ロンドン大火
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ロンドン橋(左)、ロンドン塔(右)
遠くに見えるのがセント・ポール大聖堂

ロバート・チャプマン著の “Book of Days” より
ロンドン大火(ロンドンたいか、The Great Fire of London)とは1666年にロンドンで起こった大火のこと。これによって中世都市ロンドンは焼失し、木造建築の禁止などからなる建築規制やセント・ポール大聖堂をはじめとする教会堂の復興が行われた。
概要
[編集]9月2日の午前1時過ぎに、プディング通りにあるパン屋のかまどから出火し、9月5日まで4日間にわたって燃え続け[1]、ロンドン市内の家屋のおよそ85%(1万3200戸)が焼失した。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。このように燃え広がった原因は大火以前のロンドン市内では家屋のほとんどが木造であり、街路も狭かったためである。
- 大火により焼けた地域の地図
- ロンドン大火の音楽
- ロンドン大火の音楽(楽譜)
火元について
[編集]火元について、当時はカトリック教徒か外国人による放火説が信じられ、犯行を自供したフランス人が処刑された。その数年後、処刑されたフランス人が、事件当時ロンドンにいなかったことが判明し、事件は迷宮入りした。
火元はパン屋だったが、パン屋の店主、トマス・ファリナーは自分の過失を認めなかった[1]。当時の英国はオランダと戦争中で、海軍から大量の堅パンの注文を受けたトマスの店は、深夜まで操業していた。
火災から320年経過した1986年、パン屋職人ギルドが、トマス・ファリナーが経営するパン屋の火元不始末が原因であったことを認めて謝罪した[2]。
復興
[編集]建築家クリストファー・レンやジョン・イーヴリンは大火後直ちに壮大な都市計画を構想したが、大地主などの反対にあい実現しなかった[3](ただし、実際は反対はなく、そもそも検討すらされていなかったという説もある[4])。しかし、レンの尽力によって1667年には「再建法」が制定される。家屋は全て煉瓦造または石造とされ、木造建築は禁止、また道路の幅員についても規定された。ロンドンの復興にはノルウェーの木材が輸入され使用された。
地下鉄モニュメント駅近くにはロンドン大火記念塔がある。高さ202フィート(約62メートル)で、この塔を東に倒すと出火元だったプディング・レーンにあるパン屋までの距離になる[1][5]。復興を記念してレンとフックの設計により1677年に建てられた。
影響
[編集]当時ロンドンでペストが流行していたが(ロンドンの大疫病)、この大火によって多くの菌が死滅し、感染者低減の一因になったとする説もある。
さらにイギリスの医師・経済学者であるニコラス・バーボンによって、世界初の火災保険もロンドンで生まれることになった(1681年)。
その他
[編集]- 1666年をアヌス・ミラビリス(驚異の年、ラテン語: Annus Mirabilis)と呼ぶことがある。前年からのペストの流行に加えて、第2次英蘭戦争のノースフォアランド沖の海戦(6月)、ロンドン大火と大きな事件が続いたためで、ジョン・ドライデンの叙事詩「驚異の年」に基づく。(同じ頃、ペストによりケンブリッジ大学が閉鎖されたため、ニュートンは故郷に戻り、微積分法、万有引力の法則などの研究を進めた。これによって「驚異の年」と呼ぶこともある)
- ロンドンの都市を大きく変えたこの大火を、日本では「世界の三大大火」の一つなどと数えることがある(後の2つはローマ大火(64年)、明暦の大火(1657年)あるいはハンブルク大火(1842年)、シカゴ大火(1871年)、サンフランシスコ地震に伴う大火(1906年)などが挙げられる)
脚注
[編集]- 1 2 3 中村 2014, p. 124.
- ↑ “第128回 ロンドン大火と明暦の大火”. 英国ニュースダイジェスト (2018年8月16日). 2026年4月28日閲覧。
- ↑ この他にもロバート・フックなどが都市計画案を提案している。ロンドンのギルドホール博物館には、これらを含めて5つの都市計画案が所蔵されている。
- ↑ 『ロンドン=炎が生んだ世界都市:大火・ペスト・反カソリック』(講談社、1999年 見市雅俊)によると、王権側は興味を示したが議会では議論された記録が見つかっていない。
- ↑ “第9回 シティの小便小僧”. 英国ニュースダイジェスト (2026年4月28日). 2026年4月28日閲覧。