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'''清水局事件'''(しみずきょくじけん)は、[[1948年]]([[昭和]]23年)に[[静岡県]][[清水市]](現在は静岡県[[静岡市]][[清水区]])で発生した[[小切手]]抜き取り[[事件]]。'''清水郵便局事件'''とも称される。[[冤罪]]で起訴された[[被]]が自で真犯人を探し出した事として知られる。
'''清水局事件'''(しみずきょくじけん)は、[[1948年]]([[昭和]]23年)に[[静岡県]][[清水市]]で発生した[[書留郵便]][[窃盗事件]]である。[[無実]]の罪に問われた[[冤罪]]者がらの手で真犯人を探し出し、事件を解決に導い稀有なとして知られる<ref name="検察149">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 149頁</ref>


{| class="wikitable floatright" style="font-size:90%;"
== 事件の概略 ==
|+ 経過
1948年[[2月6日]]に[[横浜市]]内の会社から額面7万9491円の[[銀行]]小切手が書留郵便で発送されたが、宛名の清水市内の会社に届かなかった。
! 年 !! 月日 !! 事柄
|-
| 1948年 || style="text-align:center;" | 2月初頭 || '''事件発生。'''
|-
| || style="text-align:center;" | 2月27日 || K、緊急逮捕される。
|-
| || style="text-align:center;" | 3月10日 || K、起訴される。
|-
| || style="text-align:center;" | 3月22日 || 静岡地裁で一審公判開始。
|-
| || style="text-align:center;" | 7月19日 || 一審終了。<br />Kに'''懲役1年6か月'''の実刑判決。
|-
| 1950年 || style="text-align:center;" | 8月14日 || 東京高裁で控訴審開始。
|-
| 1951年 || style="text-align:center;" | 4月30日 || 控訴審終了。<br />Kに'''懲役1年6か月'''の実刑判決。
|-
| style="background-color:#dfd" colspan="3" |
|-
| || style="text-align:center;" | 9月6日 || '''世田谷署が真犯人を検挙。'''
|-
| || style="text-align:center;" | 11月26日 || 東京地裁で真犯人に懲役1年の実刑判決。
|-
| style="background-color:#dfd" colspan="3" |
|-
| 1952年 || style="text-align:center;" | 3月27日 || 最高裁で上告審開始。
|-
| || style="text-align:center;" | 4月24日 || 上告審終了。<br />破棄自判によりKに'''無罪'''判決。
|}
1948年2月、清水市の[[合板]]会社へ宛てられた[[小切手]]の[[書留郵便]]が、逓送中に何者かに盗まれ、さらに偽造印と架空の名義で換金されていることが発覚した。捜査の結果、[[清水郵便局]]局員であった当時22歳の男、Kが[[容疑者]]として浮上した。Kには犯行日の[[アリバイ]]がなく、複数の目撃者もKが犯人に似ていると証言し、4度に渡って行われた[[筆跡鑑定]]の結果も、そのすべてがKを犯人であると指し示した。Kは一貫して無実を訴え続けるも、[[一審]]と[[控訴審]]ではともに[[懲役]]1年6か月の[[実刑]][[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]を受けた。


もはや裁判では有罪を覆すことができない、と考えたKと[[弁護人]]は、[[上告審]]までの僅かな期間に自力で真犯人を捕えることを決意した。そして独自の調査の結果、Kはかつての捜査でアリバイがあるとされていた人物に、アリバイが成立しない可能性があることを突き止めた。Kによるこの調査が契機となってその人物は検挙され、書留窃盗事件の真犯人であることが判明した。そして、事件発生から4年が経過した[[1952年]](昭和27年)4月、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は[[自判]]によりKに[[無罪]]判決を言い渡し、事件は冤罪と認められた。
受け取り先の会社からの不着の問い合わせを受けて調査したところ、小切手は既に換金されていた。その小切手には受取人の住所氏名及び社印まで正しく記入されていた。そのため警察は[[書留郵便]]を取り扱った[[清水郵便局]]員3人を容疑者として取り調べ、そのうち筆跡が酷似しているとされた局員(当時22歳)を拘束した。


== 事件と捜査 ==
また問題の小切手に捺印されていた社印は印鑑屋で偽造されたものであるが、犯人が8日に依頼した印鑑屋に受け取りに来たとされた。この2月8日の被疑者の局員は当日は非番でアリバイがはっきりせず、印鑑屋の主人も同一人物と証言し、局員も犯行を「自白」(実は警察の厳しい追及のため一度だけ虚偽を認めたものであった)したため、[[3月10日]]に起訴された。
[[1948年]]([[昭和]]23年)2月4日、[[静岡県]][[清水市]]に在する[[合板]]会社、富士合板株式会社は、[[神奈川県]]の取引先へ商品を発送した<ref name="検察14950">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 149-150頁</ref>。取引先はこれに応え、15万8991[[円 (通貨)|円]]の代金を、7万9491円の[[小切手|自由小切手]]と7万9500円の封鎖小切手{{Refnest|group="注"|[[1946年]](昭和21年)2月に[[インフレ]]対策の一環として公布、施行された[[金融緊急措置令]]により、一定額以上の[[旧円]]について金融機関への預け入れを強制する[[預金封鎖]]が行われた<ref name="林">[[#林|林 (2009)]] 656頁</ref>。封鎖小切手とは、一定の生活資金と事業資金に限って封鎖預金の引き出しを可能にする小切手を言う<ref name="林"/>。}}に分けて、同月6日に[[速達郵便|速達]]の[[書留郵便]]で[[静岡銀行]]清水支店へ送金した<ref name="検察14950"/>。


ところが、小切手が一向に到着しないことを不審に思った富士合板が銀行へ問い合わせると、7万9491円の自由小切手は同月10日の時点で、すでに何者かによって換金されていることが発覚した<ref name="検察14950"/>。その小切手の[[裏書]]には、
== 公判 ==
裁判では改めて小切手の[[筆跡]][[鑑定]]が行われ、4人の鑑定人が被告人となった局員のものと一致すると鑑定したが、しかしながら印鑑屋に社印を取りに行ったのが8日であるとする根拠は無く、しかも主人が姿をはっきり見たわけでないことが判明した。だが、1審、2審とも有罪判決を受け、2審の[[東京高等裁判所|東京高裁]]は[[1951年]][[4月30日]]に[[懲役]]1年6月を宣告した。しかし一縷の望みを託し[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]に上告した。


[[File:The thief's handwriting, Shimizu Post office case.jpg|thumb|200px|小切手の裏書]]
== 真犯人 ==
{{quotation|清水市宮加三''(略)''番地<br />
被告人となった局員は、冤罪をはらすべく調査を開始。[[1951年]][[9月6日]]に、ようやく真犯人を探しだした。真犯人は、当時、東京[[鉄道郵便局]]の郵便車乗務員だった男性であり、書留輸送中に盗み、その後は行方をくらましていた。真犯人に対しては1951年[[11月26日]]に冤罪の局員よりも軽い懲役1年が確定したが、局員に無罪判決が下されたのは、[[1952年]][[4月24日]]であった。
富士合板株式会社<br />
高尾隆}}


という架空の名義とともに会社の偽造印が捺されていたため、同月16日に富士合板は[[清水警察署 (静岡県)|清水警察署]]へ[[被害届]]を提出した<ref name="検察14950"/>。清水署はこれを、逓送中の書留が郵便局員によって窃取された事件であると推定し、捜査を管轄の[[名古屋逓信局]]へ委託した<ref name="検察150">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 150-151頁</ref>{{Refnest|group="注"|当時は[[郵政監察制度]]の創設以前であったため、捜査は逓信事務官監察係が担当した<ref name="検察150"/>。}}。
もしも真犯人を探し出せなければ、局員は最初の自白と筆跡鑑定によって刑務所に送られていたのは確実であり、警察の誤った初動捜査によって冤罪を生み出していたといえる。


=== 書留の行方 ===
一審から弁護にあたった[[鈴木信雄]]弁護士([[島田事件]]でも弁護活動)は、検事や県警にもその真犯人の調査を依頼したがどちらも断られ、東京で真犯人の居場所を見つけ、静岡県出身の駐在所巡査の協力を得て逮捕に至った。<ref>[[佐藤友之]]、真壁旲『冤罪の戦後史 つくられた証拠と自白』図書出版社、124ページ</ref>
名古屋逓信局の調査によって、小切手を送った書留の行方について次のような情報が得られた。すなわち、書留は2月6日に[[横浜中央郵便局|神奈川郵便局]]から[[東京駅|東京]]発の[[鉄道郵便]]で'''[[清水郵便局]]'''まで発送されている<ref name="検察151">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 151-152頁</ref>。同日に神奈川局から清水局へ発送された書留はこの他に5通あったが、神奈川局はこれらを3通ずつ2つの郵袋に分けて発送した<ref name="検察151"/>。しかし、清水局へは郵袋が1個しか届かず、さらに、未着の郵袋中の書留のうち富士合板宛のもの以外の1通も紛失していることが判明した(残る1通は後日、[[普通郵便]]に混じっているところを[[静岡中央郵便局|静岡局]]で発見され、清水局へ回送された)<ref name="検察151"/>。


