「シュレージエン戦争」の版間の差分

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{{Infobox Military Conflict
[[画像:Silesia (Now).png|thumb|300px|シュレージエン境界と現在の国境図。青がオーストリア時代の境界、黄色がプロイセン時代における[[シュレージエン州]]の境界。]]
| conflict = シュレージエン戦争
| partof = {{仮リンク|普墺角逐|en|Austria–Prussia rivalry}}
| image = Map for the Silesian and Seven Years Wars.jpg
| image_size = 300px
| alt = 色付きの中央ヨーロッパ地図
| caption = 1756年時点、[[第三次シュレージエン戦争]]開戦直前の[[ブランデンブルク=プロイセン]](水色)と[[ハプスブルク帝国]](赤)。
| date = 1740年 – 1763年
| place = [[中央ヨーロッパ]]
| result = 3度ともにプロイセンの勝利
| territory = ハプスブルク帝国がシュレージエンの大半をプロイセンに割譲
| combatant1 = {{Plainlist|
*{{flagicon2|Prussia|1750}} [[プロイセン王国]]
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| combatant2 = {{Plainlist|
*{{flagicon2|Habsburg Monarchy|empire}} [[ハプスブルク帝国]]
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[[ファイル:Silesia (Now).png|thumb|300px|シュレージエン境界と現在の国境図。青がオーストリア時代の境界、黄色がプロイセン時代における[[シュレージエン州]]の境界。]]
'''シュレージエン戦争'''(シュレージエンせんそう、{{lang-de|Schlesische Kriege}})は、[[18世紀]]中ごろに[[マリア・テレジア]]を君主に戴く[[ハプスブルク帝国]](オーストリア)と[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]を君主に戴く[[プロイセン王国]]が[[中央ヨーロッパ]]の[[シレジア|シュレージエン]]地方(現[[ポーランド]]南西部)の帰属を巡って戦った3度の戦争の総称。うち、[[第一次シュレージエン戦争|第一次戦争]](1740年 – 1742年)と[[第二次シュレージエン戦争|第二次戦争]](1744年 – 1745年)は[[オーストリア継承戦争]]の局地戦であり、プロイセンはオーストリアの分割を目指す同盟の一員として参戦した。[[第三次シュレージエン戦争|第三次戦争]](1756年 – 1763年)は[[七年戦争]]の局地戦であり、オーストリア率いる同盟がプロイセン領の奪取を目指した。英語読みで'''シレジア戦争'''(シレジアせんそう、{{lang|en|Silesian Wars}})とも。


プロイセンは第一次シュレージエン戦争の[[開戦事由]]に数世紀前からのシュレージエンの一部への領土主張を挙げたが、戦争勃発には[[レアルポリティーク]]と{{仮リンク|地政戦略学|en|Geostrategy|label=地政戦略}}上の影響もみられる。女性である[[マリア・テレジア]]が1713年の[[国事詔書 (1713年)|国事詔書]]に基づき[[ハプスブルク帝国]]を継承することに各国から異議が唱えられたため、プロイセンが[[ザクセン選帝侯領]]や[[バイエルン選帝侯領]]を出し抜いて勢力を増す機会となった。
'''シュレージエン戦争'''([[ドイツ語|独]]:'''Schlesische Kriege''')は、[[18世紀]]中ごろに[[ヨーロッパ]]で行われた[[戦争]]である[[オーストリア継承戦争]]と[[七年戦争]]のうち、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]と[[プロイセン王国|プロイセン]]が[[シレジア|シュレージエン]]地方の帰属を巡って戦った局地的[[戦役]]の総称である。文脈によっては二つの戦争の別称として使われていることもある。英語読みで'''シレジア戦争'''('''Silesian Wars''')という。


[[1740年]]にプロイセン[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]が、[[マリア・テレジア]]即位伴って各国がオーストリアを攻撃する形勢であったのに乗じ、シュレージエンの獲得目指して同地侵攻したのが始まりである。オーストア継承戦争中、講和を挟んで2度争い、オーストリアは敗北してシュレージエンを割譲した後七年戦争でオーストリアはシュレージエンの奪還を目指しものの、敗れて講和しプロイセンのシュレージエン有が確定した(後に{{仮リンク|プロイセン領シュレージエン地方|en|Province of Silesia}}、[[1815年]] - [[1919年]])
3度戦争とも概ねプロイセンの勝利終わり、オーストリアシュレージエンの大半プロイセン割譲した(後プロイセン領{{仮ンク|シュレージエン州|en|Province of Silesia}})ときオーストリアに残された領域を{{仮リンク|オーストリア領シュレージエン|en|Austrian Silesia}}といい後の[[チェコ領スレスコ]]となった


大国オーストリアと比べて小国であるプロイセンがオーストリアに打ち勝ったことにより、プロイセンは[[列強]]入りを果たした上、ドイツにおける[[プロテスタント]]諸国の盟主という地位に上り詰め、一方[[カトリック教会|カトリック]]国家であるオーストリアはその敗北により名声を大きく損なった。シュレージエン戦争は{{仮リンク|普墺角逐|en|Austria–Prussia rivalry}}の始まりとされ、このことは1866年の[[普墺戦争]]にいたるまで1世紀以上の[[ドイツの歴史|ドイツ史]]に大きな影響を与えることとなった。
このときオーストリアに残された領域を{{仮リンク|オーストリア領シュレージエン|en|Austrian Silesia}}といい、後の[[チェコ領スレスコ]]となった。


== 背景 ==
== シュレージエン侵攻の理由 ==
[[ファイル:Europe 1740 en.png|thumb|alt=1740年時点のヨーロッパ諸国の国境を示す地図|1738年の[[ウィーン条約 (1738年)|ウィーン条約]]以降のヨーロッパ。]]
[[画像:Frederic II de prusse.jpg|thumb|left|フリードリヒ2世]]
[[ブランデンブルク辺境伯領]]に隣接する[[ハプスブルク帝国]](オーストリア)領[[シレジア|シュレージエン]]は18世紀初頭には人口の多く、経済も繁栄した地域になっていたが、ブランデンブルク辺境伯領と[[プロイセン王国]]([[ブランデンブルク=プロイセン]])を統治する[[ホーエンツォレルン家]]はシュレージエン領内にある[[シロンスク公国群|諸公国]]への領有権を主張していた{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}。シュレージエンには税収、工業生産、兵士といった資源の価値のほか、{{仮リンク|地政戦略学|en|Geostrategy|label=地政戦略}}的にも重要性を有した。すなわち、[[オーデル川]]上流の渓谷はブランデンブルク、[[ボヘミア]]、[[モラヴィア]]間の進軍を容易にしているため、それらの地域を領有する国は隣国への脅威になる。また、シュレージエンが[[神聖ローマ帝国]]の北東部辺境にあたるため、シュレージエンを領有する国は[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]と[[ロシア帝国|ロシア]]のドイツに対する影響力を制限する力をも有することになる{{Sfn|Browning|2005|p=527}}。
[[画像:Andreas_Moeller_-_Erzherzogin_Maria_Theresia_-_Kunsthistorisches_Museum.jpg|thumb|left|マリア・テレジア]]
シュレージエンはもともと[[シロンスク公国群|複数の諸公領]]からなり、[[ホーエンツォレルン家]]はそれらのうち[[クルノフ公国|イェーゲルンドルフ公領]]、[[オポーレ公国|オッペルン公領]]、[[ラチブシュ公国|ラティボル公領]]を[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて統治していた。このうち後の2公領は、ホーエンツォレルン家のシュレージエンにおける勢力拡大を嫌った[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]の干渉のため手放したものの、イェーゲルンドルフ公領はホーエンツォレルン家の世襲領として保たれた。しかし[[三十年戦争]]の結果、[[プロテスタント]]側であったイェーゲルンドルフ公{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク (ブランデンブルク=イェーゲルンドルフ公)|label=ヨハン・ゲオルク|de|Johann Georg (Brandenburg-Jägerndorf)}}は皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に領地を取り上げられ、ホーエンツォレルン家はシュレージエンにおける領地を一度喪失した。


