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「やぐら」の版間の差分

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やぐらリストを「鎌倉周辺」」とし「まんだら堂やぐら群」を追加
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{{Otheruseslist|神奈川県を中心とした地域の横穴墳墓|建築物や技など|櫓|城郭の櫓|櫓 (城郭)}}
{{Otheruseslist|神奈川県を中心とした地域の横穴墳墓|建築物や技など|櫓|城郭の櫓|櫓 (城郭)}}
{{工事中}}

[[File:06 0129 08-TSJ.jpg|thumb|300px|<strong>01:</strong>腹切やぐら(東勝寺跡):[[鎌倉幕府]]滅亡時に[[北条高時]]らが腹を切ったとの伝承があるがあくまで伝承である。(東勝寺跡は国の[[史跡]])]]
'''やぐら'''とは、狭義においては、[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]の中世に現在の[[神奈川県]][[鎌倉市]]に流行した横穴式の[[墳墓]]および供養堂を指す。'''矢倉'''・'''谷倉'''・'''矢蔵'''・'''屋蔵'''・'''窟'''などが書かれることもある。
[[File:14-0307-KOJ-1179.JPG|thumb|300px|<strong>02:</strong>もっとも有名で規模も大きい百八やぐら群。『鎌倉攬勝考』にも図入りで登場する<ref>
[[画像:Yagura.JPG|thumb|250px|right|やぐら(多宝寺跡やぐら群)]]
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.497-504
</ref>。(神奈川県指定史跡)]]
[[File:07 0211 YGR-298.jpg|thumb|300px|<strong>03:</strong>やぐらは切り立った崖の途中にあることもある。]]
'''やぐら'''は鎌倉の周辺にある鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られ、または使用された横穴式の納骨窟または供養堂である。
現在では風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華である。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[File:07 0226 456-YG.jpg|thumb|300px|<strong>04:</strong>唐糸やぐら左側。中央に大きな石仏があるが、同様の石仏は各所にみられる。ただし鎌倉の石は[[鎌倉石]]と呼ばれる[[砂岩]]であるため風化が激しく目鼻は無くなっている。]]
鎌倉市旧市街([[鎌倉12ヶ村]])を取り巻く丘陵部などに密集して存在している。戦時中の[[防空壕]]や古代の[[横穴古墳]]と混同される場合があるが、やぐらという言葉自体は上記の中世の上流階級の墳墓についてだけを言う。なお、「やぐら」という名称は鎌倉地方における岩窟(イワクラ)などの訛であるとされる。江戸時代の史料には、すでに「窟」の字に「ヤグラ」というルビがふられている。以前の考え方では「矢倉」という漢字を当てはめて武器の保存庫などと考えることもあった。現在では、漢字を用いずに、「やぐら」または「ヤグラ」という名称を用いるのが普通である。
「やぐら」とは横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で、鎌倉時代の中期頃から室町時代の中頃にかけて、巌堂、岩殿寺などの岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓である。
平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがった結果、鎌倉中(市街地)での上流階級の墳墓、法華堂(墳墓堂)が禁止されることによって、その代用として山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂である。
従って鎌倉周辺にしかなく、また鎌倉周辺であっても人口が密集した鎌倉の外にでると急激にその数を減らす。
そして鎌倉が都市でなくなるとともに作られなくなり人の記憶からも消えていった<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.151-152
</ref>。


== 「やぐら」の名称 ==
== 構造 ==
文献上「やぐら」という語が出てくるのは[[新編鎌倉志|『新編鎌倉志』]]の十二所ごぼう谷の項に「寺の南西に山あり、切り抜きの洞二十余りありて・・・俗にくらがりやぐらと云ふ。総じて鎌倉の俚語(俗語、方言)に巌窟をやぐらというなり」とあるのが最も古い<ref>
やぐらの構造としては、山中の斜面部に多く四角形の穴をあけた洞穴で、[[羨道]]と呼ばれる入り口を経て、[[玄室]]と呼ばれるやぐら内部に至る。その大きさは、一辺1m - 5mで、大体直方体の形をしている。[[鎌倉時代]]のやぐらは、羨道を持つが、[[室町時代]]のやぐらは入り口から直接玄室となっていることが多い。多くやぐらの入り口(鎌倉期のやぐらであれば、羨道の入り口、羨門(せんもん))には木製の扉がつけられていたようで、いくつかのやぐらには扉をつけた痕が残っている。(後述'''唐糸やぐら'''を参照)
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.463
</ref><ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.16
</ref>。
[[#鎌倉攬勝考|『鎌倉攬勝考』]]はわめき十王窟、梵字窟、五輪窟<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/42/14-0307-KOJ-1113.JPG 画像9])</small>、団子窟<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1e/14-0307-KOJ-0980.JPG 画像10])</small>、法王窟<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5a/14-0307-KOJ-0922.JPG 画像24])</small>などの名をあげて「山上、または山腹等にあり。思うに皆古の塋域<ref group="注">
えいいき。墓地・墓場のこと。
</ref>
にして、鶴が岡大別当等の墳なるべし」と記し墳墓とみなしている。
鎌倉時代には岩穴を「巌(いわや)」と呼んだことが[[吾妻鏡|『吾妻鏡』]]に出てくる<ref>
『吾妻鏡』文治4年(1188年)10月10日条、[[#吾妻鏡1|吾妻鏡1]] p.309
</ref><ref>
『吾妻鏡』弘長3年(1263年)4月7日条、[[#吾妻鏡4|吾妻鏡4]] p.822
</ref>。
これは現在も残る巌堂であり、逗子の岩殿寺同様宗教施設、岩窟の仏殿、観音堂である。
室町時代の古文書には「石蔵」という言葉もでてくるし<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.464
</ref>、
[[後円融天皇]]の頃に成立と推測される[http://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E9%8F%A1 『神明鏡』]には[[護良親王|大塔宮]]は「(足利)直義方へ渡、鎌倉に下奉て二階堂の地に岩蔵を掘て居進」云々と「岩蔵」という文字が見えるが<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.114
</ref>、
墳墓としての岩窟の当時の呼び名は不明である。
漢字で「矢倉」と表記されることもあるが音からの当て字であり、ひらがなで「やぐら」と表記するのが通例である<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.463-464
</ref>。
作られる場所は『鎌倉攬勝考』にあるように山上または山腹、寺院の奥、最上流の武家屋敷の奥などにある<ref group="注">
第七代執権[[北条政村]]が構えた北条氏常盤亭跡にも法華堂跡とやぐらがある。鎌倉の寺院と最上流の武家屋敷の多くはひとつの谷戸を占有しており、その切り開かれた部分(平場)の一番奥の方にあることが多い。
</ref>。


== 構造と内部 ==
遺骸は火葬されており、現在でも粉砕した火葬骨が発見される。内部壁または玄室床部分に納骨穴がある場合もあるが、納骨施設がなく蔵骨器を内部に置くだけのところもある。壁にある納骨穴は四角形や丸型に造られており、中には[[日]]と[[月]]を模ったものもある。(後述'''日月やぐら'''(じつげつやぐら)を参照)
[[File:07 0121 u034.jpg|thumb|300px|<strong>05:</strong>瓜ヶ谷やぐら第二窟:鎌倉時代の様式を伝える大型のやぐらの玄室と短い羡道。壁には五輪塔が掘られ、白い漆喰が残る。]]
[[File:14-0307-SDR-0726.JPG|thumb|300px|<strong>06:</strong>やぐらの天井に残る漆喰]]
[[File:14-0307-SDR-0692.JPG|thumb|300px|<strong>07:</strong>朱垂木やぐら:朱色で屋根の垂木を模している。画像右下に扉の横木を填めたと思われるほぞ穴が見える。]]
[[File:14-0307-SDR-0672.JPG|thumb|300px|<strong>08:</strong>雲形位牌の浮彫。このやぐらの天井には月輪の中に種子が彫られている。]]
[[File:14-0307-KOJ-1113.JPG|thumb|300px|<strong>09:</strong>やぐらの壁に掘られた五輪塔:白く塗られ、キャ、カ、ラ、バ、アの梵字(胎蔵界大日の真言)が明瞭に残る。梵字には漆が塗られ、金箔が押されていたものと推定される。]]
[[File:14-0307-KOJ-0980.JPG|thumb|300px|<strong>10:</strong>団子付地蔵窟の床面の納骨穴。背後、側面の彫り込みには江戸期以降の石仏が置かれるが、当初は納骨場所と思われる。]]
[[File:07 0226 418-YG.jpg|thumb|300px|<strong>11:</strong>日月やぐら:鎌倉時代。左の壁に日と月を模った二重の円に見える納骨穴(龕)がある。穴は石版で蓋をされていたと思われる。]]
[[File:14-0307-SDR-0840.JPG|thumb|300px|<strong>12:</strong>三面壁の天井下に[[長押]](なげし)状の納骨用彫り込みをもつやぐら。]]
=== 構造と内装 ===
だいたいはひとつのやぐらを中心にした3~6窟の小やぐら群であり、場所によってはその小やぐら群が集まった大やぐら群を構成する。
一般的形態は矩形平面をもつ平天井のもので、[[玄室]]前面に出入口としての短い[[羨道]]をもつ<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/07_0121_u034.jpg 画像5])</small>。
羨道とは云うが、やぐらでは羨門ぐらいの短いもので、道というより奥行数十cmぐらいの入口の壁のようなものが多い。
中には前室をもつものもある。
広いものでは8m平方のものもあるが通常は2m平方か、それより若干大きいぐらいのものが多い。


羡道がついている鎌倉時代のものには玄室の入口脇天井に横木のほぞ穴<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/14-0307-SDR-0692.JPG 画像7])</small>や縦柱の穴があり、入口を扉で塞いでいたと思われる。
=== 内部 ===
室町時代になると羡道がなくなり、玄室がそのまま前方の開けた形に、つまり四角い横穴となる。
現在見ることのできるやぐらには多く石造の[[五輪塔]]が置いてある。その他、やぐらには内部彫刻がある場合、[[地蔵菩薩]]等の石像が置いてある場合などがある。
[[明月院]]のように崖崩れで発見される場合や、土木工事で発見される場合もあるが、そのようなときには入口に石を積んで覆っていた痕跡が見つかることがあり、通常は開口せずに閉じていたとも思われている<ref>
;塔婆
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.467
:多くのやぐらの内部には板碑、五輪塔が置いてある。これらは、もちろん後世に置かれたものとも考えられるが、中には鎌倉期、室町期のものもあり、墓塔として、あるいは追善供養のために建てられた塔である。中には五輪塔ではなく[[宝篋印塔]]が置いてある場合もある。
</ref>。
;石仏
:やぐらの本尊として置かれている。彫刻として彫られたものもあれば、他で作られて置かれたものもある。置かれたものは多く納骨穴の蓋代わりになっている例が見られる。
;彫刻
:仏像、五輪塔、[[板碑]]、[[位牌]]などがやぐらの壁に彫られている例が見られる。
;彩色
:西御門谷奥の'''朱垂木やぐら'''には、内部天井部に[[弁柄|ベンガラ]]を用いて朱色で屋根の垂木を模したものが描かれていた痕跡が見られる。やぐらに彩色が施されていたことがわかる例である。


現在はただの岩穴にしか見えないものがほとんどだが、内部は削りっぱなしではなく、今も白い漆喰が残るものもが多数あり<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/14-0307-SDR-0726.JPG 画像6])</small>、平らに白塗りされている<ref>
== 歴史 ==
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.468
やぐらのような様式の墳墓が発生した理由には、広く[[鎌倉幕府]]開府後の鎌倉の地理・人口状況が関与しているとされている。もともと中世期の上流階級([[武士]]など)の埋葬方法は'''法華堂'''と呼ばれる堂を建て、そこに葬るという方式をとっていた。法華堂の中には自分の[[信仰]]する[[仏像]]や位牌などを納めていたようで、[[供養]]のための仏堂と墓を一緒にしたものと考えていいだろう。
</ref>。
さらにその上に漆で唐草などの絵が描かれているものもある。
実朝の墓との伝承のある[[寿福寺]]の唐草やぐらはその漆の部分だけが風化せずに浮彫のようになって残っている<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.129
</ref>。
西御門谷奥の「朱垂木やぐら」には、羨道部分の天井に漆喰の上に[[弁柄|ベンガラ]]を用いた朱色で50本の屋根の垂木を模したものが描かれており、かつそれは庇のように傾斜している<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/14-0307-SDR-0692.JPG 画像7])</small><ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.482-485
</ref>。


=== 内部の納骨 ===
よく知られている例では正治元年([[1199年]])に死去した[[源頼朝]]の場合は現在の「頼朝の墓」(神奈川県鎌倉市西御門2丁目)とされている場所にあった頼朝の持仏堂が、そのまま法華堂、つまり頼朝の[[墓]]の堂になったとされている。ただし、この頼朝法華堂自体は、鎌倉幕府創設者の墓だけあって大寺院であったらしい。他の幕府の有力者たちもこのような法華堂様式で葬られた。
納骨用の造作としては、玄室中央に大きな穴を掘り<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1e/14-0307-KOJ-0980.JPG 画像10])</small>、そこに火葬した骨を次々に入れる場合。
火葬せずに遺体を納める場合<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.66
</ref><ref group="注">
東林寺跡やぐらの例や、後に触れる理知光寺の[[護良親王]]首塚の下のやぐらの例などはあるが、数は少ない。
</ref>。
床面に小さな穴を次々に掘り、そこに火葬した骨を納める場合<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/2004_0502-KZJ.jpg 画像20])</small>。
また壁に四角い穴(龕)や丸い穴を開けてそこに火葬した骨を納める場合や、
三面壁の天井下に[[長押]](なげし)状の納骨用彫り込みをもつやぐら<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/14-0307-SDR-0840.JPG 画像12])</small>
などがある。
それらの穴(龕)には蓋をされていた形跡が残るものもある<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.79
</ref>。
長押(なげし)は柱同士の上部などを水平方向につなぎ、柱の外側から打ち付けられるもので、現在の住宅にもあるが、古代中世の寺院建築においては構造的な意味合いが強く、部材も厚かった。
古代・中世の古建築の解体修理などをすると、この長押上に納骨されているのが見つかることがある<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.148
</ref><ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.122
</ref><ref group="注">
例えば[[南都七大寺]]のひとつ[[元興寺#元興寺(奈良市中院町)|元興寺の極楽坊]](鎌倉時代・国宝)では長押上に小五輪塔を納骨器として載せられていた。
[[中尊寺金色堂]](平安時代後期)でも祭壇の下は藤原三代(実四代)ながら、やはり長押上にそれ以外の納骨が行われているのが解体修理の際に発見されている。
</ref>。


ただし納骨用の造作をもたず、仏華瓶や香炉などに遺骨を納めて石塔の脇におく例や<ref>
しかしながら、[[承久の乱]]以後、鎌倉が政治的に絶対の権力を持つようになると、経済都市としても変貌をとげた。このため、鎌倉の人口は急増、[[都市]]として平地の必要性が増えた。多くの武士たちが法華堂様式で葬られると平地が減ってしまうという事態になったと見られる。
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.146
</ref>、
五輪塔や宝篋印塔の中に納骨されている場合もあるので、後世にそれが持ち去られてしまえば納骨の痕跡はそこに残らない。
なお火葬していない例は少なく、ほとんどは火葬した骨である<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.477
</ref>。


=== 供養のためのもの ===
この頃に前後して仁治3年([[1242年]])に[[九州]][[豊後]]府中の御家人、[[大友頼泰]]が市街地への墓所の建設を禁じる法令を出している。[[大友氏]]は幕府の法令や施政を模倣していることから、これ以前に第3代執権[[北条泰時]]によって、幕府がこのような法令を出していたのではないかと言われている。市街地への墓所建設が禁止されたため、墓所が山中になったと考えられる。また、木造の法華堂には焼失の危険性があったのに対し、岩を削ったやぐらは燃えないので、その転換と改葬が行われたものだと考えられている。
多くの場合五輪塔が置かれる。
五輪塔には墓塔としてのものもあるが、多くは追善供養のために法事のたびに追加されたものと思われている。
[[宝篋印塔]]や板碑が置かれる場合もある。
大型のやぐらには壁面に仏像<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/060313_138-MGI.jpg 画像18])</small>、五輪塔<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/42/14-0307-KOJ-1113.JPG 画像9])</small>、[[板碑]]、[[位牌]]<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/41/14-0307-SDR-0672.JPG 画像7])</small>、の彫刻を施したものもあり、月輪<ref group="注">
仏教語で円形の輪
</ref>
の中に仏や菩薩をあらわす一文字の[[梵字]]([[種子 (密教)|種子字]]:しゅじ)が彫られていたりする。
または仏像がやぐらの本尊として置かれているものもある。
それらはその場で彫られたものもあれば<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/07_0226_456-YG.jpg 画像4])</small>、他で作られて置かれたものもある<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/12-0415-JKM-05.jpg 画像21])</small>。またその下に納骨穴がある例がある<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.469-474
</ref>。
朱垂木やぐらでは立像の仏像が置かれていたのか本尊の背後を舟形光背が彫刻してある<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.75
</ref>。
この舟形光背には白い漆喰の上に日月と雲が描かれていたらしく、漆が黒い線となって残っている。
元はこの漆の線の上に金箔の[[截金]](さいきん:切金とも)が施され、金色に輝いていたものと思われている<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.49
</ref>。


