「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の版間の差分

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{{政治家
[[ファイル:WH 1st Earl of Clarendon.png|thumb|200px|初代クラレンドン伯エドワード・ハイド]]
|人名 = 初代クラレンドン伯爵<br>エドワード・ハイド
初代[[クラレンドン伯爵]]'''エドワード・ハイド'''(Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon, [[1609年]][[2月18日]] - [[1674年]][[12月9日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の政治家・歴史家。娘[[アン・ハイド]]はイングランド国王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の最初の妻で、イングランド女王[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]・[[アン (イギリス女王)|アン]]は外孫に当たる。
|各国語表記 = {{lang|en|Edward Hyde<br>1st Earl of Clarendon}}
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|画像説明 = 初代クラレンドン伯エドワード・ハイド([[ピーター・レリー]]画)
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|国略称 ={{ENG927}}
|生年月日 = [[1609年]][[2月18日]]
|出生地 ={{ENG927}}、[[ウィルトシャー]]・{{仮リンク|ディントン (ウィルトシャー)|label=ディントン|en|Dinton, Wiltshire}}
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1609|2|18|1674|12|9}}
|死没地 = {{FRA987}} [[ルーアン]]
|出身校 = [[オックスフォード大学]][[ハートフォード・カレッジ (オックスフォード大学)|マグダリン・ホール]]、[[ミドル・テンプル|ミドル・テンプル法学院]]
|前職 = [[法廷弁護士]]
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|称号・勲章 = 初代[[クラレンドン伯爵]]、初代コーンベリー子爵、初代ハイド男爵、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)
|親族(政治家) = <small>{{仮リンク|ヘンリー・ハイド (1634年死亡)|label=ヘンリー・ハイド|en|Henry Hyde (died 1634)}}(父)、{{仮リンク|ヘンリー・ハイド (第2代クラレンドン伯爵)|label=第2代クラレンドン伯爵|en|Henry Hyde, 2nd Earl of Clarendon}}(長男)、[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|初代ロチェスター伯爵]](次男)</small>
|配偶者 = (1)アン・アイリッフェ (2)フランセス・エイルズバリー
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|国旗 = ENG
|職名 = [[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]
|就任日 = [[1643年]] - [[1646年]]<br>[[1660年]]
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'''初代[[クラレンドン伯爵]]エドワード・ハイド'''({{lang-en|Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon}}, [[1609年]][[2月18日]] - [[1674年]][[12月9日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の政治家・歴史家・貴族。


[[1640年]][[短期議会]]から[[長期議会]]の議員となり、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の政を攻撃した。しかし[[監督制]]を援護し、[[1642年]]の[[議会の諫奏|大抗議文]]に反対して[[円頂党|議会派]]から[[騎士党|王党派]]転じた。[[清教徒革命]]では派として動し国王軍が議会派敗れると王太子チャールズ(後の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]従っ大陸へ逃れた。王太子信任得て、[[1658年]]に[[]]に命じられた。
[[1640年]][[庶民院]]議員となり、穏健進歩派として[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の専制批判した。しかし[[国王権 (イギリス)|国王]]の剥奪など急進的改革反対し、王と議会の和解努めた。[[清教徒革命]]が勃発すると立憲派として動し国王の信任を得た。[[1645年]]は皇太子チャールズ([[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]])ととも亡命し、彼の亡命宮廷に仕えた。[[1660年]]の[[王政復古 (イングランド)|王政復古]]後にはチャールズ2世の重臣とし国政を主導した。[[長期議会]]初期の立法を基礎とした立憲確立目指した。[[1661年]]から[[1665年]]に制定された一連の[[非国教徒]]弾圧は彼の名をとって「[[クラレンドン法典]]」と呼ばれているが、彼自身はこれ否定的だった。[[英蘭戦争]]の敗北などで批判が高まり、[[1667年]]に失脚。フランスへ亡し、歴史書『{{仮リンク|イングランドの反乱と内戦の歴史|en|The History of the Rebellion and Civil Wars in England}}』を著した。


[[1660年]]にハイド男爵、[[1661年]]にクラレンドン伯爵に叙された。
[[イングランド王政復古|王政復古]]後の[[1661年]]、チャールズ2世によりクラレンドン伯に叙せられた。[[1660年]]から[[1667年]]までイングランドの政治の中心的な役割を担い、[[イングランド国教会]]主義を中心とし、[[カトリック教会|カトリック]]には包容の政策をとって統一法を強行した。また自治体法、集会法など一連の反動的諸法を制定した。これらは[[クラレンドン法典]]と呼ばれる。


娘[[アン・ハイド]]はイングランド国王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の最初の妻であり、したがってイングランド女王[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]・[[アン (イギリス女王)|アン]]は外孫に当たる。
[[1665年]]に[[英蘭戦争|第二次英蘭戦争]]が始まり、[[1667年]]に[[ブレダの和約]]が結ばれイングランドの劣勢に終わると責任を問われ同年に失脚、[[フランス王国|フランス]]に渡り、[[ルーアン]]で没した。亡命中に歴史書『大反乱史』を書き残した。クラレンドン失脚後、イングランドの政治はチャールズ2世の側近集団[[Cabal]]が取り仕切り、爵位は長男の[[ヘンリー・ハイド (第2代クラレンドン伯爵)|ヘンリー・ハイド]]が継承してチャールズ2世に仕え、次男の[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]も王党派として活動、ロチェスター伯爵に叙せられた。

== 概要 ==
[[1609年]]、[[庶民院]]議員を務めた地主{{仮リンク|ヘンリー・ハイド (1634年死亡)|label=ヘンリー・ハイド|en|Henry Hyde (died 1634)}}の子として生まれる。[[オックスフォード大学]][[ハートフォード・カレッジ (オックスフォード大学)|マグダリン・ホール]]や[[ミドル・テンプル|ミドル・テンプル法学院]]で学び、[[法廷弁護士]]となる(''→[[#生い立ち|生い立ち]]'')。

第2代[[フォークランド子爵]][[ルーシャス・ケアリー (第2代フォークランド子爵)|ルーシャス・ケアリー]]らと交流を深めて穏健進歩派の論客となり。[[1629年]]以来議会を招集せずに専制政治を行っていた[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]やその側近の初代{{仮リンク|ストラフォード伯爵|en|Earl of Strafford}}[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]]を批判した(''→[[#反専制の進歩派となる|反専制の進歩派となる]]'')。

[[1640年]]に11年ぶりに召集された議会([[短期議会]]と[[長期議会]])で[[庶民院]]議員に当選して政界入りし、親政期に行われた圧政を追求した(''→[[#庶民院議員として政界入り|庶民院議員として政界入り]]'')。[[1641年]]のストラフォード伯弾劾にも賛成したが、この頃から急進派議員と議会外大衆の急進活動を懸念するようになる。議会と国王の均衡を求める穏健派として、同年に可決された『[[議会の大諫奏]]』については[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]の干犯として反対した(''→[[#急進的進歩派を懸念|急進的進歩派を懸念]]'')。

以降国王に近しい立場になって「立憲王党派」と呼ばれるようになり、[[ジョン・ピム]]ら急進派議員と対立を深めた。[[1642年]]1月に国王が急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗して[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]へ逃れると、議会は急進派が掌握するところとなった。彼も5月に逮捕の危機に晒されてヨークの国王のもとに逃れた(''→[[#立憲的国王派として|立憲的国王派として]]'')。国王の信任を受け、[[1643年]]には[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に任じられた。内乱勃発後も穏健な王党派として議会と国王の和解を目指したが、和平交渉は実を結ばなかった(''→[[#清教徒革命をめぐって|清教徒革命をめぐって]]'')。

国王軍の旗色が悪くなった[[1645年]]に国王の命令で皇太子チャールズ([[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]])とともに亡命した。当初[[ジャージー島]]や[[オランダ]]で暮らし、[[パリ]]に作られたチャールズの亡命宮廷には積極的に参加しなかったが、[[1651年]]頃からチャールズの側近として亡命宮廷の中心人物となり、王政復古の下地作りに励んだ(''→[[#皇太子の亡命宮廷で|皇太子の亡命宮廷で]]'')。

[[1658年]]の[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]の死で[[イングランド共和国]]が動揺すると、王政復古へ向けた政治工作を本格化させ、[[1660年]]に[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]将軍の取り込みや革命期の行動を[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]に問わないことを保証した{{仮リンク|ブレダ宣言|en|Declaration of Breda}}などによって議会に[[王政復古 (イングランド)|王政復古]]を決議させることに成功した。国王とともに[[ロンドン]]へ帰還し、以降国王最大の側近として7年にわたってイングランドの国政を主導した(''→[[#王政復古|王政復古]]'')。

国王親政ではなく、長期議会初期に制定された諸法によって制限された立憲王政を目指した。共和政期の遺産も受け継ぎ、国王大権を基礎とする封建的財政を復活させず、共和政期に確立された国民への恒常的課税を基礎とする近代的財政をそのまま採用した(''→[[#立憲王政体制を目指して|立憲王政体制を目指して]]'')。革命派への復讐を求める議会の騎士派(王党派)を抑え、復讐は[[王殺し|弑逆者]]など一部の者に限定し、原則として革命期の行動については不問とした。また共和国政府に所領を没収された者には所領を返還したが、罰金を科されて自発的に所領を売り払ったケースは返還なしとした。この処置は王党派の不満を招いた(''→[[#復讐の抑止|復讐の抑止]]'')。

宗教政策では寛容に失敗し、議会の清教徒革命追及の機運に押されて、[[ピューリタン|清教徒]]を国教会から排除して[[非国教徒]]にし、彼らを弾圧する法律を次々に法定した。これらは「[[クラレンドン法典]]」と呼ばれるが、彼自身はこうした非寛容政策には批判的だった(''→[[#宗教政策|宗教政策]]'')。

[[1662年]]には[[ダンケルク]]売却を実施して批判を集めた。[[1665年]]には[[オランダ]]との間に[[英蘭戦争]]が勃発したが、敗北した上に財政が疲労する結果に終わったので批判を受けた(''→[[#外交政策|外交政策]]'')。

[[1665年]]の[[ペスト]]流行や[[1666年]]の[[ロンドン大火]]で批判はさらに高まった。[[1667年]]8月、議会で政府批判が高まることを恐れたチャールズ2世が議会開会前に彼を政府から追放しようとし、その圧力で[[大法官]]辞職に追い込まれた(''→[[#失脚|失脚]]'')。10月に召集された議会から[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で告発されたため、[[フランス王国|フランス]]へ亡命。そこで名著と名高い歴史書『{{仮リンク|イングランドの反乱と内戦の歴史|en|The History of the Rebellion and Civil Wars in England}}』を著した。[[1674年]]に[[ルーアン]]で死去した(''→[[#亡命と死去|亡命と死去]]'')。

歴史家{{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}は[[長期議会]]初期の「国王と議会の均衡」にこだわって[[議院内閣制]]に踏み出せなかった人物としながらも、復讐政策をとらず、王政復古を成功させたことを評価している(''→[[#人物・評価|人物・評価]]'')。