=== ブランデンブルク=プロイセンの領有権主張 ===
またこれとは別にホーエンツォレルン家は、[[レグニツァ公国|リーグニッツ公領]]、[[ブジェク公国|ブリーク公領]]、{{仮リンク|ヴォウフ公国|label=ウォーラウ公領|de|Herzogtum Wohlau}}の3公領について継承権を持っていた。これはリーグニッツ公[[フリデリク2世 (レグニツァ公)|フリードリヒ2世]]と[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム2世]]との間に結ばれた相続協定によるものであったが、この取り決めをフェルディナント1世は承認せず無効としていた。3公領の最後の所有者であった[[シロンスク・ピャスト家|シュレージエン系ピャスト家]]の[[イェジ・ヴィルヘルム (レグニツァ公)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]が死去したとき、皇帝[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]は大王の曾祖父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]大選帝侯の相続を認めず、3公領を[[ボヘミア王冠領|ベーメン王国]]に接収した。このときレオポルト1世は代わりに{{仮リンク|シフィエボジン|label=シュヴィーブス|en|Świebodzin}}を与えて大選帝侯をなだめることにしたが、結局は後にシュヴィーブスを取り戻したので、大選帝侯の後を継いだ[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]は3公領に対する請求権を放棄しなかった。
[[シロンスク・ピャスト家]]の[[レグニツァ公国|レグニツァ公]][[フリデリク2世 (レグニツァ公)|フリデリク2世]]と[[ホーエンツォレルン家]]の[[ブランデンブルク選帝侯]][[ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム2世ヘクトル]]は1537年に継承条約を締結し、シロンスク・ピャスト家が断絶した場合にはホーエンツォレルン家がレグニツァ公国、[[ブジェク公国]]、{{仮リンク|ヴォウフ|en|Wołów}}を継承することを定めた。しかし、シロンスク諸公国の宗主である[[ボヘミア王]]は[[ハプスブルク家]]の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナンド1世]]であり、彼は条約を拒絶し、ホーエンツォレルン家に圧力をかけて条約を拒否させた{{Sfn|Carlyle|1858|pp=282–286}}。1603年、ブランデンブルク選帝侯[[ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム・フリードリヒ]]は親族の[[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]][[ゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ゲオルク・フリードリヒ]]から[[クルノフ公国]](ドイツ語でイェーゲルンドルフ公国。シロンスク諸公国の1つ)を継承し、次男{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・フォン・ブランデンブルク|en|Johann Georg von Brandenburg|label=ヨハン・ゲオルク}}に公位を譲った{{Sfn|Hirsch|1881|p=175}}。


1618年に{{仮リンク|ボヘミア反乱|en|Bohemian Revolt}}が勃発したことで[[三十年戦争]]が始まると、ヨハン・ゲオルクはほかのシロンスク諸公国とともに反乱に加担し、カトリックの[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に反旗を翻した{{Sfn|Hirsch|1881|p=176}}。反乱は1621年にカトリック側が[[白山の戦い]]で勝利したことで鎮圧され、フェルディナント2世はヨハン・ゲオルクの領国を没収し、ヨハン・ゲオルクの死後もその後継者への返還を拒否したが、歴代ブランデンブルク選帝侯は自身こそがクルノフ公国の正当な統治者であると主張し続けた{{Sfn|Carlyle|1858|pp=339–342}}。1675年にシロンスク・ピャスト家最後の君主であるレグニツァ公[[イェジ・ヴィルヘルム (レグニツァ公)|イェジ・ヴィルヘルム]]が死去すると、ブランデンブルクの「大選帝侯」[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]はレグニツァ、ブジェク、ヴォウフの継承を主張したが、時の皇帝[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]はフリードリヒ・ヴィルヘルムの主張を無視し、イェジ・ヴィルヘルムの領地を帝国領に併合した{{Sfn|Carlyle|1858|pp=357–358}}。
このようにプロイセンには一応、シュレージエンの少なくない領域について自国のものと主張することのできる根拠があったわけであるが、継承権の主張を取り下げていた時期も長く、正当性は微妙だった。しかし戦争を仕掛けるにはそれで十分であった。


1685年、オーストリアが[[大トルコ戦争]]で戦っている中、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルムにシュレージエンへの領土主張を取り下げさせ、大トルコ戦争でオーストリアに軍事援助を与える代償として、シュレージエンの[[飛地]]である{{仮リンク|シュフィエボジン|en|Świebodzin|label=シュヴィーブス}}をブランデンブルクに割譲した。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]](後のプロイセン王フリードリヒ1世。1688年に選帝侯に即位)が父の後を継いで選帝侯になると、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルム一代限りでシュヴィーブスを割譲したとして、シュヴィーブスの支配権を取り戻した{{Sfn|Carlyle|1858|pp=364–367}}。フリードリヒ3世は負債の一部をレオポルト1世に肩代わりさせることで、この再占領を秘密裏に承認したが{{Sfn|Anderson|1995|p=59}}、後に合意を反故にし、クルノフ公国と元シロンスク・ピャスト家領への請求を再開した{{Sfn|Carlyle|1858|pp=364–367}}。
そもそもプロイセンがシュレージエンについての権利の主張を再開したのは、大王の父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]時代のことであって、そのきっかけとなったのは、皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が、プロイセンが主張していた[[ライン川]]両岸にある[[ユーリヒ公国|ユーリヒ公領]]と[[ベルク公国|ベルク公領]]の継承権について、プロイセンがオーストリアの[[国事詔書]]を承認するのと引き換えに認めると約束しておきながら、いざとなると[[フランス王国|フランス]]の後援を得た[[プファルツ家]]の主張を容れてプロイセンの主張を取り下げさせたことである。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、オーストリアに約束の履行を求め、[[プファルツ選帝侯領]]となったユーリヒ=ベルク公領がだめなら代わりにと、シュレージエン3公領への主張を復活させた。


=== オーストリアの継承問題 ===
経済的にはシュレージエンという土地は鉱業が盛んで、手工業が発達し、人口も多く豊かな土地であった。当時のプロイセン全体の人口が250万人であったが、シュレージエン1州で150万の人口があった。シュレージエンを得ることができればプロイセンの国力を大いに高めることができる上に、オーストリアの国力を大幅に低下させて積年の恨みを晴らすことも出来たのである。地理的にはシュレージエンはプロイセンにとって死活的に重要な[[オーデル川]]上流を有し、一方で自然障害となる山地が[[ボヘミア|ベーメン]]、[[モラヴィア|メーレン]]との間にそびえている。シュレージエンを有せば[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]と[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]を分断し、しかもザクセンを北と東から包囲しうる。また加えてシュレージエンはプロテスタントの多い土地であった。
[[ファイル:MariaTheresia Maske.jpg|175px|thumb|[[マリア・テレジア]]、[[マルティン・ファン・マイテンス]]作、1744年頃。[[シェーンブルン宮殿]]所蔵。]]
時代を下って1740年5月、即位したばかりのプロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は再びシュレージエンの領有を目指した{{Sfn|Fraser|2000|p=69}}。彼はシュレージエンへの請求が正当であると考え{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}、また父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]からよく訓練された大軍である{{仮リンク|プロイセン陸軍|en|Prussian Army}}を継承し、国庫の状態も健全だった{{Sfn|Clark|2006|p=190}}。一方、オーストリアは財政状況が悪く、軍も直近の[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)|オーストリア・ロシア・トルコ戦争]]で不名誉な敗北を喫したにもかかわらず増強も改革もなされなかった{{Sfn|Anderson|1995|pp=61–62}}。ヨーロッパの情勢もプロイセンの先制攻撃に有利だった。[[グレートブリテン王国]]と[[フランス王国]]はお互いに注目していてヨーロッパ全体を見ておらず、[[ロシア帝国]]と[[スウェーデン|スウェーデン王国]]は[[ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)|ハット党戦争]]で戦っており{{Sfn|Anderson|1995|p=80}}、[[バイエルン選帝侯領]]と[[ザクセン選帝侯領]]はオーストリアへの継承権を主張できる立場にあるため攻撃に参加する可能性があった{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}。ホーエンツォレルン家による請求権は法律上の[[開戦事由]]になったが、実際には[[レアルポリティーク]]と{{仮リンク|地政戦略学|en|Geostrategy|label=地政戦略}}上の理由が戦争勃発の主因である{{Sfn|Clark|2006|pp=192–193}}。


フリードリヒ2世にとって機会となったのは、1740年10月に神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が男子継承者を残さずに死去したときだった。1713年の[[国事詔書]]により、カール6世は長女[[マリア・テレジア]]を継承者に定め、マリア・テレジアはカール6世に伴いオーストリアの統治者になり、[[ハプスブルク帝国]]のうち[[ボヘミア王冠領|ボヘミア]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の領地も継承した{{Sfn|Asprey|1986|p=24}}。国事詔書はカール6世の存命中にはほとんどの[[帝国諸侯]]からの承認を受けたが、多くの諸侯はカール6世の死後すぐに承認を拒否した{{Sfn|Clifford|1914|p=3100}}。フリードリヒ2世はこれを好機とみて、[[ヴォルテール]]に「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」と書き送った{{Sfn|Fraser|2000|p=69}}{{Sfn|Macdonogh|2001|p=147}}。
そして、当時のオーストリアの軍隊は、直前の[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年–1739年)|対トルコ戦争]]([[1735年]] - [[1739年]])で疲弊して戦力を大幅に低下させているだけでなく、その大半が依然として[[ハンガリー王国|ハンガリー]]に駐留したままだったのである。シュレージエンの防衛兵力は乏しく、プロイセンの戦力をもってすれば制圧は容易であった。


フリードリヒ2世はシュレージエンが世襲領地ではなく、帝国の王冠領の一部としてハプスブルク家が所有するにすぎないので、国事詔書はシュレージエンには適用されないとした。さらに、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が国事詔書の承認に同意したとき、その見返りとして[[ラインラント]]の[[ユーリヒ公国]]と[[ベルク公国]]への請求の支持をとりつけたが、オーストリアがその義務を果たさなかったとした{{Sfn|Fraser|2000|p=70}}{{Sfn|Clark|2006|p=191}}。
== 戦争 ==
[[画像:Wilhelm Camphausen-Die Huldigung.jpg|thumb|300px|シュレージエン人の歓迎を受けるフリードリヒ2世、[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]、1741年([[ヴィルヘルム・カンプハウゼン]]作、1944年)]]