なお五輪塔も現在目にするものは鎌倉石のものは風化が激しく、安山岩のものでも地が剥きだしになり稀に梵字が刻まれている程度で多くは無地である。
やぐらを用いる埋葬形式は、室町時代には衰退したらしい。その後は、倉庫となったり、新たに土葬するために遺体が入れられたりすることもあったことが分かっている。
しかし埋蔵されたまま発見されたやぐらでは五輪塔に年紀と法名が墨書されていたり、漆喰の上から浅く彫って金を入れたものもあり、金が剥がれ落ちれば文字が読めなくなってしまうものも発見されている。
それらのことから元の姿の多くは漆喰で白塗りされ年紀と法名が記されていたであろうと思われている。
実際、多宝寺跡やぐら群では鎌倉石(凝灰質砂岩)の五輪塔の火輪に厚さ1mmにもおよぶ漆喰が残っていたし、極楽寺わき出土のものには梵字が墨書されていたものもある<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.75-76
</ref><ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.101
</ref><ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.399
</ref>。
急傾斜地崩壊対策工事で見つかった[[#松葉ヶ谷奥やぐら群|「松葉ヶ谷奥やぐら群」]]は鎌倉時代末から南北朝時代と推定されるが、[http://kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/01/2007_07.pdf 2号やぐら]では五輪塔に金泥による梵字が確認され、またその地輪内部に火葬骨が納骨されていた。
[http://kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/01/2009_18.pdf 3号やぐら]も五輪塔には金泥で文字を装飾したものが多かった。


== 分布 ==
ただし、以上のやぐらの起源に関することは通説で、当時の鎌倉市中に、人口増加によって墓地が増える問題があったかどうかは、史料としても遺跡としても残っていない。民衆や武士たちの当時の墓のあり方が実際にはどうであったかは、今も不明である。<!--やぐらが本当に平地の武士の墓の代用をしたものかは疑問が残る。鎌倉に本当に墓を必要とした人たちのみが、やぐらの被葬者であると考えねばならない。(エッセイ的に見えます。出典を明記されますようお願いいたします。)-->やぐら内部に副葬品が置かれることはまずなく、被葬者がどういう者であったかを知るのは難しい。故郷の国々に菩提寺を持つ武士たちが、鎌倉に墓を必要としたかは疑わしいだけに、やぐらの被葬者は、ただ単に武士というよりも、さらに限られた階級、特に[[僧侶]]や[[仏師]]などがあげられるのではないかと考える見方もある。
鎌倉が中心であり、山を越えた北鎌倉、六浦(横浜市[[金沢区]])、三浦半島にもあるが数は少なく、圧倒的に鎌倉が多い。
鎌倉の鶴岡八幡宮を中心とした山に囲まれた範囲では中心線より東側に多い。
その多くは南向きの斜面に作られ、次ぎに東向きが多い。
西向きはそれより少なく、北向きはあるにはあるが極めて稀である<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.488-489
</ref><ref>
[[#山稜部の調査2001|山稜部の調査2001]]
</ref><ref>
[[#分布調査2001|分布調査2001]]
</ref>。


また1977年時点で知られるやぐらを所在地別に分類すると以下のようになり、寺院に伴うものが圧倒的に多い<ref>
== 現状 ==
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.138
現在ではハイキングコースに面しているような人目につきやすいやぐらでも、埋没するなど現状はかなり荒廃している。ましてや人目につきにくいやぐらは、いっそう埋没や荒廃が顕著である。過去にはやぐらの[[発掘調査]]が行われたが、現在行われているやぐらの発掘調査は、主に急傾斜地の崩落対策工事に伴うものや宅地開発前に形式的に行われるものだけである。
</ref>。その寺院を宗派別に分類すると律宗系が650窟で71%を占める<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.142
</ref><ref group="注">
なお、当時の宗派は現在のように固定的なものではない。特に鎌倉時代に律宗と呼ばれる西大寺系、泉涌寺系の一派は戒律を重んじる四宗兼学の総合大学のようなものであり、ここでの律宗系とは現在残る寺の宗派ではなく兼学である浄光明寺などもここでは律宗系とカウントしている。
</ref>。
* 寺院、または寺院跡に伴うもの 920窟(77%)
* 武家居館跡に伴うもの 110窟(10%)
* 切通し周辺にあるもの 161窟(13%)


== 古代横穴納骨窟とやぐら ==
また、やぐらはいたずらや、宅地開発など土木工事による破壊からも免れられず、貴重なやぐらの破壊は今なお続いている。鎌倉だけで2000(5000とも)を超えるやぐらがあるとされているが、そのうち市の指定史跡となっているやぐらは、東瓜ヶ谷の5基のみで、その他は特に指定などは行われていない。
=== 古代納骨窟 ===
横穴式の納骨窟は奈良時代の鎌倉にも存在した。
鎌倉だけでなく、[[駿河国]]、[[伊豆国]]、[[相模国]]、[[武蔵国]]、[[安房国]]、[[上総国]]、[[下総国]]と広範囲にみられる。
ただしそれは奈良時代に終わっており、鎌倉時代のやぐらの習俗との繋がりはない<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.486
</ref>。
ただし奈良時代の横穴式の納骨窟に納骨穴を掘り、火葬骨を納めて五輪塔で供養している例が見つかっており、鎌倉時代初期には奈良時代の横穴式の納骨窟を利用した埋葬はあったと思われている<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.487
</ref><ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.33
</ref><ref group="注">
具体的な例は頼朝法華堂の東隣、義時法華堂跡とされる平場の上の、江戸時代から[[大江広元]]の墓と伝えるやぐらは奈良時代のものの再利用とみられる。
</ref>。
なお、巌窟の宗教施設なら全国にみられる。
鎌倉においては巌堂や岩殿寺などがそれにあたり、ふたつとも平安時代からのものである。


== 代表的なやぐら ==
=== やぐらの年代 ===
やぐらには現在のビルの礎石のような何年何月竣工などという表示はない。
=== 鎌倉周辺の有名なやぐら ===
鎌倉石は砂岩であるので脆く風化しやすい。内部の五輪塔などには当初は紀年銘があったであろうが、ほとんどは風化して判らなくなっている。
* '''[[お塔の窪やぐら]]''' 十二所山中。[[北条高時]]の墓所と伝えるやぐらのうちの一つ。籾塔と呼ばれる鎌倉最古の宝篋印塔がある。
鎌倉のヤグラから出土したという宝治二年(1248年)銘の籾塔形式宝篋印塔(個人蔵)もあるが購入時にそう聞いたという範囲の話で検証できるものではない<ref>
* '''[[唐糸やぐら]]''' [[釈迦堂切通し]]近く。鎌倉時代中期。やぐらの扉をつけた痕跡が顕著に見られるため「[[唐糸草子]]」の牢屋の伝説を生み出した。
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.371
* '''[[日月やぐら]]''' 釈迦堂切通し直上。鎌倉時代末期。日と月を模った納骨穴を内部壁に持つ。
</ref><ref>
* '''[[首やぐら]]''' [[瑞泉寺 (鎌倉市)|瑞泉寺]]裏山。北条高時の首塚と伝えるやぐらのうちの一つ。貝吹地蔵に地蔵信仰の伝承を併せ持つ。
[[#中世石塔の考古学|中世石塔の考古学]] p.202
* '''[[釈迦堂奥やぐら]]''' 浄明寺釈迦堂谷奥。鎌倉幕府崩壊時の[[東勝寺合戦]]の戦死者を葬った伝承があり、それを裏付ける日付の入った五輪塔の一部が見つかった。宅地開発で主要部は破壊されたが、一部が現存しているという。
</ref><ref group="注">
* '''[[朱垂木やぐら]]''' 西御門谷山中。前述参考。
この籾塔形式宝篋印塔は安山岩製というが、鎌倉周辺に安山岩製の石塔や石仏でもっとも古いのは[[称名寺 (横浜市)|金沢・称名寺]]にある[[北条実泰]](1263年没)夫妻再建塔もしくは[[北条実時]](1276年没)墓塔と考えられる五輪塔である。
* '''[[腹切りやぐら]]''' 小町3丁目の東勝寺跡近く。北条高時らが付近で切腹したという
称名寺が南都律の寺となったのは1267年(文永4年)であるので実泰夫妻再建塔はそれ以降に作られたものということになる。
* '''[[多宝寺跡やぐら]]''' [[扇ヶ谷|扇ガ谷]]山中。覚賢塔という巨大な五輪塔を中心に存在。
現在鎌倉にある安山岩の宝篋印塔で最も古いのは安養院にあるもので1308年(徳治3年)である。
* '''[[東瓜ヶ谷やぐら]]''' 東瓜ヶ谷谷底。郡中で最大の地蔵やぐらには多彩な彫刻、そのほかのやぐらにも五輪塔の[[レリーフ]]が見える。
</ref>。
* '''[[東泉水やぐら]]''' 東泉水谷。立派な五輪塔の[[レリーフ]]を数基持つ。
実際にやぐらで確認された紀年銘の最も古いものは[[神奈川県道204号金沢鎌倉線|朝比奈峠]]下やぐら内の[[板碑]]にあった[[文永|文永年間]](1260~1270年代)のものである<ref group="注">
* '''[[百八やぐら]]''' 二階堂[[覚園寺]]裏山一帯。200近いやぐらが密集する。すべての様式のやぐらが存在する。ここには[[仏師]]も埋葬されたようである。
[[板碑]]は秩父産の緑泥片岩で造られるため安山岩より加工しやすく鎌倉石のように風化しない。
* '''[[十四やぐら]]''' 西瓜ヶ谷の山中。14の五輪塔の[[レリーフ]]を持つ。
</ref>。
* '''[[名越切通し#関連史跡と近隣の名所|まんだら堂やぐら群]]''' [[鎌倉七口]]のひとつ、[[名越切通]]に隣接したやぐら群。150穴以上が密集。大部分が[[逗子市]]側にある。切通とともに国指定[[史跡]]となっている。
しかしそれが初めて、それ以前にはやぐらは無いということを証明するものはない。


年代を示すもので多いのは鎌倉時代後期、1300年代に入ってのものである。
[[浄光明寺]]のやぐらにある石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)には正和2年(1313年)の銘があり、多宝寺のやぐらにも嘉暦2年(1327年)の年号と僧名が残る<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] pp.147-148
</ref>。
これらは鎌倉の人口が最大となった時期にも該当するが、もうひとつの理由は職人層を実質支配していた[[忍性]]ら[[律宗]]教団が奈良京都から石工を連れてきて、伊豆から運んだ[[安山岩]]などの堅い石で石仏や五輪塔などを作り始めたことで銘文が残りやすくなったことにもよる<ref>
[[#山川均2006|山川均2006]] pp.90-97
</ref><ref group="注">
例えば浄光明寺のやぐらにある網引地蔵は鎌倉の石ではなく[[安山岩]]である。
それ以前の鎌倉の石工の工具では安山岩は彫れなかった。
より具体的には、ちょうど1300年(正安2年)に忍性に従って箱根山に来た大蔵心阿がそこで宝篋印塔を完成さた。そしてその後鎌倉に定着したのが鎌倉における宝篋印塔のはじまりだとされる。
ただし、五輪塔には13世紀末と見られる称名寺のものもあり、極楽寺と称名寺で様式が僅かに異なることから、西大寺(南都律)系でも複数の石工集団が居たと推測される([[#中世石塔の考古学|中世石塔の考古学]] p.207 )。
</ref>。
また、納められている五輪塔などの様式からほとんどは鎌倉時代、一部は室町時代と判明する。

== やぐらの埋葬者 ==
=== 判明している埋葬者 ===
先に述べたようにやぐらの中には雲形位牌が浮彫にされているものもあり、当初は上を覆う漆喰の上に、墨か、あるいは漆を塗ってその上に金泥かで戒名が書かれていたと思われる。しかし数百年の間の風化ではげ落ち、読めるものはほとんどない。
五輪塔も初期には鎌倉石であるために風化が激しい。
そうした中で、鎌倉時代後期から鎌倉でも見られるようになった安山岩製の仏像、五輪塔などに僅かに名前の知れたものがある。

* [[神武寺]]の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に「大唐高麗舞師 本朝神楽博士 従五位上行 左近将監 中原朝臣光氏(行年七十三)」とある。この中原光氏は『吾妻鏡』などにも登場する楽人で、鎌倉国宝館にある裸形弁才天座像(重文)の寄進者である<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.91-92
</ref>。

* [[覚園寺]]の裏山にあたる百八やぐらに「掘出地蔵やぐら」とよばれるものがあるが、その中の二基の五輪塔の地輪に「正祐□□」と読めるものと「祐阿弥陀仏(梵字)逆修四十九 応永三十三年(1426年)八月十五日」とあるものが残っている。「祐阿弥陀仏」は室町時代の初期、[[応永]]年間(1394-1427年)の覚園寺大修造に際して、本尊薬師如来の両脇侍、日光・月光両菩薩ほか十二神将その他の造仏を行った仏師「朝祐」である。もうひとつの「正祐」はその父親で、[[足利尊氏]]が行った[[文和]]年間(1352-1356年)の修造のときの仏師と推定される<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.87-89
</ref>。このことからも、ひとつのやぐらはその家、その一族の「先祖代々の墓」として用いられたと考えられる<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.121
</ref><ref group="注">
なお「逆修四十九」の「逆修」とは生前に自分の三十三回忌までの全ての法要行ってしまうことで、死後の追善休養の6倍の功徳があるとされていた。これが行われているということは、今日の生前墓と同じように、死ぬ前に自分のやぐらを用意しておくということも想像される。法華堂が生前は持仏堂だったようなものである。
</ref>。

* 理知光寺の[[護良親王]]首塚の下のやぐらに常滑の大甕が出土し、中には屈葬で入定している火葬していない遺体があった。その大甕の桃型の黒漆の入れ物があり、その中から水晶の丸玉の中をくり抜いて舎利を入れたもの(能作性の舎利)が発見された<ref>
画像は[[#三館連携特別展2012|三館連携特別展2012]] p.256
</ref>。そのことからその遺体は1327年4月17日に理知光寺で亡くなった伊豆の妙浄上人宥祥と推定されている<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.123
</ref><ref>
[[#紅葉ヶ谷発掘調査|紅葉ヶ谷発掘調査]] p.6
</ref>。

やぐらは「鎌倉武士の墓」と云われるが、上記のように決して武士だけの墓ではなく、芸能人、芸術家、僧なども含めた上流階級の墓とされる<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.92
</ref><ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.121-123
</ref>。

=== 武士を埋葬と思われるもの ===
なお、武士のやぐらの墓は[[報国寺]]のやぐら
に[[足利家時]]と、ここで自刃した[[足利義久]]の墓がある<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/06_0115_013-HKJ.jpg 画像24])</small>。
ただしそのために掘られたものかどうかは判らない。
釈迦堂奥やぐら群には宝戒寺普川国師入定窟と伝えるやぐらがあった。
井戸のように深く掘られたところに火葬しない多数の人骨があって、中には刀傷のある生焼けの頭蓋などがあった。
そのことから鎌倉幕府滅亡時に東勝寺で討ち死、または自害した者を埋葬したのではないかとも噂されていた<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.508-509
</ref>。
後年、そのやぐら近辺が宅地造成で切り崩されるとき、五輪塔の地輪に[[種子 (密教)|種子]]と共に「元弘三年日五月二十八日」の日付を刻むもつが見つかる。
この日は北条氏滅亡の初七日にあたる。
そのことから、おそらくは東勝寺で自害した北条一門を供養したものだろうとされる<ref>
地輪の画像は[[#三館連携特別展2012|三館連携特別展2012]] p.256
</ref><ref>
発見場所での供養の画像は[[#三館連携特別展2012|三館連携特別展2012]] p.267
</ref>。
[[北条政村]]の常磐亭跡などの奥にもやぐらがあることや、[[明月院]]のやぐらのように[[上杉憲方]]の墓と思われるものもあり<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/060313_138-MGI.jpg 画像18])</small>、
武士がやぐらに葬られたことは間違いないと思われている。

