長期議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
長期議会

長期議会(ちょうきぎかい、英語:Long Parliament)は、スコットランドの反乱に敗れたイングランド王兼スコットランド王チャールズ1世が賠償金を捻出するため1640年11月に召集した議会である。ここで議会派王党派が対立し清教徒革命イングランド内戦)を招いた。オリバー・クロムウェルにより1653年4月20日に解散。

また、長老派プライドのパージで追放した独立派英語版が議席を独占した1648年12月以降(すなわちイングランド共和国体制下での状態)を残部議会(ざんぶぎかい)もしくはランプ議会と呼ぶ。

共和国末期の1660年2月21日に長老派が復帰したことでもう1度召集されたが、3月16日に解散した。

短期議会[編集]

1629年、チャールズ1世は国王大権を盾に権利の請願を事実上廃止し、抗議する議会を解散した。その後、チャールズ1世は親政を行うこととなる(専制の11年)。

1639年にスコットランドと第1次主教戦争が起こる。結果として両軍は戦うことなく和睦したが、その後も対立は続いたために再び戦争に至ることが予期されていた。当時のイングランドは深刻な財政問題に悩まされていたが(そもそも国王と議会の対立の一因でもあった)、第1次の戦費と合わせ財政問題は限界に達しており、1640年4月、チャールズ1世は来る戦争の予算を得るために親政を取り止め、議会を召集した。しかし、国王と議会の対立はより深刻な物となっており、わずか3週間で解散したため、これを短期議会と呼ぶ。

長期議会[編集]

その後、同年8月に第2次主教戦争が起こるが、戦費が底を付いた国王軍は寡兵に過ぎず敗北した。結果、駐留軍維持費(事実上の賠償金)などが課せられ、財政悪化に拍車をかけた。そこでチャールズは予算を得るため、同1640年11月に再び議会を召集した。この議会は1653年4月にクロムウェルによる武力解散まで続いたので長期議会と呼ばれる[1]。イングランドとウェールズから選出された、約500名からなる庶民院議員を中心としたものだった[1]

長期議会はチャールズ1世の意向とは裏腹に、11月に開会されるや、さまざまな改革を断行した[1]。11月から12月にかけて専制政治の支柱ともいうべきストラフォード伯トマス・ウェントワースカンタベリー大主教ウィリアム・ロードを逮捕し、ストラフォード伯を翌1641年5月に、ロードを1645年1月に処刑した[1]

続いて専制政治を阻止し、絶対王政の統治機構を打破する諸法を制定した[1]。1641年2月、この後、少なくとも3年に1回は議会を召集すべきことが定められ、同年6月には議会の同意を得ない課税は禁止された[1]。さらに、7月には弾圧機関とみなされていた星室裁判所および高等宗務官裁判所が廃され、8月には船舶法の不法性もまた宣言された[1]。これらは、いずれもほぼ満場一致で可決された[1]

しかし、秋あたりから国教会体制の改廃をめぐって議会内部には分裂の兆候がみられた[1]ジョン・ピムに率いられた議会内のグループは国王やロード派の悪性を弾劾する大抗議文を作成し、11月にはこれが議会を通過したものの、わずか11票差というきわどいものであり、議会の分裂はもはや必至の状態となった[1]

内戦[編集]

王党派と議会派は激しく対立し、11月の大抗議文での決裂を持ってイングランド内戦が始まることとなる(清教徒革命)。議会分裂を好機とみたチャールズ1世は1642年1月、ピムやジョン・ハムデンら急進派5議員を逮捕しようとして議会に乗り込んだが失敗し、ロンドンを離れて北方で戦闘準備を開始した[2][注釈 1]。議会側はこれに対し、民兵条例を採択して同年2月に軍事権を握り、6月には議会主権を主張する「19か条提案」をチャールズ1世に提案した[2]。8月、チャールズ1世はノッティンガムで挙兵し、ここに国王派と議会派のあいだにイングランド内戦が勃発した[2]

残部議会(ランプ議会)[編集]

内戦の終盤では、議会派内部でも対立が生じた。王党派との和解を目指した長老派は独立派と対立し、1648年12月に独立派と手を組んだニューモデル軍英語版は軍事クーデターによって長老派を議会から締め出した(プライドのパージ)。これによって議席は独立派に独占され、以後は残部議会(ランプ議会)と呼ばれるようになる。

終焉[編集]

1649年、残部議会によってチャールズ1世は処刑され、イングランド共和国が成立する。その後、財政問題から議会と軍の対立が明確となり、1653年4月20日にクロムウェルは軍隊を率いて議員たちを議場から締め出して長期議会(残部議会)を武力解散し、13年続いた議会は終焉を迎えた。

その後、長期議会の議員たちは解散権は議会が保有する物として解散の不当性を訴え続け、自分達が唯一の正当な政府であることを主張し続けた。一方でクロムウェルは、同年7月に自身の意を汲んだベアボーンズ議会(聖者議会)を開会している。

11月にベアボーンズ議会も解散させ護国卿となったクロムウェルだったが1658年に死亡、息子のリチャード・クロムウェルは軍の圧力で議会を解散、翌1659年5月にランプ議会を復活させ自分は退任すると軍と議会の対立が再燃、王政復古の機運が高まるとジョージ・マンクにより1660年2月21日に長老派議員が復帰、長期議会が再開された。この議会は王政復古が整うまでの準備段階に過ぎず、1ヶ月にもならない3月16日に解散され短い会期を終えた。4月25日に王党派を加えた仮議会英語版が開会、5月にチャールズ2世が亡命先の大陸からイングランドに帰還し王政復古は成就した。

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 1642年1月3日、チャールズ1世は貴族院に対して5名の逮捕を要請したが、失敗に終わり、これを知った5人は翌1月4日に議会に登院して国王を挑発したため、国王自らが兵を率いて庶民院に乗り込む事態となった。しかし、5名はその直前にロンドン市街に逃げこみ、彼らの引渡しを求める国王に対して、ロンドン市民は抵抗の姿勢をみせたために、チャールズ1世は身の危険を感じてロンドンを脱出した。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]