一方、バイエルン選帝侯[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト]]とザクセン選帝侯[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]はそれぞれカール6世の兄[[ヨーゼフ1世]]の娘と結婚しており、この結婚をハプスブルク家領への請求の根拠とした{{Sfn|Clark|2006|p=190}}。中でもフリードリヒ・アウグスト2世はアウグスト3世として[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国王にも就任しており、シュレージエンを領有することで自領であるザクセンとポーランドが一続きになる(同時にブランデンブルクをほぼ包囲する形になる)。この最悪の結果を防ぐためにも、プロイセンは急いで行動を起こさなければならなかった{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}。
シュレージエン戦争は第一次、第二次、第三次の3回に区分される。このうち第一次、第二次がオーストリア継承戦争、第三次が七年戦争で戦われた。第三次についてはシュレージエンの争奪が戦争の大きな焦点の一つになったため、多方面に戦役を抱えていたオーストリア継承戦争のときと比べると七年戦争と区別して語られることはあまりない。


;[[第一次シュレージエン戦争]]
== 第一次シュレージエン戦争 ==
{{Main|第一次シュレージエン戦争}}
フリードリヒ大王は1740年冬、マリア・テレジアにシュレージエンの割譲を求めて同地に侵攻した。マリア・テレジアはこれを拒否して抗戦しようとするが、四面楚歌の状況にあったため、滅亡を回避するためには割譲に応じて敵の数を減らすしかなかった。
[[ファイル:Crown of Bohemia 1648.png|thumb|alt=18世紀初の中央ヨーロッパの国境|1742年に[[シレジア|シュレージエン]]が[[ブランデンブルク=プロイセン]]に割譲されるまで、[[ハプスブルク家]]が統治した[[ボヘミア王冠領]]の地図。]]
1740年10月20日にカール6世が死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃を決めて11月8日にプロイセン陸軍の動員を命じ、12月11日にマリア・テレジアに[[最後通牒]]を突き付けてシュレージエンの割譲を要求した{{Sfn|Clark|2006|p=183}}。シュレージエン割譲の代償として、フリードリヒ2世はそれ以外のハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額の賠償金を支払うこと{{Sfn|Anderson|1995|p=69}}、国事詔書を承認することと、{{仮リンク|神聖ローマ皇帝選挙|en|Imperial election}}でブランデンブルク選帝侯としての票をマリア・テレジアの夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン]]に投じることを提案した{{Sfn|Clark|2006|p=183}}。


フリードリヒ2世は返事を待たず、12月16日にプロイセン軍を率いて、[[宣戦布告]]せずに国境を越えてシュレージエンに侵入した{{Sfn|Friedrich II, King of Prussia|2009|p=3}}。以降1741年1月末までにシュレージエンのほぼ全域を占領し、残る[[グウォグフ|グローガウ]]、[[ブジェク|ブリーク]]、[[ニサ (ポーランド)|ナイセ]]のオーストリア3拠点を包囲した{{Sfn|Clark|2006|p=183}}。オーストリア軍は3月末にナイセの包囲を解いたが、4月10日の[[モルヴィッツの戦い]]でプロイセン本軍に敗北したため、プロイセンのシュレージエン支配は揺るぎないものとなった{{Sfn|Fraser|2000|pp=89–93}}。
;[[第二次シュレージエン戦争]]
オーストリアは危機を乗り切り、かえってフランスに対し攻勢に出た。これに危機感を持った大王はベーメンに侵攻するが撃退される。シュレージエン奪回を狙うオーストリアの前に一旦は不利な情勢となったプロイセンだったが、その後連勝を続けてオーストリアを下し、シュレージエン割譲を再び認めさせた。


ヨーロッパ諸国はオーストリアがモルヴィッツの戦いで敗れ、プロイセン軍の侵攻を阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃に踏み切った。これにより戦争は単なるシュレージエンをめぐる紛争にとどまらず[[オーストリア継承戦争]]に発展し{{Sfn|Clark|2006|pp=193–194}}、以降数か月の間、バイエルン、ザクセン、フランス、[[ナポリ王国|ナポリ]]、[[スペイン]]が各地でオーストリア領を攻撃するが、フリードリヒ2世はイギリスの催促と仲介もあってマリア・テレジアとの秘密講和交渉を開始{{Sfn|Black|2002|pp=102–103}}、10月9日に[[クラインシュネレンドルフの密約]]と呼ばれる秘密[[停戦協定]]を締結した。この密約により、オーストリアは講和の代償として、来たる講和条約で{{仮リンク|下シュレージエン|en|Lower Silesia}}を割譲することに同意した{{Sfn|Holborn|1982|p=213}}。
;[[七年戦争]](第三次シュレージエン戦争)

シュレージエン奪回を諦めないマリア・テレジアは、[[外交革命]]によりプロイセンを戦略的に追い込む。戦争不可避を悟った大王は先制攻撃をかけた。七年にわたる攻防で、プロイセンは幾度も会戦で勝利を得るものの、戦略的には劣勢であった。しかし[[ロシア帝国|ロシア]]の政変による同盟離脱からオーストリアは跳ね返されて体力を使い果たし、シュレージエンを取り戻すことはできなかった。
オーストリアが自軍を他の敵軍への対処にあて、失地を回復し始めると、フリードリヒ2世はオーストリアに密約を履行してシュレージエンの割譲に応じるつもりがないと判断し、協定の無効を宣言して進軍を再開した{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=513–519}}。1741年12月、プロイセン軍はモラヴィアに進軍して首府[[オロモウツ|オルミュッツ]]を占領、ボヘミア辺境の{{仮リンク|クウォツコ|en|Kłodzko|label=グラーツ}}要塞を包囲した{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=513–519}}。1742年1月、{{仮リンク|1742年神聖ローマ皇帝選挙|en|1742 Imperial election|label=皇帝選挙}}が行われ、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが(カール7世として)神聖ローマ皇帝に当選した{{Sfn|Fraser|2000|p=106}}。2月、フリードリヒ2世はザクセン軍とフランス軍とともにモラヴィアを経由してウィーンへの進軍をはじめたが、フランス軍が非協力的な態度をとったためウィーンへの進軍の計画は4月に放棄され、プロイセン軍はボヘミアと上シュレージエンへ撤退した{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=547–549}}{{Sfn|Friedrich II, King of Prussia|2009|p=4}}。

オーストリア軍はボヘミアへの反攻を試み、5月17日の[[コトゥジッツの戦い]]でフリードリヒ2世率いるプロイセン軍と交戦したが敗北した。これによりオーストリアは連合軍をボヘミアから追い出す手段を持たない状況になり、[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]でプロイセンとの講和交渉を再開した{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=574–579}}。イギリスからの圧力により{{Sfn|Holborn|1982|p=213}}、オーストリアはシュレージエンの大半とボヘミアの{{仮リンク|グラーツ伯領|en|County of Kladsko}}の割譲に同意{{Sfn|Fraser|2000|p=121}}、シュレージエンの南端にあるわずかな領土([[クルノフ公国|クルノフ]]、{{仮リンク|オパヴァ公国|en|Duchy of Troppau|label=オパヴァ}}、{{仮リンク|ヌィサ公国|en|Duchy of Nysa|label=ヌィサ}}三公国の一部、および[[チェシン公国]])のみ維持することとなった。また、プロイセンはシュレージエンの資産を担保にしたオーストリアの負債の一部を肩代わりすることに同意し、オーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。この合意は1742年6月11日の[[ブレスラウ条約]]で採択され、7月28日の{{仮リンク|ベルリン条約 (1742年)|en|Treaty of Berlin (1742)|label=ベルリン条約}}で正式に確認された{{Sfn|Carlyle|1862b|pages=581–586}}。

== 第二次シュレージエン戦争 ==
{{Main|第二次シュレージエン戦争}}
[[ファイル:Preußische Grenadier-Bataillone schlagen die Sachsische Garde.jpg|thumb|alt=プロイセン軍の擲弾兵がホーエンフリートベルクの戦いで沼地の戦場を通ってザクセン軍を攻撃する場面の絵画|[[ホーエンフリートベルクの戦い]]でザクセン軍を撃破するプロイセン軍の[[擲弾兵]]。{{仮リンク|カール・|en|Carl Röchling}}作、19世紀末から20世紀初の作品。]]
プロイセンと講和したことで、オーストリアとその同盟国であるイギリスと[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯領]](両者は[[同君連合]])は反転攻勢に出て、フランスとバイエルンが1741年に占領した地域を奪い返すことができた。オーストリアは1743年中までにボヘミアを回復し、フランス軍を[[ライン川]]の向こうに追い返した上でバイエルンを占領した{{Sfn|Clifford|1914|p=3103}}。イギリス、オーストリア、[[サルデーニャ王国]]は1743年9月の{{仮リンク|ヴォルムス条約|en|Treaty of Worms (1743)}}で改めて同盟を締結したが、これはマリア・テレジアが他所の戦闘を片付けたらシュレージエンの奪回に動くのではないかという、フリードリヒ2世の疑念を引き起こすことになった{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=725–729}}。そのため、フリードリヒ2世は1744年8月7日に改めて皇帝カール7世を代表して戦争への介入を表明し、8月15日に自軍を率いてボヘミアとの国境を越えたことで、第二次シュレージエン戦争が勃発した{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=16–27}}。