[[1660年]]にハイド男爵、[[1661年]]にクラレンドン伯とコーンベリー子爵に叙せられた(''→[[#爵位|爵位]]'')。

爵位は長男の{{仮リンク|ヘンリー・ハイド (第2代クラレンドン伯爵)|label=ヘンリー・ハイド|en|Henry Hyde, 2nd Earl of Clarendon}}が継承した。次男[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]も後にロチェスター伯爵に叙される。また娘[[アン・ハイド]]はヨーク公ジェイムズ(のちのイングランド国王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェイムズ2世]])と結婚し、後のイングランド女王[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]と[[アン (イギリス女王)|アン]]を儲けている(''→[[#家族|家族]]'')。

== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[File:EdwardHyde1626.jpg|200px|thumb|1626年のエドワード・ハイドを描いた肖像画([[:en:Cornelis Janssens van Ceulen|Cornelis Janssens van Ceulen]]画像)]]
[[1609年]][[2月18日]]、[[ウィルトシャー]]・{{仮リンク|ディントン (ウィルトシャー)|label=ディントン|en|Dinton, Wiltshire}}の地主で[[庶民院]]議員を務めた{{仮リンク|ヘンリー・ハイド (1634年死亡)|label=ヘンリー・ハイド|en|Henry Hyde (died 1634)}}とその妻メアリー({{仮リンク|トローブリッジ|en|Trowbridge}}の衣服商人エドワード・ラングフォードの娘)の子としてディントンに生まれた{{sfn|塚田富治|2001|p=181}}<ref name="CP EC">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/clarendon1661.htm|title=Clarendon, Earl of (E, 1661 - 1753)|accessdate= 2015-12-25 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10277.htm#i102769 |title=Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon|accessdate= 2015-12-25 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>

父や家庭教師から古典の教育を受けた後、[[1623年]]に13歳で[[オックスフォード大学]][[ハートフォード・カレッジ (オックスフォード大学)|マグダリン・ホール]]に入学し、[[1626年]]に卒業した{{sfn|塚田富治|2001|p=181}}<ref name="thepeerage.com"/>。裁判官の伯父{{仮リンク|ニコラス・ハイド|en|Nicholas Hyde}}の後援で[[1625年]]に[[ミドル・テンプル|ミドル・テンプル法学院]]に入学し{{sfn|塚田富治|2001|p=182}}、[[1633年]]には[[法廷弁護士]]資格を取得した<ref name="thepeerage.com"/>。

1634年7月に少額債権裁判所主事・造幣局長官トマス・エイルズベリーの娘フランセスと結婚。同年に父ヘンリーが死去し、ハイド家の跡を継いだ。父は遺言で「国の法律や自由を自らの利益や君主の意思のために犠牲にしてはならない」と述べたという{{sfn|塚田富治|2001|p=182}}。

=== 反専制の進歩派となる ===
[[File:LuciusViscountFalkland.jpg|200px|thumb|第2代[[フォークランド子爵]][[ルーシャス・ケアリー (第2代フォークランド子爵)|ルーシャス・ケアリー]](ジョン・ホスキンズ画)]]
岳父(妻の父)トマス・エイルズベリーの縁故で国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の側近の[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・ロード]]の知遇を得、彼から法律家としての活動を評価されたのがきっかけで裁判官や著名な法律家からの依頼が続々とくるようになった。民事訴訟裁判所文書保管係にも任命された{{sfn|塚田富治|2001|p=182}}。

当時、第2代[[フォークランド子爵]][[ルーシャス・ケアリー (第2代フォークランド子爵)|ルーシャス・ケアリー]]の屋敷では[[ジョン・セルデン]]など当代一流の進歩派の知識人が集まるクラブが定期的に開かれており、ハイドもそこに出入りするようになった。ここでの法律・哲学・宗教などの討議を通じて、進歩派の論客としての研鑽を積んだ{{sfn|塚田富治|2001|p=183-185}}。

[[1629年]]以来11年にもわたって国王チャールズ1世は議会を招集しようとせず、議会立法ではなく、[[枢密院令]]に頼った政治を展開し、国民の民意を無視し続けていた。その結果、初代{{仮リンク|ストラフォード伯爵|en|Earl of Strafford}}[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]]やロードなど国王近臣による強権的統治が行われていた。ハイドら進歩派は[[王権神授説]]を批判して[[法の支配]]を唱え、国王の権限が法の範囲を超えて拡大されることに反対していたので、このような状況を批判していた{{sfn|塚田富治|2001|p=185}}。

=== 庶民院議員として政界入り ===
第一次[[主教戦争]]後、スコットランドとの戦費を渇望するチャールズ1世は、ストラフォード伯の助言を容れて[[1640年]][[4月13日]]に議会を招集し([[短期議会]])、臨時課税を求めた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=189-191}}。この議会の選挙でハイドは{{仮リンク|ウットン・バセット選挙区|en|Wootton Bassett (UK Parliament constituency)}}から選出されて[[庶民院]]議員となっている{{sfn|塚田富治|2001|p=186}}。

議会は国王の課税要請に応える前に1629年から続く議会軽視の親政に苦情を申し立て、親政以前の政治慣行の復活を要求した。ハイドもフォークランド子爵やセルデンの理論に従って法の支配、国王と議会の権力の均衡、プロテスタント信仰に基づく強力な[[イングランド国教会|国教会]]の確立を要求した{{sfn|塚田富治|2001|p=186}}。国王は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]取り込みを図って乗り切ろうとしたが、庶民院の反発が静まらなかったため、招集からわずか3週間後の[[5月5日]]に議会は解散された{{sfn|今井宏(編)|1990|p=191}}。この直前にハイドは、ロードのもとを訪れて議会の続行を国王に助言するよう求めたが、ロードは聞き入れなかった{{sfn|塚田富治|2001|p=186-187}}。

1640年8月末にはスコットランド軍がイングランドへ侵攻し、[[ニューカッスル]]を占領した(第2次主教戦争)。軍隊を組織するお金がないチャールズ1世は、スコットランド軍撤兵の条件として5万ポンドの賠償金をスコットランドに支払うリポン条約の締結を余儀なくされた。チャールズ1世はその賠償金も用意できないため、更に弱い立場で議会を再招集する羽目になった([[長期議会]]){{sfn|今井宏(編)|1990|p=192}}。新議会は9月に選挙の告示があり、10月に総選挙が実施された{{sfn|今井宏(編)|1990|p=192}}。ハイドはこの議会で{{仮リンク|サルタッシュ選挙区|en|Saltash (UK Parliament constituency)}}から選出されて庶民院議員となっている<ref name="CP EC"/>。

半年の間に世論の空気は変わっており、国王とその側近に対する信頼は完全に消えていた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=192}}。そのため前議会が穏便に親政前に戻ろうとしていたのに対し、新議会は親政の責任追及の機運が高かった{{sfn|塚田富治|2001|p=187}}。親政下で逮捕された政治犯が次々と釈放されるとともに国王側近に厳しい責任追及が行われることになった{{sfn|今井宏(編)|1990|p=193}}。

ハイドも専制政治を厳しく追及し、「紋章院裁判所の活動を調査する委員会」、「船舶税を支持した裁判官を調査する委員会」、「国政をゆがめた裁判所の活動を調査する委員会」「大権裁判所を検討する委員会」「今後の議会のあり方を検討する委員会」「教会の改革を検討する委員会」など記録に残るだけでも7つの委員会に委員として所属して親政下の圧政の調査を行っている{{sfn|塚田富治|2001|p=187-188}}。

=== 急進的進歩派を懸念 ===
[[1641年]]2月には国王側近ストラフォード伯に対する弾劾裁判が開始された。ハイドも「ストラフォードを告発する文書作成委員会」の委員となった。ハイドにとってストラフォード拍は{{仮リンク|北部評議会|en|Council of the North}}の権限を拡大してその地域を「専制的権力の海に沈めた」張本人であるため、容赦なく追及した{{sfn|塚田富治|2001|p=188}}。

だが、同時にこの頃からハイドは急進的進歩派に不安を抱くようになった。ストラフォード弾劾の最中、何千人ものロンドン市民がウェストミンスターに押しかけてきてストラフォード処刑を求める示威行動を起こし、処刑への同意をためらう国王や貴族院議員を罵倒していたが、ハイドはそれを見て嫌悪した。後世ハイドはこの時の市民の示威行動を「前代未聞の不敬」「反逆的な暴動」と批判している{{sfn|塚田富治|2001|p=188}}。

議会は[[5月12日]]にストラフォード伯を処刑するとともに、1640年から1641年にかけて議会権限を回復・強化する法案を次々と可決させた。議会の許可なき課税として批判されていた{{仮リンク|船舶税|en|Ship money}}は不法と決議され、議会の同意なく国王が関税をかけることを禁じる{{仮リンク|トン税・ポンド税法|en|Tonnage and poundage}}も可決された。{{仮リンク|3年議会法|en|Triennial Acts}}により国王の解散詔書がなくても議会が3年以上休会したら解散総選挙が行われる旨も定められた。[[星室庁|星室庁裁判所]]、北部評議会、高等宗教裁判所など国王専制政治の象徴となっていた大権裁判所も廃止された。国王もこれらの改革に同意している{{sfn|浜林正夫|1981|p=25-26}}{{sfn|塚田富治|2001|p=128-129/188-189}}。

親政前に機能していた政治の慣行(国王と議会の均衡)の復活を目指すハイドやフォークランド子爵にとっては改革はこれで終了であって、国王と議会の相互信頼の回復が今後の課題だった{{sfn|塚田富治|2001|p=188-189}}。ところが[[ジョン・ピム]]ら急進的進歩派の議員にとっては改革はまだ終わっておらず、[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]の制限が次なる課題だった。そして11月には国王が持つ枢密顧問官をはじめとする官吏任免権を議会の統制下に置く内容の『[[議会の大諫奏]]』を提案した。ハイドたち穏健派は国王大権の侵害としてこれに強く反対した。また急進派は大諫奏を議会外の大衆に公表するつもりであったが、ハイド達は既存の社会秩序が崩れるとして議会外大衆への働きかけに反対した。この大諫奏については2週間ほど議会内で議論が行われたが、結局11月23日に僅差で可決されている。これにより議会内の穏健派と急進派の分裂が決定的となった{{sfn|塚田富治|2001|p=189-190}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=194-195}}。

=== 立憲的国王派として ===
[[File:King Charles I after original by van Dyck.jpg|200px|thumb|[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]を描いた肖像画([[アンソニー・ヴァン・ダイク]]画)]]
これ以降ハイドら穏健進歩派は国王と近しくなり、「立憲的国王派」と呼ばれるようになる{{sfn|今井宏(編)|1990|p=195}}。

ハイドは急進的な議会外大衆の圧力から議会を守ると同時に国王に対してもこれまで議会が制定した法律を遵守する姿勢を示すことで専制を復活しようとしているのではないかという国民の不信を払拭するよう努めるべきであると助言した{{sfn|塚田富治|2001|p=190-191}}。

だが国王はこの助言を聞き入れなかった。[[1642年]]1月3日には強硬王党派の初代{{仮リンク|ブリストル伯爵|en|Earl of Bristol}}{{仮リンク|ジョン・ディグビー (初代ブリストル伯爵)|label=ジョン・ディグビー|en|John Digby, 1st Earl of Bristol}}にそそのかされた国王がピムら急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗する事件が発生した{{sfn|塚田富治|2001|p=190-191}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=196}}。