武士は晩年、ないしは死の直前に出家するケースがほとんどで、「○○入道」などと彫られたものは見つかっている。
例えば1935年(昭和10年)に二階堂の亀ヶ淵のやぐらに大甕が埋められているのが発見され、中に一体の骨が納めてあった。
そしてその上は大きな切石で蓋をしてあり、その上に宝篋印塔1基と五輪塔が乗っていたが、その宝篋印塔や五輪塔には「清義禅定門」の供養碑であることが記され、五輪塔のひとつには「奉五輪妙相一基 永享五年八月二十日」とあった。
永享5年(1433年)は室町時代中期である。
「禅定門」は居士に似た戒名の位であり、武士であろうとは推測されるが、ただしそれらが誰だかは判らない<ref group="注">
俗名の知れるものには極楽寺の忍性塔の傍らに延慶3年(1310年)の安山岩製五輪塔がある。
「関弥八左衛門入道 沙弥 行真 延慶三年八月五日」と銘があるので武士と思われる([[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.405)。
この例のように仮に俗名が判明してもよほど有名で、古文書の各所に出てくる者でなければどのような者であるのかは判明しない。
なおこれはやぐらの例ではない。
極楽寺は境界である極楽寺坂の外、昔は地獄谷であった地であり墓はやぐらでなくとも良い。
</ref>。
調査の結果彫られた銘文から身分や素性が判明したというものはない。

=== 後世の伝承にすぎないもの ===
[[寿福寺]]のやぐら群や頼朝の墓の東隣の谷にある[[北条政子]]の墓([[#北条政子の法華堂|後述]])、[[源実朝]]の墓([[#実朝の法華堂|後述]])、[[大江広元]]の墓、[[島津忠久]]の墓、などとされるものはみな江戸時代に作られた伝承である。
島津忠久の墓とするものは安永8年(1779年)に[[薩摩藩]]がそう称してやぐら前面の造作を作ったもので、それ以前の[[新編鎌倉志|『新編鎌倉志』]]に記載はなく、後の[[新編相模風土記稿|『新編相模風土記稿』]]では「案ずるに忠久の墓、此の地に在るること疑ふべし。・・・個々に頼朝の墳墓あるにより新たに遠祖の碑を造立せしものと覚ゆ」と書く。
隣の大江広元の墓というのは、子孫である[[長州藩]]が薩摩藩の島津氏に対抗して江戸時代の文政6年(1823年)にこれを大江広元の墓としたもので<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.352
</ref><ref group="注">
例えば十二所に大江広元塔と伝えるものがあるが、江戸時代後期に毛利家の家老らが調べにきたとき、土地の者は後の煩わしさを避けるために屋蓋部を谷に突き落として、そのようなものは残っていないと答えたと伝えている。
昭和になって落とされた部分も集めて積み重ねられたがそちらが本物かどうかは別の話で、似たような話は他にもある。
</ref>、
その6年後の[[#鎌倉攬勝考|『鎌倉攬勝考』]]は「土人等大江広元の墓なりというは訝(いぶか)しき説なり」と否定している<ref>
[[#鎌倉史蹟疑考|鎌倉史蹟疑考]] pp.207-208
</ref>。
「唐糸やぐら」の唐糸伝説や、[[護良親王]]の土牢(現[[鎌倉宮]])の伝承は江戸時代より前に成立はしているが、室町時代にはやぐら本来の意味は忘れ去られて「牢」だと思われていたことをしるすに過ぎない。

== 庶民の埋葬 ==
=== 京の百姓葬送の地 ===
この時代の「百姓」とは貴族官人以外の納税者、庶民の意味である。
中世の庶民に「先祖代々の墓」はない<ref>
[[#筒井功2010|筒井功2010]] p.133
</ref><ref group="注">
[[柳田国男]]は「石器を使っていた時代の人骨でも、探しているとおいおい出てくるのに、いかなる古い村にも中世以前の墓場というものがない」と述べている。
</ref>。
「先祖代々」は「家」の確立があってのことであり、庶民にも「家」の概念が浸透するのは江戸時代前期からである<ref>
[[#渡辺尚志2009|渡辺尚志2009]] p.10
</ref><ref>
[[#大石慎三郎1995|大石慎三郎1995]] pp.3-8,94-97
</ref><ref>
[[#鈴木ゆり子1994|鈴木ゆり子1994]] p.67</ref><ref group="注">
鎌倉時代より数百年後の戦国時代でさえ、奥州伊達家の分国法「塵芥集」などには子供の分配を決める項目がある([[#大石慎三郎1995|大石慎三郎1995]] p.4)。
似たような例は鎌倉時代の御成敗式目の他([[#中世法制史料集1|『中世法制史料集1』]] 「御成敗式目」41条「奴婢雑人事」 p.24)、極楽寺の古文書にも見られる。
</ref><ref>
[[#民俗小事典|民俗小事典]] p.7, p. 200
</ref><ref group="注">
江戸時代にも家の墓地や墓石はあったが、その墓石が先祖代々の墓となるのは実は明治時代からである。
</ref>。
宗教絵画に屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた[[九相図]]というものがあるように、インドだけでなくかつては日本においてもそれは普通の日常的な光景であった。
京においても子供ならば貴族の子、天皇の子の遺体さえも火葬も土葬もされずに町の外に運んでそのまま置かれている。いわば風葬である<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.157
</ref><ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.120
</ref><ref group="注">
1077年(承保4年)9月に白河天皇の皇子が4歳で死んだとき、遺体を東山大谷に棄てた。
[[源俊房]]は『水左記』に「七歳のうち、尊卑ただ同じことなり」と書いており、下々の者は風葬があたりまえであったことを示している。
</ref>。
871年(貞観13年)の太政官符には鴨川の下流を指して近年耕地化されつつあるがここは「百姓葬送の地、放牧之処」であるので耕地化を禁止すると命令している。
後に述べる[[#市街地での埋葬禁止令|鎌倉の埋葬禁止令]]とは逆に見えるかもしれないが、太政官符が指しているのは市街地の外の葬送の地のことである<ref>
[[#筒井功2010|筒井功2010]] p.138
</ref><ref group="注">
鴨川の下流、桂川との合流地点付近で古くは「佐比河原」(さいのかわら)と呼ばれていた地である。ここは京の外とされている。
</ref>。

=== 葬送の地・地獄の風景 ===
[[東京国立博物館]]蔵の12-13世紀の作とされる[[餓鬼草紙|『餓鬼草紙』]]の[http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other_img&size=L&colid=A10476&img_id=4&t= 「疾行餓鬼の図」]に葬送の地の一コマがある。
土饅頭(塚墓)の上に木が植わっているもの、石が置かれているもの(これらも墓標である)、木の卒塔婆が立っているもの、それを柵で囲っているもの、卒塔婆が五輪塔のもの。
そのまわりには既に白骨化したものが散乱し、莚の上の裸の女性の遺体は置かれて間もなく、その枕元には漆塗りらしき器がふたつ置かれている。
別の敷物の上には腐乱した男の遺体。
そして蓋のない棺に入れられた遺体を犬が食っている。
その棺の傍には棺を担いだときの棒と、その脇に折敷(薄板の盆)と土器(かわらけ)が描かれている。
これらは決して行き倒れではなく不法な死体遺棄でもない。
この絵の中のフィクションは5人の[[餓鬼]]だけであり、それ以外は当時の誰もが知っていた普通の葬送の地の光景がまとめて描かれている。
なお死体がみな裸なのは運んだのが親族なら帰った後に盗られたのかもしれない<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.127-128、p.217
</ref><ref group="注">
1226年(嘉禄2年)に六条朱雀に首を切られた男女の死体があったが見物人が集まった頃にはもう死骸は全裸で、道行く人が見るに見かねて木の枝を折って女陰を隠したという。[[侍従]]源親行が悪行を繰り返し、その情婦(自分の異母姉)とともに父雅行に殺されたもので当然着物をまとっていたはずである(藤原定家『明月記』嘉禄2年6月23,24日条)。
</ref>。
運ぶのを依頼されたのが坂非人とか河原者なら、衣類具足は報酬としてそれらの者が取る権利がある<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.220-222
</ref><ref group="注">
[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]系[[律宗]](南都律)の創始者[[叡尊]]に出された非人の請文に「諸人葬送の時、山野において随身せしむる所の具足(衣類その他葬具)」を非人が取る権利が記されている。
現在の感覚からは違和感はあるが、そもそも僧侶が着す[[袈裟]]の元は釈迦やその弟子の出家者が着ていた糞掃衣が元で、それらは風葬された遺体などから集めたものである。
そもそも病気で死にそうになった使用人は食べ物と一緒に道に出されるという時代の話なので、現代の感覚は通用しない。
</ref>。
鎌倉で地獄谷と云われる地をよく「刑場」と云われるが、稀に刑場にも使われる葬送の地という意味である。
葬送の地だから処刑した死体はそのまま放置できる。

=== 鎌倉の地獄の風景 ===
[[File:07 0121 urigayatu008.jpg|thumb|300px|<strong>99:</strong>瓜が谷やぐら群1号穴の地蔵菩薩石像と神像]]
鎌倉では死体を埋葬ないしは放棄するのは、鎌倉中<ref group="注">
「かまくらちゅう」と読み、時期によって範囲は拡大していくが、おおよそ山に囲まれた鎌倉中心部の意味であり、首都の都区部ぐらいの意味である。
その内と外では法が変わる。
中は幕府の直接支配であり、外はそれぞれの地頭の支配である。
</ref>
の外、境界の外側であり、後の極楽寺や建長寺の場所が地獄谷と言われていたのはそのためである<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.157
</ref><ref>
[[#名越切通2001|名越切通2001]] p.4
</ref><ref group="注">
1277年(健治3年)の「富木常忍書状」によると小袋坂で下級の僧が葬送の死体の肉を切り取っているのを発見され、政所に糾問されている。
先の[[餓鬼草紙|『餓鬼草紙』]][http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other_img&size=L&colid=A10476&img_id=4&t= 「疾行餓鬼の図」]にある女の遺体の様な、運ばれて間もない遺体から肉を切り取っていたのであろう。
なお坂とは今は登り下りの道の意味だが、この時代には境界、峠を指す。例えば鎌倉七口切通しは「坂」と呼ばれている。小袋坂は建長寺の前を通る道。
建長寺の地はかつて地獄谷と呼ばれていたがこのとき既に建長寺は建てられていた。
</ref>。
[[名越切通]]付近にも[[名越切通#まんだら堂|まんだら堂やぐら群]]とは別に、死者の埋葬地に建立された鎌倉時代の石廟がふたつ残り(鎌倉市指定文化財)、古くから葬送の地であったことを伺わせる<ref>
[[#分布調査2001|分布調査2001]] p.4
</ref><ref group="注">
なおそこは尾根の上の平場でありやぐらはなく、「疾行餓鬼の図」のように死体は放置されたか埋められたと思われる。
ただしこの地の発掘調査は行われていない。
</ref>。
よく刑場と云われる[[化粧坂]]のすぐ傍の瓜が谷やぐら群の1号穴([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/07_0121_urigayatu008.jpg 画像99])には中央に地蔵菩薩の石像、壁には死後の審判を行う十王らしき四体の神像彫刻がある<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.119-120
</ref>。
更にそこから下って北鎌倉駅前の道で出たすぐ左側の橋は十王橋という。
従ってこのあたりも葬送の地であったと想像されている。
鎌倉で地獄谷と云われる地をよく「刑場」と云われるが、葬送の地だから刑場にも使われるというだけである。
処刑した死体はそのまま放置できる。

海側は現在の下馬交叉点の近くまで滑川が入江のようになっており、その先は市街地ではない<ref group="注">
後にはその地にも倉庫のような建物が増えてゆくが。
</ref>。
現在の一の鳥居が浜の大鳥居と呼ばれたように浜である。
その浜もまた埋葬地であり多くの人骨が見つかっている。
ひとつの穴に数百の人骨と牛馬など動物の骨もあり、人間の大腿骨の端の部分に犬に囓られた跡があったりと<ref>
画像は[[#三館連携特別展2012|三館連携特別展2012]] p.207
</ref>、
付近に散乱していた骨をだいぶ時間が経ってから集めて埋めたとみなされている。
つまり浜にはかなりの死体が放置されていたということである<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] pp.157-158
</ref>。
先に触れた餓鬼草紙にあるようにこれは当時としては異様な光景ではない。
鎌倉の浜に相当するものは、京においては鴨川の河原である<ref>
[[#筒井功2010|筒井功2010]] pp.137-138
</ref><ref>
[[#今昔物語集3|今昔物語集3]] 巻第29話 pp.483-485
</ref><ref group="注">
12世紀初頭の成立とされる[[今昔物語集]]には、信心深い若い男が路上であった[[検非違使]]庁の[[放免]]に大内裏の跡地で死んでいた少年の死体を鴨川の河原に棄ててくるように命じられたことが記されている。
実はこの少年の死体は金の塊で、長谷観音への信心のご利益だったという仏教逸話だが。
</ref>。

不法なのは市街地の大路や辻への遺棄・放棄であるがこれとて死体遺棄事件というほどのものではない。
鎌倉幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している。
何度も出すということはいっこうに止まなかったということである。
現に発掘調査では若宮大路や横大路の側溝、鶴岡八幡宮の三方掘の中からも、牛馬の骨とか成人や少年の骨が出てくる<ref>
[[#中世鎌倉を掘る1994|中世鎌倉を掘る1994]] pp.56-57
</ref><ref group="注">
ちなみに当時の若宮大路は祭礼のためのもので日常の目抜き通りではない。
屋敷や御所の主要な門は小町通側にある。
なお当時の小町通りは現在の小町通りではなく、若宮大路の東側である。
</ref>。

== 鎌倉時代の最上流の埋葬 ==
=== 京の文化と鎌倉武士 ===
鎌倉の武士は、あるいは[[武士団|武士]]そのものが主に王朝貴族の末裔で<ref>
[[#戸田芳実1991|戸田芳実1991]] p.30
</ref><ref group="注">
関東の武士の多くは[[軍事貴族|辺境軍事貴族]]とされる[[平高望]]他、[[源経基]]、[[藤原利仁]]、[[藤原秀郷]]らの子孫であり、またはその子孫を標榜している。
</ref>、
土着しながらも中央(京の権門)と結びつくことによって、在地での自分の身分[[所職|職]](しき)を維持し、うまくいけば[[官位]]を手にして在地での身分をより強固にした階層。
あるいは京の下級官吏が権門に所職を与えられて関東に下った者達である。
[[#平安後期|平安時代末期]]には関東の多くの在地領主は中央の[[権門]]、[[女院]]とか[[平家]]などと結びつくために出仕し、京の文化に触れている。
例えば元歴元年(1184年)6月に、鎌倉に来ていた頼朝の恩人、[[平頼盛]]が京に帰るというので、頼朝が送別の酒宴を開いたが、そのときに「京に馴るるの輩」として[[小山朝政]]、[[三浦義澄]]、[[結城朝光]]、[[下河辺行平]]、[[畠山重忠]]、[[橘公長]]、[[足立遠元]]、[[八田知家]]、[[後藤基清]]らが同席した。
彼らは単に京に行ったことがあるということではなく、正二位権大納言つまり貴族として最上位に近い平頼盛のための酒宴の席で、ちゃんと頼盛を和ませるだけの京風の教養とマナーを心得た者ということである<ref>
『吾妻鏡』元歴元年(1184年)6月1日条
</ref>。
頼朝などは年少の頃までその京の王朝文化の中枢で育ち、幼少の頃に既に右兵衛佐という官職を持っている。なので頼朝は貴種と呼ばれる。[[北条時政]]も[[大番役]]で京に出仕していて、戻ってきたら娘の政子が流人の頼朝とできていたという状態である。
奥州藤原氏のように自身では京にのぼらなくとも、京の権門でも最強の[[摂関家]]の奥州荘園の管理者であり、また蝦夷地を含めた海産物や砂金の供給源として京と強い繋がりを持っている<ref>
[[#高橋崇2002|高橋崇2002]] pp.112-135
</ref>。
奥州平泉の[[中尊寺]]は京の文化が地方の実力者にまで浸透していたことを示す良い例である。