プロイセン軍は[[プラハ]]周辺に集結したのち9月16日にプラハを占領したが、これによりオーストリア軍はフランスからバイエルン経由で撤退してきた{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=16–27}}。フランス軍がオーストリア軍の行軍への妨害に失敗したため{{Sfn|Holborn|1982|p=215}}、オーストリア軍は消耗も少なく、素早くボヘミアに戻ってきた。フリードリヒ2世はプラハ周辺に軍を集結させて決定的な会戦に持ち込もうとしたが、オーストリア軍の指揮官[[オットー・フェルディナンド・フォン・トラウン]]は会戦を避けてプロイセン軍の補給線の撹乱に専念、結局プロイセン軍は11月にボヘミアを放棄して上シュレージエンに撤退せざるを得なかった{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=61–62, 79–80}}。

[[ファイル:Friedrich2 jung.jpg|thumb|right|プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]、[[アントワーヌ・ペーヌ]]作、1745年。]]
1745年1月、オーストリアは{{仮リンク|ワルシャワ条約 (1745年)|en|Treaty of Warsaw (1745)|label=ワルシャワ条約}}を締結して、イギリス、ザクセン、[[ネーデルラント連邦共和国]](オランダ)との「四国同盟」を結んだ{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=88–90, 96–97}}。一方、プロイセン側は皇帝カール7世が1745年1月20日に死去したため大義名分を失った{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=61–62, 79–80}}。このような情勢の中、オーストリアは1745年3月にバイエルンへの攻勢を再開、4月15日の[[プファッフェンホーフェンの戦い]]でフランス=バイエルン連合軍に決定的な勝利を収めたことで4月22日の[[フュッセン条約]]の締結に成功、バイエルン選帝侯[[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]](カール7世の息子)と講和した{{Sfn|Holborn|1982|p=216}}。

バイエルンを撃破した後、オーストリアはシュレージエン侵攻をはじめた。5月末、オーストリア=ザクセン連合軍は{{仮リンク|クルコノシェ山脈|en|クルコノシェ山脈}}を越えてシュレージエンに侵入するも、フリードリヒ2世に奇襲されて4月6日の[[ホーエンフリートベルクの戦い]]で大敗{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=142–143}}、シュレージエンを素早く回復する希望は失われた{{Sfn|Showalter|2012|pp=84–88}}。プロイセン軍はオーストリア=ザクセン連合軍を追撃してボヘミアに侵入、[[エルベ川]]沿岸で野営しつつ講和交渉を求めた{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=153–156}}。マリア・テレジアはその後の数か月で神聖ローマ帝国の[[選帝侯]]からの支持を確保、9月13日の{{仮リンク|1745年神聖ローマ皇帝選挙|en|1745 Imperial election|label=皇帝選挙}}で夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン]]を(フランツ1世として)皇帝に当選させ、戦争の目標の1つを達成した{{Sfn|Clifford|1914|p=3105}}。

9月29日、オーストリア軍はボヘミアにあるプロイセン軍営に奇襲をかけ([[ゾーアの戦い]])、兵力上の優勢もあったものの結局は敗北を喫した{{Sfn|Holborn|1982|p=216}}{{Sfn|Showalter|2012|pp=84–88}}。その後、プロイセン軍は補給の不足により、上シュレージエンに撤退して冬営に入った{{Sfn|Carlyle|1864a|p=188}}。11月、オーストリアとザクセンは[[ブランデンブルク辺境伯領|ブランデンブルク]]への奇襲侵攻を準備し、首都[[ベルリン]]を攻め落として戦争を一気に終結させようとしたが{{Sfn|Holborn|1982|p=216}}{{Sfn|Showalter|2012|pp=84–88}}、フリードリヒ2世に先手を打たれ11月23日に奇襲を受け([[ヘンネルスドルフの戦い]])、オーストリア軍は混乱に陥って散らされた{{Sfn|Fraser|2000|p=194}}。一方、アンハルト=デッサウ侯[[レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)|レオポルト1世]]率いるプロイセン軍の別働隊はザクセン西部に進軍、12月15日の[[ケッセルスドルフの戦い]]でザクセン本軍を撃滅、直後にザクセン首都[[ドレスデン]]を占領した{{Sfn|Clifford|1914|p=3105}}。

ドレスデンでの講和交渉は素早く進み、マリア・テレジアはプロイセンによるシュレージエンとグラーツ領有を承認、フリードリヒ2世はフランツ1世を神聖ローマ皇帝として承認し、オーストリア継承戦争における中立を再び約束した{{Sfn|Clifford|1914|p=3105}}。また、ザクセンはオーストリア側で参戦した代償としてプロイセンに100万{{仮リンク|ライヒスターラー|en|Reichsthaler}}の賠償金を支払った。第二次シュレージエン戦争を終結させる[[ドレスデン条約]]は1745年12月25日に締結され{{Sfn|Fraser|2000|p=196}}、プロイセンの戦争目的であるシュレージエンにおける[[戦争前の原状]]回復は達成された{{Sfn|Carlyle|1864a|pp=220–221}}。

== 第三次シュレージエン戦争 ==
{{Main|第三次シュレージエン戦争}}
[[ファイル:Johann Christoph Frisch - Death of Field Marshal Schwerin.jpg|thumb|right|1757年の[[プラハの戦い]]で戦死するプロイセン元帥[[クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン]]、{{仮リンク|ヨハン・クリストフ・フリッシュ|en|Johann Christoph Frisch}}作。]]
マリア・テレジアはシュレージエン戦争における2度の敗北にめげず、シュレージエン奪回のために自軍の再建と外国との同盟締結を目指した{{Sfn|Wilson|2016|pp=478–479}}。これにより、オーストリアはいわゆる[[外交革命]]に踏み切り、1756年に[[英墺同盟]]を放棄して{{仮リンク|仏墺同盟|en|Franco-Austrian Alliance}}を締結した{{Sfn|Horn|1957|pp=449–464}}{{Sfn|Black|1990|pp=301–323}}。オーストリア、フランス、[[ロシア帝国]]が反プロイセン同盟を形成する中、フリードリヒ2世は今度も先制攻撃を仕掛け、1756年8月29日に隣国ザクセンに侵攻する形で第三次シュレージエン戦争を勃発させた{{Sfn|Clark|2006|pp=198–199}}。

オーストリアとプロイセン間の戦争にそれぞれの同盟国が続々と参戦したことで、第三次シュレージエン戦争は瞬く間にヨーロッパ全体を巻き込む[[七年戦争]]に発展した。プロイセンは1756年末までにザクセンを占領し、1757年初にはボヘミアに進軍し、数度の会戦に勝利しつつ[[プラハ]]に迫った。5月、プロイセン軍は[[プラハの戦い]]で多大な損害を出しながらプラハの守備軍を撃破、続いて[[プラハ包囲戦 (1757年)|プラハの包囲]]に取り掛かった。オーストリア軍は反撃に転じて6月18日の[[コリンの戦い]]に勝利し、プロイセン軍をボヘミアから追い出した{{Sfn|Friedrich II, King of Prussia|2009|p=6}}。一方でロシア軍とスウェーデン軍がそれぞれ東と北から進軍してきたため、プロイセンは軍を割いて対処しなければならなかった{{Sfn|Asprey|1986|p=460}}。ロシア軍は8月30日に[[東プロイセン]]で[[グロース=イェーゲルスドルフの戦い]]に勝利したが、兵站問題がついて回ったため進軍が遅れた{{Sfn|Marston|2001|p=22}}。

1757年末、オーストリア軍とフランス軍は西から進軍してザクセンを奪回しようとしたが、11月5日の[[ロスバッハの戦い]]で大敗を喫した{{Sfn|Asprey|1986|pp=469–472}}。これによりプロイセンが一時的にザクセンを確保した上、フランスがシュレージエン戦争への深入りを回避する一因となった{{Sfn|Clark|2006|pp=254–255}}。同時期にはオーストリア軍がシュレージエンを侵攻したが、これも12月5日の[[ロイテンの戦い]]で大敗して失敗に終わり{{Sfn|Fraser|2000|pp=370–373}}、さらに追撃を受けてボヘミアまで押し返された{{Sfn|Redman|2014|pp=161–167}}。その後の冬季戦役ではプロイセン=ハノーファー連合軍が[[ヴェストファーレン]]地方で攻勢に出てフランス軍を[[ライン川]]の向こうに押し返し、以降プロイセンが西から侵攻される脅威はなくなった{{Sfn|Asprey|1986|p=486}}。