書留のうち1通が普通郵便に混じって発見されていたことから、窃盗は郵便列車内で書留が普通郵便に紛れてから、書留が普通郵便とともに静岡局あるいは清水局へ着くまでのいずれかの段階で、内部犯により行われた、と逓信局は推測した<ref name="検察151"/>{{Refnest|group="注"|本来、書留用の郵袋は「赤行嚢」と俗称されるように赤い袋だったが、当時は戦後の物資不足もあり、単に書留を紐で十字に縛るだけの方法が代用されていた<ref name="検察151"/>。そして、これを大郵袋で普通郵便とともに郵送するうち、摩擦で紐が切れて書留が普通郵便に混入する事故も実際に発生していた<ref name="検察151"/>。}}。
== 関連項目 ==

* [[下田缶ビール詐欺事件]] - 同じく、被疑者が自力で真犯人を探し出した事件([[1981年]])
=== 目撃証言と筆跡 ===
小切手が換金された静岡銀行清水支店によれば、換金に訪れたのは年齢や人相は分からないが若い男のようで、その日時は2月10日の10時30分頃だったという<ref name="検察152">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 152-155頁</ref>。

一方、富士合板の偽造印を作成したのは[[静岡市]]の印判屋であることが逓信局の調べで分かったが、印判屋の店主と店員によれば、印の注文に訪れたのは23歳程度、身長5[[尺]]1[[寸]]ほどの痩せ型の男で、'''2月8日の10時頃から15時頃'''にかけて3度来店し、「高尾隆」の印と「富士合板株式会社」の印の注文と受け取りを行ったという([[#犯人の行動|下表参照]])。さらに、その男は自分が清水の人間であると語り、店の帳簿にも「清水市入江岡''(番地略)'' 高尾隆」という実在の地名を記入している<ref name="検察152"/>。以上のことから逓信局は、犯人が清水に[[土地鑑]]のある人物、すなわち清水局の局員であると推定した<ref name="検察152"/>。

そして、局員の中で整理前の郵便に触れる機会があり、なおかつ2月8日と10日の両方の[[アリバイ]]がない唯一の人物として、当時22歳の通信監視員、'''K'''が浮かび上がった<ref name="検察152"/>。逓信局が印判屋の店主と店員にKの[[面通し]]をさせたところ、2人は揃ってKが犯人に似ていると[[証言]]し、店主は「オーバーを着てズボン軍靴を履いた後ろ姿はそっくりである」「注文の印判原簿をもって、私があなたにこの印章の注文を受けたとつきつけてもいい」とまで断言した<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 209頁</ref>(ただし、実際には店主は犯人と応対しておらず、犯人の姿も店から出てゆく後ろ姿しか見ていない<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 156頁</ref>)。

[[File:The suspect's handwriting, Shimizu Post office case.jpg|thumb|200px|Kの筆跡]]
これらの証言に加え、犯人が印判屋の帳簿に記した「清水市入江岡''(番地略)'' 高尾隆」という文字をKにも書かせてみたところ、その[[筆跡]]も帳簿や小切手の裏書にある犯人のものと酷似していたため、逓信局は2月27日にKの身柄を清水警察署へ引き渡した<ref name="検察152"/>。

=== 取調べ ===
清水署へ引き渡されたKは即日[[緊急逮捕]]され、2日後に[[静岡地検]]へ送致された<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 155頁</ref>。

清水署と地検の調べに対してKは容疑を否認したが、2月8日と10日のアリバイについての主張は曖昧だった<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 222-223頁</ref>。また、逮捕から6日目の3月3日には、「普通郵便の区分をしていた際に発見した書留から小切手を盗み換金したが、すべて賭博で擦った」という内容の[[自白]]を行っている<ref name="検察171">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 171頁</ref>。また、清水局の配達区分棚は、富士合板行きのものとKの自宅行きのものが隣接していて、さらに局員は自分宛の郵便物を自由に持ち帰ることができたため、Kが配達先をごまかすことは容易だった<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 167頁、169頁</ref>。

しかし、翌日にKはこの自白を撤回した<ref name="検察171"/>。当局もこの自白を重視せず、聴取書も作成していない<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 205頁</ref>(自白の存在も[[一審]][[公判]]でK自身が証言したことにより初めて明らかになった<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 166-167頁</ref>)。

Kの尋問を行う一方で、清水署は各[[物証]]についての'''[[筆跡鑑定]]'''を、3月5日に県内の[[書家]]に対して依頼した<ref name="検察160">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 160頁</ref><ref>[[#後藤|後藤 (2010)]] 32頁</ref>。依頼を受けた書家は、小切手の裏書、印判屋の帳簿、印判屋に犯人が残したメモ書き、そしてKの筆跡の4点を比較した結果、そのすべてが同一人によるものである、と結論した([[#N鑑定|下表参照]])。しかしKは、犯人の筆跡は自分のものに似ているが自分は犯人ではない、として容疑を否認し続けた<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 158頁、162頁</ref>。

== 一審 ==
3月10日、Kは[[窃盗罪]]および[[詐欺罪]]で[[静岡地裁]]へ[[起訴]]された<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 163頁</ref>。公判は同月22日から開始され<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 165頁</ref>、Kの[[弁護人]]となったのは、後に[[島田事件]]の主任弁護人となったことで知られる'''[[鈴木信雄]]'''だった<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 436頁</ref>。依頼を引き受けた当初の鈴木は、数々の証拠が示している通りにKが犯人ではないかと疑っていた<ref name="伝564">[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 564頁</ref>。しかし、[[接見]]の際も自身の潔白を訴えるKの真摯な態度を目にして、鈴木はKが[[無実]]であるとの確信を持ったという<ref name="伝564"/>。

=== 証言 ===
一審では多くの[[証人]]が出廷した。Kの同僚らは、Kは信用のおける人間であると証言した<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 167-168頁</ref>。Kの家族も、2月8日にはKは11時頃まで家にいて、また事件後に金回りのよくなった様子もない、と述べた<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 170-171頁</ref>。一方で、印判屋の店員は捜査段階と同じく、Kは2月8日に来店した男に似ている、と証言した<ref name="検察171"/>。弁護側は、店員と店主に対して[[嘘発見器]]を使用して尋問することを求めたが、裁判所はこれを却下した<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 246頁</ref>。

そしてこれら証人のうち、鉄道郵便局の監査役が次のような証言を行っている。すなわち、{{anchor|真犯人|事件発生からしばらくして、件の書留が逓送された列車の'''乗務員の1人が消息を絶った'''}}<ref name="検察168">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 168-169頁</ref>。その局員は入局1か月目の新人だったが、窃盗の[[前科]]があり素行も不良だったという<ref name="検察168"/>。しかし、この局員は2月8日の9時過ぎに東京駅で乗務に就いていたことが確認されており、そこから1時間ほどで静岡市の印判屋に姿を現すことは不可能であるとされたため、捜査の対象とはならなかった<ref name="検察168"/>。

=== アリバイの主張 ===
4月28日、Kは[[保釈金]]を納入し身柄を解放された<ref name="検察172">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 172-174頁</ref>。そしてその直後、新たに2月8日のアリバイを申し立てる上申書を提出した<ref name="検察172"/>。それによると、当日は市内の映画館へ向かおうと11時頃に家を出たが、上映時間まで間があったので清水局へ顔を出して、しばらく局の[[電信]]業務を手伝った<ref name="検察172"/>。そして12時頃に映画館へ向かい、そこで偶然居合わせた同僚と映画を鑑賞した<ref name="検察172"/>。その後は同僚と別れて15時頃に再び局へ顔を出し、16時前まで再度電信業務を手伝ってから帰宅したという<ref name="検察172"/>。

Kの同僚は、Kと一緒に映画を見たのは確かだが、それが2月8日だったかは確実でないと証言した<ref name="検察175">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 175頁</ref>。しかし清水局の2月8日の記録には、Kが電信を打っていたと主張する時刻の原簿が、Kのものと思われるサイン入りで残されていた(清水局では、電信課員以外の者が電信を行った場合には、原簿の隅に姓の頭文字を記入することになっていた)<ref name="検察175"/>。そして、清水局から印判屋までは電車で40分から1時間かかることから、自分にはアリバイが成立している、とKは主張した<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 180頁</ref>。