=== 王朝貴族の墓と法華堂 ===
その京の文化はどういうものであったかというと、10世紀から11世紀頃の貴族社会では火葬が一般的ではあるが土葬も行われていた。
藤原摂関家累代の木幡の墓所のように一族の墓所はあったが、そこは死穢(しえ)の場所であり、埋葬後木の卒塔婆がたてられたり、土葬した上に霊屋や、犬などに食い荒らされるのを防ぐ釘貫(くぎぬき:柵)などもつくられたりはするが、それらはそのまま朽ち果てるに任せた<ref group="注">
石の卒塔婆を立てるように遺言した最初の人は18代[[天台座主]]元三大師[[良源]]で([[#勝田至2012|勝田至2012]] p.131)、それが五輪塔となった早い例は[[兵範記]]の1167年(仁安2年)に出てくる[[藤原基実]]墓石である。
しかし良源の場合も中有の四十九日までにそれを建てろと云っていることから、転生するまでの期間の功徳を期したもので、そこにいつまでも霊が残るという意味での墓塔ではないとも見られている([[#勝田至2012|勝田至2012]] p.131)。
</ref>。
そして継続的な墓参はなされず、貴族達は死者の供養を墓ではなく寺院や仏堂で行っていた<ref>
[[#民俗小事典|民俗小事典]] pp.5-7
</ref>。
藤原氏の一族の墓である木幡も墓域に石塔がひとつ建っていただけだという。
ひとりひとりの墓標はない<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] pp.131-132
</ref><ref group="注">
墓塔に戒名や没年月日を書くことは13世紀後半から広がりはじめ、墓参は14世紀初頭から徐々に広まったと考えられている。
</ref>。
今日思われているほど遺骨は重視されてはいない。

そうした中で、1052年(永承7年)が末法元年であるとする[[末法思想]]が蔓延し、盛んに経塚造営や法華三昧堂(法華堂)建立が行われる。
[[法然]]を開祖とする[[浄土宗]]は(後には[[親鸞]]を開祖とする[[浄土真宗]]、[[日蓮]]の[[日蓮宗]]なども)この末法思想に立脚している。
経塚では寛弘4年(1007年)[[大和国]][[金峯山寺|金峯山]]の[[藤原道長]]のものが有名だが、法華堂は道長が山城国木幡の藤原氏の墓域に浄妙寺法華三昧堂を建立したのが始めである。
阿弥陀堂とか地蔵堂というのはその堂の本尊からの呼称であるが、法華堂というのは法華三昧を修する堂で、機能からの呼称である<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.146
</ref><ref group="注">
そこは数名の三昧僧が交代で昼は法華経を読み、夜は念仏を唱えたりする。
</ref>。
その後、その風習が皇族・貴族の上層部に広まる。
そして[[鎌倉時代]]初期の御家人らの記憶の範囲、[[二条天皇]]、[[六条天皇]]、[[高倉天皇]]、[[後鳥羽天皇]]、[[順徳天皇]]、[[後堀河天皇]]らはいずれも法華堂に葬られ、墳墓堂のようになる<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.22-25
</ref><ref group="注">
葬られ方は様々で火葬骨が多いが棺のまま安置されることもありそれは遺言等による。堂の下に埋められる場合もあれば、仏像の下に入れられることもある([[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.139-140)。
</ref>。
それは皇室に限られたものではなく、平安時代後期の上流階級での一般的な傾向である。
例えば奥州平泉の[[中尊寺金色堂]]は奥州藤原4代の遺体を安置する墓堂、廟堂、つまりここでいう法華堂である。実際にミイラ化した遺体が発見されている<ref>
[[#高橋崇2002|高橋崇2002]] pp.232-260
</ref>。

=== 頼朝の法華堂 ===
寺を建てられるような最上級、将軍家や執権・連署クラスはやぐらではなくその寺に葬られる<ref group="注">
良い例が頼朝の墓、[[北条泰時]]、[[北条時頼]]、[[北条時宗]]などの墓はやぐらではない。
</ref>。
例えば頼朝は大倉御所の北の山の中腹に持仏堂を持ち、そこが死後法華堂となる。
頼朝が死んだ年の記事は『吾妻鏡』には無いが、一周期の記事は正治2年(1200年)1月13日条にあり法華堂で[[栄西]]を導師として執り行われている<ref>
『吾妻鏡』正治2年(1200年)1月13日条
</ref>。
この頼朝法華堂は現在国の史跡で法華堂跡とされる伝頼朝の墓の石段下ではなく、頼朝の墓のある石段上の平場とされる<ref group="注">
現在の白旗神社の場所は近世まで山の斜面であったことが発掘調査で明らかになっている。
</ref>。
そこが法華堂跡であり、頼朝の墓所であったことは『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)の新御所を何処にするかについての陰陽師等の議論の記録で判る<ref>
『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)10月19日条
</ref><ref>
『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)10月20日条
</ref><ref group="注">
10月19日条では地相人金浄法師が「 右大將家(頼朝)法華堂下の御所の地は、四神相応最上の地なり。何ぞ他所に引き移さるべけんや」と、頼朝の法華堂が平地の上にあることを前提とした意見を述べる。
10月20日条では珍誉法眼が「法華堂前の御地然るべからざるの所なり 。西方に丘有り。その上右幕下(頼朝)の御廟を安んず。その親墓高くしてその下に居らば、子孫これ無きの由、本文に見ゆ」。「本文」とは陰陽道の奥義書の意味である。ここでも頼朝の法華堂が頼朝の墓であり、それが平地よりも上であることを前提として意見を述べている。
</ref>。

=== 北条政子の法華堂 ===
[[寿福寺]]に[[北条政子]]の墓、[[源実朝|実朝]]の墓との伝承をもつやぐらがあるが、江戸時代初期の[[沢庵和尚鎌倉巡礼記|沢庵]]も[[玉舟和尚鎌倉記|玉舟]]も寿福寺に詣でてはいるが政子、実朝の墓には一言も触れていない。
その伝承は江戸時代後期の[[#鎌倉攬勝考|『鎌倉攬勝考』]]が地元の伝承として紹介したものだが、『攬勝考』の著者自身は『吾妻鏡』で政子は勝長寿院に埋葬されていることを知っており、「そうだとすれば分骨か?」とあまり信用してはいない。
『攬勝考』以前には[[源頼家]]の墓と紹介されたこともある。
北条政子は『吾妻鏡』貞応2年(1223年)4月19日条に「勝長寿院奥の御堂、同じき傍らの御亭等上棟なり」とあり<ref>
『吾妻鏡』貞応2年(1223年)4月19日条
</ref>、
大倉御所・頼朝法華堂の滑川をはさんだ対岸に弥勒菩薩を本尊とする伽藍・新御堂と御所を建て、7月26日にその新造の御堂御所に移る<ref>
『吾妻鏡』貞応2年(1223年)7月26日条
</ref>。
1225年(嘉禄元年)7月11日に亡くなり、翌12日に御堂御所の地で火葬される<ref>
『吾妻鏡』貞応2年(1223年)7月12日条
</ref>。
この新御堂が死に備える政子生前の持仏堂、死後の法華堂である<ref>
『吾妻鏡』建長3年(1251年)8月6日条
</ref><ref group="注">
『吾妻鏡』には「勝長寿院の小御堂は故禅定二位家(政子)の御遺跡」とある。
</ref>。
またその寿福寺のやぐらには頼朝と政子の間の子、[[三幡|乙姫]]の墓ではないかとする説が[[#鎌倉攬勝考|『鎌倉攬勝考』]]にあり、それを踏襲する論考も出ている。しかし『吾妻鏡』にあるのは同じ亀谷堂でも[[岡崎義実]]の建てた草堂(後の[[寿福寺]])ではなくて乙姫の乳母夫であった[[中原親能]]亀谷宅の持仏堂・法華堂である<ref>
『吾妻鏡』正治元年(1199年)6月30日条
</ref><ref>
『吾妻鏡』正治元年(1199年)7月6日条
</ref><ref>
『吾妻鏡』建仁2年(1202年)1月29日条
</ref><ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.36-37
</ref><ref group="注">
[[中原親能]]は建仁2年1月29日条に鎌倉では亀ヶ谷に屋敷を持っていることが記されており、正治元年6月30日条で乙姫の死で出家し、その夜に屋敷内の持仏堂(亀谷堂)の傍らに乙姫を埋葬する。
その持仏堂で乙姫の冥福を祈ったのだろう。
なお、[[#鎌倉攬勝考|『鎌倉攬勝考』]]は「尼御所の廟なりというは、此の姫君の塋域にはあらずや、慥か(確か)なることはしれず」と書き、断定している訳ではない。
</ref>。

=== 実朝の法華堂 ===
同じ寿福寺の[[源実朝|実朝]]の墓との伝承をもつ唐草やぐらについても同様である。
実朝の首は行方不明になったが首以外は勝長寿院で火葬され、そこに法華堂が建てられたとみられている。
骨は高野山の金剛三昧院に送られ、頼朝の庶子で実朝の異母兄にあたる[[貞暁]]が供養した<ref group="注">
これが分骨であるのか、拾い上げたすべての骨なのかは不明である。
1160年(永暦元年)に没した[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の寵妃[[藤原得子|美福門院]]は鳥羽上皇が用意していた塔に葬られたが、美福門院の遺書が見つかり遺骨は高野山に運ばれた。
このとき、その塔(法華堂)の三昧僧は反対し、受け入れられないと分骨を願ったがそれも拒否されている。実朝が死ぬ60年前には分骨は一般的ではなかったとみられている([[#勝田至2012|勝田至2012]] p.147)。
</ref>。
寛永年間も1642~1644年の間と推定される[[玉舟和尚鎌倉記|『玉舟和尚鎌倉記』]]はこの唐草やぐらを「絵書櫓」と紹介し、ここに開山石塔があったと記す。
実朝は一言も出てこない。
それを実朝と伝え聞いたのは延宝2年(1674年)の[[徳川光圀|水戸光圀]]の[[鎌倉日記|『鎌倉日記』]]からで、それを[[新編鎌倉志|『新編鎌倉志』]]が踏襲する。
しかし1717年(享保2年)の[[太宰春台]]の『湘中紀行』は「伝へいふ実朝の墓と、蓋し非なり」と否定しさっている。
[[名所図会|『東海道名所図会』]]には実朝塔と記しながら「[[栄西|千光国師]]は実朝の帰依僧なれば、追福の為ここに営みしと見えたり」と、仮に実朝のためのものであっても墳墓ではなく供養塔だろうと見ている。
太宰春台も『東海道名所図会』の著者も『吾妻鏡』を読み込んでいる<ref>
[[#鎌倉史蹟疑考|鎌倉史蹟疑考]] p.208-209
</ref>。

=== 北条義時の法華堂 ===
[[File:10-1206-MG 0818.JPG|thumb|300px|<strong>13</strong>:最明寺跡(現[[明月院]])の北条時頼廟。義時が作った大蔵薬師堂の『吾妻鏡』の法事の記事から、義時法華堂や、泰時の山内粟船御堂もこの程度の小さい堂と推定される<ref>
『吾妻鏡』建保6年(1218年)12月2日条
</ref><ref group="注">
建保6年12月2日条にはこうある。
「二日庚子、晴、右京兆依霊夢所令草創給之大倉新御堂被安置薬師如来像〔雲慶奉造之〕、今日被遂供養、導師荘厳房律師行勇、呪願円如房阿闍梨遍曜、堂達頓覚房良喜〔若宮供僧〕 也、施主并室家等坐簾中、相州、式部大夫、陸奥次郎朝時被坐正面広廂、信濃守行光、大夫判官行村、大夫判官景廉已下御家人為結縁群参、源筑後前司頼時、美作左近大夫朝親、三条左近蔵人親実、伊賀左近蔵人仲能、安芸権守範高等為布施取、各参候于堂南仮屋、戌剋事終、導師已下被引御布施」。つまり堂の中には導師[[退耕行勇]]ら僧三名と義時夫妻のみが入り、その弟[[北条|時房]]、子の[[北条泰時|泰時]]、[[北条朝時|朝時]]は広庇(簡単に云うと前面縁側)に座り、[[二階堂行光]]、[[二階堂行村]]以下の幕府高官は堂の上に上がっていない。お布施の受け渡しは堂内ではなく、堂の南の仮屋で行っている。
</ref>。]]
[[北条義時]]は『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月18日条
に「故右大将軍家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす」とあり<ref>
『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月18日条、[[#吾妻鏡3|吾妻鏡3]] p.18
</ref>、
それが法華堂であることは『吾妻鏡』仁治2年(1241年)の泰時の参拝の記事にある<ref>
『吾妻鏡』仁治2年(1241年)12月30日条
</ref>。
近年北条義時法華堂跡(ほぼ墓所)の[http://www.shonan-it.org/hojyo/index.html 発掘調査]が行われた。
この段階ではまだ都市化の初期であるが、その場所は頼朝法華堂同様の山の中腹の平場である。
鎌倉時代の初期にあっては墳墓の地には法華堂が建てられ、あるいは法華堂の傍らに埋葬されている。
先に述べたようにこれは平安時代後期の上流階級での一般的な傾向である。
この時代にやぐらに埋葬したという記録も痕跡も無い。
逆にこれらの面々が法華堂に葬られたことをまとめて証明する記録は『吾妻鏡』にある。
建長2年(1250年)に[[北条重時|重時]]、[[北条時頼|時頼]]らが「右大将家(頼朝)、左大臣家(実朝)、二位家(政子)ならびに右京兆(北条義時)の御墳墓の堂々を巡礼」
している<ref>
『吾妻鏡』建長2年(1250年)12月29日条
</ref>。
「御墳墓の堂」がここで云う法華堂である。

=== 北条泰時以降の供養堂 ===
その次ぎの代、[[北条泰時]]は『吾妻鏡』に「故前の武州禅室(泰時)周関の御仏事、山内粟船御堂に於いてこれを修せらる」とあり<ref>
『吾妻鏡』仁治三年(1243年)6月15日条
</ref>、
鎌倉の外の現大船5丁目の[[常楽寺 (鎌倉市)|常楽寺]]である。
その次ぎの執権[[北条経時]]の墓所は当初佐々目谷にあった浄土宗の[[光明寺 (鎌倉市)|光明寺]]であり、正嘉2年(1258年)に弟時頼が佐々目谷の塔婆を供養したとある<ref>
『吾妻鏡』正嘉2年(1258年)3月23日条
</ref>。
その[[北条時頼]]は祖父の泰時同様に鎌倉の外、北鎌倉の最明寺(現[[明月院]])。
その子[[北条時宗]]から三代は[[円覚寺]]である。
得宗家以外の執権・連署クラスも鎌倉の外の[[金沢区|金沢]](当時の読みは「かねさわ」)、極楽寺、常磐に別業(私邸)を持ち、多くはその屋敷地内の持仏堂を寺として葬られている。
また各寺院の長老の墓もやぐらではなく五輪塔とか開山堂などである。

== 上流階級の埋葬 ==
=== 上流階級の埋葬のされ方 ===
[[File:2012-04-15-JKM 1737.JPG|thumb|300px|<strong>14:</strong> [[浄光明寺]]のやぐらを埋める五輪塔]]
やぐらの最盛期には将軍や執権・連署クラスなどの墳墓は鎌倉の市街地ではなく、山を越えた外に営まれる。
庶民には墳墓の供養という意識はない。
するとその中間の階層がやぐらに関係してくる。
最上流以外の有力御家人の埋葬では[[吾妻鏡|『吾妻鏡』]]健保3年(1215年)9月15日条がある<ref>
『吾妻鏡』健保3年(1215年)9月15日条、[[#吾妻鏡2|吾妻鏡2]] p.717
</ref>。
前日の地震のときに死んだ伊賀前司佐藤朝光を[[二階堂行政]]の後山に葬ると。
二階堂行政の二階堂とは永福寺から来ており現在も二階堂という地名が残る。その後山がどちら側の山かは不明ながら、覚園寺方向であれば天園ハイキングコース側の尾根に有名な百八やぐら群がある<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.485
</ref>。
しかし百八やぐら群がその当時からあったとは云えず、『吾妻鏡』から読み取れるのは山に葬られたということだけである<ref group="注">
赤星直忠は『鎌倉市史・考古編』で『吾妻鏡』のこの記事を以て「このやぐらに埋葬したことを記すものと考える」(p.485) とするが、その後の大三輪龍彥や河野真知郎は否定的である。
</ref>。