この事件に対する憤慨により議会は完全に急進派(特にピム)が牛耳るところとなった。これまで国王寄りだった貴族院ももはや庶民院の急進派に逆らわなくなった。立憲国王派の肩身は狭くなったが、ハイドは国王と議会の和解を諦めず、穏健派の再結集を狙うとともに国王にロンドンから離れないよう助言した{{sfn|塚田富治|2001|p=191-192}}。しかし身に危険を感じた国王はイングランド北部の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]へ逃亡し、そこを王党派の拠点にし始めた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=196}}。5月半ばにはハイド追及の機運も高まり、逮捕を恐れたハイドはヨークの国王のもとへ逃れた{{sfn|塚田富治|2001|p=191-192}}。

[[1642年]]6月に議会はヨークにいる国王に対して19か条を送り、国王の高官・裁判官任免権、軍の統帥権、教会改革権を議会に譲渡することを要求した。国王はこれを拒否し、ハイドとフォークランド子爵に反論文を作成することを命じた。2人はその反論文の中で次のように論じて議会主権を拒否して立憲王政の必要性を訴えた。「我々の先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制(貴族院)、民主制(庶民院)の3つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が3つの身分間に存在する限り、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築き上げてきた。君主制の長所は一人の君主のもとに国民を統合し、その結果外敵の侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国の最も有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」{{sfn|塚田富治|2001|p=193}}。

この反論文を宣戦布告と見た議会は7月初めにも第3代[[エセックス伯爵]][[ロバート・デヴァルー (第3代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]を指揮官とする議会軍を組織し、対する国王も8月に[[ノッティンガム]]に国王軍の集結を命じた。こうして内乱は不可避の情勢となった{{sfn|今井宏(編)|1990|p=196}}。

=== 清教徒革命をめぐって ===
国王から強く信任されるようになり{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=148}}、[[1643年]]2月には[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]と[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)に任じられた{{sfn|塚田富治|2001|p=193}}。

ハイドら立憲国王派は内乱勃発後も「議会に規制された王政」の存続を旗印に議会との和平の道を探っていた。王党派の本拠地[[オックスフォード]]に議会派の和平派を迎え、彼らと交渉を行った。その中で議会派は国王が軍の統帥権を放棄すれば和平は成立しうるとの見解を示した。ハイドはさっそく国王にその旨を伝え、「陛下の置かれている苦境は、戦争の継続によって改善される見込みはありません。一方議会の和平案は陛下を少しも傷つけないばかりか、著しい利益を与えるものです」と助言してこの和平案を呑むべきと進言したが、国王は王妃[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ]]や強硬派の側近にそそのかされてこの和平案を蹴ってしまった。後世ハイドはこの時の国王の態度を「取り返しのつかない決定」と評した。ハイドの盟友フォークランド子爵はこの国王の態度に失望して1643年[[9月20日]]の{{仮リンク|第一次ニューベリーの戦い|en|First Battle of Newbury}}において自殺同然の戦死をしている{{sfn|塚田富治|2001|p=194}}。

1643年12月にハイドの助言を容れて国王はオックスフォードに議会を招集すること、ウェストミンスターの議会を離れてこの議会に参加した議員には例外なく恩赦を与えることを宣言した。ハイドの狙いはオックスフォードとウェストミンスター双方の穏健派(立憲国王派と議会和平派)の合流だった。1644年1月に召集されたオックスフォード議会は40名の貴族院議員と100名の庶民院議員が出席し、ウェストミンスター議会との和平を追求したものの、成果のないまま終わった。ハイドの努力はまたも徒労に終わった{{sfn|塚田富治|2001|p=194}}。

ハイドが最後に和平交渉に加わったのは[[1645年]]1月から2月にかけてのアックスブリッジでの会談だったが、この時には議会派は完全に抗戦派に牛耳られており、和平派はもはや議会内で力を持っていなかったため、実を結ばなかった{{sfn|塚田富治|2001|p=195}}。

=== 皇太子の亡命宮廷で ===
[[File:Jacob van Reesbroeck - Portrait of Edward Hyde.jpg|200px|thumb|1649年から1653年ころに描かれたハイドの肖像画([[:en:Jacob van Reesbroeck|Jacob van Reesbroeck]])]]
[[File:Charles II (de Champaigne).jpg|200px|thumb|[[1653年]]頃の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]を描いた絵画([[フィリップ・ド・シャンパーニュ]]画)]]
国王軍の戦局が悪化の一途をたどり、交渉による和解の道も期待しえなくなる中の[[1645年]]3月、最悪の事態を覚悟したチャールズ1世は、ハイドに皇太子チャールズ(後の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]])を託し、オックスフォードから離れて大陸へ亡命するよう命じた{{sfn|塚田富治|2001|p=195}}。

以降ハイドは15年にわたる亡命生活を送ることになった。皇太子は[[パリ]]に亡命宮廷を立てたが、ハイドはしばらくの間、それに積極的には参加しなかった。3年にわたって[[ジャージー島]]で過ごして国王から依頼された歴史書(『{{仮リンク|イングランドの反乱と内戦の歴史|en|The History of the Rebellion and Civil Wars in England}}』)の執筆活動に励んだ{{sfn|塚田富治|2001|p=195-196}}。1648年6月にチャールズ皇太子がイングランド侵攻を企てた際には、それを補佐するべくジャージー島を離れたが、航海中に海賊に襲撃されたため皇太子のもとに参じることができなかった。また皇太子の蜂起は結局失敗に終わった{{sfn|塚田富治|2001|p=196}}。

その後、ハイドは亡命宮廷から離れたオランダで数年を過ごした。当時のハイドは亡命宮廷内に大した力を持っていなかった。そこを支配するのは王母ヘンリエッタをはじめとする王族たちであった。ハイドが亡命宮廷内で力を持つようになったのは、[[1651年]]11月にチャールズがスコットランドでの旗揚げに失敗してパリに逃げ帰ってきた後のことである。この直後にチャールズはハイドを召喚し、以降彼を側近として使うことにした。[[1654年]]には「国王秘書長官」、[[1658年]]には「大法官」に任じられた{{sfn|塚田富治|2001|p=197}}。

国王側近となったハイドは亡命宮廷がイングランド国民の心情から離反した独りよがりな存在にならないよう努めた。例えばチャールズが{{仮リンク|後見裁判所|en|Court of Wards and Liveries}}を復活させようと企むとそれを思いとどまらせたり、王母ヘンリエッタがカトリックに対する罰則を排することを約し、さらにチャールズをカトリックに改宗させることでカトリックの支持を得ようと主張するとそれを阻止することにも努めた。[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]打倒のためにイングランド・スコットランド内の不満分子と取引するという陰謀も積極的には行わなかった。長期議会冒頭で制定された一連の法律で規制された王政とイギリス国教制を復活させることがハイドの目的であり、これらの政策はそれに有害と考えたからである{{sfn|塚田富治|2001|p=196}}。

そして「我々がじっと待つことができなければ、神はやってこられないだろう」という心境のもと、[[イングランド共和国|共和国]]の自壊の日を辛抱強く待った{{sfn|塚田富治|2001|p=198}}。

=== 王政復古 ===
[[1658年]]9月のクロムウェルの死去で共和国体制が動揺するとハイドは積極的に共和国内の分裂を促す工作を開始した。共和国の混乱が深まるにつれてハイドのもとには共和国政府の実務家からも国王に忠誠を誓う旨の書簡が送られてくるようになった{{sfn|塚田富治|2001|p=199}}。

とりわけカギを握るのはスコットランドに統制された軍隊をもつ[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]](後の初代アルベマール公)であった。マンクは「自由な議会(長期議会)」を求める世論に支えられて[[1660年]][[2月3日]]にロンドンに入城していた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=233}}。この時にはマンク将軍はまだ王政復古を明言しなかったが、選挙が王党派の優位で進むのを見て、ハイドとの交渉に応じ、その中でマンクは「広範囲な恩赦を出すこと、国王と教会の土地について議会の決定を受け入れること、良心の自由を保障すること」を王政復古の条件にあげた。これはハイドの目指すところと全く同じであり、ハイドはただちに受け入れを表明した{{sfn|塚田富治|2001|p=199-200}}。

ハイドは4月に{{仮リンク|ブレダ宣言|en|Declaration of Breda}}を起草し、国王にこれを発布させた。これは、議会で例外とされた者を除き、良き臣民としての服従に立ち返る人々全員に無償の恩赦を与え、革命中に大逆罪を犯していたとしても不問とすること、また革命の間に生じた土地所有権の変更については全て議会の決定に委ねることを約束していた。処罰への恐れが王政復古への抵抗を生まないようにするため、また過去の行為の追及によって不和や分裂が生じないようにするためだった。この文書は王党派のジョン・グレヴィルを通じて庶民院、貴族院、陸軍、海軍、ロンドン市に配られた{{sfn|塚田富治|2001|p=200-201}}。

1660年[[4月25日]]に召集された{{仮リンク|仮議会|en|Convention Parliament (England)}}は王党派が多数を占めており、ブレダ宣言の受け入れを決議した。そして仮議会の要請に基づいて[[5月29日]]にチャールズ2世はハイドを伴ってロンドンへ帰還した{{sfn|今井宏(編)|1990|p=240}}{{sfn|塚田富治|2001|p=201}}。これ以降ハイドは国王最大の側近としてイングランド国政を主導する人物となった。枢密院メンバーは、ハイドはじめ国王とともに亡命していた王党派9名、第4代[[サウサンプトン伯爵]]{{仮リンク|トマス・リズリー (第4代サウサンプトン伯)|label=トマス・リズリー|en|Thomas Wriothesley, 4th Earl of Southampton}}ら共和政期も国内とどまっていた王党派7名、第2代[[マンチェスター伯爵]][[エドワード・モンタギュー (第2代マンチェスター伯爵)|エドワード・モンタギュー]]ら[[長老派教会|長老派]]7名、マンクや[[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|アンソニー・アシュリー=クーパー]](後の初代[[シャフツベリ伯爵]])ら共和政政府の高官4名という派閥横断的な構成となった{{sfn|浜林正夫|1981|p=28}}。しかしハイドは、国王秘書長官ニコラス、大蔵卿サウサンプトン伯、王室家政長官初代{{仮リンク|オーモンド公爵|en|Duke of Ormonde}}{{仮リンク|ジェイムズ・バトラー (初代オーモンド公爵)|label=ジェイムズ・バトラー|en|James Butler, 1st Duke of Ormonde}}など枢密院の中心人物から支持を得ていたので、枢密院を強力に掌握していた{{sfn|塚田富治|2001|p=205}}。

国王より王政復古の労をねぎらわれ、1660年11月にはハイド男爵、1661年4月には[[クラレンドン伯爵]]に叙せられている<ref name="CP EC"/><ref name="thepeerage.com"/>。[[1662年]]には改めて大法官に任じられ、ロンドン中心部の[[ピカデリーサーカス|ピカデリー]]に広大な土地を与えられた{{sfn|塚田富治|2001|p=205}}。