[[ファイル:HGM L Allemand Gideon von Laudon Kunersdorf.jpg|thumb|alt=クネルスドルフの戦いにおいて、乗馬姿のオーストリア軍の指揮官エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンが指令を出す場面の絵画|1759年の[[クネルスドルフの戦い]]におけるオーストリア軍指揮官[[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン]]。{{仮リンク|ジークムント・ラルマンド|en|Siegmund L'Allemand}}作、1878年。]]
1758年、プロイセンは[[モラヴィア]]を侵攻し、5月末に[[オルミュッツ包囲戦|オルミュッツを包囲]]した{{Sfn|Fraser|2000|pp=381–384}}。しかしオーストリア軍の守備が強かったため包囲がなかなか終わらず、プロイセン軍の補給は6月末には尽きていた。さらに6月30日の[[ドームシュタットルの戦い]]でプロイセンの護衛部隊がオーストリア軍に撃破され補給を奪取されたため、プロイセン軍は包囲を切り上げて上シュレージエンに撤退した{{Sfn|Szabo|2008|pp=148–155}}。一方のロシア軍は東プロイセン経由で[[ブランデンブルク]]に向けて進軍、8月25日の[[ツォルンドルフの戦い]]でプロイセン軍と交戦したが、両軍ともに大きな損失を出す引き分けとなった{{Sfn|Asprey|1986|pp=494–499}}。オーストリア軍はザクセンに進軍し、10月14日の[[ホッホキルヒの戦い]]で勝利するものの進軍自体はほとんど進まなかった{{Sfn|Asprey|1986|pp=501–506}}。

1759年、オーストリア軍とロシア軍は合流してブランデンブルク東部に進軍、8月12日の[[クネルスドルフの戦い]]でプロイセン軍に大勝したが、プロイセン軍への追撃も首都[[ベルリン]]の占領もしなかった{{Sfn|Showalter|2012|p=250}}。戦闘直後のフリードリヒ2世は戦争に負けたと確信するほどだったが、同盟側の内部不和や同盟軍将官の優柔不断さにより救われ、この出来事は後にフリードリヒ2世から[[ブランデンブルクの奇跡]]と呼ばれた{{Sfn|Fraser|2000|pp=419–421}}。オーストリア軍はその後の数か月間にドレスデンを含むザクセンの大半を奪回{{Sfn|Fraser|2000|pp=421–422}}、以降年末までザクセンで散発的な小競り合いを戦った{{Sfn|Carlyle|1865a|p=615}}。

1760年、オーストリア軍は下シュレージエンに進軍、プロイセン軍とお互いを意識しつつ行軍したのち8月15日に[[リーグニッツの戦い (1760年)|リーグニッツの戦い]]を戦った。プロイセン軍が戦闘に勝利したため、オーストリア軍の進軍は止まり、下シュレージエンはプロイセン軍の手に戻った{{Sfn|Carlyle|1865b|pp=60–77}}。1760年10月にオーストリア軍とロシア軍が短期間[[ベルリン襲撃 (1760年)|ベルリンを占領]]した後{{Sfn|Szabo|2008|p=293}}、11月3日にプロイセンとオーストリア本軍が[[トルガウの戦い]]を戦い、両軍とも多大な犠牲を出しつつプロイセン軍が辛勝した{{Sfn|Duffy|1974|p=196}}。そして、1761年になると、プロイセン軍とオーストリア軍は長年の戦争に疲労が溜まり、両軍とも進軍が少なかったが、{{仮リンク|ポンメルン戦争|en|Pomeranian War|label=ポンメルン戦線}}とブランデンブルク戦線ではロシア軍の攻勢により翌年までには決着する勢いとなった{{Sfn|Stone|2006|p=75}}。

しかし、そこで事態が大きく変化した。オーストリアの同盟者であるロシア女帝[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]が1762年1月に死去し、親プロイセン派の[[ピョートル3世]]が皇帝に即位したのである。ピョートル3世はロシア軍を即座にベルリンとポンメルンから撤退させ、5月5日の[[サンクトペテルブルク条約 (1762年)|サンクトペテルブルク条約]]でプロイセンと講和した。ピョートル3世はわずか数か月後に廃位、暗殺されたが、プロイセンが戦況を逆転させるには十分であり、後任のロシア皇帝[[エカチェリーナ2世]]は再参戦しなかった{{Sfn|Clark|2006|pp=204–205}}。この時点では交戦国がいずれも疲弊しており、1762年末より講和交渉が始まっていた。結局、シュレージエンについては[[戦争前の原状]]回復が合意され、1763年2月の[[フベルトゥスブルク条約]]でプロイセンによるシュレージエン領有が確定した{{Sfn|Schweizer|1989|p=250}}。また、プロイセンは[[神聖ローマ皇帝]]選挙でマリア・テレジアの息子[[ヨーゼフ2世|ヨーゼフ大公]]を支持することを約束した{{Sfn|Carlyle|1865b|pp=329–332}}。


== 影響 ==
== 影響 ==
[[ファイル:Europe 1748-1766 en.png|thumb|right|1763年、[[第三次シュレージエン戦争]]の終結時点のヨーロッパ。シュレージエンはこの時点でプロイセン領となっている。]]
七年戦争が終わったとき、ヨーロッパには[[列強]]としてのプロイセンが確固として存在していた。そしてプロイセンが列強の一角に喰い込むことが出来たのは、シュレージエンを得たからであった。これ以降、ヨーロッパ近代史には新たなプレイヤーとしてプロイセンが登場し、[[ドイツ帝国]]に発展する。
同時代の人物からの意見でも、その後の歴史学においてもシュレージエン戦争がプロイセンの勝利に終わったということが通説となっている{{Sfn|Browning|2005|p=530}}。プロイセンは第一次戦争で[[ハプスブルク家]]が長年所有していた領地を奪取しそれを死守、第二次と第三次戦争でも[[戦争前の原状]]回復という結果でプロイセンの領有を再確認した。これによりプロイセンは{{Convert|35000|km2|sqmi}}の領地と人口約100万を獲得{{Sfn|Hochedlinger|2003|p=252}}、資源面でも名声でも大きな利益となった。3度にわたるシュレージエン戦争はヨーロッパの外交情勢を大きく変え、{{仮リンク|普墺角逐|en|Austria–Prussia rivalry}}の始まりを象徴した。そして、普墺角逐は1866年の[[普墺戦争]]にいたるまで1世紀以上の[[ドイツの歴史|ドイツ史]]に大きな影響を与えることとなった{{Sfn|Browning|2005|p=521}}。

=== プロイセン ===
プロイセンという小国が予想外にハプスブルク帝国を打ち勝ったことにより、プロイセンはバイエルンやザクセンといったドイツ諸侯との競争から脱し{{Sfn|Clark|2006|p=196}}、ヨーロッパ[[列強]]入りを果たした上{{Sfn|Schweizer|1989|p=250}}、ドイツにおける[[プロテスタント]]諸国の盟主という地位に上り詰めた{{Sfn|Clark|2006|pp=215–219}}。オーストリアからの領土割譲により、プロイセンはシュレージエンとグラーツにおける広大な土地を獲得したが{{Sfn|Fraser|2000|p=121}}、これらの領地は人口が多く、工業化の進んだ地域であるため、プロイセンに多くの労働力と税金を貢献することとなる{{Sfn|Clark|2006|p=192}}{{Sfn|Fraser|2000|pp=130–131}}。地政戦略上でもシュレージエンは要地であり、プロイセンがそれを領有したことはザクセンとオーストリアにとって脅威であり、プロイセンがポーランドによる包囲から自身を守る上でも不可欠だった{{Sfn|Browning|2005|p=527}}。

フリードリヒ2世自身もシュレージエン戦争の勝利で大きくその名を轟かせ、「フリードリヒ大王」という尊称を勝ち取った{{Sfn|Carlyle|1864b|p=239}}。フリードリヒ2世の勝利の要因である、[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ女帝]]の死によるロシアの寝返り、外国からの資金援助といった外的要因はすぐに忘れ去られ、フリードリヒ2世の指導者としての力と巧みな戦術のみが長らく人々の記憶に残った{{Sfn|Marston|2001|p=90}}。プロイセンという小国がハプスブルク帝国を打ち破り、その戦利品であるシュレージエンをイギリス、オーストリア、ザクセン、ロシア、スウェーデン、そして短期間ながらフランスからも守ったことは同時代の人々にとっては奇跡にしか見えなかったのである{{Sfn|Clark|2006|p=200}}。

=== オーストリア ===
シュレージエン戦争での敗北により、ハプスブルク帝国は最も富裕な地域を失い{{Sfn|Clark|2006|p=196}}、地位のより低いドイツ諸侯であるプロイセンに降伏したことはハプスブルク帝国の名声を大きく低下させた{{Sfn|Fraser|2000|p=135}}。また、プロイセンの強大化、並びにプロイセン王フリードリヒ2世とプロイセン軍の名声は長期的にはオーストリアのドイツにおける覇権への脅威になった{{Sfn|Clark|2006|p=216}}。[[神聖ローマ帝国]]内だけでもザクセン、バイエルン、ハノーファーといった[[ミドルパワー]]がオーストリアの弱体化に乗じて力をつけようとしており、ハプスブルク帝国がヨーロッパ政治で主導権を握り続けるには改革が必要であることはシュレージエン戦争で露呈した{{Sfn|Clark|2006|p=212}}。

しかしながら、マリア・テレジアは皇帝選挙における夫フランツ・シュテファンと息子ヨーゼフ大公への支持をプロイセンから引き出したことで、神聖ローマ帝国における名目上の優位は死守した{{Sfn|Bled|2001}}。また、明らかに下位に見える相手に敗北したことはオーストリア国内で改革のはずみになり、大規模な軍制改革と[[外交革命]]という外交政策の方向転換がなされた{{Sfn|Clark|2006|p=212}}。プロイセンとの角逐は半世紀もの間、軍政、教育、行政改革などハプスブルク帝国の近代化改革の原動力となる{{Sfn|Hochedlinger|2003|p=267}}。