ほかに鎌倉時代初期には[[#北条政子の法華堂|「北条政子の法華堂」]]で触れた[[中原親能]]亀谷堂があり、その傍らに親能が乳母夫であった頼朝の娘[[三幡|乙姫]]が葬られている。
『吾妻鏡』には「親能亀谷堂」<ref>
『吾妻鏡』正治元年(1199年)6月30日条
</ref>、
「故親能入道亀谷堂」<ref>
『吾妻鏡』建暦3年(1213年)6月8日条
</ref>
と書かれているが、同様の墓堂は京の葬地であった鳥辺野にも見える。1112年(天永3年)の鳥辺野の入口に位置する寺の記録では「左衛門入道堂」「伴入道堂」など人名を付けた堂が境内に48も記録されている。
鎌倉時代には陸奥や九州でも武士が墓堂を建てている<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.168
</ref>。

鎌倉時代中期以降、鎌倉の人口が推定数万と都市化して以降上流階級の鎌倉における埋葬地として鎌倉を取り巻く山間部に盛んにやぐらが掘られる。
ただし上流階級はかならずやぐらを墳墓としたのかというとそうとも云えない。
1980年に海蔵寺の墓地裏山が土砂崩れをおこし、その崩落ちた土の中から16点の蔵骨器が発見された。
当時火葬されるのは上流階級であって庶民ではない。当時の鎌倉は人口が膨れあがり、薪も鎌倉外から購入している<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.151
</ref>。
瀬戸の四耳壺、水注、常滑壺などで13~14世紀のものである。
崩落ちたのは土だけでありやぐらにあったのではない。衣張山の釈迦堂側から青磁の大椀2個が出土したがこれも中に骨が入っておりやぐらからではない。
青磁の大椀となれば当時は中国渡来のもので庶民ではありえず、上流階級でもかなり上の方ということになる<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] pp.152-153
</ref><ref group="注">
実際そのことによってその場所は北条時政の名越亭ではないかと噂された。
</ref>。
つまり上流階級の納骨はやぐらだけとは限らなかった。
また、やぐらへの納骨でも、納骨穴に納められているものもあれば、やぐら内の五輪塔などの脇に仏花瓶や香炉に骨を入れて置いてあるケースもある。
つまり人一人分の骨としてはえらく少ない。
ほぼ分骨ぐらいの量である<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] pp.145-146
</ref>。

=== 当時の火葬と供養 ===
現在の火葬は金属の台の上でガスで高熱で焼かれるため、遺骨は灰に至るまで全て骨壺にいれられる。しかし当時は穴に石を置き、その上に死体そして薪を置き火葬するので遺骨は炭や灰に混じり全てが回収できるわけではない。
火葬場の発掘では焼土や炭に混じって骨の破片がある。
中にはかなりの部分を残していたり、稀には焼いたままその場で焼き穴を埋めてしまったものも見つかっている<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] pp.150-152
</ref>。
つまり全ての骨の回収はそもそも無理なので、拾えるだけの骨を拾い、布などに包んでやぐら中央の大きな穴に納めるということもあれば、供養のためのお骨だけを拾い、香炉などに入れてやぐらに納め、そこで初七日、一周忌、三周忌、十三周忌などの法事を営むというようなことが考えられる。
実際に鎌倉滅亡時に東勝寺で自害した北条氏一族郎党の遺骨を納めたのではないかというやぐらがあるが、そう推測されたのは北条一族が東勝寺で自害した日から初七日にあたる日付の五輪塔があったからである。
またあるやぐらでは多数置かれた五輪塔が銘を見るとみな同じ人を供養するためのものであったりする。
つまり法事のたびに置かれる五輪塔でやぐらが埋まることがある<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/2012-04-15-JKM_1737.JPG 画像14])</small>。

そう考えれば、やぐらは現在の墓の感覚、納骨場所とは異なり、供養する場所、供養するために納骨する場所、法事を執り行う空間という性格が強いということになる<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.147
</ref>。
最上級の将軍や執権・連署クラスはそれぞれに、あるいは代々の供養する場所、法事を執り行う空間として寺を持つが、鎌倉時代の中期以降の執権・連署クラスでも鎌倉市街地には広大な屋敷地を確保できず、公邸を鎌倉の市街地に持ちながら広大な別業(私邸)を鎌倉を取り囲む山の外に持ちそこに持仏堂を建てる。そこまではできない上流階級はやぐらを穿ち、それを法事を執り行う場所、寺と見立てて内壁を白い漆喰で塗り<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/07_0121_u034.jpg 画像5])</small>、
五輪塔や板碑、宝篋印塔の墓銘に漆を塗り、金箔や金泥で文字を彩色する<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/42/14-0307-KOJ-1113.JPG 画像9])</small>。
朱垂木やぐらのように朱色で屋根の垂木を模した<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/14-0307-SDR-0692.JPG 画像7])</small>
のもそれ故と理解されている。

== 納骨信仰と葬送実務 ==
=== 納骨信仰 ===
[[#実朝の法華堂|「実朝の法華堂」]]の章で実朝の骨は[[高野山]]の[[金剛三昧院]]に送られたと記したが、この当時、死後の功徳を求めて仏教の霊場に火葬骨を納骨するという風習もあった。
史料上の初見は1044年(長久5年)であり、そのときは僧が藤原惟盛なる者の妻の遺骨をその遺言により[[比叡山]]の法華堂に運んでいた<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.146
</ref>。
この場合の法華堂は墓としての墳墓堂ではなく本来の法華三昧を修する堂である。
そうした霊場に納骨してもらうことで仏との結縁(けちえん)、死後の功徳を得ようということである。
こうした霊場としてもっとも有名なのが高野山である。
高野山へは1109年(嘉承3年)に[[堀河天皇]]の遺髪を納めたことはあるが、遺骨の初見は1153年(仁平3年)の[[仁和寺|御室]](おむろ)[[門跡]]の[[覚法法親王]]とされる<ref>
『兵範記』仁平3年(1153年)12月8日条
</ref><ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.147
</ref>。
実朝の死の60年前には[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の寵妃[[藤原得子|美福門院]]の遺骨も遺言により高野山に運ばれている。
鎌倉時代には[[信濃国|信濃]]の[[善光寺]]への納骨も有名で、物語では鎌倉時代末(あるいは室町時代前期)の成立とされる[[曽我物語|『曽我物語』]]の真名本で虎が曾我兄妹の遺骨を善光寺に運んでいる<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.148
</ref>。
逸話集の[[#沙石集|『沙石集』]]にも出てくる<ref>
[[#沙石集|沙石集]] 巻7-2話 pp.296-297
</ref>。

同じ信濃では文永寺への納骨も知られている。
そこには1283年(弘安6年)の刻銘のある石室があり床石の上に五輪塔を置きその前の床石に穴を開けて、その穴の中にの大甕に納骨するようになっている<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.148
</ref>。
やぐらにも似たようなものがある<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1e/14-0307-KOJ-0980.JPG 画像10])</small>。
[[#内部の納骨|「内部の納骨」]]で見たように[[南都七大寺]]のひとつ[[元興寺#元興寺(奈良市中院町)|元興寺の極楽坊]]では[[長押]]上に小五輪塔を納骨器として載せられていたし、[[中尊寺金色堂]](平安時代後期)でもやはり長押上に納骨が行われているのが解体修理の際に発見されている。
やぐらではこの「長押の上」を模すために天井間際に納骨用彫り込みをもつのが多数ある<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/14-0307-SDR-0840.JPG 画像12])</small>。

=== 墓参 ===
[[#北条義時の法華堂|先に]]建長2年(1250年)の[[北条重時|重時]]、[[北条時頼|時頼]]らの「御墳墓の堂々巡礼」をあげたが、『吾妻鏡』での墓参は1241年(仁治2年)から3回出てくる<ref>
『吾妻鏡』仁治2年(1241年)12月30日条
</ref><ref>
『吾妻鏡』宝治2年(1248年)12月29日条
</ref>。
これらはみな年末だが、平安時代から歳末には魂が訪れるという考えがあった。
京の貴族の史料に[[盂蘭盆]](いわゆるお盆)の墓参が現れ始めるのは鎌倉時代中期である<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.145
</ref><ref>
[[吉田経長]]『吉続記』文永8年(1271年)7月15日条
</ref>。
平安時代の京でも歳末にやってくる霊のためにユズハリの葉の上に食べ物をお供えしたりはしたが、それは霊がどこからかやってくるというもので、霊が墓にいてそれを墓参して迎えるようなことはなかった。
鎌倉時代に歳末の墓参したということは、墓に霊がいるという観念が広まり始めたということになる。
しかしそれは火葬や土葬の出来た中流階級でもその墳墓のまわりには庶民の風葬の遺体、遺骨が散乱している状態ではありえず、穢れ(放置死体)の心配の無い囲われた一族墓を持つ上層部から始まると考えられている<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] pp.145-146
</ref>。
藤原氏の木幡のような一族の墓地は、藤原摂関家以外では村上源氏ぐらいで平安時代後期にはあまり例が無く、鎌倉時代以降に広まる<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.155-156
</ref>。

=== 結界の地・共同墓地の形成 ===
奈良時代の横穴式の納骨墓以降の平安時代の墓は天皇家や最上級の貴族の葬送が古文書に現れるだけで、考古学の世界からはほとんど姿を消す。
まれに発見されても墓が群をなすという形跡は希薄である<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.157-158
</ref>。
[[今昔物語集|『今昔物語集』]]などから判るのは、風葬でないちゃんとした埋葬でも家のまわりということではなしに離れた適当な野原などにバラバラに埋葬しているということである<ref>
[[#今昔物語集4|今昔物語集4]] 巻27第36話 pp.527-529
</ref><ref group="注">
この話に出てくる葬送は沢山の僧が鉦をたたき念仏を唱え、俗人達も多く連なって来るとあるので、一般庶民ではなく長者の葬送である。
</ref>。
墓参も無いので埋葬地が長く記憶に止まるということもない<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.159-161
</ref>。
それに変化の兆しが見えるのは12世紀後半である。
納骨信仰にも連動するが、高僧が定め聖地化するような儀礼を行った結界の地に貴族の埋葬が集中しだすということが始まる<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.163-165
</ref>。

発端は986年(寛和2年)に比叡山の高僧である源信僧都が始めた僧の念仏結社二十五三昧会に始まるとされる。
この当時は葬送は家族だけで行うことで他人が関わることは禁忌とされ、それは僧の世界でも変わらなかった。
しかしこの結社内だけは世俗の禁忌を考慮せずに結衆が死ねば結社が協力して葬送を行うことを宣言する
<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.178-179
</ref><ref group="注">
この結社は毎月15日の夕刻に集まって念仏三昧を修する。
結衆が病気になれば往生院で香花などに囲まれて死ぬことが出来、結衆全体の墓所も定めて花台廟と名付け予め卒塔婆を立てておき、結衆が死ねば結社の僧が家族でなくとも協力して葬送を行う。
</ref>。
この二十五三昧は主に天台宗系の寺院で広がる。
そしてその二十五三昧の墓所は結界の地であり聖地である。
12世紀初頭にはその二十五三昧会に貴族の一部も入会しだす<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.179-180
</ref>。
この二十五三昧が12世紀後半の共同墓地出現の契機とも考えられている。
この二十五三昧が転じた「五三昧」が墓地を現す例も12世紀中期、遅くとも13世紀前半には見られるようになる<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.181-186
</ref>。

その共同墓地の考古学上の代表は静岡県磐田市の一ノ谷中世墳墓群遺跡である。
それら共同墓地はどのような場所かというと陽当たりが良くて眺めの良い場所が多い。
このような場所を「勝地」と呼び経塚を築いたりする<ref>
[[#勝田至2003|勝田至2003]] pp.166-176
</ref>。
この立地条件は[[#分布|「分布」]]に示したようにやぐらにも共通する。
共同墓地、集団墓地という点では百八やぐら群([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/14-0307-KOJ-1179.JPG 画像02])、平子やぐら群([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b1/14-0307-KOJ-1317.JPG 画像29])、[[名越切通し#関連史跡と近隣の名所|まんだら堂やぐら群]]([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/52/Mandaradou-yagura07-23.jpg 画像30])、[[朝比奈切通]]のやぐら群([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/145_4550-ASH.jpg 画像31])などはまさにそうした姿を示している。

=== 葬送実務と律宗 ===
平安時代の貴族の葬送では、沐浴、入棺、火葬、骨拾いなどは親族で行うのが通例であった。
これらは「穢れ」「喪」に関わることで僧を含めて他人は行わない。
天皇家の場合は臣下が行うがこれは特別である。
そもそも天皇が死ねば全国的に喪に服す。
それが鎌倉時代に入ると「一向上人沙汰」つまり僧に今の葬儀社・火葬場の役割を一任することが増える<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.150
</ref><ref group="注">
文献上の初見は1183年(寿永2年)の[[吉田経房]]の娘の葬送で「一向に(全体的に)明定上人に示してこれを沙汰せしむ」とある。「一向」とは「全体的に」の意味である。
</ref>。
この役割を担うのは伝統的寺院、例えば比叡山[[延暦寺]]、[[高野山]]、[[三井寺]]、[[仁和寺]]などの高位の僧ではない。
律宗や浄土衆の[[時宗|時衆]]などである。
今日のようにどの宗派も葬祭を行い寺に墓をもつということは無かった。
京では各宗派が葬祭に乗り出すのは15世紀頃である<ref>
[[#民俗小事典|民俗小事典]] p.172
</ref>。

北京律の[[泉涌寺]]は1242年(仁治元年)に[[四条天皇]]の火葬を行い、南都律([[西大寺]]系)の東山太子堂はやはり天皇や貴族の火葬を行っている。
非人救済で有名な西大寺系などの律宗寺院の中には「斉戒衆」と呼ばれる下級の僧がおり、[[勧進聖]]であるとともに火葬などの葬送作業も行ったと云われている。
当時の宗派は現在の様に縦割りではなく、特に律宗は「戒律を重んじる」ことを特色としながら泉涌寺派の四宗兼学に現れるように他派の僧・寺院とも交流がある。
例えば[[法隆寺]]は[[法相宗]]であるが、その子院の北室には律僧がいてその下に斉戒衆がいる。
[[醍醐寺]]、[[仁和寺]]、[[大覚寺]]などの[[真言宗]][[門跡]]寺院の門主などの葬儀を行うのも律宗系寺院であった<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] pp.151-152
</ref>。

時衆も少なくとも[[南北朝時代]]の京では火葬場を運営していた。
1398年(応永5年)の[[東寺]]の院主の葬儀は律宗の長老が執行したが火葬場は時衆寺院が運営するものだったりする<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] pp.153-154
</ref>。
しかし時衆は[[一遍聖絵|一遍上人聖絵]]にあるように少なくとも鎌倉時代には鎌倉に入れず、鎌倉の上層階級の帰依を受けた例は史料上ない。
時衆と律宗の共通点は非人などの下層民との関係である。
その共通点は浄土宗にもあるが、浄土宗も日蓮宗もすくなくともやぐら全盛期には上層階級の葬儀への関与を示す史料はない。
[[禅宗]]も室町時代には葬儀に深く関わるがやぐら全盛の頃は不明である<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] pp.155-156
</ref>。
これらの状況は[[#分布|「分布」]]でふれた寺院関連で律宗系が71%を占めるということにも付合する。