=== 立憲王政体制を目指して ===
クラレンドン伯が目指す政治体制はもちろん国王親政ではなく、長期議会初期にクラレンドン伯含むほぼ全議員の賛成により制定された一連の法律によって制限された立憲王政である。これらの法律を王政復古政府はほとんど受け継いでいる。各種の大権裁判所を復古させることもなかった{{sfn|塚田富治|2001|p=202}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=241-242}}。

1640年11月に長期議会が招集されてから1642年2月までに制定された法律は国王の同意を得て成立しているからすべて有効であり、それ以降の法律は国王の同意を得ずに議会が単独で決めた物なので「条例(ordinance)」にすぎず、無効というのが王政復古政府の基本的な立場であった{{sfn|浜林正夫|1981|p=25}}。

ただし王政復古政府が長期議会初期の法定で受け継がなかったものが2つある。1つは3年議会法である。これは議会が3年以上休会した場合には議会は解散されたものとみなして「国王の解散詔書なしに」総選挙が実施されると定めた法律である。チャールズ2世は自分の詔書をないがしろにしているこの法律を嫌悪し、1664年3月に騎士議会の王党派に働きかけてこれを改正させ、「国王の解散の詔書なしに」の一文は削除されることになった。現実的には王政復古政府が3年以上も議会を開かないで統治を行うことはまず不可能だったであろうが、国王としてはいざという時の議会招集・解散権を自分の手に残しておきたかったものと思われる{{sfn|浜林正夫|1981|p=26-27}}。

もう一つは聖職者議席剥奪法である。これにより主教たちが貴族院に参加できなくなっていたが、1661年5月に召集された騎士議会の王党派国教徒たちによって真っ先に廃止され、主教たちは再び貴族院に議席を持つことになった(以降現代まで主教たちは貴族院に議席を保有している){{sfn|浜林正夫|1981|p=27-28}}。

逆に1642年以降の国王の承認のない法律による制度でも王政復古政府が引き継いだものもある{{sfn|浜林正夫|1981|p=28}}。クラレンドン伯が長期議会初期の立法を原点としながらも、共和政の良き遺産は受け継ぐことをためらわない人物だったことによる{{sfn|塚田富治|2001|p=203}}。

たとえば国の財政について国王大権に基づく課税を復活させず、共和政期に確立された課税制度を引き継いだ。これによりイギリスは国王の私財から統治の費用を賄うという封建的財政を脱皮し、恒常的な租税収入により国民が国家財政を支えるという近代的な租税国家となった。国王にはその中から経費を王室費として与えることになった{{sfn|塚田富治|2001|p=203}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=241}}。

また大権裁判所のうち後見裁判所は1646年に廃止されたが、この廃止は引き継いだ(ただし国王にその代償の金銭を支払った){{sfn|浜林正夫|1981|p=28}}。「クロムウェルの航海条例」と呼ばれる航海奨励法も引き継いだ。これはイギリスが世界中に植民地を獲得して[[大英帝国]]を建設する布石となる{{sfn|浜林正夫|1981|p=28}}。

=== 復讐の抑止 ===
[[File:LordChancellorClarendon.jpg|200px|thumb|1666年に描かれたクラレンドン伯({{仮リンク|デイヴィッド・ローガン|en|David Loggan}}画)]]
王政復古を安定させるためにクラレンドン伯が重視したのが革命派に対する復讐を抑止することだった。ブレダ宣言に基づき、1660年8月には仮議会で大赦法が決議され、チャールズ1世[[王殺し|弑逆者]](チャールズ1世処刑執行令状署名者)や共和国指導者などを例外として革命期の行動について原則免責となった{{sfn|塚田富治|2001|p=201}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=240}}。

これにより弑逆者は既に死亡した者を除き、全員が裁判にかけられ、そのうち29名に死刑判決が下った(実際の死刑は10名で残り19名は終身刑に減刑された){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=628}}。また弑逆者以外では[[ヘンリー・ベイン]]が「危険な共和主義者」として処刑された{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=781}}。クラレンドン伯と国王は復讐をこれにとどめようとした{{sfn|トレヴェリアン|1974|p=177}}。1661年に騎士派(王党派)が多く選出された{{仮リンク|騎士議会|en|Cavalier Parliament}}で共和国指導者13名が新たに厳罰リストに加えられた際にもクラレンドン伯は国王とともにこの法案の通過を阻止している。王政復古を失敗させないためには「過去を忘れる」ことが肝要なのであった{{sfn|塚田富治|2001|p=201}}。

また共和政期の土地変動については、共和政府が没収した教会領・王領・王党派所領は、その購入者への正当な補償もなしに無条件回復としたが、共和政府に「悪意を抱く者」として課せられた罰金を支払うために自発的に土地を売ったケースは、返還なしとした。共和派・王党派双方から一定の支持を得られるようにした妥協策であった{{sfn|トレヴェリアン|1974|p=177}}。しかし共和政期に土地売却に追い込まれた王党派は、王への忠誠の見返りがないとしてこれに不満を抱いた。彼らは大々的な復讐政策を実行して、革命派の土地を奪いとり、自分たちの物としたがっていた。これがクラレンドン伯に対する最初の不満となった{{sfn|トレヴェリアン|1974|p=177}}。

=== 宗教政策 ===
復古王政政府のアキレス腱となったのは宗教政策だった。ブレダ宣言で宗教についても寛容の精神がうたわれていたのに、議会の国教徒の王党派に押されて宗教には非寛容な姿勢で臨むことになったからである{{sfn|今井宏(編)|1990|p=240/242}}。

[[1660年]]10月に国王は「ウスタ・ハウス宣言」を出して[[長老派教会|長老派]]も含めた緩やかな国教会体制を作りたいという希望を表明したが、仮議会内の王党派は、厳格な国教会体制を求めてこれに反発した。以降宗教政策を国王大権として宗教的寛容を唱える国王と、国教会を国家統一のきずなとして守り抜こうとする議会の対立は、チャールズ2世、つづく[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の治世でも続き、[[名誉革命]]の伏線となる{{sfn|今井宏(編)|1990|p=240-241}}。

[[1661年]]に召集された騎士議会は仮議会以上に強硬な国教会派にして郷士支配的な者たちの党派(後の[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]])が多数派だった。そのため革命への報復感情もあってピューリタン弾圧の機運が強かった{{sfn|トレヴェリアン|1974|p=177}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=242}}。国教会と長老派の会談も不調に終わり、復活した聖職会議において長老派をはじめとするピューリタンは「非国教徒」として国教会の外に排除された。これに呼応した騎士議会がクラレンドン伯や国王の意に反してピューリタン弾圧の法律を次々と制定したのである{{sfn|今井宏(編)|1990|p=241-242}}。

1661年には非国教徒が都市自治体の役職に就くことを禁じる自治体法が制定された。[[1662年]]には礼拝統一法が制定されて9000人の国教会聖職者のうち2000人が聖職禄をはく奪された。さらに[[1665年]]までに「秘密礼拝集会禁止法」と「5マイル法」が制定された。これら非国教徒弾圧法規は彼の名をとって「[[クラレンドン法典]]」と呼ばれている。ただしクラレンドン伯自身はブレダ宣言に象徴されるように不寛容政策に反対する人物であり、この一連の弾圧法規にも批判的であった{{sfn|今井宏(編)|1990|p=241-242}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=149}}。

=== 外交政策 ===
[[1662年]]には大蔵卿サウサンプトン伯の進言を受け入れて、膨大な維持費がかかる[[ダンケルク]]の売却を行った。有利な条件で売却したにもかかわらず、フランスから賄賂をもらってフランスにダンケルクを売り飛ばしたと噂され、商人を中心としたロンドン市民から強い反発を受けた{{sfn|塚田富治|2001|p=206}}。

[[1665年]]には貿易上のライバルである[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]との間に[[英蘭戦争]]が勃発した。クラレンドン伯はこの戦争に反対していたが、王弟[[ヨーク公]]ジェイムズ(後の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェイムズ2世]])をはじめとする主戦派に押し切られた{{sfn|塚田富治|2001|p=206}}。この戦争はフランスやデンマークも敵に回す大戦となり、財政を大きく疲労させた。戦局もフランスの支援を受けたオランダが優位に進め、[[1667年]]にはオランダ軍が[[チャタム]]海軍基地を襲撃するまでになった。議会はこの原因を政府の財政運営不備に求め、クラレンドン伯批判を強めた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=244}}。

=== 失脚 ===
[[1665年]]には[[ペスト]]の流行、[[1666年]]には[[ロンドン大火]]があり、その不満と批判もクラレンドン伯に向けられた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=244}}{{sfn|塚田富治|2001|p=206}}。

クラレンドン伯は、議会からも民衆からも嫌われ、次第に枢密院内でも孤立するようになった。すでにニコラスは老齢で引退しており、オーモンド公は総督としてアイルランドに赴任していた。サウサンプトン伯も財政上の失敗と老齢で影響力を落としていた。代わりに枢密院内で台頭していたのが反クラレンドン伯派の初代{{仮リンク|アーリントン伯爵|en|Earl of Arlington}}[[ヘンリー・ベネット (初代アーリントン伯)|ヘンリー・ベネット]]だったためである{{sfn|塚田富治|2001|p=207}}。また国王の態度も冷たくなっていた。チャールズ2世にとってクラレンドン伯は少年時代からの厳父・教師のような存在であったが、成人してからも叱責や諫言をやめないので次第に煩わしく思われるようになっていた{{sfn|塚田富治|2001|p=208}}。

そして[[1667年]]8月、議会で政府批判が高まるのを抑えるため、チャールズ2世は議会招集前にクラレンドン伯を辞職させようと決意。国王の圧力を受けて8月30日に大法官を辞職した{{sfn|塚田富治|2001|p=208}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=244}}。

=== 亡命と死去 ===
1667年10月に招集された議会は第2代[[バッキンガム公]][[ジョージ・ヴィリアーズ (第2代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]の主導でクラレンドン伯を大逆罪で告訴した。国王もそれを公式に支持したことを知ったクラレンドン伯は身の危険を感じて[[1667年]][[11月29日]]にイングランドを離れて再びフランスに亡命した{{sfn|塚田富治|2001|p=209}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=244-245}}。クラレンドン伯失脚後の国政は国王チャールズ2世とその寵臣集団「[[Cabal]](カバル)」によって主導されていくことになる{{sfn|今井宏(編)|1990|p=244}}。

フランス亡命後、クラレンドン伯は執筆活動に戻り、『イングランドの反乱と内戦の歴史』を完成させた。この書は内乱期の人々の思想や行動を王党派・議会派の区別なく公正に描き、今日歴史書としても文学書としても高い評価を受ける古典となっている{{sfn|塚田富治|2001|p=209-210}}。

[[1674年]][[12月19日]]に[[ルーアン]]で死去。爵位は長男{{仮リンク|ヘンリー・ハイド (第2代クラレンドン伯爵)|label=ヘンリー・ハイド|en|Henry Hyde, 2nd Earl of Clarendon}}に継承された。また次男の[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]も後にロチェスター伯爵に叙せられている<ref name="CP EC"/><ref name="thepeerage.com"/>。