{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+ 2月8日のKの行動と犯人の行動の対照
! 時刻 !! Kの主張<ref name="検察172"/> !! {{anchor|犯人の行動|印判屋の店主・店員の証言}}<ref name="検察152"/><ref>[[#後藤|後藤 (2010)]] 23-26頁</ref>
|-
! 10時頃
| || 犯人が「高尾隆」印を注文
|-
! 11時頃
| 自宅を出る || 犯人が「高尾隆」印を受け取り、「富士合板株式会社」印を注文
|-
! 11時27分<br />-52分
| 清水局で電信を手伝う ||
|-
! 12時0分<br />-14時35分
| 市内で映画鑑賞 ||
|-
! 14時半頃<br />または15時頃
| || 犯人が「富士合板株式会社」印を受け取る
|-
! 15時22分<br />-50分
| 清水局で電信を手伝う ||
|}

=== 筆跡再鑑定 ===
争点の一つとなったKの筆跡について、静岡地裁は職権で[[東京地裁]]に再鑑定人の選任を嘱託し、東京地裁に選任された筆跡印影鑑定人{{Refnest|group="注"|この鑑定人は[[帝銀事件]]の捜査においても、犯人が銀行に残した小切手の裏書の筆跡が容疑者である[[平沢貞通]]のものと一致する、という鑑定を行っている<ref name="原137">[[#原|原 (1959)]] 137-138頁</ref>。また、[[1950年]](昭和25年)に東京で発生した窃盗事件においても、この鑑定人による筆跡鑑定の結果[[被告人]]が有罪[[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]を受けたが、後に真犯人が発覚し[[控訴審]]で逆転[[無罪]]となっている<ref name="原137"/>。}}は5月24日付で鑑定結果を提出した<ref name="検察176">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 176頁</ref>。そして再鑑定の結果はまたしても、犯人が残した3点の筆跡はKの筆跡と一致する、というものだった([[#T鑑定|下表参照]]。この結果を聞いたKは、「この手はどうして悪い人間と同じ様な字を書くのだ」と自らの手を叩いて嘆いたという<ref>[[#鈴木57|鈴木 (1957)]] 116頁</ref>)。

=== 一審判決 ===
以上の審理を経て事実調べと証拠調べは終了し、検察側はKに[[懲役]]2年6か月を[[求刑]]した<ref name="検察181">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 181頁</ref>。対する弁護側は、筆跡鑑定はあくまで推測にすぎないのであって断定的な証拠ではない、とKの[[無罪]]を主張した<ref name="検察181"/>。そして7月19日の第7回公判において、[[判事]]の小倉明により[[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]は言い渡された<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 181-183頁</ref>。

{{quotation|主文

被告人ヲ懲役一年六月ニ処ス<br />
未決勾留日数中三十日ヲ右本刑ニ算入ス<br />
訴訟費用ハ全部被告人ノ負担トス<br />
詐欺ノ点ハ無罪}}

判決は、目撃者の証言と筆跡鑑定の結果、そして1日だけとはいえKが犯行を自白していることを理由として、Kに窃盗罪で懲役1年6か月の[[実刑]]判決を下した(詐欺罪については、[[本来的一罪|窃盗行為に吸収]]されるとして[[罪数]]の構成を認めなかった)。判決を不服としてKは即日[[控訴]]した<ref name="検察183">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 183頁</ref>。

== 控訴審 ==
控訴審は[[東京高裁]]刑事第九部に係属することとなり、公判は一審判決から2年以上が経過した[[1950年]](昭和25年)8月14日に開始された<ref name="検察183"/>。

=== アリバイの検証 ===
控訴審で新たな証言を行ったKの近隣住民は、2月8日の11時前にKが自宅にいるのを見た、と証言した<ref name="検察186">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 186頁</ref>。なぜ2年以上前の記憶がそれほど克明なのか、との問いに対してその住民は、2月8日は田舎で神送りの祭があり、その準備をしていたため印象に残っている、と述べた<ref name="検察186"/>。

さらに、一審でKが自身のアリバイの根拠とした清水局の電信原簿についても、検討が加えられた。2月8日の電信原簿のうち、隅にKの姓の頭文字である「カ」のサインが入ったものは、
* 11時27分から11時52分までの発信 / 19通
* 13時29分から13時46分までの発信 / 9通
* 15時22分から15時50分までの発信 / 12通
の計40通あった<ref name="検察176"/>。清水局にはKと同じく姓が「カ」始まりである経理係員がいたが、11時台と15時台の発信がKによるもので、13時台の発信が経理係員であるという点について、Kと経理係員の両者の主張は一致した<ref name="検察186"/>。

=== 筆跡再々鑑定 ===
Kのアリバイを補強するこの証言に対し、検察側はこれまでの鑑定試料の再々鑑定に加えて、電信原簿のサインの筆跡鑑定を行うことを求め、裁判所はこれを許可した<ref name="検察1867">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 186-187頁</ref>。鑑定人となった[[警視庁]][[刑事部|刑事鑑識課]]技官の[[町田欣一]]は、これまでの鑑定とは異なり拡大写真を使用した科学的な分析を行い、12月25日に鑑定結果を提出した<ref name="検察1867"/>。その結果は、犯人の残した3点の筆跡がやはりKと一致するのみならず、Kが自身の筆跡であると主張していた11時台と15時台の原簿の筆跡も、経理係員のものとされる13時台の原簿のそれと同一である、というものだった([[#町田鑑定|下表参照]])。

3度目の鑑定もKの不利に働いたことを受け、弁護側は4度目の鑑定を裁判所へ申請した。[[裁判長]]はこの要請に「鑑定料がもったいないでしょう」と呆れたが<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 116頁</ref>、結局は弁護側の申請した鑑定人である、[[科学捜査研究所]]写真課課長の[[高村巌]]{{Refnest|group="注"|[[東京裁判]]において[[溥儀]]の筆跡鑑定を行ったことで知られる著名な鑑定人<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 251-252頁</ref>。なお、帝銀事件においては高村も、小切手の裏書が平沢のものと一致すると鑑定し<ref name="原137"/>、[[狭山事件]]控訴審においても、被害者宅への脅迫状の筆跡が被告人のものと一致する、との鑑定を行っている<ref>[[#水戸|水戸 (1977)]] 110-111頁</ref>。}}による再鑑定を許可した<ref name="検察1867"/>。高村もまた拡大写真による分析を行い<ref>[[#後藤|後藤 (2010)]] 56頁</ref>、[[1951年]](昭和26年)4月6日に鑑定結果を提出した<ref name="検察187">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 187-188頁</ref>。そしてその結果は、従来のものと同様にKの筆跡が犯人のものと同一であることを肯定し、Kが発信したはずの15時台の電信原簿の筆跡も、経理係員による13時台の原簿の筆跡と一致する、というものだった([[#高村鑑定鑑定|下表参照]])。

{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+ 筆跡鑑定結果一覧
! rowspan="3" | 鑑定人 !! colspan="7" | 鑑定試料
|-
! rowspan="2" | Kの筆跡<br />(画像左下) !! rowspan="2" | 小切手の裏書<br />(画像右上) !! rowspan="2" | 印判屋の帳簿<br />(画像右下) !! rowspan="2" | 印判屋でのメモ<br />(画像左上) !! colspan="3" | 電信原簿
|-
! 11時台発信 !! 13時台発信 !! 15時台発信
|-
! {{anchor|N鑑定|書家}}<ref name="検察160"/>
| colspan="4" | 同一 || colspan="3" |
|-
! {{anchor|T鑑定|東京地裁選任の鑑定人}}<ref name="検察176"/>
| colspan="4" | 同一 || colspan="3" |
|-
! {{anchor|町田鑑定|町田欣一}}<ref name="検察1867"/>
| colspan="4" | 同一 || colspan="3" | 同一
|-
! {{anchor|高村鑑定|高村巌}}<ref name="検察187"/>
| colspan="4" | 同一 || 午後発信のものとは異なる || colspan="2" | 同一
|}
<gallery caption="個々の文字の拡大画像" widths="200px" heights="200px">
File:The comparison of 「高」.jpg
File:The comparison of 「尾」.jpg
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</gallery>

=== 控訴審判決 ===
弁護側が選任した鑑定人すらも、Kが犯人であることを示す結論を出したことは、Kにとって致命傷となった<ref name="検察187"/>。検察側は、Kが犯人であることは明らかであるとしながらも、Kに改悛の情がまったく見られないとして[[付帯控訴]]し、懲役2年を求刑した<ref name="検察187"/>。