== 泰時以降の鎌倉 ==
=== 市街地での埋葬禁止令 ===
奈良時代の横穴墳墓ではなく、鎌倉時代のやぐらが最初につくられた時期は不明である。
やぐら造営の発端のひとつ、あるいは拍車をかけたと論じられた幕府法がある。
[[佐藤進一]]らが編纂した[[#中世法制史料集1|『中世法制史料集』]]に[[御成敗式目]]の追加法として仁治3年(1242年)正月15日の「新御成敗状」が掲載されている。
内容を口語訳すると「府中には一切墳墓があってはならない。もしもそれに違う所があればその持ち主に改葬を命じ、かつその屋地は没収する」というものである<ref>
[[#中世法制史料集1|中世法制史料集1]] p.138 
</ref><ref group="注">
ちなみに「府中墓所事」は一般庶民向けではなく、墓所をもつのは上流階級である。
</ref>。
これは佐藤進一らが編纂した時点から赤星直忠の[[#鎌倉市史・考古編|『鎌倉市史・考古編』]]、大三輪龍彥の[[#大三輪龍彥1977|『鎌倉のやぐら』]]の時点まで鎌倉幕府法と思われており、赤星も大三輪もそれがやぐら造営に拍車をかけた、あるいは発端のひとつとした。

しかしその後これは鎌倉幕府の追加法ではなく、御家人で守護の[[大友頼泰]]が発布したものと判明している。
そこから大友頼泰が領地の[[豊後]]の都市・府中の支配のために発布したもので鎌倉とは直接関係ないとの説もあった。
だが更にその後、その時点で頼泰はまだ豊後に下向しておらず、かつ当時の豊後国府は都市というにはほど遠い状態であったことも判明した。
大友氏は頼泰の祖父[[大友能直]]の代から[[豊前国|豊前]]・[[豊後国|豊後]]の[[守護]]となるが実際には鎌倉や京に居る。
それらのことから「新御成敗状」はその京や鎌倉の都市の行政支配の知識をベースとした不在守護の理念的な法令(ガイドライン)であることが近年指摘されている<ref>
[[#人文地理52-6|人文地理52-6]] pp.84-85
</ref><ref>
[[#山村亜希2001|山村亜希2001]]
</ref>。

この大友頼泰の仁治3年(1242年)正月の「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の幕府法であった可能性は高いとはいうものの、大友氏は鎌倉とともに京も知っており、京にはかなり古くから同様の法律があった<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] p.116
</ref><ref group="注">
[[律令制]]の根幹を成す[[養老律令]]の喪葬令(そうそうりょう)皇都条には「凡皇都及道路側近、並不得葬埋」つまり皇都及び道路の側近くには、いずれも死者を埋葬してはならないと規定されている。
「類聚三代格」巻16には平安時代の871年(貞観13年)に無秩序な葬送を禁止し、替わりに2つの葬送地を指定した記載がある。
</ref>。
史料に残る法令は律令制全盛期の古いものではあるが、実際に平安京の市街からはほとんど墓跡が発掘されていない<ref>
[[#勝田至2012|勝田至2012]] pp.116-117
</ref><ref group="注">
例外は三ヶ所あるが、右京三条三坊、右京五条二坊、右京七条四坊と全て右京区である。
京の市街地、特に貴族・官人の住まいは左京区に集中しておりそれがいわば山の手。
右京区は湿地の下町で、主に下々の者が住み空き地も多い。
</ref>。
鎌倉においても状況は同じである。
当時の市街地から鎌倉時代と推定される埋葬された人骨が発掘されたことはない。
鶴岡八幡宮境内から男女の土葬骨が発掘されたことはあるがそれは当時の鶴岡八幡宮の地表よりも下層で、平安時代末のものである<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] pp.85-87
</ref><ref group="注">
若宮大路の側溝から人骨が発掘されたが、これは埋葬というより遺棄されたものである。
埋葬でない遺棄、放棄は日常的であり、幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している。何度も出すということはいっこうに止まなかったということであり、現に発掘調査では若宮大路や横大路の側溝、鶴岡八幡宮の三方掘の中からも、牛馬の骨とか成人や少年の骨が出てくる([[#中世鎌倉を掘る1994|中世鎌倉を掘る1994]] pp.56-57)。
このあたりは京でも状況は同じである。
むしろ京の方が多い([[#勝田至2012|勝田至2012]] p.117)
</ref>。
ただし「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の法令であったのか、京の法令であったのかは不明である。
オリジナルの「市街地埋葬禁止令」が鎌倉の法令であったとしても、それ以前の何年から出されていたのかは不明である。
そこでこの仁治3年(1242年)正月前後の鎌倉の状況を見ていくことにする。

=== 泰時の都市計画 ===
北条[[得宗]]家は[[北条泰時]]の代から墓を鎌倉の外に持つが、その泰時の死がちょうど仁治3年(1242年)の6月15日であり、泰時はそれまでに都市鎌倉の骨格を作りあげている。
まずは御所の移転である。
源氏三代の将軍の御所は[[鶴岡八幡宮]]の東側の大倉御所であった。
四代将軍となる[[藤原頼経]]は北条義時の大倉亭に居たがその頼経の御所を嘉禄1年(1225年)に鶴岡八幡宮の南、若宮大路とその東側の小町大路に挟まれた地に建設する<ref>
『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)10月3日条~12月20日条
</ref>。
これによって都市鎌倉の中心は大倉から小町大路を中心とした地に移る。
小町大路とは現在の小町通りではなく、[[宝戒寺]]の前から[[本覚寺 (鎌倉市)|本覚寺]]の前までの道である。
本覚寺の前で滑川を渡ると大町になる。
若宮大路の西側の多くは湿地であったため、屋敷は多くない。

その後の大がかりな土木工事は1233年(貞永元年)、その小町大路の先の材木座海岸の和賀江築港である。
それを提案し、泰時の後ろ盾で工事にあたったのは勧進聖の往阿弥陀仏であり、後にその維持管理を引き継いだのが忍性らの極楽寺律宗集団である。
これは海からの物流ルートであるが、陸上での物流ルートとして仁治元年(1240年)に「山内の道路を造らるべきの由その沙汰」<ref>
『吾妻鏡』仁治元年(1240年) 10月10日条
</ref><ref group="注">
これが[[巨福呂坂]]なのか[[亀ヶ谷坂]]なのかははっきりしない。
</ref>、
「鎌倉と六浦津との中間に始めて道路に当てらるべきの由議定」<ref>
『吾妻鏡』仁治元年(1240年)11月30日条
</ref><ref group="注">
[[朝比奈切通]]である。
</ref>
と、現在[[鎌倉七口]]と言われるもののいくつかの工事を命じている。

=== 泰時の都市行政 ===
泰時は鎌倉中(市街地)の都市行政にも様々な手を打っている。
東西の陸路の工事を始めたと同じ年、延応2年(仁治元年:1240年)2月に京の町にならって鎌倉中を「保」に分け、それぞれに奉行人を置き、それを市中行政の末端とする。
その保々奉行人に「盗人の事」、「辻捕の事」、「悪党の事」などの治安関係の他に「丁々辻々の売買の事」、「小路を狭く成す事」などの禁止・取締を命じている<ref>
『吾妻鏡』延応2年(1240年)2月2日条
</ref>。
これが鎌倉で市政らしいことが文献に出てくる最初である<ref>
[[#鎌倉市史・総説編|鎌倉市史・総説編]] pp.201-203
</ref>。
つまり仁治元年(1240年)時点で鎌倉には人が溢れかえり、道の端に小屋を建てたり、あるいは軒下を張り出すなどして道の一部を自分の家に取り込もうとすることが多々あったということである。
同年11月にはその保の組織を利用して市中の辻々で夜間に篝火を焚かせ、夜の治安を保とうとした<ref>
『吾妻鏡』仁治元年(1240年)11月21日条
</ref>。
従って「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の法令であったなら、そのオリジナルの「市街地埋葬禁止令」は、泰時が京の市政「保」を鎌倉に適用した延応2年(仁治元年:1240年)以降、つまり仁治3年(1242年)正月からそう遠くない時期と思われている。

泰時の後の[[北条経時|経時]]、[[北条時頼|時頼]]の時代になるが、1245年(寛元2年)に先の「小路を狭く成す事」をより具体的に「軒を路に出すこと」、「町屋をつくってだんだん路を狭くすること」、「小屋を溝の上につくりかけること」と述べてそれを禁止している<ref>
『吾妻鏡』寛元2年(1245年)4月22日条
</ref><ref>
[[#鎌倉市史・総説編|鎌倉市史・総説編]] pp.203-204
</ref>。
これも先に禁止した「小路を狭く成す事」がなかなか止まなかったということである。
1251年(建長3年)12月には小町屋(商店)や売買の設けを7ヶ所に限り、翌年には酒を売ることを禁じて鎌倉中の保奉行人に命じて民家の酒壺をしらべさせたところ、その総数は37,274壺にものぼったという<ref>
『吾妻鏡』建長4年(1252年)9月30日条、及び10月16日条
</ref><ref>
[[#鎌倉市史・総説編|鎌倉市史・総説編]] pp.207-208
</ref>。
鎌倉の人口が推定数万人というのはこの数も参考にしている。
これらのことから、泰時の時代から時頼の時代にかけて鎌倉は都市として急激に膨張していったことがわかる。

=== 墓の空白期 ===
ただし「市街地埋葬禁止」をうたう「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の法令であって、その鎌倉の法令が1240年(仁治元年)以降、仁治3年(1242年)正月までに出されたにしても、それが鎌倉における墳墓のやぐら化の直接の原因かというとそうとも言い切れない。
[[#やぐらの年代|「やぐらの年代」]]で見たように、やぐら内から発掘されたものでやぐらで確認された紀年銘の最も古いものは[[神奈川県道204号金沢鎌倉線|朝比奈峠]]下やぐら内の[[板碑]]にあった[[文永|文永年間]](1264~1274年)のものである。
30年前後の「墓の空白期」が出来てしまう<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.147
</ref>。
これは「まだ発見されていないだけ」である可能性もある。
しかしもうひとつ[[#上流階級の埋葬のされ方|「上流階級の埋葬のされ方」]]で見たように、山間部のやぐら以外からも骨壺に入った火葬骨が出土している。
骨壺に使われた陶器は13~14世紀のものである。
市街地埋葬禁止令があったとしても、あるいはやぐらが作りだされて以降も、やぐら以外への上流階級の埋葬はあったということになる。
更にその時代、京においても墓所としての「勝地」は陽当たりが良くて眺めの良い場所であり平地ではない。
北条義時が「故右大将軍家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と書かれるように鎌倉時代初期の法華堂も山の斜面にある。

== やぐらの時代 ==
=== 鎌倉への律宗の進出 ===
[[File:12-0415-JKM-14.jpg|thumb|300px|<strong>15:</strong>忍性が開いた[http://www.ktmchi.com/rekisi/nkc_005_3.html 多宝寺の跡の覚賢塔]、鎌倉の石ではなく安山岩なので風化が少ない。これはやぐらの中ではない。かつこの塔の周囲にはやぐらは無い。下の平場にやぐら群がある。]]
やぐらが最盛期を迎えるのは鎌倉時代末と考えられている<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.148
</ref>。
これは鎌倉への律宗の進出時期とほぼ一致する。
[[#葬送実務と律宗|「葬送実務と律宗」]]にみたように、鎌倉時代に葬送に関与した宗派は律宗である。
律宗僧の鎌倉での活動は南都律(西大寺系)の忍性に始まるものではないが、確実に職人集団を率いていたとされる忍性が[[極楽寺]]の住持となるのは1267年(文永4年)である<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.194
</ref>。
しかしそれ以前から鎌倉の釈迦堂や多宝寺にいる。
紀年銘の最も古い朝比奈峠下やぐら内の板碑の文永年間(1260~1270年代)に付合する。
もうひとつの律宗グループの北京律(泉涌寺系)が鎌倉の拠点として[[覚園寺]]を建てるのが1296年である。
この覚園寺の裏山に巨大な百八やぐら群や中規模な平子やぐら群がある。

「分布」の節で述べたように、やぐらは「寺院、または寺院跡に伴うもの」が大半を占め、かつその中でも[[律宗]]系が650窟で71%を占め、やぐら全体に対しても半数を超える。
鎌倉以外で鎌倉のやぐらと共通性をもつもにが東京湾を挟んだ千葉県にもあるが特定の土地にまとまっていて、当時は称名寺領や覚園寺領、つまり律宗寺院の寺領であった<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.116
</ref>。

=== 土木工事の担い手 ===
これらのことからやぐらにも律宗系の何らかの影響が想像されるが、しかしそれは律宗の教義によるものではない。
律宗の西大寺系(南都律)にしても泉涌寺系(北京律)にしても、その長老の墓はやぐらではなく巨大な五輪塔か宝篋印塔である。
これは鎌倉の律宗寺院、[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]の忍性塔・忍公塔、多宝寺跡の覚賢塔<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/12-0415-JKM-14.jpg 画像15])</small>、[[覚園寺]]の開山塔・大燈塔などでもわかる。
教義によるものでなければ何によるのかと言えば、例えば[[ハンセン氏病]]患者などの病者・貧者・乞食・[[非人]]などの救済で有名な[[忍性]]は、『性公大徳譜』に建立した塔婆20基、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所とあるように<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.195
</ref>、
石工を含んで主に土木系の工人集団を率いている。
そして西大寺系も泉涌寺系も葬送の実務請け負っているだけでなく東大寺の大勧進や東寺の大勧進を務めている。
大勧進は寺院再建のプロデューサーであり、スポンサー獲得のプロであると同時に現場に携わる土木・建築・仏像・大鐘などの鋳物に関わる職人集団、更に楽人など宗教芸能までを影響下に置いている<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] pp.91-92
</ref><ref>
[[#箱崎和久1999|箱崎和久1999]] pp.115-116
</ref><ref group="注">
例えば先に触れた神武寺の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に『吾妻鏡』などにも登場する楽人中原光氏の名があり、鎌倉国宝館にある裸形弁才天座像(重文)の寄進者でもあるが、鎌倉によく顔を見せる泉涌寺(北京律)6世長老の憲静は弘安9年の相模国大山寺供養にこの中原光氏も動員している。
またこの憲静の記録ではこの大山寺復興のために南都(奈良)大工の大蔵康氏らを動員している。
この大蔵康氏の名は称名寺の「堂建立書」にも「大工禅大和権守大蔵康氏」とみえる。
職人集団と云っても、下は土木作業員や石工、大工でも、その棟梁達、特に大工や鋳物師の棟梁は官位官職をもつ身分である。
</ref>。

和賀江築港は当初は念仏衆の勧進聖、往阿弥陀仏であったものが<ref>
『吾妻鏡』貞永元年(1232年)7月12日条
</ref><ref>
『吾妻鏡』貞永元年(1232年)8月9日条
</ref>、
後に極楽寺の管理となっていることからもそれは覗える。
従って、律宗系がというより律宗僧に率いられて上方の石工、大工などが集団で鎌倉の地にやってきたことの影響と見ることができる。
もちろん律宗工人集団にしか岩窟が掘れなかったわけではないし<ref group="注">
ただし安山岩のような堅い石で五輪塔や宝篋印塔を掘るのは鎌倉では律宗工人集団からである。
</ref>、
現に巌堂や岩殿寺は平安時代末からあったので律宗工人集団からやぐらが始まったわけではないが、それにより加速したことは確かだろうとされる。
ちなみに忍性らはそれ以前に下層民としての土木作業員を支配していた念仏衆(今で云う[[浄土宗]]、[[浄土真宗]]、[[時宗]])を駆逐したわけではなく、彼らも影響下においている。

=== やぐらの全盛期 ===
平安時代には見られなかった「納骨信仰」が鎌倉時代に始まり、「勝地」を「結界の地」として、そこに「墓参」したいというニーズが高まる。
そこに葬送請負も業とする律宗集団が参入するが、鎌倉は狭く山に囲まれているので、「結界の地」の共同墓地は山となり、幸い律宗集団は土木工事のプロでもあるので「墓参」のための墳墓堂を岩窟として掘れる。
かつまた立派な石塔、石像も彫れる。
やぐらは平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがル中で、上流階級の墓参供養、生前墓への逆修のニースに答える、法華堂(墳墓堂)に相当するものとして山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂であるとされる<ref>
[[#大三輪龍彥1977|大三輪龍彥1977]] p.150
</ref>。
やぐらは1260年代から始まるにしても、石塔まで含めた全ての条件が揃うのは1300年前後からであり、減速するのは鎌倉幕府の滅亡である。
これはやぐらの発掘結果とも一致する<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.148
</ref>。