== 出典 ==
{{Reflist|25em}}


== 参考文献 ==
ドイツにおいてシュレージエン戦争は、以後百年続く普墺角逐の長い始まりであった。[[ドイツの歴史|ドイツ史]]は以後オーストリアとプロイセンという二大勢力の存在を軸に展開する。
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== 参考資料 ==
== 関連図書 ==
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* [[:en:Silesian Wars]] (20:00, 7 March 2009 UTC)


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2020年2月15日 (土) 14:27時点における版

シュレージエン戦争
普墺角逐英語版
色付きの中央ヨーロッパ地図
1756年時点、第三次シュレージエン戦争開戦直前のブランデンブルク=プロイセン(水色)とハプスブルク帝国(赤)。
1740年 – 1763年
場所中央ヨーロッパ
結果 3度ともにプロイセンの勝利
領土の
変化
ハプスブルク帝国がシュレージエンの大半をプロイセンに割譲
衝突した勢力
指揮官
シュレージエン境界と現在の国境図。青がオーストリア時代の境界、黄色がプロイセン時代におけるシュレージエン州の境界。

シュレージエン戦争(シュレージエンせんそう、ドイツ語: Schlesische Kriege)は、18世紀中ごろにマリア・テレジアを君主に戴くハプスブルク帝国(オーストリア)とフリードリヒ2世を君主に戴くプロイセン王国中央ヨーロッパシュレージエン地方(現ポーランド南西部)の帰属を巡って戦った3度の戦争の総称。うち、第一次戦争(1740年 – 1742年)と第二次戦争(1744年 – 1745年)はオーストリア継承戦争の局地戦であり、プロイセンはオーストリアの分割を目指す同盟の一員として参戦した。第三次戦争(1756年 – 1763年)は七年戦争の局地戦であり、オーストリア率いる同盟がプロイセン領の奪取を目指した。英語読みでシレジア戦争(シレジアせんそう、Silesian Wars)とも。

プロイセンは第一次シュレージエン戦争の開戦事由に数世紀前からのシュレージエンの一部への領土主張を挙げたが、戦争勃発にはレアルポリティーク地政戦略上の影響もみられる。女性であるマリア・テレジアが1713年の国事詔書に基づきハプスブルク帝国を継承することに各国から異議が唱えられたため、プロイセンがザクセン選帝侯領バイエルン選帝侯領を出し抜いて勢力を増す機会となった。

3度の戦争とも概ねプロイセンの勝利に終わり、オーストリアはシュレージエンの大半をプロイセンに割譲した(後のプロイセン領シュレージエン州英語版)。このときオーストリアに残された領域をオーストリア領シュレージエン英語版といい、後のチェコ領スレスコとなった。

大国オーストリアと比べて小国であるプロイセンがオーストリアに打ち勝ったことにより、プロイセンは列強入りを果たした上、ドイツにおけるプロテスタント諸国の盟主という地位に上り詰め、一方カトリック国家であるオーストリアはその敗北により名声を大きく損なった。シュレージエン戦争は普墺角逐英語版の始まりとされ、このことは1866年の普墺戦争にいたるまで1世紀以上のドイツ史に大きな影響を与えることとなった。

背景

1740年時点のヨーロッパ諸国の国境を示す地図
1738年のウィーン条約以降のヨーロッパ。

ブランデンブルク辺境伯領に隣接するハプスブルク帝国(オーストリア)領シュレージエンは18世紀初頭には人口の多く、経済も繁栄した地域になっていたが、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン王国ブランデンブルク=プロイセン)を統治するホーエンツォレルン家はシュレージエン領内にある諸公国への領有権を主張していた[1]。シュレージエンには税収、工業生産、兵士といった資源の価値のほか、地政戦略的にも重要性を有した。すなわち、オーデル川上流の渓谷はブランデンブルク、ボヘミアモラヴィア間の進軍を容易にしているため、それらの地域を領有する国は隣国への脅威になる。また、シュレージエンが神聖ローマ帝国の北東部辺境にあたるため、シュレージエンを領有する国はポーランドロシアのドイツに対する影響力を制限する力をも有することになる[2]

ブランデンブルク=プロイセンの領有権主張

シロンスク・ピャスト家レグニツァ公フリデリク2世ホーエンツォレルン家ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世ヘクトルは1537年に継承条約を締結し、シロンスク・ピャスト家が断絶した場合にはホーエンツォレルン家がレグニツァ公国、ブジェク公国ヴォウフ英語版を継承することを定めた。しかし、シロンスク諸公国の宗主であるボヘミア王ハプスブルク家フェルディナンド1世であり、彼は条約を拒絶し、ホーエンツォレルン家に圧力をかけて条約を拒否させた[3]。1603年、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒは親族のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒからクルノフ公国(ドイツ語でイェーゲルンドルフ公国。シロンスク諸公国の1つ)を継承し、次男ヨハン・ゲオルク英語版に公位を譲った[4]

1618年にボヘミア反乱英語版が勃発したことで三十年戦争が始まると、ヨハン・ゲオルクはほかのシロンスク諸公国とともに反乱に加担し、カトリックの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に反旗を翻した[5]。反乱は1621年にカトリック側が白山の戦いで勝利したことで鎮圧され、フェルディナント2世はヨハン・ゲオルクの領国を没収し、ヨハン・ゲオルクの死後もその後継者への返還を拒否したが、歴代ブランデンブルク選帝侯は自身こそがクルノフ公国の正当な統治者であると主張し続けた[6]。1675年にシロンスク・ピャスト家最後の君主であるレグニツァ公イェジ・ヴィルヘルムが死去すると、ブランデンブルクの「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムはレグニツァ、ブジェク、ヴォウフの継承を主張したが、時の皇帝レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルムの主張を無視し、イェジ・ヴィルヘルムの領地を帝国領に併合した[7]

1685年、オーストリアが大トルコ戦争で戦っている中、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルムにシュレージエンへの領土主張を取り下げさせ、大トルコ戦争でオーストリアに軍事援助を与える代償として、シュレージエンの飛地であるシュヴィーブス英語版をブランデンブルクに割譲した。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子フリードリヒ3世(後のプロイセン王フリードリヒ1世。1688年に選帝侯に即位)が父の後を継いで選帝侯になると、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルム一代限りでシュヴィーブスを割譲したとして、シュヴィーブスの支配権を取り戻した[8]。フリードリヒ3世は負債の一部をレオポルト1世に肩代わりさせることで、この再占領を秘密裏に承認したが[9]、後に合意を反故にし、クルノフ公国と元シロンスク・ピャスト家領への請求を再開した[8]

オーストリアの継承問題

マリア・テレジアマルティン・ファン・マイテンス作、1744年頃。シェーンブルン宮殿所蔵。

時代を下って1740年5月、即位したばかりのプロイセン王フリードリヒ2世は再びシュレージエンの領有を目指した[10]。彼はシュレージエンへの請求が正当であると考え[1]、また父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からよく訓練された大軍であるプロイセン陸軍を継承し、国庫の状態も健全だった[11]。一方、オーストリアは財政状況が悪く、軍も直近のオーストリア・ロシア・トルコ戦争で不名誉な敗北を喫したにもかかわらず増強も改革もなされなかった[12]。ヨーロッパの情勢もプロイセンの先制攻撃に有利だった。グレートブリテン王国フランス王国はお互いに注目していてヨーロッパ全体を見ておらず、ロシア帝国スウェーデン王国ハット党戦争で戦っており[13]バイエルン選帝侯領ザクセン選帝侯領はオーストリアへの継承権を主張できる立場にあるため攻撃に参加する可能性があった[1]。ホーエンツォレルン家による請求権は法律上の開戦事由になったが、実際にはレアルポリティーク地政戦略上の理由が戦争勃発の主因である[14]

フリードリヒ2世にとって機会となったのは、1740年10月に神聖ローマ皇帝カール6世が男子継承者を残さずに死去したときだった。1713年の国事詔書により、カール6世は長女マリア・テレジアを継承者に定め、マリア・テレジアはカール6世に伴いオーストリアの統治者になり、ハプスブルク帝国のうちボヘミアハンガリーの領地も継承した[15]。国事詔書はカール6世の存命中にはほとんどの帝国諸侯からの承認を受けたが、多くの諸侯はカール6世の死後すぐに承認を拒否した[16]。フリードリヒ2世はこれを好機とみて、ヴォルテールに「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」と書き送った[10][17]

フリードリヒ2世はシュレージエンが世襲領地ではなく、帝国の王冠領の一部としてハプスブルク家が所有するにすぎないので、国事詔書はシュレージエンには適用されないとした。さらに、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が国事詔書の承認に同意したとき、その見返りとしてラインラントユーリヒ公国ベルク公国への請求の支持をとりつけたが、オーストリアがその義務を果たさなかったとした[18][19]