== 人物・評価 ==
19世紀的ホイッグ史観においてはピューリタン革命が進歩の重要な契機と評価されているので、王政復古期を代表する政治家クラレンドン伯は反動分子として扱われ、評価は芳しくない{{sfn|塚田富治|2001|p=212}}。

20世紀の歴史家{{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}もクラレンドン伯について、長期議会初期の1640年に法定された「国王と議会の均衡」の概念を「政治的英知の頂点、国政の最終的英知」と信じ込み、それに捕らわれ続けていた後ろ向きの政治家とし、すでに立法府と行政府の均衡だけでは足りず、議会が国王とその政府を支配下に置く[[議院内閣制]]に移行せねばならない時期が来ていたことを理解できなかったのが彼の限界としている{{sfn|トレヴェリアン|1974|p=176}}{{sfn|塚田富治|2001|p=212-213}}。

同時にトレヴェリアンはクラレンドン伯が革命派への復讐を許さなかったことを高く評価し、そのおかげでイギリス王座は全ての党派から受け入れられる国民的制度として再び定着したとしている{{sfn|トレヴェリアン|1974|p=177}}。

== 栄典 ==
=== 爵位 ===
[[1660年]][[11月3日]]に以下の爵位を新規に叙された<ref name="CP EC"/><ref name="thepeerage.com"/>
*ウィルトシャー州におけるヒンドンの'''初代ハイド男爵''' <small>(1st Baron Hyde, of Hindon in the County of Wiltshire)</small>
:(勅許状による[[イングランド貴族]]爵位)

[[1661年]][[4月20日]]に以下の爵位を新規に叙された<ref name="CP EC"/><ref name="thepeerage.com"/>。
*'''初代[[クラレンドン伯爵]]''' <small>(1st Earl of Clarendon)</small>
:(勅許状によるイングランド貴族爵位)
*オックスフォード州における'''初代コーンベリー子爵''' <small>(1st Viscount Cornbury in the County of Oxford)</small>
:(勅許状によるイングランド貴族爵位)

== 家族 ==
[[1632年]]にウィルトシャーの有力者ジョージ・アイリッフェの娘アンと結婚したが、彼女は結婚から5か月後に病死した{{sfn|塚田富治|2001|p=182}}<ref name="thepeerage.com"/>。[[1634年]]には少額債権裁判所主事・造幣局長官の初代[[準男爵]]{{仮リンク|トマス・エイルズバリー (初代準男爵)|label=トマス・エイルズバリー|en|Sir Thomas Aylesbury, 1st Baronet}}の娘フランセスと再婚し{{sfn|塚田富治|2001|p=182}}<ref name="thepeerage.com"/>、彼女との間に以下の6子を儲ける<ref name="CP EC"/><ref name="thepeerage.com"/>。

*長男'''{{仮リンク|ヘンリー・ハイド (第2代クラレンドン伯爵)|label=ヘンリー・ハイド|en|Henry Hyde, 2nd Earl of Clarendon}}'''(1638-1709) - 第2代クラレンドン伯爵位を継承。政治家。
*次男'''[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]'''(1642-1711) - 初代{{仮リンク|ロチェスター伯爵|en|Earl of Rochester}}に叙される。政治家。
*三男'''エドワード・ハイド'''(1645-?)
*四男'''ジェイムズ・ハイド'''(1650-1682)
*長女'''[[アン・ハイド]]'''(1638-1671) - ヨーク公(後の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])と結婚。[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]・[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の母
*次女'''フランセス・ハイド'''(1658-?) - {{仮リンク|トマス・ケイリー (1650-1719)|label=トマス・ケイリー|en|Thomas Keightley (official)}}と結婚

== 脚注 ==
<!--=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}-->
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|2}}</div>

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[今井宏 (歴史学者)|今井宏(編)]]|date=1990年(平成2年)|title=イギリス史〈2〉近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460201|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[塚田富治]]|date=2001年(平成13年)|title=近代イギリス政治家列伝 かれらは我らの同時代人|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622036753|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=トレヴェリアン| first=ジョージ|translator=[[大野真弓]]|date=1974年(昭和49年)|title=イギリス史 2|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020363|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[浜林正夫]]|date=1981年(昭和56年)|title=イギリス名誉革命史 上巻|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624110550|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=[[松村赳]] |author2=[[富田虎男]]|date=2000年(平成12年)|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}}
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline|Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon|初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド}}


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{{succession box
| title={{仮リンク|シャフツベリ選挙区|en|Shaftesbury (UK Parliament constituency)}}選出[[庶民院]]議員
| before= 1629年から議会停会
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2015年12月31日 (木) 15:07時点における版

初代クラレンドン伯爵
エドワード・ハイド
Edward Hyde
1st Earl of Clarendon
初代クラレンドン伯エドワード・ハイド(ピーター・レリー画)
生年月日 1609年2月18日
出生地 イングランド王国の旗 イングランド王国ウィルトシャーディントン英語版
没年月日 (1674-12-09) 1674年12月9日(65歳没)
死没地 フランス王国 ルーアン
出身校 オックスフォード大学マグダリン・ホールミドル・テンプル法学院
前職 法廷弁護士
称号 初代クラレンドン伯爵、初代コーンベリー子爵、初代ハイド男爵、枢密顧問官(PC)
配偶者 (1)アン・アイリッフェ (2)フランセス・エイルズバリー
親族 ヘンリー・ハイド英語版(父)、第2代クラレンドン伯爵英語版(長男)、初代ロチェスター伯爵(次男)

在任期間 1643年 - 1646年
1660年 - 1661年
国王 チャールズ1世
チャールズ2世

在任期間 1658年 - 1667年
国王 チャールズ2世

イングランドの旗 庶民院議員
選挙区 シャフツベリ選挙区英語版
ウットン・バセット選挙区英語版
サルタッシュ選挙区英語版
在任期間 1640年
1640年
1640年 - 1642年

イングランドの旗 貴族院議員
在任期間 1660年 - 1674年
テンプレートを表示

初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド英語: Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon, 1609年2月18日 - 1674年12月9日)は、イングランドの政治家・歴史家・貴族。

1640年庶民院議員となり、穏健進歩派としてチャールズ1世の専制政治を批判した。しかし国王大権の剥奪など急進的改革には反対し、王と議会の和解に努めた。清教徒革命が勃発すると立憲王政派として行動して国王の信任を得た。1645年には皇太子チャールズ(チャールズ2世)とともに亡命し、彼の亡命宮廷に仕えた。1660年王政復古後にはチャールズ2世の重臣として国政を主導した。長期議会初期の立法を基礎とした立憲王政の確立を目指した。1661年から1665年に制定された一連の非国教徒弾圧法は彼の名をとって「クラレンドン法典」と呼ばれているが、彼自身はこれに否定的だった。英蘭戦争の敗北などで批判が高まり、1667年に失脚。フランスへ亡命し、歴史書『イングランドの反乱と内戦の歴史英語版』を著した。

1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯爵に叙された。

アン・ハイドはイングランド国王ジェームズ2世の最初の妻であり、したがってイングランド女王メアリー2世アンは外孫に当たる。

概要

1609年庶民院議員を務めた地主ヘンリー・ハイド英語版の子として生まれる。オックスフォード大学マグダリン・ホールミドル・テンプル法学院で学び、法廷弁護士となる(生い立ち)。

第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリーらと交流を深めて穏健進歩派の論客となり。1629年以来議会を招集せずに専制政治を行っていたチャールズ1世やその側近の初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースを批判した(反専制の進歩派となる)。

1640年に11年ぶりに召集された議会(短期議会長期議会)で庶民院議員に当選して政界入りし、親政期に行われた圧政を追求した(庶民院議員として政界入り)。1641年のストラフォード伯弾劾にも賛成したが、この頃から急進派議員と議会外大衆の急進活動を懸念するようになる。議会と国王の均衡を求める穏健派として、同年に可決された『議会の大諫奏』については国王大権の干犯として反対した(急進的進歩派を懸念)。

以降国王に近しい立場になって「立憲王党派」と呼ばれるようになり、ジョン・ピムら急進派議員と対立を深めた。1642年1月に国王が急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗してヨークへ逃れると、議会は急進派が掌握するところとなった。彼も5月に逮捕の危機に晒されてヨークの国王のもとに逃れた(立憲的国王派として)。国王の信任を受け、1643年には財務大臣に任じられた。内乱勃発後も穏健な王党派として議会と国王の和解を目指したが、和平交渉は実を結ばなかった(清教徒革命をめぐって)。

国王軍の旗色が悪くなった1645年に国王の命令で皇太子チャールズ(チャールズ2世)とともに亡命した。当初ジャージー島オランダで暮らし、パリに作られたチャールズの亡命宮廷には積極的に参加しなかったが、1651年頃からチャールズの側近として亡命宮廷の中心人物となり、王政復古の下地作りに励んだ(皇太子の亡命宮廷で)。

1658年クロムウェルの死でイングランド共和国が動揺すると、王政復古へ向けた政治工作を本格化させ、1660年ジョージ・マンク将軍の取り込みや革命期の行動を大逆罪に問わないことを保証したブレダ宣言などによって議会に王政復古を決議させることに成功した。国王とともにロンドンへ帰還し、以降国王最大の側近として7年にわたってイングランドの国政を主導した(王政復古)。

国王親政ではなく、長期議会初期に制定された諸法によって制限された立憲王政を目指した。共和政期の遺産も受け継ぎ、国王大権を基礎とする封建的財政を復活させず、共和政期に確立された国民への恒常的課税を基礎とする近代的財政をそのまま採用した(立憲王政体制を目指して)。革命派への復讐を求める議会の騎士派(王党派)を抑え、復讐は弑逆者など一部の者に限定し、原則として革命期の行動については不問とした。また共和国政府に所領を没収された者には所領を返還したが、罰金を科されて自発的に所領を売り払ったケースは返還なしとした。この処置は王党派の不満を招いた(復讐の抑止)。

宗教政策では寛容に失敗し、議会の清教徒革命追及の機運に押されて、清教徒を国教会から排除して非国教徒にし、彼らを弾圧する法律を次々に法定した。これらは「クラレンドン法典」と呼ばれるが、彼自身はこうした非寛容政策には批判的だった(宗教政策)。

1662年にはダンケルク売却を実施して批判を集めた。1665年にはオランダとの間に英蘭戦争が勃発したが、敗北した上に財政が疲労する結果に終わったので批判を受けた(外交政策)。

1665年ペスト流行や1666年ロンドン大火で批判はさらに高まった。1667年8月、議会で政府批判が高まることを恐れたチャールズ2世が議会開会前に彼を政府から追放しようとし、その圧力で大法官辞職に追い込まれた(失脚)。10月に召集された議会から大逆罪で告発されたため、フランスへ亡命。そこで名著と名高い歴史書『イングランドの反乱と内戦の歴史英語版』を著した。1674年ルーアンで死去した(亡命と死去)。

歴史家G.M.トレヴェリアン長期議会初期の「国王と議会の均衡」にこだわって議院内閣制に踏み出せなかった人物としながらも、復讐政策をとらず、王政復古を成功させたことを評価している(人物・評価)。