=== やぐらの衰退 ===
やぐらは南北朝時代を経て室町時代中期まで続くが、室町時代に入ると形状も簡略化され、その数も減少する。
やぐらが作られなくなった時期は鎌倉が武士の都市ではなくなった時期におおよそ付合する。
[[鎌倉公方]]の[[足利持氏]]と[[関東管領]]の[[上杉憲実]]の対立に端を発する1438年(永享10年)の「[[永享の乱]]」で持氏が自害し、その嫡男[[足利義久]]も報国寺で自害し[[鎌倉府]]は滅亡する。これが関東における戦国時代の幕開けである。その後1447年(文安4年)3月に鎌倉府は持氏の遺児[[足利成氏]]のもとで一時再興されるが、1454年(享徳3年)12月に始まる[[享徳の乱]]で、本拠地鎌倉を室町幕府の命をうけた今川範忠に占拠され、下総・古河に移って古河公方と称する。ここに至って鎌倉は最終的に「武士の都」ではなくなり、多くの寺院も衰退して鎌倉はほぼ農村と化す。
つまりやぐらで供養されていた武士を始めとする上流階級のほとんどが鎌倉を去って、供養する者が居なくなった多くのやぐらは忘れさられてゆく<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.486
</ref>。
その後は残されたやぐらを倉庫代わりに使ったり、埋もれかかったやぐらの内部に遺体を土葬するようにもなった<ref>
[[#河野真知郎1995|河野真知郎1995]] p.148
</ref><ref>
[[#紅葉ヶ谷発掘調査|紅葉ヶ谷発掘調査]] p.8, p.27
</ref><ref group="注">
例えば1999年に行われた二階堂紅葉ヶ谷所在やぐら群の発掘調査では玄室床面に深さ10cm弱の掘り窪めた火葬址が14世紀中葉とみられるかわらけとともに見つかっているが、その床面ではなくその上を覆っていた腐植土層から崩落土丹塊層にかけて多数の火葬されていない人骨や動物の骨が見つかっている。
その骨を調査した国立科学博物館の報告書は、人骨はまとまったものは無く、本遺跡がやぐらを再利用した再埋葬であるため埋葬された時点ですでに人骨が部分的であった可能性が高いとしている。
</ref>。

== 代表的なもの ==
=== 寺院のやぐら ===
<gallery>
<gallery>
File:2013-11-08-TKG.JPG|<strong>16:</strong>[[東慶寺]]のやぐら。左が開山・[[覚山尼]]のやぐら。ただし供養塔であり、実際には円覚寺に埋葬されている。右が皇女用堂尼の墓と伝える。
画像:Matuzakiyagura 01.jpg‎|[[静岡県]][[賀茂郡 (静岡県)|賀茂郡]][[松崎町]]にあるやぐら(やぐら内部の仏像は近年新たに安置された物である)。
File:09 0104 JT 11.jpg|<strong>17:</strong>[[浄智寺]]のやぐら。方丈裏にある。
画像:鎌倉研修 039.JPG‎| 腹切りやぐら。薄暗い所にひっそりと存在する
File:060313 138-MGI.jpg|<strong>18:</strong>[[明月院]]のやぐら。明治初めの山崩れで発見された。宝篋印塔の様式から室町時代。[[上杉憲方]]の墓であるという説が有力。
画像:Hojo Masako no haka01.jpg‎|[[寿福寺]]にあるやぐら([[北条政子]]の墓)、奥に五輪塔が見える。
File:14-0307-KT-0515.JPG|<strong>19:</strong>[[建長寺]]半僧坊下のやぐら。鎌倉時代の様式の中でも比較的長い羨道をもつ。
画像:Mandaradou-yagura01.jpg|[[名越切通し]]脇のまんだら堂やぐら群。多くの石塔は後に積み直されたもの。
File:2004 0502-KZJ.jpg|<strong>20:</strong>[[海蔵寺]]のやぐら。通称十六の井。井戸と言われる穴は納骨の穴とされる。
File:12-0415-JKM-05.jpg|<strong>21:</strong>[[浄光明寺]]のやぐら。石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵:</strong>が安置されており正和2年(1313年:</strong>の銘がある。
File:2014-02-14 JFJ.JPG|<strong>22:</strong>[[寿福寺]]のやぐら。鎌倉時代の様式を残すやぐらが多い。[[北条政子]]の墓というのは江戸後期からの伝承<ref>[[#大森金五郎1907|大森金五郎1907]] p.261</ref>。
File:060321c 13.jpg|<strong>23:</strong>[[瑞泉寺]]のやぐら。本堂裏手にあり、座禅の修行にも使われた。
File:06 0115 013-HKJ.jpg|<strong>24:</strong>[[報国寺]]のやぐら。[[足利家時]]と、ここで自刃した[[足利義久]]の墓がある。
</gallery>
</gallery>


=== 鎌倉以外のやぐら ===
=== ハイキングコース等のやぐら ===
<gallery>
神奈川県鎌倉市とその周辺以外には[[大磯町]]、[[平塚市]]、[[三浦半島]]、[[伊豆半島]]、海を隔てた[[安房]]にもやぐらが存在する。
File:12-0728-ES1-16.jpg|<strong>25:</strong>亀ヶ谷の[[冷泉為相]]の母[[阿仏尼]]の墓と伝えるやぐら。[[英勝寺]]前から横須賀線沿いの道を北側に進んだ道端にある。
File:2004-1225-4163-YG.JPG|<strong>26:</strong>頼朝法華堂で自害した三浦一族の亡骸を葬ったと伝えるやぐら。源頼朝法華堂の東隣の山の中腹。大江広元の墓所とされるやぐらへ向かう途中の西面。
File:060109 005-SKD.jpg|<strong>27:</strong>釈迦堂切通上のやぐら群。室町時代前期の様式である。この近辺の尾根には多数のやぐらがある。
File:14-0307-KOJ-0922.JPG|<strong>28:</strong>天園ハイキングコース尾根道の法王やぐら。[[#鎌倉攬勝考|『鎌倉攬勝考』]]、[[新編相模風土記稿|『新編相模風土記稿』]]にも登場する。百八やぐらの第136号穴<ref>[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.504</ref>。
File:14-0307-KOJ-1317.JPG|<strong>29:</strong>平子やぐら群。[[覚園寺]]手前から天園へむかうハイキングコースの西面<ref>[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.496-497</ref>。この先に百八やぐら群がある。
File:Mandaradou-yagura07-23.jpg|<strong>30:</strong>'''[[名越切通し#関連史跡と近隣の名所|まんだら堂やぐら群]]'''。[[名越切通]]の脇にある。(国の[[史跡]])<ref>[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.514</ref><ref>[[#名越切通2001|名越切通2001]] p.4</ref><ref>[[#名越切通2012|名越切通2012]] </ref>。
File:145 4550-ASH.jpg|<strong>31:</strong>[[朝比奈切通]]のやぐら群。切通へ向かう大刀洗川の左側に見える。
File:2005 1223-DBKTS-0221.jpg|<strong>32:</strong>[[大仏切通]]のやぐら。切通の深沢側出口平場にある。推定室町時代。


</gallery>
また、[[東北地方]]([[仙台市]]・[[松島]]の[[瑞巌寺]]など)や[[広島県]]、[[京都府]]、[[石川県]]にもやぐらと同じ意義を持つ横穴墳墓が存在している。しかし一般にはそれらをやぐらという名称では呼ばれず、やぐらとの関係は不明である。

 

=== その他のやぐら ===
研究上重要なやぐらだがハイキングコースではなく、あるいはハイキングコースから外れた場所や、通常は立ち入れないところもある。
* '''瓜ヶ谷やぐら群''':<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/07_0121_u034.jpg 画像5]):</strong></small>葛岡神社北側の谷で5穴からなる。左端の一番大きなやぐらには等身大の地蔵座像を安置する。このやぐらは巾470cm、奥行700cm、高さは190cmで短い短い羨道をもつ。第二穴は巾344cm、奥行220cmでやはり短い短い羨道をもつ。奥には高さは151cmの五輪塔が掘り出されており、横壁にも五輪塔が掘られている。この第二穴には白い漆喰が多く残る<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.527-528
</ref>。(鎌倉市指定史跡)
* '''朱垂木やぐら群''':<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/14-0307-SDR-0692.JPG 画像7],[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/41/14-0307-SDR-0672.JPG 画像8]):</strong></small>西御門谷山中。20窟からなり、朱垂木やぐらはその中央に位置する。このやぐらの特殊なことはそれ自体は納骨窟ではないということ。納骨窟であるやぐら群の中央にあり周囲のやぐら群の供養を行う仏殿の役割とみられている。ただし納骨窟ではないとは正確には納骨穴などがないということであり、羡道左壁に雲形位牌の浮彫があることから蔵骨器などで納骨されていた可能性は残る。通常は本尊たる石仏があっても、仏殿でもあり納骨窟でもあるという方が多い。[[#構造と内部|「構造と内部」]]の章参照<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.491-496
</ref>。
* '''日月やぐら''':<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/07_0226_418-YG.jpg 画像11]):</strong></small>釈迦堂口トンネル上尾根やぐら群(釈迦堂切通し直上:</strong>。鎌倉時代。日と月を模った納骨穴を内部壁に持つ<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.511
</ref>。(「大町釈迦堂口遺跡」として国の史跡に指定)
* '''唐糸やぐら''':<small>([https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/07_0226_456-YG.jpg 画像4]):</strong></small>衣張山やぐら群。釈迦堂切通の尾根南面。鎌倉時代中期でやぐらの扉をつけた痕跡が顕著に見られる<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] p.509
</ref>。(「大町釈迦堂口遺跡」として国の史跡に指定)
* '''釈迦堂奥やぐら群''':浄明寺釈迦堂谷奥。宝戒寺普川国師入定窟と伝えられるものもある。井戸のように深く掘られたところに火葬しない多数の人骨があり、中には刀傷のある頭蓋があったことから鎌倉幕府滅亡時に東勝寺で討ち死、または自害した者を埋葬したのではないかとも噂された<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.508-509
</ref>。また宅地造成で切り崩されたやぐら跡から元弘3年(1333年)の北条氏滅亡の初七日にあたる日付をもつ五輪塔の地輪が見つかっている。
* '''多宝寺跡やぐら群''':[[扇ヶ谷|扇ガ谷]]山中。覚賢塔という巨大な五輪塔の前面下の段にある。
* '''東泉水やぐら群''':東泉水谷。17穴あるがその13号穴には五輪塔や石層塔のような浮彫がある<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.519-520
</ref>。
* '''お塔の窪やぐら''':十二所山中。相輪だけを別石として基台・塔身・屋蓋の三部を一石造とした古い様式の宝篋印塔がある<ref>
[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.521-522
</ref>。
* '''伝大江広元の墓''':[[大江広元]]の墓とされるやぐらは内部は奈良時代のものとみられる。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== やぐらの考古学 ===
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=== その他歴史書 ===
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=== 発掘等調査報告書 ===
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[[Category:日本の墓地|やくら]]
[[Category:日本の墓地|やくら]]
[[Category:鎌倉市の歴史|やくら]]
[[Category:鎌倉市の歴史|やくら]]

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2014年3月31日 (月) 15:32時点における版

01:腹切やぐら(東勝寺跡):鎌倉幕府滅亡時に北条高時らが腹を切ったとの伝承があるがあくまで伝承である。(東勝寺跡は国の史跡
02:もっとも有名で規模も大きい百八やぐら群。『鎌倉攬勝考』にも図入りで登場する[1]。(神奈川県指定史跡)
03:やぐらは切り立った崖の途中にあることもある。

やぐらは鎌倉の周辺にある鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られ、または使用された横穴式の納骨窟または供養堂である。 現在では風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華である。

概要

04:唐糸やぐら左側。中央に大きな石仏があるが、同様の石仏は各所にみられる。ただし鎌倉の石は鎌倉石と呼ばれる砂岩であるため風化が激しく目鼻は無くなっている。

「やぐら」とは横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で、鎌倉時代の中期頃から室町時代の中頃にかけて、巌堂、岩殿寺などの岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓である。 平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがった結果、鎌倉中(市街地)での上流階級の墳墓、法華堂(墳墓堂)が禁止されることによって、その代用として山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂である。 従って鎌倉周辺にしかなく、また鎌倉周辺であっても人口が密集した鎌倉の外にでると急激にその数を減らす。 そして鎌倉が都市でなくなるとともに作られなくなり人の記憶からも消えていった[2]

「やぐら」の名称

文献上「やぐら」という語が出てくるのは『新編鎌倉志』の十二所ごぼう谷の項に「寺の南西に山あり、切り抜きの洞二十余りありて・・・俗にくらがりやぐらと云ふ。総じて鎌倉の俚語(俗語、方言)に巌窟をやぐらというなり」とあるのが最も古い[3][4]『鎌倉攬勝考』はわめき十王窟、梵字窟、五輪窟画像9、団子窟画像10、法王窟画像24などの名をあげて「山上、または山腹等にあり。思うに皆古の塋域[注 1] にして、鶴が岡大別当等の墳なるべし」と記し墳墓とみなしている。 鎌倉時代には岩穴を「巌(いわや)」と呼んだことが『吾妻鏡』に出てくる[5][6]。 これは現在も残る巌堂であり、逗子の岩殿寺同様宗教施設、岩窟の仏殿、観音堂である。 室町時代の古文書には「石蔵」という言葉もでてくるし[7]後円融天皇の頃に成立と推測される『神明鏡』には大塔宮は「(足利)直義方へ渡、鎌倉に下奉て二階堂の地に岩蔵を掘て居進」云々と「岩蔵」という文字が見えるが[8]、 墳墓としての岩窟の当時の呼び名は不明である。 漢字で「矢倉」と表記されることもあるが音からの当て字であり、ひらがなで「やぐら」と表記するのが通例である[9]。 作られる場所は『鎌倉攬勝考』にあるように山上または山腹、寺院の奥、最上流の武家屋敷の奥などにある[注 2]

構造と内部

05:瓜ヶ谷やぐら第二窟:鎌倉時代の様式を伝える大型のやぐらの玄室と短い羡道。壁には五輪塔が掘られ、白い漆喰が残る。
06:やぐらの天井に残る漆喰
07:朱垂木やぐら:朱色で屋根の垂木を模している。画像右下に扉の横木を填めたと思われるほぞ穴が見える。
08:雲形位牌の浮彫。このやぐらの天井には月輪の中に種子が彫られている。
09:やぐらの壁に掘られた五輪塔:白く塗られ、キャ、カ、ラ、バ、アの梵字(胎蔵界大日の真言)が明瞭に残る。梵字には漆が塗られ、金箔が押されていたものと推定される。
10:団子付地蔵窟の床面の納骨穴。背後、側面の彫り込みには江戸期以降の石仏が置かれるが、当初は納骨場所と思われる。
11:日月やぐら:鎌倉時代。左の壁に日と月を模った二重の円に見える納骨穴(龕)がある。穴は石版で蓋をされていたと思われる。
12:三面壁の天井下に長押(なげし)状の納骨用彫り込みをもつやぐら。

構造と内装

だいたいはひとつのやぐらを中心にした3~6窟の小やぐら群であり、場所によってはその小やぐら群が集まった大やぐら群を構成する。 一般的形態は矩形平面をもつ平天井のもので、玄室前面に出入口としての短い羨道をもつ画像5。 羨道とは云うが、やぐらでは羨門ぐらいの短いもので、道というより奥行数十cmぐらいの入口の壁のようなものが多い。 中には前室をもつものもある。 広いものでは8m平方のものもあるが通常は2m平方か、それより若干大きいぐらいのものが多い。

羡道がついている鎌倉時代のものには玄室の入口脇天井に横木のほぞ穴画像7や縦柱の穴があり、入口を扉で塞いでいたと思われる。 室町時代になると羡道がなくなり、玄室がそのまま前方の開けた形に、つまり四角い横穴となる。 明月院のように崖崩れで発見される場合や、土木工事で発見される場合もあるが、そのようなときには入口に石を積んで覆っていた痕跡が見つかることがあり、通常は開口せずに閉じていたとも思われている[10]

現在はただの岩穴にしか見えないものがほとんどだが、内部は削りっぱなしではなく、今も白い漆喰が残るものもが多数あり画像6、平らに白塗りされている[11]。 さらにその上に漆で唐草などの絵が描かれているものもある。 実朝の墓との伝承のある寿福寺の唐草やぐらはその漆の部分だけが風化せずに浮彫のようになって残っている[12]。 西御門谷奥の「朱垂木やぐら」には、羨道部分の天井に漆喰の上にベンガラを用いた朱色で50本の屋根の垂木を模したものが描かれており、かつそれは庇のように傾斜している画像7[13]