しかし、なおも鈴木は、Kは無実である、誤っているのは筆跡鑑定の方であると信じ続けた<ref name="伝564">[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 564-565頁</ref>。最終弁論においても鈴木は、「判決の言い渡しを半年延期していただきたい。さすれば、被告人と弁護人とで真犯人を捕えて裁判長の面前に竝し来ることができる」<ref name="伝564"/>と言い張った。だが、この「一世一代のハッタリ弁論」<ref>[[#鈴木57|鈴木 (1957)]] 119頁</ref>は受け入れられず、4月30日の第9回公判において、裁判長の中野保雄により控訴審判決は言い渡された<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 189-191頁</ref>。

{{quotation|主文

被告人を懲役一年六月に処する。<br />
原審における未決拘留日数中参拾日を右本刑に算入する。<br />
当審及び原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。}}

判決は、一審と同じく懲役1年6か月の実刑だった。有罪の理由もやはり自白の存在と筆跡鑑定の結果だったが、弁護側のアリバイ[[立証]]は排斥され、筆跡鑑定の結果も、電信原簿についての部分のみ排斥された<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 254頁</ref>。

== 真犯人の捜索 ==
控訴審判決日の夜にKは、こうなった以上は1年半後に釈放されてから自分で真犯人を探し出すより道はない、との覚悟を語った<ref name="鈴木11920">[[#鈴木57|鈴木 (1957)]] 119頁</ref>。これを聞いた鈴木も、このままKを服役させておめおめと弁護士を続けることはできない、もしも有罪が覆らなければ、自分は帰郷して農民に戻る、と決意した<ref name="鈴木11920"/>。そして鈴木は、もはや裁判で勝ち目はないと知りながら、ただ時間稼ぎのためだけに<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 117頁</ref>、翌5月1日に[[上告]]を申し立てた<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 191頁</ref>。

{{quotation|私が此の世の中から姿を消せば、''(弟妹達が)''将来幾分とも、幸せになれるのではなかろうかと思いペンを持ち涙を流したこともあつたのであるが、しかし、幼い妹達のことを考えると、可愛さに死の気持ちは一変に崩れて死んではならない、仮令、前科者の汚名を着てもこの親弟妹には信じて貰えるのだから、絶対に生きなくてはならない、まして貧乏の我が家のことで蓄えは無かつた。<br />
''(中略)''<br />
この半年足らずの間に最後まで調べ尽くすことだ。死んだ気持ちで調査に当れば、どんなことでも辛抱出来るはずだ、岩の下草の根をかき分けても犯人を探し出し裁判官の目の前に突き出し潔白の明しを立てようと覚悟は決つても現実は簡単には行かなかつた。|[[1954年]](昭和29年)にKが静岡地検へ宛てた感想録より<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 221-222頁</ref>}}

自力で真犯人を探し出すと決意したKと鈴木が最初に疑いを向けたのは、書留の本来の宛先である富士合板だった。2人は富士合板の従業員70人分の筆跡を「いろいろと手をつくして」入手したが、犯人の筆跡に近いものはなかった<ref name="伝1178">[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 117-118頁</ref>。従業員らの顔写真を、見合い話を作り出してまで収集したが、それらしき人相の者も見つからなかった<ref name="伝1178"/>(この頃の捜査についてKは「疑つた点だけでも申し訳なく思つているので、詳細については記したくない」と、多くを語らない<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 215頁</ref>)。

=== 発見とアリバイ崩し ===
次に疑いが向けられたのは、書留が逓送された鉄道郵便車の乗務員、中でも事件後に消息を絶っていた当時21歳の乗務員、'''X'''だった([[#真犯人|上記参照]])<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 216頁</ref>。事件当時の記録が散逸してしまっているなか、上京したKは関係者を訪ね歩き、8月になってついにXの現住所を特定した<ref>[[#後藤|後藤 (2010)]] 65頁</ref>。素行不良者であるXのこと、何かしらの記録が残ってはいないか、とKは近郊の警視庁[[世田谷警察署|世田谷署]]横根駐在所を尋ねた<ref>[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 260頁</ref>。すると、偶然にも静岡県人であった駐在所[[巡査]]はKの境遇にいたく同情し、さらに3年前に知人の[[東京鉄道郵便局]]局員から、件の書留窃盗事件について相談を受けていたことも思い出した<ref>[[#後藤|後藤 (2010)]] 66頁</ref>。巡査からXを調べてみると約束されたKは、一度清水へ戻った<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 218-219頁</ref>。

しかしながら、かつての捜査によれば、そのXは2月8日の9時過ぎに東京駅にいたという完璧なアリバイがある点が、Kには疑問として残っていた<ref name="検察219">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 219-220頁</ref>。そして、今までの裁判では犯人の印判注文日が2月8日とされていたが、その日付自体が誤っているのではないか、という可能性に思い至った<ref name="検察219"/>。印判屋へ出向いてその点を追及するKに対し、店主は、犯人は2月8日に来店したとあくまでも主張した<ref name="検察219"/>。しかし店の原簿については、一日ごとに記帳するのではなく、記憶を頼りに数日分を纏め書きすることもある、と認めた<ref name="検察219"/>。

そこでKは再度上京し、物証である印判原簿を東京高裁で直接に閲覧した<ref name="検察219"/>。そして、記帳に使用された筆記具の変化やインクの濃淡、線の太さの違いから、原簿が必ずしも規則的には書かれていないことを発見した<ref name="検察219"/>。Kは、印判屋の店主と店員は不正確な原簿の日付をそのまま証言したに過ぎない、犯人が実際に来店したのは'''2月9日'''であり、Xにアリバイは成立しない、と結論した<ref name="検察219"/>。

== 解決 ==
Xのアリバイが成立していない可能性がある、との報告をKから受けた横根駐在所の巡査は<ref name="検察219"/>、管内で発生していた他の窃盗事件についての取調べも兼ねて、9月6日にXを駐在所へ出頭させた<ref name="検察192">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 192-193頁</ref>。管内での窃盗についてXの聴取を行う傍ら、巡査は3年前の書留窃盗事件について水を向けた<ref name="検察192"/>。すると、Xは「そのことか」と頭を掻いて、その場で書留の窃盗についてすべてを自供した<ref name="検察192"/>。

=== 真相 ===
自供によれば、1948年2月6日、下り郵便列車で乗務に就いていたXが車内を清掃していると、列車の揺れで区分棚から1個の書留郵袋が床へ落ちたという<ref name="検察192"/>。しかし、中の3通すべてを盗めば発覚すると考え、1通を普通郵便の棚に戻し、1通は金目のものでなかったので後に破り捨てた<ref name="検察194">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 194-195頁</ref>。

残る富士合板宛の1通を窃取したXは、2月8日に清水へ赴いて払出銀行や富士合板の下見を行い、'''翌9日'''に静岡市の印判屋で'''店主の妻に'''「高尾隆」と「富士合板株式会社」の印を注文した<ref name="検察194"/>(取調べを面倒に思った店主の妻は、証言を店員に任せきりにしており<ref>[[#鈴木57|鈴木 (1957)]] 149頁</ref>、自分が見てきたような証言を続けていた店員は、実際には犯人の応対に出ていなかった<ref name="検察196">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 196-198頁</ref>)。原簿に記した「清水市入江岡」という住所も、単に昔の交際相手の関係で知っていた清水の地名を使ったに過ぎないという<ref name="検察194"/>。

翌10日にXは銀行で7万9491円の自由小切手を換金したが、26日までにほとんどを遊びに使い果たし、その後東京へ戻った<ref name="検察194"/>。7万9500円の封鎖小切手についても某人に現金化を頼んだが、その後行方知れずになったという<ref name="検察194"/>。

自供の内容はその後の捜査によって裏付けられた。印判屋店主の妻は、XがKよりも犯人に似ていると証言し、新たに行われた筆跡鑑定でも、小切手の裏書とXの筆跡は一致するとの結果が出た<ref name="検察196"/>。1951年11月26日、東京地裁<ref>[[#後藤|後藤 (2010)]] 70頁</ref>は[[即決裁判]]により、横根駐在所管内での窃盗事件について懲役1年6か月、書留窃盗事件について懲役1年の有罪判決をXに言い渡した<ref name="検察196"/>。Xは控訴せず、判決は[[確定判決|確定]]した<ref name="検察196"/>。

