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'''フランス領赤道アフリカ''' ('''''Afrique Équatoriale Française''', AEF'') は、[[1910年]]から[[1959年]]まで[[中部アフリカ]]に存在した、[[フランス]]の[[植民地]]。 |
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==構成植民地と統治== |
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1910年に[[ガボン]]植民地、中央コンゴ植民地(現[[コンゴ共和国]])、ウバンギ・シャリ植民地(現[[中央アフリカ|中央アフリカ共和国]])の3地域に[[連邦|連邦制]]を敷き'''フランス領赤道アフリカ'''を設立。[[1920年]]には[[チャド]]植民地も加わり4地域体制となった。[[総督]]は[[ブラザヴィル]]に常駐し、その代理が各地域の主都に赴き統治に当たった。各地域の主都は以下の通り。 |
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* ガボン植民地 |
* ガボン植民地 - [[リーブルヴィル]] |
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* 中部コンゴ植民地 |
* 中部コンゴ植民地 - ブラザヴィル(総督所在地) |
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* ウバンギ・シャリ植民地 |
* ウバンギ・シャリ植民地 - [[バンギ]] |
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* チャド植民地 |
* チャド植民地 - フォールラミ(現[[ンジャメナ]]) |
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==歴史== |
== 歴史 == |
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[[第二次世界大戦|第二次大戦]]期、[[ナチス・ドイツ]]によりフランス本土の大半が占領されると、[[自由フランス]]の[[アフリカ]]における活動拠点となった。 |
[[第二次世界大戦|第二次大戦]]期、[[ナチス・ドイツ]]によりフランス本土の大半が占領されると、[[自由フランス]]の[[アフリカ]]における活動拠点となった。 |
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フランス本国で[[フランス第四共和政|第四共和政]]が成立すると、他の植民地と同様、'''フランス領赤道アフリカ'''も本国議会に代表を送ることが認められた。住民の政治意識の高まりから[[1958年]][[9月]]、[[フランス共同体]]内の自治共和国となるかどうかの住民投票が行なわれると、圧倒的多数でこれを承認。連邦は解体され、フランス領赤道アフリカは消滅した。[[1959年]]、旧連邦構成地域は暫定的に'''中部アフリカ共和国連合'''を創設し連携を維持しようとしたが、結局[[1960年]]各共和国は個別に独立した。 |
フランス本国で[[フランス第四共和政|第四共和政]]が成立すると、他の植民地と同様、'''フランス領赤道アフリカ'''も本国議会に代表を送ることが認められた。住民の政治意識の高まりから[[1958年]][[9月]]、[[フランス共同体]]内の自治共和国となるかどうかの住民投票が行なわれると、圧倒的多数でこれを承認。連邦は解体され、フランス領赤道アフリカは消滅した。[[1959年]]、旧連邦構成地域は暫定的に'''中部アフリカ共和国連合'''を創設し連携を維持しようとしたが、結局[[1960年]]各共和国は個別に独立した。 |
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==関連項目== |
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* [[フランス植民地帝国]] |
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2008年5月23日 (金) 05:02時点における版
フランス領赤道アフリカ (Afrique Équatoriale Française, AEF) は、1910年から1959年まで中部アフリカに存在した、フランスの植民地。
構成植民地と統治
1910年にガボン植民地、中央コンゴ植民地(現コンゴ共和国)、ウバンギ・シャリ植民地(現中央アフリカ共和国)の3地域に連邦制を敷きフランス領赤道アフリカを設立。1920年にはチャド植民地も加わり4地域体制となった。総督はブラザヴィルに常駐し、その代理が各地域の主都に赴き統治に当たった。各地域の主都は以下の通り。
歴史
第二次大戦期、ナチス・ドイツによりフランス本土の大半が占領されると、自由フランスのアフリカにおける活動拠点となった。
フランス本国で第四共和政が成立すると、他の植民地と同様、フランス領赤道アフリカも本国議会に代表を送ることが認められた。住民の政治意識の高まりから1958年9月、フランス共同体内の自治共和国となるかどうかの住民投票が行なわれると、圧倒的多数でこれを承認。連邦は解体され、フランス領赤道アフリカは消滅した。1959年、旧連邦構成地域は暫定的に中部アフリカ共和国連合を創設し連携を維持しようとしたが、結局1960年各共和国は個別に独立した。