発。マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行い、[[マンショ小西]]や[[ペトロ岐部]]らがローマを目指した際には援助した。
マル神父は当時の司祭の必須教養であった[[ラテン語]]にすぐれ、語学の才能があった。彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『'''イミタチオ・クリスティ'''』(Imitatio Christi, 『キリストにならう』)の日本語訳「'''こんてんつすむんぢ'''」<!--contemus mundi?-->などを出版している。渉外術にすぐれ、[[小西行長]]や[[加藤清正]]とも折衝にあたり、当時の日本人司祭の中ではもっとも知られた存在であった。


[[1614年]]キリシタン追放令を受けて[[11月7日]][[マカオ]]にむかって出発。マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行っていたが、[[1629年]][[10月23日]]にこの世をった[[マンショ小西]]、[[ペトロ岐部]]らがローマを目指した際にはこれに援助を与えた。彼の遺骸は(正面のファサードのみ残る)[[聖ポール天主堂跡|マカオの大聖堂]]の地下に生涯の師ヴァリニャーノと共に葬られた。
[[1629年]][[10月23日]]に去。遺骸は(正面のファサードのみ残る)[[聖ポール天主堂跡|マカオの大聖堂]]の地下に生涯の師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*天正遣欧少年使節
**[[千々石ミゲル]]
**[[中浦ジュリアン]]
**[[伊東マンショ]]
*[[日本のキリシタン一覧]]
*[[日本のキリシタン一覧]]
*[[天正遣欧少年使節]]
*[[原マルティノの演説]]


{{イエズス会}}
{{イエズス会}}

2012年7月19日 (木) 15:26時点における版

左下の人物が原マルティノ

原 マルティノ(はら マルティノ、Martinão, 永禄12年(1569年)頃 - 寛永6年9月7日1629年10月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリシタンイエズス会員でカトリック司祭マルチノ、またはマルチィノとも。天正遣欧少年使節の副使で、使節の少年4人の中では最年少であったが、語学に長け、ローマからの帰途のゴアラテン語の演説を行い有名になる。

経歴

ローマに残された資料によると肥前国(現在の長崎県波佐見町)出身といわれ、大村領の名士・原中務の子。両親共にキリスト教徒であり、司祭を志して、有馬のセミナリヨに入った。

巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。そこでセミナリヨで学んでいたマルティノを含む4人の少年たちに白羽の矢が当てられ、マルティノは副使となった。

1590年、日本に戻ってきたマルティノらは翌年、聚楽第豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、みなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。1593年7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会した。

1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。1608年伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。

マルティノは当時の司祭の必須教養であったラテン語にすぐれ、語学の才能があった。彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタチオ・クリスティ』(Imitatio Christi, 『キリストにならう』)の日本語訳「こんてんつすむんぢ」などを出版している。渉外術にすぐれ、小西行長加藤清正とも折衝にあたり、当時の日本人司祭の中ではもっとも知られた存在であった。

1614年江戸幕府によるキリシタン追放令を受けて11月7日マカオにむかって出発。マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西ペトロ岐部らがローマを目指した際には援助した。

1629年10月23日に死去。遺骸は(正面のファサードのみ残る)マカオの大聖堂の地下に生涯の師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。

関連項目