== 上告審判決 ==
{{最高裁判例
|事件名=窃盗被告事件
|事件番号=昭和25(れ)2509
|裁判年月日=[[1952年]]4月24日
|判例集=刑集第6巻4号708頁
|裁判要旨=原判決後、真犯人が検挙され有罪の判決を受け確定した場合には、旧刑訴第四八五条第六号にいわゆる「有罪ノ言渡ヲ受ケタル者ニ対シテ無罪ヲ言渡スヘキ明確ナル証拠ヲ新ニ発見シタルトキ」に該当し、刑訴第四一一条第四号にあたる。
|法廷名=第一[[小法廷]]
|裁判長=[[斎藤悠輔]]
|陪席裁判官=[[沢田竹治郎]]、[[真野毅]]、[[岩松三郎]]
|多数意見=全員一致
|意見=なし
|反対意見=なし
|参照法条=[[刑事訴訟法施行法]]、[[b:刑事訴訟法第411条|刑事訴訟法第411条]]、[[旧刑事訴訟法]]第448条、同445条、同362条
|url=
}}
Xの有罪判決から4か月後の[[1952年]](昭和27年)3月27日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]第一[[小法廷]]にて、Kに対する上告審公判が開始された<ref name="検察198">[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 198頁</ref>。弁護側は、無辜の処罰が[[違憲|憲法違反]]である旨の上告趣意を述べ、検察側もまた、Kが犯人でないことは明らかであるので、[[b:刑事訴訟法第411条|刑事訴訟法第411条]]に基づき[[自判]]による無罪判決を求めた<ref name="検察198"/>。

そして、事件発生から4年余りが経過した1952年4月24日、裁判長の[[斎藤悠輔]]以下4名の全員一致により、破棄自判による無罪判決がKに言い渡された。

{{quotation|主文

原判決を破棄する。<br />
被告人は無罪。}}

=== その後 ===
最高裁での無罪判決が確定し、Kは2万4800円の[[刑事補償]]を受け取った<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 201頁</ref>。無罪判決言い渡しの日、Kは同僚たちに抱きかかえられながら、即日清水局へ復職した<ref name="鈴木121">[[#鈴木57|鈴木 (1957)]] 121頁</ref>。1954年<ref name="伝567">[[#伝|『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989)]] 567頁</ref>にKは、事件後も自分を信じ、支え続けてきた女性と結ばれた<ref name="鈴木121"/>。結婚式には鈴木も出席したが、その祝辞は涙で言葉にならなかったという<ref name="鈴木121"/>。

後に[[最高検]]刑事部が取りまとめた報告書『[[#検察|起訴後眞犯人の現われた事件の検討]]』では、この事件は
* 偶然、KとXの容貌、服装、筆跡までが類似しており
* 偶然、Kの勤務状況が書留の窃取に都合のよいものであり
* 偶然、Kにアリバイがなく
* 偶然、Xに清水市の土地鑑があった
という不幸の重なり合いが招いた、極めてまれな事例である、と分析されている<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 202-203頁</ref>。しかし、それでもなお報告者は、捜査の素人である逓信局の報告を無批判に踏襲し、何らの裏取りも行わずKの逮捕、起訴に至ったとして、当時の警察、検察を厳しく批判している<ref>[[#検察|最高検刑事部 (1955)]] 203-207頁</ref>。そして、ただ独力で事件を解決せざるを得なかったKの苦闘は「ひしひしと私どもの胸に迫るものがあり、烈しく心を打たれるのである」と報告者は述べている<ref name="検察149"/>。

裁判において正攻法で無罪を勝ち取ることができなかったこの事件を、鈴木は「弁護士としては失敗の記録である」と回顧している<ref>[[#鈴木57|鈴木 (1957)]] 114頁</ref>。しかし、Kは「今ある私の人生は、先生から頂いたものであると深く肝に銘じている」と鈴木に対する感謝を語っている<ref name="伝567"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author= [[後藤昌次郎]]|title= 冤罪の諸相|year= 2010|publisher= [[日本評論社]]|isbn= 978-4535516854|volume= この人を見よ 後藤昌次郎の生涯 (3)|ref= 後藤}}
* {{Cite book|和書|author= [[鈴木信雄]]著・発行|title= 裁判あれこれ|year= 1957|ncid= BN06674013|ref= 鈴木57}}
* {{Cite book|和書|author= [[林健久]]|editor= 下中直人編|title= [[世界大百科事典]]|origyear= 1988|edition= 2009年 改訂新版|year= 2009|publisher= [[平凡社]]|page= 656|isbn= 978-4582034004|volume= 7|chapter= 金融緊急措置令|ref= 林}}
* {{Cite book|和書|author= 原登志雄|title= 日本の裁判|year= 1959|publisher= [[三一書房]]|series= [[三一新書]] 208|ncid= BN06649038|ref= 原}}
* {{Cite book|和書|author= [[水戸巌]]|editor= [[武谷三男]]編|title= 狭山裁判と科学|year= 1977|publisher= [[社会思想社]]|series= [[現代教養文庫]] 938-B-008|pages= 110-157|isbn= 978-4390109383|chapter= 筆跡|ref= 水戸}}
* {{Cite book|和書|editor= [[最高検]]刑事部編|title= 起訴後眞犯人の現われた事件の検討|year= 1955|publisher= [[法務総合研究所|法務研修所]]|series= 検察研究叢書 17|ncid= BN04681834|volume= (その三)|ref= 検察}}
* {{Cite book|和書|title= “世のため、人のため” 鈴木信雄伝|year= 1989|publisher= 鈴木信雄先生追想録刊行委員会|ncid= BA87494683|ref= 伝}}

== 関連項目 ==
* [[下田缶ビール詐欺事件]]


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2014年10月7日 (火) 17:31時点における版

清水局事件(しみずきょくじけん)は、1948年昭和23年)に静岡県清水市で発生した書留郵便窃盗事件である。無実の罪に問われた冤罪被害者が、自らの手で真犯人を探し出し、事件を解決に導いた稀有な事例として知られる[1]

経過
月日 事柄
1948年 2月初頭 事件発生。
2月27日 K、緊急逮捕される。
3月10日 K、起訴される。
3月22日 静岡地裁で一審公判開始。
7月19日 一審終了。
Kに懲役1年6か月の実刑判決。
1950年 8月14日 東京高裁で控訴審開始。
1951年 4月30日 控訴審終了。
Kに懲役1年6か月の実刑判決。
9月6日 世田谷署が真犯人を検挙。
11月26日 東京地裁で真犯人に懲役1年の実刑判決。
1952年 3月27日 最高裁で上告審開始。
4月24日 上告審終了。
破棄自判によりKに無罪判決。

1948年2月、清水市の合板会社へ宛てられた小切手書留郵便が、逓送中に何者かに盗まれ、さらに偽造印と架空の名義で換金されていることが発覚した。捜査の結果、清水郵便局局員であった当時22歳の男、Kが容疑者として浮上した。Kには犯行日のアリバイがなく、複数の目撃者もKが犯人に似ていると証言し、4度に渡って行われた筆跡鑑定の結果も、そのすべてがKを犯人であると指し示した。Kは一貫して無実を訴え続けるも、一審控訴審ではともに懲役1年6か月の実刑判決を受けた。

もはや裁判では有罪を覆すことができない、と考えたKと弁護人は、上告審までの僅かな期間に自力で真犯人を捕えることを決意した。そして独自の調査の結果、Kはかつての捜査でアリバイがあるとされていた人物に、アリバイが成立しない可能性があることを突き止めた。Kによるこの調査が契機となってその人物は検挙され、書留窃盗事件の真犯人であることが判明した。そして、事件発生から4年が経過した1952年(昭和27年)4月、最高裁判所自判によりKに無罪判決を言い渡し、事件は冤罪と認められた。

事件と捜査

1948年昭和23年)2月4日、静岡県清水市に在する合板会社、富士合板株式会社は、神奈川県の取引先へ商品を発送した[2]。取引先はこれに応え、15万8991の代金を、7万9491円の自由小切手と7万9500円の封鎖小切手[注 1]に分けて、同月6日に速達書留郵便静岡銀行清水支店へ送金した[2]

ところが、小切手が一向に到着しないことを不審に思った富士合板が銀行へ問い合わせると、7万9491円の自由小切手は同月10日の時点で、すでに何者かによって換金されていることが発覚した[2]。その小切手の裏書には、

小切手の裏書
清水市宮加三(略)番地

富士合板株式会社

高尾隆

という架空の名義とともに会社の偽造印が捺されていたため、同月16日に富士合板は清水警察署被害届を提出した[2]。清水署はこれを、逓送中の書留が郵便局員によって窃取された事件であると推定し、捜査を管轄の名古屋逓信局へ委託した[4][注 2]

