中浦ジュリアン

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福者 中浦 ジュリアン
JapaneseEmbassy.jpg
左上の人物が中浦ジュリアン
殉教者
生誕 1568年ごろ
肥前国中浦(現・長崎県西海市
死没 1633年10月21日
肥前国長崎西坂(現・長崎市
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 2008年11月24日
列福場所 日本の旗 日本 長崎県長崎市
列福決定者 ベネディクト16世
記念日 7月1日
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中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Julião, 1568年永禄11年)ごろ - 1633年10月21日寛永10年9月20日))は、現在の長崎県西海市に生まれた安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。ジュリアンは洗礼名イエズス会士でカトリック司祭となり、殉教した。

経歴[編集]

ローマに残っている資料によれば、中浦ジュリアンの父は肥前国中浦の領主中浦甚五郎とされる。ジュリアンは司祭を志して有馬のセミナリヨに学んでいたが、当時のセミナリヨは信仰堅固である程度の家柄の子弟しか入学させなかったので、それなりの身分の家の出身であったと考えられる。

天正遣欧少年使節[編集]

そのころ、イエズス会の巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。そこでセミナリヨで学んでいたジュリアンを含む4人の少年たちに白羽の矢が立てられ、ジュリアンは副使となった。

ローマへ向かった使節たちはローマ教皇グレゴリウス13世と謁見した。ジュリアンは伝染病である三日熱にかかっていたが、皆の勧めを押し切って謁見に臨んだ[1]

なお、トスカーナ大公国舞踏会の時は、初めての出来事であった余りにジュリアンは終始緊張しており、いざ自分が踊る番になった時に思わず誘った相手が老婦人だったというエピソードも残る。

帰国[編集]

1590年天正18年)に日本に戻ってきた彼らは翌1591年(天正19年)、聚楽第豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、みなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。1593年文禄2年)7月25日、他の3人とともにイエズス会に入会した。

1601年慶長6年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。1608年(慶長13年)に、伊東マンショ原マルティノとともに司祭に叙階された[1]

キリシタン弾圧と最期[編集]

司祭叙階後は博多で活動していたが、1613年(慶長18年)に黒田長政がキリシタン弾圧に乗り出したため、そこを追われ長崎に戻る。翌1614年(慶長19年)の江戸幕府によるキリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選び、九州を回りながら迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。

二十数年にわたり地下活動を続けていたが、1632年(寛永9年)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られた。そして翌1633年10月18日(寛永10年9月17日)、イエズス会司祭のジョアン・マテウス・アダミアントニオ・デ・スーザクリストヴァン・フェレイラドミニコ会司祭のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士とともに穴吊るしの刑に処せられた。穴吊るしの刑では全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずに苦しみもがくという惨刑であった(一方で棄教の意思を示すことは簡単に出来たため、信徒を屈するに適した拷問だった)。クリストヴァン・フェレイラが棄教し、ほかの人々は棄教せずにすべて殉教した。最初に死んだのは中浦ジュリアンで、穴吊るしにされて4日目の10月21日9月20日)であった。65歳没。役人に対し毅然として「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最期に言い残したといわれている[1][2]

なお、殉教から374年が経過した2007年平成19年)6月、ローマ教皇ベネディクト16世は、中浦ジュリアンを福者に列することを発表し、2008年(平成20年)11月24日に長崎で他の187人と共に列福式が行われた[3]。天正遣欧少年使節の一員で福者になるのは彼が初めてである。

脚注[編集]

  1. ^ a b c ローマを見た宣教師 ジュリアン中浦  カトリック中央協議会
  2. ^ 結城了悟『日本とバチカン』女子パウロ会、初版、1989年2月20日。122-123頁。ISBN 4-7896-0308-3
  3. ^ きょう日本初の列福式、殉教者188人が福者に Christian Today, Japan

参考論文[編集]

  • 小佐々学「天正遣欧少年使節『中浦ジュリアン』の出自について」『大村史談』35号、1989年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]