1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯とコーンベリー子爵に叙せられた(爵位)。

爵位は長男のヘンリー・ハイド英語版が継承した。次男ローレンス・ハイドも後にロチェスター伯爵に叙される。また娘アン・ハイドはヨーク公ジェイムズ(のちのイングランド国王ジェイムズ2世)と結婚し、後のイングランド女王メアリー2世アンを儲けている(家族)。

経歴

生い立ち

1626年のエドワード・ハイドを描いた肖像画(Cornelis Janssens van Ceulen画像)

1609年2月18日ウィルトシャーディントン英語版の地主で庶民院議員を務めたヘンリー・ハイド英語版とその妻メアリー(トローブリッジ英語版の衣服商人エドワード・ラングフォードの娘)の子としてディントンに生まれた[1][2][3]

父や家庭教師から古典の教育を受けた後、1623年に13歳でオックスフォード大学マグダリン・ホールに入学し、1626年に卒業した[1][3]。裁判官の伯父ニコラス・ハイド英語版の後援で1625年ミドル・テンプル法学院に入学し[4]1633年には法廷弁護士資格を取得した[3]

1634年7月に少額債権裁判所主事・造幣局長官トマス・エイルズベリーの娘フランセスと結婚。同年に父ヘンリーが死去し、ハイド家の跡を継いだ。父は遺言で「国の法律や自由を自らの利益や君主の意思のために犠牲にしてはならない」と述べたという[4]

反専制の進歩派となる

第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリー(ジョン・ホスキンズ画)

岳父(妻の父)トマス・エイルズベリーの縁故で国王チャールズ1世の側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの知遇を得、彼から法律家としての活動を評価されたのがきっかけで裁判官や著名な法律家からの依頼が続々とくるようになった。民事訴訟裁判所文書保管係にも任命された[4]

当時、第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリーの屋敷ではジョン・セルデンなど当代一流の進歩派の知識人が集まるクラブが定期的に開かれており、ハイドもそこに出入りするようになった。ここでの法律・哲学・宗教などの討議を通じて、進歩派の論客としての研鑽を積んだ[5]

1629年以来11年にもわたって国王チャールズ1世は議会を招集しようとせず、議会立法ではなく、枢密院令に頼った政治を展開し、国民の民意を無視し続けていた。その結果、初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースやロードなど国王近臣による強権的統治が行われていた。ハイドら進歩派は王権神授説を批判して法の支配を唱え、国王の権限が法の範囲を超えて拡大されることに反対していたので、このような状況を批判していた[6]

庶民院議員として政界入り

第一次主教戦争後、スコットランドとの戦費を渇望するチャールズ1世は、ストラフォード伯の助言を容れて1640年4月13日に議会を招集し(短期議会)、臨時課税を求めた[7]。この議会の選挙でハイドはウットン・バセット選挙区英語版から選出されて庶民院議員となっている[8]

議会は国王の課税要請に応える前に1629年から続く議会軽視の親政に苦情を申し立て、親政以前の政治慣行の復活を要求した。ハイドもフォークランド子爵やセルデンの理論に従って法の支配、国王と議会の権力の均衡、プロテスタント信仰に基づく強力な国教会の確立を要求した[8]。国王は貴族院取り込みを図って乗り切ろうとしたが、庶民院の反発が静まらなかったため、招集からわずか3週間後の5月5日に議会は解散された[9]。この直前にハイドは、ロードのもとを訪れて議会の続行を国王に助言するよう求めたが、ロードは聞き入れなかった[10]

1640年8月末にはスコットランド軍がイングランドへ侵攻し、ニューカッスルを占領した(第2次主教戦争)。軍隊を組織するお金がないチャールズ1世は、スコットランド軍撤兵の条件として5万ポンドの賠償金をスコットランドに支払うリポン条約の締結を余儀なくされた。チャールズ1世はその賠償金も用意できないため、更に弱い立場で議会を再招集する羽目になった(長期議会[11]。新議会は9月に選挙の告示があり、10月に総選挙が実施された[11]。ハイドはこの議会でサルタッシュ選挙区英語版から選出されて庶民院議員となっている[2]

半年の間に世論の空気は変わっており、国王とその側近に対する信頼は完全に消えていた[11]。そのため前議会が穏便に親政前に戻ろうとしていたのに対し、新議会は親政の責任追及の機運が高かった[12]。親政下で逮捕された政治犯が次々と釈放されるとともに国王側近に厳しい責任追及が行われることになった[13]

ハイドも専制政治を厳しく追及し、「紋章院裁判所の活動を調査する委員会」、「船舶税を支持した裁判官を調査する委員会」、「国政をゆがめた裁判所の活動を調査する委員会」「大権裁判所を検討する委員会」「今後の議会のあり方を検討する委員会」「教会の改革を検討する委員会」など記録に残るだけでも7つの委員会に委員として所属して親政下の圧政の調査を行っている[14]

急進的進歩派を懸念

1641年2月には国王側近ストラフォード伯に対する弾劾裁判が開始された。ハイドも「ストラフォードを告発する文書作成委員会」の委員となった。ハイドにとってストラフォード拍は北部評議会英語版の権限を拡大してその地域を「専制的権力の海に沈めた」張本人であるため、容赦なく追及した[15]

だが、同時にこの頃からハイドは急進的進歩派に不安を抱くようになった。ストラフォード弾劾の最中、何千人ものロンドン市民がウェストミンスターに押しかけてきてストラフォード処刑を求める示威行動を起こし、処刑への同意をためらう国王や貴族院議員を罵倒していたが、ハイドはそれを見て嫌悪した。後世ハイドはこの時の市民の示威行動を「前代未聞の不敬」「反逆的な暴動」と批判している[15]

議会は5月12日にストラフォード伯を処刑するとともに、1640年から1641年にかけて議会権限を回復・強化する法案を次々と可決させた。議会の許可なき課税として批判されていた船舶税英語版は不法と決議され、議会の同意なく国王が関税をかけることを禁じるトン税・ポンド税法英語版も可決された。3年議会法英語版により国王の解散詔書がなくても議会が3年以上休会したら解散総選挙が行われる旨も定められた。星室庁裁判所、北部評議会、高等宗教裁判所など国王専制政治の象徴となっていた大権裁判所も廃止された。国王もこれらの改革に同意している[16][17]

親政前に機能していた政治の慣行(国王と議会の均衡)の復活を目指すハイドやフォークランド子爵にとっては改革はこれで終了であって、国王と議会の相互信頼の回復が今後の課題だった[18]。ところがジョン・ピムら急進的進歩派の議員にとっては改革はまだ終わっておらず、国王大権の制限が次なる課題だった。そして11月には国王が持つ枢密顧問官をはじめとする官吏任免権を議会の統制下に置く内容の『議会の大諫奏』を提案した。ハイドたち穏健派は国王大権の侵害としてこれに強く反対した。また急進派は大諫奏を議会外の大衆に公表するつもりであったが、ハイド達は既存の社会秩序が崩れるとして議会外大衆への働きかけに反対した。この大諫奏については2週間ほど議会内で議論が行われたが、結局11月23日に僅差で可決されている。これにより議会内の穏健派と急進派の分裂が決定的となった[19][20]

立憲的国王派として

チャールズ1世を描いた肖像画(アンソニー・ヴァン・ダイク画)

これ以降ハイドら穏健進歩派は国王と近しくなり、「立憲的国王派」と呼ばれるようになる[21]

ハイドは急進的な議会外大衆の圧力から議会を守ると同時に国王に対してもこれまで議会が制定した法律を遵守する姿勢を示すことで専制を復活しようとしているのではないかという国民の不信を払拭するよう努めるべきであると助言した[22]

だが国王はこの助言を聞き入れなかった。1642年1月3日には強硬王党派の初代ブリストル伯爵英語版ジョン・ディグビーにそそのかされた国王がピムら急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗する事件が発生した[22][23]

この事件に対する憤慨により議会は完全に急進派(特にピム)が牛耳るところとなった。これまで国王寄りだった貴族院ももはや庶民院の急進派に逆らわなくなった。立憲国王派の肩身は狭くなったが、ハイドは国王と議会の和解を諦めず、穏健派の再結集を狙うとともに国王にロンドンから離れないよう助言した[24]。しかし身に危険を感じた国王はイングランド北部のヨークへ逃亡し、そこを王党派の拠点にし始めた[23]。5月半ばにはハイド追及の機運も高まり、逮捕を恐れたハイドはヨークの国王のもとへ逃れた[24]

1642年6月に議会はヨークにいる国王に対して19か条を送り、国王の高官・裁判官任免権、軍の統帥権、教会改革権を議会に譲渡することを要求した。国王はこれを拒否し、ハイドとフォークランド子爵に反論文を作成することを命じた。2人はその反論文の中で次のように論じて議会主権を拒否して立憲王政の必要性を訴えた。「我々の先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制(貴族院)、民主制(庶民院)の3つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が3つの身分間に存在する限り、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築き上げてきた。君主制の長所は一人の君主のもとに国民を統合し、その結果外敵の侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国の最も有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」[25]

この反論文を宣戦布告と見た議会は7月初めにも第3代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーを指揮官とする議会軍を組織し、対する国王も8月にノッティンガムに国王軍の集結を命じた。こうして内乱は不可避の情勢となった[23]

清教徒革命をめぐって

国王から強く信任されるようになり[26]1643年2月には財務大臣枢密顧問官(PC)に任じられた[25]

ハイドら立憲国王派は内乱勃発後も「議会に規制された王政」の存続を旗印に議会との和平の道を探っていた。王党派の本拠地オックスフォードに議会派の和平派を迎え、彼らと交渉を行った。その中で議会派は国王が軍の統帥権を放棄すれば和平は成立しうるとの見解を示した。ハイドはさっそく国王にその旨を伝え、「陛下の置かれている苦境は、戦争の継続によって改善される見込みはありません。一方議会の和平案は陛下を少しも傷つけないばかりか、著しい利益を与えるものです」と助言してこの和平案を呑むべきと進言したが、国王は王妃ヘンリエッタや強硬派の側近にそそのかされてこの和平案を蹴ってしまった。後世ハイドはこの時の国王の態度を「取り返しのつかない決定」と評した。ハイドの盟友フォークランド子爵はこの国王の態度に失望して1643年9月20日第一次ニューベリーの戦い英語版において自殺同然の戦死をしている[27]

1643年12月にハイドの助言を容れて国王はオックスフォードに議会を招集すること、ウェストミンスターの議会を離れてこの議会に参加した議員には例外なく恩赦を与えることを宣言した。ハイドの狙いはオックスフォードとウェストミンスター双方の穏健派(立憲国王派と議会和平派)の合流だった。1644年1月に召集されたオックスフォード議会は40名の貴族院議員と100名の庶民院議員が出席し、ウェストミンスター議会との和平を追求したものの、成果のないまま終わった。ハイドの努力はまたも徒労に終わった[27]

ハイドが最後に和平交渉に加わったのは1645年1月から2月にかけてのアックスブリッジでの会談だったが、この時には議会派は完全に抗戦派に牛耳られており、和平派はもはや議会内で力を持っていなかったため、実を結ばなかった[28]