書留の行方

名古屋逓信局の調査によって、小切手を送った書留の行方について次のような情報が得られた。すなわち、書留は2月6日に神奈川郵便局から東京発の鉄道郵便清水郵便局まで発送されている[5]。同日に神奈川局から清水局へ発送された書留はこの他に5通あったが、神奈川局はこれらを3通ずつ2つの郵袋に分けて発送した[5]。しかし、清水局へは郵袋が1個しか届かず、さらに、未着の郵袋中の書留のうち富士合板宛のもの以外の1通も紛失していることが判明した(残る1通は後日、普通郵便に混じっているところを静岡局で発見され、清水局へ回送された)[5]

書留のうち1通が普通郵便に混じって発見されていたことから、窃盗は郵便列車内で書留が普通郵便に紛れてから、書留が普通郵便とともに静岡局あるいは清水局へ着くまでのいずれかの段階で、内部犯により行われた、と逓信局は推測した[5][注 3]

目撃証言と筆跡

小切手が換金された静岡銀行清水支店によれば、換金に訪れたのは年齢や人相は分からないが若い男のようで、その日時は2月10日の10時30分頃だったという[6]

一方、富士合板の偽造印を作成したのは静岡市の印判屋であることが逓信局の調べで分かったが、印判屋の店主と店員によれば、印の注文に訪れたのは23歳程度、身長51ほどの痩せ型の男で、2月8日の10時頃から15時頃にかけて3度来店し、「高尾隆」の印と「富士合板株式会社」の印の注文と受け取りを行ったという(下表参照)。さらに、その男は自分が清水の人間であると語り、店の帳簿にも「清水市入江岡(番地略) 高尾隆」という実在の地名を記入している[6]。以上のことから逓信局は、犯人が清水に土地鑑のある人物、すなわち清水局の局員であると推定した[6]

そして、局員の中で整理前の郵便に触れる機会があり、なおかつ2月8日と10日の両方のアリバイがない唯一の人物として、当時22歳の通信監視員、Kが浮かび上がった[6]。逓信局が印判屋の店主と店員にKの面通しをさせたところ、2人は揃ってKが犯人に似ていると証言し、店主は「オーバーを着てズボン軍靴を履いた後ろ姿はそっくりである」「注文の印判原簿をもって、私があなたにこの印章の注文を受けたとつきつけてもいい」とまで断言した[7](ただし、実際には店主は犯人と応対しておらず、犯人の姿も店から出てゆく後ろ姿しか見ていない[8])。

Kの筆跡

これらの証言に加え、犯人が印判屋の帳簿に記した「清水市入江岡(番地略) 高尾隆」という文字をKにも書かせてみたところ、その筆跡も帳簿や小切手の裏書にある犯人のものと酷似していたため、逓信局は2月27日にKの身柄を清水警察署へ引き渡した[6]

取調べ

清水署へ引き渡されたKは即日緊急逮捕され、2日後に静岡地検へ送致された[9]

清水署と地検の調べに対してKは容疑を否認したが、2月8日と10日のアリバイについての主張は曖昧だった[10]。また、逮捕から6日目の3月3日には、「普通郵便の区分をしていた際に発見した書留から小切手を盗み換金したが、すべて賭博で擦った」という内容の自白を行っている[11]。また、清水局の配達区分棚は、富士合板行きのものとKの自宅行きのものが隣接していて、さらに局員は自分宛の郵便物を自由に持ち帰ることができたため、Kが配達先をごまかすことは容易だった[12]

しかし、翌日にKはこの自白を撤回した[11]。当局もこの自白を重視せず、聴取書も作成していない[13](自白の存在も一審公判でK自身が証言したことにより初めて明らかになった[14])。

Kの尋問を行う一方で、清水署は各物証についての筆跡鑑定を、3月5日に県内の書家に対して依頼した[15][16]。依頼を受けた書家は、小切手の裏書、印判屋の帳簿、印判屋に犯人が残したメモ書き、そしてKの筆跡の4点を比較した結果、そのすべてが同一人によるものである、と結論した(下表参照)。しかしKは、犯人の筆跡は自分のものに似ているが自分は犯人ではない、として容疑を否認し続けた[17]

一審

3月10日、Kは窃盗罪および詐欺罪静岡地裁起訴された[18]。公判は同月22日から開始され[19]、Kの弁護人となったのは、後に島田事件の主任弁護人となったことで知られる鈴木信雄だった[20]。依頼を引き受けた当初の鈴木は、数々の証拠が示している通りにKが犯人ではないかと疑っていた[21]。しかし、接見の際も自身の潔白を訴えるKの真摯な態度を目にして、鈴木はKが無実であるとの確信を持ったという[21]

証言

一審では多くの証人が出廷した。Kの同僚らは、Kは信用のおける人間であると証言した[22]。Kの家族も、2月8日にはKは11時頃まで家にいて、また事件後に金回りのよくなった様子もない、と述べた[23]。一方で、印判屋の店員は捜査段階と同じく、Kは2月8日に来店した男に似ている、と証言した[11]。弁護側は、店員と店主に対して嘘発見器を使用して尋問することを求めたが、裁判所はこれを却下した[24]

そしてこれら証人のうち、鉄道郵便局の監査役が次のような証言を行っている。すなわち、事件発生からしばらくして、件の書留が逓送された列車の乗務員の1人が消息を絶った[25]。その局員は入局1か月目の新人だったが、窃盗の前科があり素行も不良だったという[25]。しかし、この局員は2月8日の9時過ぎに東京駅で乗務に就いていたことが確認されており、そこから1時間ほどで静岡市の印判屋に姿を現すことは不可能であるとされたため、捜査の対象とはならなかった[25]

アリバイの主張

4月28日、Kは保釈金を納入し身柄を解放された[26]。そしてその直後、新たに2月8日のアリバイを申し立てる上申書を提出した[26]。それによると、当日は市内の映画館へ向かおうと11時頃に家を出たが、上映時間まで間があったので清水局へ顔を出して、しばらく局の電信業務を手伝った[26]。そして12時頃に映画館へ向かい、そこで偶然居合わせた同僚と映画を鑑賞した[26]。その後は同僚と別れて15時頃に再び局へ顔を出し、16時前まで再度電信業務を手伝ってから帰宅したという[26]

Kの同僚は、Kと一緒に映画を見たのは確かだが、それが2月8日だったかは確実でないと証言した[27]。しかし清水局の2月8日の記録には、Kが電信を打っていたと主張する時刻の原簿が、Kのものと思われるサイン入りで残されていた(清水局では、電信課員以外の者が電信を行った場合には、原簿の隅に姓の頭文字を記入することになっていた)[27]。そして、清水局から印判屋までは電車で40分から1時間かかることから、自分にはアリバイが成立している、とKは主張した[28]

2月8日のKの行動と犯人の行動の対照
時刻 Kの主張[26] 印判屋の店主・店員の証言[6][29]
10時頃 犯人が「高尾隆」印を注文
11時頃 自宅を出る 犯人が「高尾隆」印を受け取り、「富士合板株式会社」印を注文
11時27分
-52分
清水局で電信を手伝う
12時0分
-14時35分
市内で映画鑑賞
14時半頃
または15時頃
犯人が「富士合板株式会社」印を受け取る
15時22分
-50分
清水局で電信を手伝う

筆跡再鑑定

争点の一つとなったKの筆跡について、静岡地裁は職権で東京地裁に再鑑定人の選任を嘱託し、東京地裁に選任された筆跡印影鑑定人[注 4]は5月24日付で鑑定結果を提出した[31]。そして再鑑定の結果はまたしても、犯人が残した3点の筆跡はKの筆跡と一致する、というものだった(下表参照。この結果を聞いたKは、「この手はどうして悪い人間と同じ様な字を書くのだ」と自らの手を叩いて嘆いたという[32])。

一審判決

以上の審理を経て事実調べと証拠調べは終了し、検察側はKに懲役2年6か月を求刑した[33]。対する弁護側は、筆跡鑑定はあくまで推測にすぎないのであって断定的な証拠ではない、とKの無罪を主張した[33]。そして7月19日の第7回公判において、判事の小倉明により判決は言い渡された[34]

主文

被告人ヲ懲役一年六月ニ処ス
未決勾留日数中三十日ヲ右本刑ニ算入ス
訴訟費用ハ全部被告人ノ負担トス

詐欺ノ点ハ無罪

判決は、目撃者の証言と筆跡鑑定の結果、そして1日だけとはいえKが犯行を自白していることを理由として、Kに窃盗罪で懲役1年6か月の実刑判決を下した(詐欺罪については、窃盗行為に吸収されるとして罪数の構成を認めなかった)。判決を不服としてKは即日控訴した[35]