一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトとザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はそれぞれカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘と結婚しており、この結婚をハプスブルク家領への請求の根拠とした[11]。中でもフリードリヒ・アウグスト2世はアウグスト3世としてポーランド・リトアニア共和国の国王にも就任しており、シュレージエンを領有することで自領であるザクセンとポーランドが一続きになる(同時にブランデンブルクをほぼ包囲する形になる)。この最悪の結果を防ぐためにも、プロイセンは急いで行動を起こさなければならなかった[1]

第一次シュレージエン戦争

18世紀初の中央ヨーロッパの国境
1742年にシュレージエンブランデンブルク=プロイセンに割譲されるまで、ハプスブルク家が統治したボヘミア王冠領の地図。

1740年10月20日にカール6世が死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃を決めて11月8日にプロイセン陸軍の動員を命じ、12月11日にマリア・テレジアに最後通牒を突き付けてシュレージエンの割譲を要求した[20]。シュレージエン割譲の代償として、フリードリヒ2世はそれ以外のハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額の賠償金を支払うこと[21]、国事詔書を承認することと、神聖ローマ皇帝選挙英語版でブランデンブルク選帝侯としての票をマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンに投じることを提案した[20]

フリードリヒ2世は返事を待たず、12月16日にプロイセン軍を率いて、宣戦布告せずに国境を越えてシュレージエンに侵入した[22]。以降1741年1月末までにシュレージエンのほぼ全域を占領し、残るグローガウブリークナイセのオーストリア3拠点を包囲した[20]。オーストリア軍は3月末にナイセの包囲を解いたが、4月10日のモルヴィッツの戦いでプロイセン本軍に敗北したため、プロイセンのシュレージエン支配は揺るぎないものとなった[23]

ヨーロッパ諸国はオーストリアがモルヴィッツの戦いで敗れ、プロイセン軍の侵攻を阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃に踏み切った。これにより戦争は単なるシュレージエンをめぐる紛争にとどまらずオーストリア継承戦争に発展し[24]、以降数か月の間、バイエルン、ザクセン、フランス、ナポリスペインが各地でオーストリア領を攻撃するが、フリードリヒ2世はイギリスの催促と仲介もあってマリア・テレジアとの秘密講和交渉を開始[25]、10月9日にクラインシュネレンドルフの密約と呼ばれる秘密停戦協定を締結した。この密約により、オーストリアは講和の代償として、来たる講和条約で下シュレージエン英語版を割譲することに同意した[26]

オーストリアが自軍を他の敵軍への対処にあて、失地を回復し始めると、フリードリヒ2世はオーストリアに密約を履行してシュレージエンの割譲に応じるつもりがないと判断し、協定の無効を宣言して進軍を再開した[27]。1741年12月、プロイセン軍はモラヴィアに進軍して首府オルミュッツを占領、ボヘミア辺境のグラーツ英語版要塞を包囲した[27]。1742年1月、皇帝選挙英語版が行われ、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが(カール7世として)神聖ローマ皇帝に当選した[28]。2月、フリードリヒ2世はザクセン軍とフランス軍とともにモラヴィアを経由してウィーンへの進軍をはじめたが、フランス軍が非協力的な態度をとったためウィーンへの進軍の計画は4月に放棄され、プロイセン軍はボヘミアと上シュレージエンへ撤退した[29][30]

オーストリア軍はボヘミアへの反攻を試み、5月17日のコトゥジッツの戦いでフリードリヒ2世率いるプロイセン軍と交戦したが敗北した。これによりオーストリアは連合軍をボヘミアから追い出す手段を持たない状況になり、ブレスラウでプロイセンとの講和交渉を再開した[31]。イギリスからの圧力により[26]、オーストリアはシュレージエンの大半とボヘミアのグラーツ伯領英語版の割譲に同意[32]、シュレージエンの南端にあるわずかな領土(クルノフオパヴァ英語版ヌィサ英語版三公国の一部、およびチェシン公国)のみ維持することとなった。また、プロイセンはシュレージエンの資産を担保にしたオーストリアの負債の一部を肩代わりすることに同意し、オーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。この合意は1742年6月11日のブレスラウ条約で採択され、7月28日のベルリン条約英語版で正式に確認された[33]

第二次シュレージエン戦争

プロイセン軍の擲弾兵がホーエンフリートベルクの戦いで沼地の戦場を通ってザクセン軍を攻撃する場面の絵画
ホーエンフリートベルクの戦いでザクセン軍を撃破するプロイセン軍の擲弾兵カール・英語版作、19世紀末から20世紀初の作品。

プロイセンと講和したことで、オーストリアとその同盟国であるイギリスとハノーファー選帝侯領(両者は同君連合)は反転攻勢に出て、フランスとバイエルンが1741年に占領した地域を奪い返すことができた。オーストリアは1743年中までにボヘミアを回復し、フランス軍をライン川の向こうに追い返した上でバイエルンを占領した[34]。イギリス、オーストリア、サルデーニャ王国は1743年9月のヴォルムス条約英語版で改めて同盟を締結したが、これはマリア・テレジアが他所の戦闘を片付けたらシュレージエンの奪回に動くのではないかという、フリードリヒ2世の疑念を引き起こすことになった[35]。そのため、フリードリヒ2世は1744年8月7日に改めて皇帝カール7世を代表して戦争への介入を表明し、8月15日に自軍を率いてボヘミアとの国境を越えたことで、第二次シュレージエン戦争が勃発した[36]

プロイセン軍はプラハ周辺に集結したのち9月16日にプラハを占領したが、これによりオーストリア軍はフランスからバイエルン経由で撤退してきた[36]。フランス軍がオーストリア軍の行軍への妨害に失敗したため[37]、オーストリア軍は消耗も少なく、素早くボヘミアに戻ってきた。フリードリヒ2世はプラハ周辺に軍を集結させて決定的な会戦に持ち込もうとしたが、オーストリア軍の指揮官オットー・フェルディナンド・フォン・トラウンは会戦を避けてプロイセン軍の補給線の撹乱に専念、結局プロイセン軍は11月にボヘミアを放棄して上シュレージエンに撤退せざるを得なかった[38]

プロイセン王フリードリヒ2世アントワーヌ・ペーヌ作、1745年。

1745年1月、オーストリアはワルシャワ条約英語版を締結して、イギリス、ザクセン、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)との「四国同盟」を結んだ[39]。一方、プロイセン側は皇帝カール7世が1745年1月20日に死去したため大義名分を失った[38]。このような情勢の中、オーストリアは1745年3月にバイエルンへの攻勢を再開、4月15日のプファッフェンホーフェンの戦いでフランス=バイエルン連合軍に決定的な勝利を収めたことで4月22日のフュッセン条約の締結に成功、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフ(カール7世の息子)と講和した[40]

バイエルンを撃破した後、オーストリアはシュレージエン侵攻をはじめた。5月末、オーストリア=ザクセン連合軍はクルコノシェ山脈英語版を越えてシュレージエンに侵入するも、フリードリヒ2世に奇襲されて4月6日のホーエンフリートベルクの戦いで大敗[41]、シュレージエンを素早く回復する希望は失われた[42]。プロイセン軍はオーストリア=ザクセン連合軍を追撃してボヘミアに侵入、エルベ川沿岸で野営しつつ講和交渉を求めた[43]。マリア・テレジアはその後の数か月で神聖ローマ帝国の選帝侯からの支持を確保、9月13日の皇帝選挙英語版で夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンを(フランツ1世として)皇帝に当選させ、戦争の目標の1つを達成した[44]

9月29日、オーストリア軍はボヘミアにあるプロイセン軍営に奇襲をかけ(ゾーアの戦い)、兵力上の優勢もあったものの結局は敗北を喫した[40][42]。その後、プロイセン軍は補給の不足により、上シュレージエンに撤退して冬営に入った[45]。11月、オーストリアとザクセンはブランデンブルクへの奇襲侵攻を準備し、首都ベルリンを攻め落として戦争を一気に終結させようとしたが[40][42]、フリードリヒ2世に先手を打たれ11月23日に奇襲を受け(ヘンネルスドルフの戦い)、オーストリア軍は混乱に陥って散らされた[46]。一方、アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世率いるプロイセン軍の別働隊はザクセン西部に進軍、12月15日のケッセルスドルフの戦いでザクセン本軍を撃滅、直後にザクセン首都ドレスデンを占領した[44]

ドレスデンでの講和交渉は素早く進み、マリア・テレジアはプロイセンによるシュレージエンとグラーツ領有を承認、フリードリヒ2世はフランツ1世を神聖ローマ皇帝として承認し、オーストリア継承戦争における中立を再び約束した[44]。また、ザクセンはオーストリア側で参戦した代償としてプロイセンに100万ライヒスターラー英語版の賠償金を支払った。第二次シュレージエン戦争を終結させるドレスデン条約は1745年12月25日に締結され[47]、プロイセンの戦争目的であるシュレージエンにおける戦争前の原状回復は達成された[48]

第三次シュレージエン戦争

1757年のプラハの戦いで戦死するプロイセン元帥クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーンヨハン・クリストフ・フリッシュ英語版作。