皇太子の亡命宮廷で

1649年から1653年ころに描かれたハイドの肖像画(Jacob van Reesbroeck)
1653年頃のチャールズ2世を描いた絵画(フィリップ・ド・シャンパーニュ画)

国王軍の戦局が悪化の一途をたどり、交渉による和解の道も期待しえなくなる中の1645年3月、最悪の事態を覚悟したチャールズ1世は、ハイドに皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)を託し、オックスフォードから離れて大陸へ亡命するよう命じた[28]

以降ハイドは15年にわたる亡命生活を送ることになった。皇太子はパリに亡命宮廷を立てたが、ハイドはしばらくの間、それに積極的には参加しなかった。3年にわたってジャージー島で過ごして国王から依頼された歴史書(『イングランドの反乱と内戦の歴史英語版』)の執筆活動に励んだ[29]。1648年6月にチャールズ皇太子がイングランド侵攻を企てた際には、それを補佐するべくジャージー島を離れたが、航海中に海賊に襲撃されたため皇太子のもとに参じることができなかった。また皇太子の蜂起は結局失敗に終わった[30]

その後、ハイドは亡命宮廷から離れたオランダで数年を過ごした。当時のハイドは亡命宮廷内に大した力を持っていなかった。そこを支配するのは王母ヘンリエッタをはじめとする王族たちであった。ハイドが亡命宮廷内で力を持つようになったのは、1651年11月にチャールズがスコットランドでの旗揚げに失敗してパリに逃げ帰ってきた後のことである。この直後にチャールズはハイドを召喚し、以降彼を側近として使うことにした。1654年には「国王秘書長官」、1658年には「大法官」に任じられた[31]

国王側近となったハイドは亡命宮廷がイングランド国民の心情から離反した独りよがりな存在にならないよう努めた。例えばチャールズが後見裁判所英語版を復活させようと企むとそれを思いとどまらせたり、王母ヘンリエッタがカトリックに対する罰則を排することを約し、さらにチャールズをカトリックに改宗させることでカトリックの支持を得ようと主張するとそれを阻止することにも努めた。クロムウェル打倒のためにイングランド・スコットランド内の不満分子と取引するという陰謀も積極的には行わなかった。長期議会冒頭で制定された一連の法律で規制された王政とイギリス国教制を復活させることがハイドの目的であり、これらの政策はそれに有害と考えたからである[30]

そして「我々がじっと待つことができなければ、神はやってこられないだろう」という心境のもと、共和国の自壊の日を辛抱強く待った[32]

王政復古

1658年9月のクロムウェルの死去で共和国体制が動揺するとハイドは積極的に共和国内の分裂を促す工作を開始した。共和国の混乱が深まるにつれてハイドのもとには共和国政府の実務家からも国王に忠誠を誓う旨の書簡が送られてくるようになった[33]

とりわけカギを握るのはスコットランドに統制された軍隊をもつジョージ・マンク(後の初代アルベマール公)であった。マンクは「自由な議会(長期議会)」を求める世論に支えられて1660年2月3日にロンドンに入城していた[34]。この時にはマンク将軍はまだ王政復古を明言しなかったが、選挙が王党派の優位で進むのを見て、ハイドとの交渉に応じ、その中でマンクは「広範囲な恩赦を出すこと、国王と教会の土地について議会の決定を受け入れること、良心の自由を保障すること」を王政復古の条件にあげた。これはハイドの目指すところと全く同じであり、ハイドはただちに受け入れを表明した[35]

ハイドは4月にブレダ宣言を起草し、国王にこれを発布させた。これは、議会で例外とされた者を除き、良き臣民としての服従に立ち返る人々全員に無償の恩赦を与え、革命中に大逆罪を犯していたとしても不問とすること、また革命の間に生じた土地所有権の変更については全て議会の決定に委ねることを約束していた。処罰への恐れが王政復古への抵抗を生まないようにするため、また過去の行為の追及によって不和や分裂が生じないようにするためだった。この文書は王党派のジョン・グレヴィルを通じて庶民院、貴族院、陸軍、海軍、ロンドン市に配られた[36]

1660年4月25日に召集された仮議会は王党派が多数を占めており、ブレダ宣言の受け入れを決議した。そして仮議会の要請に基づいて5月29日にチャールズ2世はハイドを伴ってロンドンへ帰還した[37][38]。これ以降ハイドは国王最大の側近としてイングランド国政を主導する人物となった。枢密院メンバーは、ハイドはじめ国王とともに亡命していた王党派9名、第4代サウサンプトン伯爵トマス・リズリーら共和政期も国内とどまっていた王党派7名、第2代マンチェスター伯爵エドワード・モンタギュー長老派7名、マンクやアンソニー・アシュリー=クーパー(後の初代シャフツベリ伯爵)ら共和政政府の高官4名という派閥横断的な構成となった[39]。しかしハイドは、国王秘書長官ニコラス、大蔵卿サウサンプトン伯、王室家政長官初代オーモンド公爵ジェイムズ・バトラー英語版など枢密院の中心人物から支持を得ていたので、枢密院を強力に掌握していた[40]

国王より王政復古の労をねぎらわれ、1660年11月にはハイド男爵、1661年4月にはクラレンドン伯爵に叙せられている[2][3]1662年には改めて大法官に任じられ、ロンドン中心部のピカデリーに広大な土地を与えられた[40]

立憲王政体制を目指して

クラレンドン伯が目指す政治体制はもちろん国王親政ではなく、長期議会初期にクラレンドン伯含むほぼ全議員の賛成により制定された一連の法律によって制限された立憲王政である。これらの法律を王政復古政府はほとんど受け継いでいる。各種の大権裁判所を復古させることもなかった[41][42]

1640年11月に長期議会が招集されてから1642年2月までに制定された法律は国王の同意を得て成立しているからすべて有効であり、それ以降の法律は国王の同意を得ずに議会が単独で決めた物なので「条例(ordinance)」にすぎず、無効というのが王政復古政府の基本的な立場であった[43]

ただし王政復古政府が長期議会初期の法定で受け継がなかったものが2つある。1つは3年議会法である。これは議会が3年以上休会した場合には議会は解散されたものとみなして「国王の解散詔書なしに」総選挙が実施されると定めた法律である。チャールズ2世は自分の詔書をないがしろにしているこの法律を嫌悪し、1664年3月に騎士議会の王党派に働きかけてこれを改正させ、「国王の解散の詔書なしに」の一文は削除されることになった。現実的には王政復古政府が3年以上も議会を開かないで統治を行うことはまず不可能だったであろうが、国王としてはいざという時の議会招集・解散権を自分の手に残しておきたかったものと思われる[44]

もう一つは聖職者議席剥奪法である。これにより主教たちが貴族院に参加できなくなっていたが、1661年5月に召集された騎士議会の王党派国教徒たちによって真っ先に廃止され、主教たちは再び貴族院に議席を持つことになった(以降現代まで主教たちは貴族院に議席を保有している)[45]

逆に1642年以降の国王の承認のない法律による制度でも王政復古政府が引き継いだものもある[39]。クラレンドン伯が長期議会初期の立法を原点としながらも、共和政の良き遺産は受け継ぐことをためらわない人物だったことによる[46]

たとえば国の財政について国王大権に基づく課税を復活させず、共和政期に確立された課税制度を引き継いだ。これによりイギリスは国王の私財から統治の費用を賄うという封建的財政を脱皮し、恒常的な租税収入により国民が国家財政を支えるという近代的な租税国家となった。国王にはその中から経費を王室費として与えることになった[46][47]

また大権裁判所のうち後見裁判所は1646年に廃止されたが、この廃止は引き継いだ(ただし国王にその代償の金銭を支払った)[39]。「クロムウェルの航海条例」と呼ばれる航海奨励法も引き継いだ。これはイギリスが世界中に植民地を獲得して大英帝国を建設する布石となる[39]

復讐の抑止

1666年に描かれたクラレンドン伯(デイヴィッド・ローガン英語版画)

王政復古を安定させるためにクラレンドン伯が重視したのが革命派に対する復讐を抑止することだった。ブレダ宣言に基づき、1660年8月には仮議会で大赦法が決議され、チャールズ1世弑逆者(チャールズ1世処刑執行令状署名者)や共和国指導者などを例外として革命期の行動について原則免責となった[38][37]

これにより弑逆者は既に死亡した者を除き、全員が裁判にかけられ、そのうち29名に死刑判決が下った(実際の死刑は10名で残り19名は終身刑に減刑された)[48]。また弑逆者以外ではヘンリー・ベインが「危険な共和主義者」として処刑された[49]。クラレンドン伯と国王は復讐をこれにとどめようとした[50]。1661年に騎士派(王党派)が多く選出された騎士議会英語版で共和国指導者13名が新たに厳罰リストに加えられた際にもクラレンドン伯は国王とともにこの法案の通過を阻止している。王政復古を失敗させないためには「過去を忘れる」ことが肝要なのであった[38]

また共和政期の土地変動については、共和政府が没収した教会領・王領・王党派所領は、その購入者への正当な補償もなしに無条件回復としたが、共和政府に「悪意を抱く者」として課せられた罰金を支払うために自発的に土地を売ったケースは、返還なしとした。共和派・王党派双方から一定の支持を得られるようにした妥協策であった[50]。しかし共和政期に土地売却に追い込まれた王党派は、王への忠誠の見返りがないとしてこれに不満を抱いた。彼らは大々的な復讐政策を実行して、革命派の土地を奪いとり、自分たちの物としたがっていた。これがクラレンドン伯に対する最初の不満となった[50]

宗教政策

復古王政政府のアキレス腱となったのは宗教政策だった。ブレダ宣言で宗教についても寛容の精神がうたわれていたのに、議会の国教徒の王党派に押されて宗教には非寛容な姿勢で臨むことになったからである[51]

1660年10月に国王は「ウスタ・ハウス宣言」を出して長老派も含めた緩やかな国教会体制を作りたいという希望を表明したが、仮議会内の王党派は、厳格な国教会体制を求めてこれに反発した。以降宗教政策を国王大権として宗教的寛容を唱える国王と、国教会を国家統一のきずなとして守り抜こうとする議会の対立は、チャールズ2世、つづくジェームズ2世の治世でも続き、名誉革命の伏線となる[52]

1661年に召集された騎士議会は仮議会以上に強硬な国教会派にして郷士支配的な者たちの党派(後のトーリー党)が多数派だった。そのため革命への報復感情もあってピューリタン弾圧の機運が強かった[50][53]。国教会と長老派の会談も不調に終わり、復活した聖職会議において長老派をはじめとするピューリタンは「非国教徒」として国教会の外に排除された。これに呼応した騎士議会がクラレンドン伯や国王の意に反してピューリタン弾圧の法律を次々と制定したのである[42]

1661年には非国教徒が都市自治体の役職に就くことを禁じる自治体法が制定された。1662年には礼拝統一法が制定されて9000人の国教会聖職者のうち2000人が聖職禄をはく奪された。さらに1665年までに「秘密礼拝集会禁止法」と「5マイル法」が制定された。これら非国教徒弾圧法規は彼の名をとって「クラレンドン法典」と呼ばれている。ただしクラレンドン伯自身はブレダ宣言に象徴されるように不寛容政策に反対する人物であり、この一連の弾圧法規にも批判的であった[42][54]