控訴審

控訴審は東京高裁刑事第九部に係属することとなり、公判は一審判決から2年以上が経過した1950年(昭和25年)8月14日に開始された[35]

アリバイの検証

控訴審で新たな証言を行ったKの近隣住民は、2月8日の11時前にKが自宅にいるのを見た、と証言した[36]。なぜ2年以上前の記憶がそれほど克明なのか、との問いに対してその住民は、2月8日は田舎で神送りの祭があり、その準備をしていたため印象に残っている、と述べた[36]

さらに、一審でKが自身のアリバイの根拠とした清水局の電信原簿についても、検討が加えられた。2月8日の電信原簿のうち、隅にKの姓の頭文字である「カ」のサインが入ったものは、

  • 11時27分から11時52分までの発信 / 19通
  • 13時29分から13時46分までの発信 / 9通
  • 15時22分から15時50分までの発信 / 12通

の計40通あった[31]。清水局にはKと同じく姓が「カ」始まりである経理係員がいたが、11時台と15時台の発信がKによるもので、13時台の発信が経理係員であるという点について、Kと経理係員の両者の主張は一致した[36]

筆跡再々鑑定

Kのアリバイを補強するこの証言に対し、検察側はこれまでの鑑定試料の再々鑑定に加えて、電信原簿のサインの筆跡鑑定を行うことを求め、裁判所はこれを許可した[37]。鑑定人となった警視庁刑事鑑識課技官の町田欣一は、これまでの鑑定とは異なり拡大写真を使用した科学的な分析を行い、12月25日に鑑定結果を提出した[37]。その結果は、犯人の残した3点の筆跡がやはりKと一致するのみならず、Kが自身の筆跡であると主張していた11時台と15時台の原簿の筆跡も、経理係員のものとされる13時台の原簿のそれと同一である、というものだった(下表参照)。

3度目の鑑定もKの不利に働いたことを受け、弁護側は4度目の鑑定を裁判所へ申請した。裁判長はこの要請に「鑑定料がもったいないでしょう」と呆れたが[38]、結局は弁護側の申請した鑑定人である、科学捜査研究所写真課課長の高村巌[注 5]による再鑑定を許可した[37]。高村もまた拡大写真による分析を行い[41]1951年(昭和26年)4月6日に鑑定結果を提出した[42]。そしてその結果は、従来のものと同様にKの筆跡が犯人のものと同一であることを肯定し、Kが発信したはずの15時台の電信原簿の筆跡も、経理係員による13時台の原簿の筆跡と一致する、というものだった(下表参照)。

筆跡鑑定結果一覧
鑑定人 鑑定試料
Kの筆跡
(画像左下)
小切手の裏書
(画像右上)
印判屋の帳簿
(画像右下)
印判屋でのメモ
(画像左上)
電信原簿
11時台発信 13時台発信 15時台発信
書家[15] 同一
東京地裁選任の鑑定人[31] 同一
町田欣一[37] 同一 同一
高村巌[42] 同一 午後発信のものとは異なる 同一

控訴審判決

弁護側が選任した鑑定人すらも、Kが犯人であることを示す結論を出したことは、Kにとって致命傷となった[42]。検察側は、Kが犯人であることは明らかであるとしながらも、Kに改悛の情がまったく見られないとして付帯控訴し、懲役2年を求刑した[42]

しかし、なおも鈴木は、Kは無実である、誤っているのは筆跡鑑定の方であると信じ続けた[21]。最終弁論においても鈴木は、「判決の言い渡しを半年延期していただきたい。さすれば、被告人と弁護人とで真犯人を捕えて裁判長の面前に竝し来ることができる」[21]と言い張った。だが、この「一世一代のハッタリ弁論」[43]は受け入れられず、4月30日の第9回公判において、裁判長の中野保雄により控訴審判決は言い渡された[44]

主文

被告人を懲役一年六月に処する。
原審における未決拘留日数中参拾日を右本刑に算入する。

当審及び原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

判決は、一審と同じく懲役1年6か月の実刑だった。有罪の理由もやはり自白の存在と筆跡鑑定の結果だったが、弁護側のアリバイ立証は排斥され、筆跡鑑定の結果も、電信原簿についての部分のみ排斥された[45]

真犯人の捜索

控訴審判決日の夜にKは、こうなった以上は1年半後に釈放されてから自分で真犯人を探し出すより道はない、との覚悟を語った[46]。これを聞いた鈴木も、このままKを服役させておめおめと弁護士を続けることはできない、もしも有罪が覆らなければ、自分は帰郷して農民に戻る、と決意した[46]。そして鈴木は、もはや裁判で勝ち目はないと知りながら、ただ時間稼ぎのためだけに[47]、翌5月1日に上告を申し立てた[48]

私が此の世の中から姿を消せば、(弟妹達が)将来幾分とも、幸せになれるのではなかろうかと思いペンを持ち涙を流したこともあつたのであるが、しかし、幼い妹達のことを考えると、可愛さに死の気持ちは一変に崩れて死んではならない、仮令、前科者の汚名を着てもこの親弟妹には信じて貰えるのだから、絶対に生きなくてはならない、まして貧乏の我が家のことで蓄えは無かつた。

(中略)

この半年足らずの間に最後まで調べ尽くすことだ。死んだ気持ちで調査に当れば、どんなことでも辛抱出来るはずだ、岩の下草の根をかき分けても犯人を探し出し裁判官の目の前に突き出し潔白の明しを立てようと覚悟は決つても現実は簡単には行かなかつた。 — 1954年(昭和29年)にKが静岡地検へ宛てた感想録より[49]

自力で真犯人を探し出すと決意したKと鈴木が最初に疑いを向けたのは、書留の本来の宛先である富士合板だった。2人は富士合板の従業員70人分の筆跡を「いろいろと手をつくして」入手したが、犯人の筆跡に近いものはなかった[50]。従業員らの顔写真を、見合い話を作り出してまで収集したが、それらしき人相の者も見つからなかった[50](この頃の捜査についてKは「疑つた点だけでも申し訳なく思つているので、詳細については記したくない」と、多くを語らない[51])。

発見とアリバイ崩し

次に疑いが向けられたのは、書留が逓送された鉄道郵便車の乗務員、中でも事件後に消息を絶っていた当時21歳の乗務員、Xだった(上記参照[52]。事件当時の記録が散逸してしまっているなか、上京したKは関係者を訪ね歩き、8月になってついにXの現住所を特定した[53]。素行不良者であるXのこと、何かしらの記録が残ってはいないか、とKは近郊の警視庁世田谷署横根駐在所を尋ねた[54]。すると、偶然にも静岡県人であった駐在所巡査はKの境遇にいたく同情し、さらに3年前に知人の東京鉄道郵便局局員から、件の書留窃盗事件について相談を受けていたことも思い出した[55]。巡査からXを調べてみると約束されたKは、一度清水へ戻った[56]

しかしながら、かつての捜査によれば、そのXは2月8日の9時過ぎに東京駅にいたという完璧なアリバイがある点が、Kには疑問として残っていた[57]。そして、今までの裁判では犯人の印判注文日が2月8日とされていたが、その日付自体が誤っているのではないか、という可能性に思い至った[57]。印判屋へ出向いてその点を追及するKに対し、店主は、犯人は2月8日に来店したとあくまでも主張した[57]。しかし店の原簿については、一日ごとに記帳するのではなく、記憶を頼りに数日分を纏め書きすることもある、と認めた[57]

そこでKは再度上京し、物証である印判原簿を東京高裁で直接に閲覧した[57]。そして、記帳に使用された筆記具の変化やインクの濃淡、線の太さの違いから、原簿が必ずしも規則的には書かれていないことを発見した[57]。Kは、印判屋の店主と店員は不正確な原簿の日付をそのまま証言したに過ぎない、犯人が実際に来店したのは2月9日であり、Xにアリバイは成立しない、と結論した[57]

解決

Xのアリバイが成立していない可能性がある、との報告をKから受けた横根駐在所の巡査は[57]、管内で発生していた他の窃盗事件についての取調べも兼ねて、9月6日にXを駐在所へ出頭させた[58]。管内での窃盗についてXの聴取を行う傍ら、巡査は3年前の書留窃盗事件について水を向けた[58]。すると、Xは「そのことか」と頭を掻いて、その場で書留の窃盗についてすべてを自供した[58]

真相

自供によれば、1948年2月6日、下り郵便列車で乗務に就いていたXが車内を清掃していると、列車の揺れで区分棚から1個の書留郵袋が床へ落ちたという[58]。しかし、中の3通すべてを盗めば発覚すると考え、1通を普通郵便の棚に戻し、1通は金目のものでなかったので後に破り捨てた[59]