マリア・テレジアはシュレージエン戦争における2度の敗北にめげず、シュレージエン奪回のために自軍の再建と外国との同盟締結を目指した[49]。これにより、オーストリアはいわゆる外交革命に踏み切り、1756年に英墺同盟を放棄して仏墺同盟英語版を締結した[50][51]。オーストリア、フランス、ロシア帝国が反プロイセン同盟を形成する中、フリードリヒ2世は今度も先制攻撃を仕掛け、1756年8月29日に隣国ザクセンに侵攻する形で第三次シュレージエン戦争を勃発させた[52]

オーストリアとプロイセン間の戦争にそれぞれの同盟国が続々と参戦したことで、第三次シュレージエン戦争は瞬く間にヨーロッパ全体を巻き込む七年戦争に発展した。プロイセンは1756年末までにザクセンを占領し、1757年初にはボヘミアに進軍し、数度の会戦に勝利しつつプラハに迫った。5月、プロイセン軍はプラハの戦いで多大な損害を出しながらプラハの守備軍を撃破、続いてプラハの包囲に取り掛かった。オーストリア軍は反撃に転じて6月18日のコリンの戦いに勝利し、プロイセン軍をボヘミアから追い出した[53]。一方でロシア軍とスウェーデン軍がそれぞれ東と北から進軍してきたため、プロイセンは軍を割いて対処しなければならなかった[54]。ロシア軍は8月30日に東プロイセングロース=イェーゲルスドルフの戦いに勝利したが、兵站問題がついて回ったため進軍が遅れた[55]

1757年末、オーストリア軍とフランス軍は西から進軍してザクセンを奪回しようとしたが、11月5日のロスバッハの戦いで大敗を喫した[56]。これによりプロイセンが一時的にザクセンを確保した上、フランスがシュレージエン戦争への深入りを回避する一因となった[57]。同時期にはオーストリア軍がシュレージエンを侵攻したが、これも12月5日のロイテンの戦いで大敗して失敗に終わり[58]、さらに追撃を受けてボヘミアまで押し返された[59]。その後の冬季戦役ではプロイセン=ハノーファー連合軍がヴェストファーレン地方で攻勢に出てフランス軍をライン川の向こうに押し返し、以降プロイセンが西から侵攻される脅威はなくなった[60]

クネルスドルフの戦いにおいて、乗馬姿のオーストリア軍の指揮官エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンが指令を出す場面の絵画
1759年のクネルスドルフの戦いにおけるオーストリア軍指揮官エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンジークムント・ラルマンド英語版作、1878年。

1758年、プロイセンはモラヴィアを侵攻し、5月末にオルミュッツを包囲した[61]。しかしオーストリア軍の守備が強かったため包囲がなかなか終わらず、プロイセン軍の補給は6月末には尽きていた。さらに6月30日のドームシュタットルの戦いでプロイセンの護衛部隊がオーストリア軍に撃破され補給を奪取されたため、プロイセン軍は包囲を切り上げて上シュレージエンに撤退した[62]。一方のロシア軍は東プロイセン経由でブランデンブルクに向けて進軍、8月25日のツォルンドルフの戦いでプロイセン軍と交戦したが、両軍ともに大きな損失を出す引き分けとなった[63]。オーストリア軍はザクセンに進軍し、10月14日のホッホキルヒの戦いで勝利するものの進軍自体はほとんど進まなかった[64]

1759年、オーストリア軍とロシア軍は合流してブランデンブルク東部に進軍、8月12日のクネルスドルフの戦いでプロイセン軍に大勝したが、プロイセン軍への追撃も首都ベルリンの占領もしなかった[65]。戦闘直後のフリードリヒ2世は戦争に負けたと確信するほどだったが、同盟側の内部不和や同盟軍将官の優柔不断さにより救われ、この出来事は後にフリードリヒ2世からブランデンブルクの奇跡と呼ばれた[66]。オーストリア軍はその後の数か月間にドレスデンを含むザクセンの大半を奪回[67]、以降年末までザクセンで散発的な小競り合いを戦った[68]

1760年、オーストリア軍は下シュレージエンに進軍、プロイセン軍とお互いを意識しつつ行軍したのち8月15日にリーグニッツの戦いを戦った。プロイセン軍が戦闘に勝利したため、オーストリア軍の進軍は止まり、下シュレージエンはプロイセン軍の手に戻った[69]。1760年10月にオーストリア軍とロシア軍が短期間ベルリンを占領した後[70]、11月3日にプロイセンとオーストリア本軍がトルガウの戦いを戦い、両軍とも多大な犠牲を出しつつプロイセン軍が辛勝した[71]。そして、1761年になると、プロイセン軍とオーストリア軍は長年の戦争に疲労が溜まり、両軍とも進軍が少なかったが、ポンメルン戦線英語版とブランデンブルク戦線ではロシア軍の攻勢により翌年までには決着する勢いとなった[72]

しかし、そこで事態が大きく変化した。オーストリアの同盟者であるロシア女帝エリザヴェータが1762年1月に死去し、親プロイセン派のピョートル3世が皇帝に即位したのである。ピョートル3世はロシア軍を即座にベルリンとポンメルンから撤退させ、5月5日のサンクトペテルブルク条約でプロイセンと講和した。ピョートル3世はわずか数か月後に廃位、暗殺されたが、プロイセンが戦況を逆転させるには十分であり、後任のロシア皇帝エカチェリーナ2世は再参戦しなかった[73]。この時点では交戦国がいずれも疲弊しており、1762年末より講和交渉が始まっていた。結局、シュレージエンについては戦争前の原状回復が合意され、1763年2月のフベルトゥスブルク条約でプロイセンによるシュレージエン領有が確定した[74]。また、プロイセンは神聖ローマ皇帝選挙でマリア・テレジアの息子ヨーゼフ大公を支持することを約束した[75]

影響

1763年、第三次シュレージエン戦争の終結時点のヨーロッパ。シュレージエンはこの時点でプロイセン領となっている。

同時代の人物からの意見でも、その後の歴史学においてもシュレージエン戦争がプロイセンの勝利に終わったということが通説となっている[76]。プロイセンは第一次戦争でハプスブルク家が長年所有していた領地を奪取しそれを死守、第二次と第三次戦争でも戦争前の原状回復という結果でプロイセンの領有を再確認した。これによりプロイセンは35,000平方キロメートル (14,000 sq mi)の領地と人口約100万を獲得[77]、資源面でも名声でも大きな利益となった。3度にわたるシュレージエン戦争はヨーロッパの外交情勢を大きく変え、普墺角逐英語版の始まりを象徴した。そして、普墺角逐は1866年の普墺戦争にいたるまで1世紀以上のドイツ史に大きな影響を与えることとなった[78]

プロイセン

プロイセンという小国が予想外にハプスブルク帝国を打ち勝ったことにより、プロイセンはバイエルンやザクセンといったドイツ諸侯との競争から脱し[79]、ヨーロッパ列強入りを果たした上[74]、ドイツにおけるプロテスタント諸国の盟主という地位に上り詰めた[80]。オーストリアからの領土割譲により、プロイセンはシュレージエンとグラーツにおける広大な土地を獲得したが[32]、これらの領地は人口が多く、工業化の進んだ地域であるため、プロイセンに多くの労働力と税金を貢献することとなる[81][82]。地政戦略上でもシュレージエンは要地であり、プロイセンがそれを領有したことはザクセンとオーストリアにとって脅威であり、プロイセンがポーランドによる包囲から自身を守る上でも不可欠だった[2]

フリードリヒ2世自身もシュレージエン戦争の勝利で大きくその名を轟かせ、「フリードリヒ大王」という尊称を勝ち取った[83]。フリードリヒ2世の勝利の要因である、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの寝返り、外国からの資金援助といった外的要因はすぐに忘れ去られ、フリードリヒ2世の指導者としての力と巧みな戦術のみが長らく人々の記憶に残った[84]。プロイセンという小国がハプスブルク帝国を打ち破り、その戦利品であるシュレージエンをイギリス、オーストリア、ザクセン、ロシア、スウェーデン、そして短期間ながらフランスからも守ったことは同時代の人々にとっては奇跡にしか見えなかったのである[85]

オーストリア

シュレージエン戦争での敗北により、ハプスブルク帝国は最も富裕な地域を失い[79]、地位のより低いドイツ諸侯であるプロイセンに降伏したことはハプスブルク帝国の名声を大きく低下させた[86]。また、プロイセンの強大化、並びにプロイセン王フリードリヒ2世とプロイセン軍の名声は長期的にはオーストリアのドイツにおける覇権への脅威になった[87]神聖ローマ帝国内だけでもザクセン、バイエルン、ハノーファーといったミドルパワーがオーストリアの弱体化に乗じて力をつけようとしており、ハプスブルク帝国がヨーロッパ政治で主導権を握り続けるには改革が必要であることはシュレージエン戦争で露呈した[88]

しかしながら、マリア・テレジアは皇帝選挙における夫フランツ・シュテファンと息子ヨーゼフ大公への支持をプロイセンから引き出したことで、神聖ローマ帝国における名目上の優位は死守した[89]。また、明らかに下位に見える相手に敗北したことはオーストリア国内で改革のはずみになり、大規模な軍制改革と外交革命という外交政策の方向転換がなされた[88]。プロイセンとの角逐は半世紀もの間、軍政、教育、行政改革などハプスブルク帝国の近代化改革の原動力となる[90]

出典

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参考文献

関連図書

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