外交政策

1662年には大蔵卿サウサンプトン伯の進言を受け入れて、膨大な維持費がかかるダンケルクの売却を行った。有利な条件で売却したにもかかわらず、フランスから賄賂をもらってフランスにダンケルクを売り飛ばしたと噂され、商人を中心としたロンドン市民から強い反発を受けた[55]

1665年には貿易上のライバルであるオランダとの間に英蘭戦争が勃発した。クラレンドン伯はこの戦争に反対していたが、王弟ヨーク公ジェイムズ(後のジェイムズ2世)をはじめとする主戦派に押し切られた[55]。この戦争はフランスやデンマークも敵に回す大戦となり、財政を大きく疲労させた。戦局もフランスの支援を受けたオランダが優位に進め、1667年にはオランダ軍がチャタム海軍基地を襲撃するまでになった。議会はこの原因を政府の財政運営不備に求め、クラレンドン伯批判を強めた[56]

失脚

1665年にはペストの流行、1666年にはロンドン大火があり、その不満と批判もクラレンドン伯に向けられた[56][55]

クラレンドン伯は、議会からも民衆からも嫌われ、次第に枢密院内でも孤立するようになった。すでにニコラスは老齢で引退しており、オーモンド公は総督としてアイルランドに赴任していた。サウサンプトン伯も財政上の失敗と老齢で影響力を落としていた。代わりに枢密院内で台頭していたのが反クラレンドン伯派の初代アーリントン伯爵ヘンリー・ベネットだったためである[57]。また国王の態度も冷たくなっていた。チャールズ2世にとってクラレンドン伯は少年時代からの厳父・教師のような存在であったが、成人してからも叱責や諫言をやめないので次第に煩わしく思われるようになっていた[58]

そして1667年8月、議会で政府批判が高まるのを抑えるため、チャールズ2世は議会招集前にクラレンドン伯を辞職させようと決意。国王の圧力を受けて8月30日に大法官を辞職した[58][56]

亡命と死去

1667年10月に招集された議会は第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの主導でクラレンドン伯を大逆罪で告訴した。国王もそれを公式に支持したことを知ったクラレンドン伯は身の危険を感じて1667年11月29日にイングランドを離れて再びフランスに亡命した[59][60]。クラレンドン伯失脚後の国政は国王チャールズ2世とその寵臣集団「Cabal(カバル)」によって主導されていくことになる[56]

フランス亡命後、クラレンドン伯は執筆活動に戻り、『イングランドの反乱と内戦の歴史』を完成させた。この書は内乱期の人々の思想や行動を王党派・議会派の区別なく公正に描き、今日歴史書としても文学書としても高い評価を受ける古典となっている[61]

1674年12月19日ルーアンで死去。爵位は長男ヘンリー・ハイド英語版に継承された。また次男のローレンス・ハイドも後にロチェスター伯爵に叙せられている[2][3]

人物・評価

19世紀的ホイッグ史観においてはピューリタン革命が進歩の重要な契機と評価されているので、王政復古期を代表する政治家クラレンドン伯は反動分子として扱われ、評価は芳しくない[62]

20世紀の歴史家G.M.トレヴェリアンもクラレンドン伯について、長期議会初期の1640年に法定された「国王と議会の均衡」の概念を「政治的英知の頂点、国政の最終的英知」と信じ込み、それに捕らわれ続けていた後ろ向きの政治家とし、すでに立法府と行政府の均衡だけでは足りず、議会が国王とその政府を支配下に置く議院内閣制に移行せねばならない時期が来ていたことを理解できなかったのが彼の限界としている[63][64]

同時にトレヴェリアンはクラレンドン伯が革命派への復讐を許さなかったことを高く評価し、そのおかげでイギリス王座は全ての党派から受け入れられる国民的制度として再び定着したとしている[50]

栄典

爵位

1660年11月3日に以下の爵位を新規に叙された[2][3]

  • ウィルトシャー州におけるヒンドンの初代ハイド男爵 (1st Baron Hyde, of Hindon in the County of Wiltshire)
(勅許状によるイングランド貴族爵位)

1661年4月20日に以下の爵位を新規に叙された[2][3]

(勅許状によるイングランド貴族爵位)
  • オックスフォード州における初代コーンベリー子爵 (1st Viscount Cornbury in the County of Oxford)
(勅許状によるイングランド貴族爵位)

家族

1632年にウィルトシャーの有力者ジョージ・アイリッフェの娘アンと結婚したが、彼女は結婚から5か月後に病死した[4][3]1634年には少額債権裁判所主事・造幣局長官の初代準男爵トマス・エイルズバリー英語版の娘フランセスと再婚し[4][3]、彼女との間に以下の6子を儲ける[2][3]

脚注

出典

  1. ^ a b 塚田富治 2001, p. 181.
  2. ^ a b c d e f g Heraldic Media Limited. “Clarendon, Earl of (E, 1661 - 1753)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j Lundy, Darryl. “Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon” (英語). thepeerage.com. 2015年12月25日閲覧。
  4. ^ a b c d e 塚田富治 2001, p. 182.
  5. ^ 塚田富治 2001, p. 183-185.
  6. ^ 塚田富治 2001, p. 185.
  7. ^ 今井宏(編) 1990, p. 189-191.
  8. ^ a b 塚田富治 2001, p. 186.
  9. ^ 今井宏(編) 1990, p. 191.
  10. ^ 塚田富治 2001, p. 186-187.
  11. ^ a b c 今井宏(編) 1990, p. 192.
  12. ^ 塚田富治 2001, p. 187.
  13. ^ 今井宏(編) 1990, p. 193.
  14. ^ 塚田富治 2001, p. 187-188.
  15. ^ a b 塚田富治 2001, p. 188.
  16. ^ 浜林正夫 1981, p. 25-26.
  17. ^ 塚田富治 2001, p. 128-129/188-189.
  18. ^ 塚田富治 2001, p. 188-189.
  19. ^ 塚田富治 2001, p. 189-190.
  20. ^ 今井宏(編) 1990, p. 194-195.
  21. ^ 今井宏(編) 1990, p. 195.
  22. ^ a b 塚田富治 2001, p. 190-191.
  23. ^ a b c 今井宏(編) 1990, p. 196.
  24. ^ a b 塚田富治 2001, p. 191-192.
  25. ^ a b 塚田富治 2001, p. 193.
  26. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 148.
  27. ^ a b 塚田富治 2001, p. 194.
  28. ^ a b 塚田富治 2001, p. 195.
  29. ^ 塚田富治 2001, p. 195-196.
  30. ^ a b 塚田富治 2001, p. 196.
  31. ^ 塚田富治 2001, p. 197.
  32. ^ 塚田富治 2001, p. 198.
  33. ^ 塚田富治 2001, p. 199.
  34. ^ 今井宏(編) 1990, p. 233.
  35. ^ 塚田富治 2001, p. 199-200.
  36. ^ 塚田富治 2001, p. 200-201.
  37. ^ a b 今井宏(編) 1990, p. 240.
  38. ^ a b c 塚田富治 2001, p. 201.
  39. ^ a b c d 浜林正夫 1981, p. 28.
  40. ^ a b 塚田富治 2001, p. 205.
  41. ^ 塚田富治 2001, p. 202.
  42. ^ a b c 今井宏(編) 1990, p. 241-242.
  43. ^ 浜林正夫 1981, p. 25.
  44. ^ 浜林正夫 1981, p. 26-27.
  45. ^ 浜林正夫 1981, p. 27-28.
  46. ^ a b 塚田富治 2001, p. 203.
  47. ^ 今井宏(編) 1990, p. 241.
  48. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 628.
  49. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 781.
  50. ^ a b c d e トレヴェリアン 1974, p. 177.
  51. ^ 今井宏(編) 1990, p. 240/242.
  52. ^ 今井宏(編) 1990, p. 240-241.
  53. ^ 今井宏(編) 1990, p. 242.
  54. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 149.
  55. ^ a b c 塚田富治 2001, p. 206.
  56. ^ a b c d 今井宏(編) 1990, p. 244.
  57. ^ 塚田富治 2001, p. 207.
  58. ^ a b 塚田富治 2001, p. 208.
  59. ^ 塚田富治 2001, p. 209.
  60. ^ 今井宏(編) 1990, p. 244-245.
  61. ^ 塚田富治 2001, p. 209-210.
  62. ^ 塚田富治 2001, p. 212.
  63. ^ トレヴェリアン 1974, p. 176.
  64. ^ 塚田富治 2001, p. 212-213.

参考文献

  • 今井宏(編)『イギリス史〈2〉近世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4634460201 
  • 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 かれらは我らの同時代人』みすず書房、2001年(平成13年)。ISBN 978-4622036753 
  • トレヴェリアン, ジョージ 著、大野真弓 訳『イギリス史 2』みすず書房、1974年(昭和49年)。ISBN 978-4622020363 
  • 浜林正夫『イギリス名誉革命史 上巻』未来社、1981年(昭和56年)。ISBN 978-4624110550 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478 

外部リンク

イングランド議会 (en
先代
1629年から議会停会
シャフツベリ選挙区英語版選出庶民院議員
1640年
同一選挙区同時当選者
ウィリアム・ウイテカー英語版
次代
ウィリアム・ウイテカー英語版
サミュエル・ターナー英語版
先代
1629年から議会停会
ウットン・バセット選挙区英語版選出庶民院議員
1640年
同職:トマス・ウィンドバンク英語版
次代
ウィリアム・プレイデル英語版
エドワード・プール英語版
先代
ジョージ・ブラー英語版
フランシス・ブラー英語版
サルタッシュ選挙区英語版選出庶民院議員
1640年1642年
同一選挙区同時当選者
ジョージ・ブラー英語版
次代
ジョン・シン
ヘンリー・ウィリス
公職
先代
サー・ジョン・カルペパー英語版
財務大臣
1643年–1646年
次代
先代
空席
最後の在任者
サー・エドワード・ハーバート英語版
大法官
1658年–1667年
次代
オーランド・ブリッジマン英語版
(Lord Keeper)
先代
初代コッティントン男爵英語版
(Lord High Treasurer)
第一大蔵卿英語版
1660年
次代
第4代サウサンプトン伯爵
(Lord High Treasurer)
先代
空位時代
財務大臣
1660年–1661年
次代
サー・アンソニー・アシュリー=クーパー
学職
先代
第2代サマセット公爵
オックスフォード大学学長英語版
1660年–1667年
次代
ギルバート・シェルドン英語版
名誉職
先代
第4代フォークランド子爵英語版
オックスフォードシャー知事英語版
1663年–1668年
次代
第2代セイ=セレ子爵英語版
先代
空席
最後の就任者
初代オーモンド公爵英語版
王室執事長
1666年
次代
空席
次の就任者
初代フィンチ男爵英語版
先代
第4代サウサンプトン伯爵
ウィルトシャー知事英語版
1667年–1668年
次代
初代エセックス伯爵英語版
イングランドの爵位
新設 初代クラレンドン伯爵
1661年1674年
次代
ヘンリー・ハイド英語版
初代ハイド男爵
1660年1674年