残る富士合板宛の1通を窃取したXは、2月8日に清水へ赴いて払出銀行や富士合板の下見を行い、翌9日に静岡市の印判屋で店主の妻に「高尾隆」と「富士合板株式会社」の印を注文した[59](取調べを面倒に思った店主の妻は、証言を店員に任せきりにしており[60]、自分が見てきたような証言を続けていた店員は、実際には犯人の応対に出ていなかった[61])。原簿に記した「清水市入江岡」という住所も、単に昔の交際相手の関係で知っていた清水の地名を使ったに過ぎないという[59]

翌10日にXは銀行で7万9491円の自由小切手を換金したが、26日までにほとんどを遊びに使い果たし、その後東京へ戻った[59]。7万9500円の封鎖小切手についても某人に現金化を頼んだが、その後行方知れずになったという[59]

自供の内容はその後の捜査によって裏付けられた。印判屋店主の妻は、XがKよりも犯人に似ていると証言し、新たに行われた筆跡鑑定でも、小切手の裏書とXの筆跡は一致するとの結果が出た[61]。1951年11月26日、東京地裁[62]即決裁判により、横根駐在所管内での窃盗事件について懲役1年6か月、書留窃盗事件について懲役1年の有罪判決をXに言い渡した[61]。Xは控訴せず、判決は確定した[61]

上告審判決

最高裁判所判例
事件名 窃盗被告事件
事件番号 昭和25(れ)2509
1952年4月24日
判例集 刑集第6巻4号708頁
裁判要旨
原判決後、真犯人が検挙され有罪の判決を受け確定した場合には、旧刑訴第四八五条第六号にいわゆる「有罪ノ言渡ヲ受ケタル者ニ対シテ無罪ヲ言渡スヘキ明確ナル証拠ヲ新ニ発見シタルトキ」に該当し、刑訴第四一一条第四号にあたる。
第一小法廷
裁判長 斎藤悠輔
陪席裁判官 沢田竹治郎真野毅岩松三郎
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑事訴訟法施行法刑事訴訟法第411条旧刑事訴訟法第448条、同445条、同362条
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Xの有罪判決から4か月後の1952年(昭和27年)3月27日、最高裁第一小法廷にて、Kに対する上告審公判が開始された[63]。弁護側は、無辜の処罰が憲法違反である旨の上告趣意を述べ、検察側もまた、Kが犯人でないことは明らかであるので、刑事訴訟法第411条に基づき自判による無罪判決を求めた[63]

そして、事件発生から4年余りが経過した1952年4月24日、裁判長の斎藤悠輔以下4名の全員一致により、破棄自判による無罪判決がKに言い渡された。

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

その後

最高裁での無罪判決が確定し、Kは2万4800円の刑事補償を受け取った[64]。無罪判決言い渡しの日、Kは同僚たちに抱きかかえられながら、即日清水局へ復職した[65]。1954年[66]にKは、事件後も自分を信じ、支え続けてきた女性と結ばれた[65]。結婚式には鈴木も出席したが、その祝辞は涙で言葉にならなかったという[65]

後に最高検刑事部が取りまとめた報告書『起訴後眞犯人の現われた事件の検討』では、この事件は

  • 偶然、KとXの容貌、服装、筆跡までが類似しており
  • 偶然、Kの勤務状況が書留の窃取に都合のよいものであり
  • 偶然、Kにアリバイがなく
  • 偶然、Xに清水市の土地鑑があった

という不幸の重なり合いが招いた、極めてまれな事例である、と分析されている[67]。しかし、それでもなお報告者は、捜査の素人である逓信局の報告を無批判に踏襲し、何らの裏取りも行わずKの逮捕、起訴に至ったとして、当時の警察、検察を厳しく批判している[68]。そして、ただ独力で事件を解決せざるを得なかったKの苦闘は「ひしひしと私どもの胸に迫るものがあり、烈しく心を打たれるのである」と報告者は述べている[1]

裁判において正攻法で無罪を勝ち取ることができなかったこの事件を、鈴木は「弁護士としては失敗の記録である」と回顧している[69]。しかし、Kは「今ある私の人生は、先生から頂いたものであると深く肝に銘じている」と鈴木に対する感謝を語っている[66]

脚注

注釈

  1. ^ 1946年(昭和21年)2月にインフレ対策の一環として公布、施行された金融緊急措置令により、一定額以上の旧円について金融機関への預け入れを強制する預金封鎖が行われた[3]。封鎖小切手とは、一定の生活資金と事業資金に限って封鎖預金の引き出しを可能にする小切手を言う[3]
  2. ^ 当時は郵政監察制度の創設以前であったため、捜査は逓信事務官監察係が担当した[4]
  3. ^ 本来、書留用の郵袋は「赤行嚢」と俗称されるように赤い袋だったが、当時は戦後の物資不足もあり、単に書留を紐で十字に縛るだけの方法が代用されていた[5]。そして、これを大郵袋で普通郵便とともに郵送するうち、摩擦で紐が切れて書留が普通郵便に混入する事故も実際に発生していた[5]
  4. ^ この鑑定人は帝銀事件の捜査においても、犯人が銀行に残した小切手の裏書の筆跡が容疑者である平沢貞通のものと一致する、という鑑定を行っている[30]。また、1950年(昭和25年)に東京で発生した窃盗事件においても、この鑑定人による筆跡鑑定の結果被告人が有罪判決を受けたが、後に真犯人が発覚し控訴審で逆転無罪となっている[30]
  5. ^ 東京裁判において溥儀の筆跡鑑定を行ったことで知られる著名な鑑定人[39]。なお、帝銀事件においては高村も、小切手の裏書が平沢のものと一致すると鑑定し[30]狭山事件控訴審においても、被害者宅への脅迫状の筆跡が被告人のものと一致する、との鑑定を行っている[40]

出典

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  2. ^ a b c d 最高検刑事部 (1955) 149-150頁
  3. ^ a b 林 (2009) 656頁
  4. ^ a b 最高検刑事部 (1955) 150-151頁
  5. ^ a b c d e f 最高検刑事部 (1955) 151-152頁
  6. ^ a b c d e f 最高検刑事部 (1955) 152-155頁
  7. ^ 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 209頁
  8. ^ 最高検刑事部 (1955) 156頁
  9. ^ 最高検刑事部 (1955) 155頁
  10. ^ 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 222-223頁
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  13. ^ 最高検刑事部 (1955) 205頁
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  15. ^ a b 最高検刑事部 (1955) 160頁
  16. ^ 後藤 (2010) 32頁
  17. ^ 最高検刑事部 (1955) 158頁、162頁
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  20. ^ 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 436頁
  21. ^ a b c d 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 564頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "伝564"が異なる内容で複数回定義されています
  22. ^ 最高検刑事部 (1955) 167-168頁
  23. ^ 最高検刑事部 (1955) 170-171頁
  24. ^ 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 246頁
  25. ^ a b c 最高検刑事部 (1955) 168-169頁
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  38. ^ 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 116頁
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  40. ^ 水戸 (1977) 110-111頁
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  50. ^ a b 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 117-118頁
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  57. ^ a b c d e f g h 最高検刑事部 (1955) 219-220頁
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  62. ^ 後藤 (2010) 70頁
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  65. ^ a b c 鈴木 (1957) 121頁
  66. ^ a b 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』(1989) 567頁
  67. ^ 最高検刑事部 (1955) 202-203頁
  68. ^ 最高検刑事部 (1955) 203-207頁
  69. ^ 鈴木 (1957) 114頁

参考文献

  • 後藤昌次郎『冤罪の諸相』 この人を見よ 後藤昌次郎の生涯 (3)、日本評論社、2010年。ISBN 978-4535516854 
  • 鈴木信雄著・発行『裁判あれこれ』1957年。 NCID BN06674013 
  • 林健久 著「金融緊急措置令」、下中直人編 編『世界大百科事典』 7巻(2009年 改訂新版)、平凡社、2009年(原著1988年)、656頁。ISBN 978-4582034004 
  • 原登志雄『日本の裁判』三一書房三一新書 208〉、1959年。 NCID BN06649038 
  • 水戸巌 著「筆跡」、武谷三男編 編『狭山裁判と科学』社会思想社現代教養文庫 938-B-008〉、1977年、110-157頁。ISBN 978-4390109383 
  • 最高検刑事部編 編『起訴後眞犯人の現われた事件の検討』 (その三)、法務研修所〈検察研究叢書 17〉、1955年。 NCID BN04681834 
  • 『“世のため、人のため” 鈴木信雄伝』鈴木信雄先生追想録刊行委員会、1989年。 NCID BA87494683 

関連項目