内部の納骨

納骨用の造作としては、玄室中央に大きな穴を掘り画像10、そこに火葬した骨を次々に入れる場合。 火葬せずに遺体を納める場合[14][注 3]。 床面に小さな穴を次々に掘り、そこに火葬した骨を納める場合画像20。 また壁に四角い穴(龕)や丸い穴を開けてそこに火葬した骨を納める場合や、 三面壁の天井下に長押(なげし)状の納骨用彫り込みをもつやぐら画像12 などがある。 それらの穴(龕)には蓋をされていた形跡が残るものもある[15]。 長押(なげし)は柱同士の上部などを水平方向につなぎ、柱の外側から打ち付けられるもので、現在の住宅にもあるが、古代中世の寺院建築においては構造的な意味合いが強く、部材も厚かった。 古代・中世の古建築の解体修理などをすると、この長押上に納骨されているのが見つかることがある[16][17][注 4]

ただし納骨用の造作をもたず、仏華瓶や香炉などに遺骨を納めて石塔の脇におく例や[18]、 五輪塔や宝篋印塔の中に納骨されている場合もあるので、後世にそれが持ち去られてしまえば納骨の痕跡はそこに残らない。 なお火葬していない例は少なく、ほとんどは火葬した骨である[19]

供養のためのもの

多くの場合五輪塔が置かれる。 五輪塔には墓塔としてのものもあるが、多くは追善供養のために法事のたびに追加されたものと思われている。 宝篋印塔や板碑が置かれる場合もある。 大型のやぐらには壁面に仏像画像18、五輪塔画像9板碑位牌画像7、の彫刻を施したものもあり、月輪[注 5] の中に仏や菩薩をあらわす一文字の梵字種子字:しゅじ)が彫られていたりする。 または仏像がやぐらの本尊として置かれているものもある。 それらはその場で彫られたものもあれば画像4、他で作られて置かれたものもある画像21。またその下に納骨穴がある例がある[20]。 朱垂木やぐらでは立像の仏像が置かれていたのか本尊の背後を舟形光背が彫刻してある[21]。 この舟形光背には白い漆喰の上に日月と雲が描かれていたらしく、漆が黒い線となって残っている。 元はこの漆の線の上に金箔の截金(さいきん:切金とも)が施され、金色に輝いていたものと思われている[22]

なお五輪塔も現在目にするものは鎌倉石のものは風化が激しく、安山岩のものでも地が剥きだしになり稀に梵字が刻まれている程度で多くは無地である。 しかし埋蔵されたまま発見されたやぐらでは五輪塔に年紀と法名が墨書されていたり、漆喰の上から浅く彫って金を入れたものもあり、金が剥がれ落ちれば文字が読めなくなってしまうものも発見されている。 それらのことから元の姿の多くは漆喰で白塗りされ年紀と法名が記されていたであろうと思われている。 実際、多宝寺跡やぐら群では鎌倉石(凝灰質砂岩)の五輪塔の火輪に厚さ1mmにもおよぶ漆喰が残っていたし、極楽寺わき出土のものには梵字が墨書されていたものもある[23][24][25]。 急傾斜地崩壊対策工事で見つかった「松葉ヶ谷奥やぐら群」は鎌倉時代末から南北朝時代と推定されるが、2号やぐらでは五輪塔に金泥による梵字が確認され、またその地輪内部に火葬骨が納骨されていた。 3号やぐらも五輪塔には金泥で文字を装飾したものが多かった。

分布

鎌倉が中心であり、山を越えた北鎌倉、六浦(横浜市金沢区)、三浦半島にもあるが数は少なく、圧倒的に鎌倉が多い。 鎌倉の鶴岡八幡宮を中心とした山に囲まれた範囲では中心線より東側に多い。 その多くは南向きの斜面に作られ、次ぎに東向きが多い。 西向きはそれより少なく、北向きはあるにはあるが極めて稀である[26][27][28]

また1977年時点で知られるやぐらを所在地別に分類すると以下のようになり、寺院に伴うものが圧倒的に多い[29]。その寺院を宗派別に分類すると律宗系が650窟で71%を占める[30][注 6]

  • 寺院、または寺院跡に伴うもの 920窟(77%)
  • 武家居館跡に伴うもの 110窟(10%)
  • 切通し周辺にあるもの 161窟(13%)

古代横穴納骨窟とやぐら

古代納骨窟

横穴式の納骨窟は奈良時代の鎌倉にも存在した。 鎌倉だけでなく、駿河国伊豆国相模国武蔵国安房国上総国下総国と広範囲にみられる。 ただしそれは奈良時代に終わっており、鎌倉時代のやぐらの習俗との繋がりはない[31]。 ただし奈良時代の横穴式の納骨窟に納骨穴を掘り、火葬骨を納めて五輪塔で供養している例が見つかっており、鎌倉時代初期には奈良時代の横穴式の納骨窟を利用した埋葬はあったと思われている[32][33][注 7]。 なお、巌窟の宗教施設なら全国にみられる。 鎌倉においては巌堂や岩殿寺などがそれにあたり、ふたつとも平安時代からのものである。

やぐらの年代

やぐらには現在のビルの礎石のような何年何月竣工などという表示はない。 鎌倉石は砂岩であるので脆く風化しやすい。内部の五輪塔などには当初は紀年銘があったであろうが、ほとんどは風化して判らなくなっている。 鎌倉のヤグラから出土したという宝治二年(1248年)銘の籾塔形式宝篋印塔(個人蔵)もあるが購入時にそう聞いたという範囲の話で検証できるものではない[34][35][注 8]。 実際にやぐらで確認された紀年銘の最も古いものは朝比奈峠下やぐら内の板碑にあった文永年間(1260~1270年代)のものである[注 9]。 しかしそれが初めて、それ以前にはやぐらは無いということを証明するものはない。

年代を示すもので多いのは鎌倉時代後期、1300年代に入ってのものである。 浄光明寺のやぐらにある石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)には正和2年(1313年)の銘があり、多宝寺のやぐらにも嘉暦2年(1327年)の年号と僧名が残る[36]。 これらは鎌倉の人口が最大となった時期にも該当するが、もうひとつの理由は職人層を実質支配していた忍性律宗教団が奈良京都から石工を連れてきて、伊豆から運んだ安山岩などの堅い石で石仏や五輪塔などを作り始めたことで銘文が残りやすくなったことにもよる[37][注 10]。 また、納められている五輪塔などの様式からほとんどは鎌倉時代、一部は室町時代と判明する。

やぐらの埋葬者

判明している埋葬者

先に述べたようにやぐらの中には雲形位牌が浮彫にされているものもあり、当初は上を覆う漆喰の上に、墨か、あるいは漆を塗ってその上に金泥かで戒名が書かれていたと思われる。しかし数百年の間の風化ではげ落ち、読めるものはほとんどない。 五輪塔も初期には鎌倉石であるために風化が激しい。 そうした中で、鎌倉時代後期から鎌倉でも見られるようになった安山岩製の仏像、五輪塔などに僅かに名前の知れたものがある。

  • 神武寺の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に「大唐高麗舞師 本朝神楽博士 従五位上行 左近将監 中原朝臣光氏(行年七十三)」とある。この中原光氏は『吾妻鏡』などにも登場する楽人で、鎌倉国宝館にある裸形弁才天座像(重文)の寄進者である[38]
  • 覚園寺の裏山にあたる百八やぐらに「掘出地蔵やぐら」とよばれるものがあるが、その中の二基の五輪塔の地輪に「正祐□□」と読めるものと「祐阿弥陀仏(梵字)逆修四十九 応永三十三年(1426年)八月十五日」とあるものが残っている。「祐阿弥陀仏」は室町時代の初期、応永年間(1394-1427年)の覚園寺大修造に際して、本尊薬師如来の両脇侍、日光・月光両菩薩ほか十二神将その他の造仏を行った仏師「朝祐」である。もうひとつの「正祐」はその父親で、足利尊氏が行った文和年間(1352-1356年)の修造のときの仏師と推定される[39]。このことからも、ひとつのやぐらはその家、その一族の「先祖代々の墓」として用いられたと考えられる[40][注 11]
  • 理知光寺の護良親王首塚の下のやぐらに常滑の大甕が出土し、中には屈葬で入定している火葬していない遺体があった。その大甕の桃型の黒漆の入れ物があり、その中から水晶の丸玉の中をくり抜いて舎利を入れたもの(能作性の舎利)が発見された[41]。そのことからその遺体は1327年4月17日に理知光寺で亡くなった伊豆の妙浄上人宥祥と推定されている[42][43]

やぐらは「鎌倉武士の墓」と云われるが、上記のように決して武士だけの墓ではなく、芸能人、芸術家、僧なども含めた上流階級の墓とされる[44][45]

武士を埋葬と思われるもの

なお、武士のやぐらの墓は報国寺のやぐら に足利家時と、ここで自刃した足利義久の墓がある画像24。 ただしそのために掘られたものかどうかは判らない。 釈迦堂奥やぐら群には宝戒寺普川国師入定窟と伝えるやぐらがあった。 井戸のように深く掘られたところに火葬しない多数の人骨があって、中には刀傷のある生焼けの頭蓋などがあった。 そのことから鎌倉幕府滅亡時に東勝寺で討ち死、または自害した者を埋葬したのではないかとも噂されていた[46]。 後年、そのやぐら近辺が宅地造成で切り崩されるとき、五輪塔の地輪に種子と共に「元弘三年日五月二十八日」の日付を刻むもつが見つかる。 この日は北条氏滅亡の初七日にあたる。 そのことから、おそらくは東勝寺で自害した北条一門を供養したものだろうとされる[47][48]北条政村の常磐亭跡などの奥にもやぐらがあることや、明月院のやぐらのように上杉憲方の墓と思われるものもあり画像18、 武士がやぐらに葬られたことは間違いないと思われている。

武士は晩年、ないしは死の直前に出家するケースがほとんどで、「○○入道」などと彫られたものは見つかっている。 例えば1935年(昭和10年)に二階堂の亀ヶ淵のやぐらに大甕が埋められているのが発見され、中に一体の骨が納めてあった。 そしてその上は大きな切石で蓋をしてあり、その上に宝篋印塔1基と五輪塔が乗っていたが、その宝篋印塔や五輪塔には「清義禅定門」の供養碑であることが記され、五輪塔のひとつには「奉五輪妙相一基 永享五年八月二十日」とあった。 永享5年(1433年)は室町時代中期である。 「禅定門」は居士に似た戒名の位であり、武士であろうとは推測されるが、ただしそれらが誰だかは判らない[注 12]。 調査の結果彫られた銘文から身分や素性が判明したというものはない。

後世の伝承にすぎないもの

寿福寺のやぐら群や頼朝の墓の東隣の谷にある北条政子の墓(後述)、源実朝の墓(後述)、大江広元の墓、島津忠久の墓、などとされるものはみな江戸時代に作られた伝承である。 島津忠久の墓とするものは安永8年(1779年)に薩摩藩がそう称してやぐら前面の造作を作ったもので、それ以前の『新編鎌倉志』に記載はなく、後の『新編相模風土記稿』では「案ずるに忠久の墓、此の地に在るること疑ふべし。・・・個々に頼朝の墳墓あるにより新たに遠祖の碑を造立せしものと覚ゆ」と書く。 隣の大江広元の墓というのは、子孫である長州藩が薩摩藩の島津氏に対抗して江戸時代の文政6年(1823年)にこれを大江広元の墓としたもので[49][注 13]、 その6年後の『鎌倉攬勝考』は「土人等大江広元の墓なりというは訝(いぶか)しき説なり」と否定している[50]。 「唐糸やぐら」の唐糸伝説や、護良親王の土牢(現鎌倉宮)の伝承は江戸時代より前に成立はしているが、室町時代にはやぐら本来の意味は忘れ去られて「牢」だと思われていたことをしるすに過ぎない。

庶民の埋葬

京の百姓葬送の地

この時代の「百姓」とは貴族官人以外の納税者、庶民の意味である。 中世の庶民に「先祖代々の墓」はない[51][注 14]。 「先祖代々」は「家」の確立があってのことであり、庶民にも「家」の概念が浸透するのは江戸時代前期からである[52][53][54][注 15][55][注 16]。 宗教絵画に屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた九相図というものがあるように、インドだけでなくかつては日本においてもそれは普通の日常的な光景であった。 京においても子供ならば貴族の子、天皇の子の遺体さえも火葬も土葬もされずに町の外に運んでそのまま置かれている。いわば風葬である[56][57][注 17]。 871年(貞観13年)の太政官符には鴨川の下流を指して近年耕地化されつつあるがここは「百姓葬送の地、放牧之処」であるので耕地化を禁止すると命令している。 後に述べる鎌倉の埋葬禁止令とは逆に見えるかもしれないが、太政官符が指しているのは市街地の外の葬送の地のことである[58][注 18]

葬送の地・地獄の風景

東京国立博物館蔵の12-13世紀の作とされる『餓鬼草紙』「疾行餓鬼の図」に葬送の地の一コマがある。 土饅頭(塚墓)の上に木が植わっているもの、石が置かれているもの(これらも墓標である)、木の卒塔婆が立っているもの、それを柵で囲っているもの、卒塔婆が五輪塔のもの。 そのまわりには既に白骨化したものが散乱し、莚の上の裸の女性の遺体は置かれて間もなく、その枕元には漆塗りらしき器がふたつ置かれている。 別の敷物の上には腐乱した男の遺体。 そして蓋のない棺に入れられた遺体を犬が食っている。 その棺の傍には棺を担いだときの棒と、その脇に折敷(薄板の盆)と土器(かわらけ)が描かれている。 これらは決して行き倒れではなく不法な死体遺棄でもない。 この絵の中のフィクションは5人の餓鬼だけであり、それ以外は当時の誰もが知っていた普通の葬送の地の光景がまとめて描かれている。 なお死体がみな裸なのは運んだのが親族なら帰った後に盗られたのかもしれない[59][注 19]。 運ぶのを依頼されたのが坂非人とか河原者なら、衣類具足は報酬としてそれらの者が取る権利がある[60][注 20]。 鎌倉で地獄谷と云われる地をよく「刑場」と云われるが、稀に刑場にも使われる葬送の地という意味である。 葬送の地だから処刑した死体はそのまま放置できる。

鎌倉の地獄の風景

99:瓜が谷やぐら群1号穴の地蔵菩薩石像と神像

鎌倉では死体を埋葬ないしは放棄するのは、鎌倉中[注 21] の外、境界の外側であり、後の極楽寺や建長寺の場所が地獄谷と言われていたのはそのためである[61][62][注 22]名越切通付近にもまんだら堂やぐら群とは別に、死者の埋葬地に建立された鎌倉時代の石廟がふたつ残り(鎌倉市指定文化財)、古くから葬送の地であったことを伺わせる[63][注 23]。 よく刑場と云われる化粧坂のすぐ傍の瓜が谷やぐら群の1号穴(画像99)には中央に地蔵菩薩の石像、壁には死後の審判を行う十王らしき四体の神像彫刻がある[64]。 更にそこから下って北鎌倉駅前の道で出たすぐ左側の橋は十王橋という。 従ってこのあたりも葬送の地であったと想像されている。 鎌倉で地獄谷と云われる地をよく「刑場」と云われるが、葬送の地だから刑場にも使われるというだけである。 処刑した死体はそのまま放置できる。

海側は現在の下馬交叉点の近くまで滑川が入江のようになっており、その先は市街地ではない[注 24]。 現在の一の鳥居が浜の大鳥居と呼ばれたように浜である。 その浜もまた埋葬地であり多くの人骨が見つかっている。 ひとつの穴に数百の人骨と牛馬など動物の骨もあり、人間の大腿骨の端の部分に犬に囓られた跡があったりと[65]、 付近に散乱していた骨をだいぶ時間が経ってから集めて埋めたとみなされている。 つまり浜にはかなりの死体が放置されていたということである[66]。 先に触れた餓鬼草紙にあるようにこれは当時としては異様な光景ではない。 鎌倉の浜に相当するものは、京においては鴨川の河原である[67][68][注 25]

不法なのは市街地の大路や辻への遺棄・放棄であるがこれとて死体遺棄事件というほどのものではない。 鎌倉幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している。 何度も出すということはいっこうに止まなかったということである。 現に発掘調査では若宮大路や横大路の側溝、鶴岡八幡宮の三方掘の中からも、牛馬の骨とか成人や少年の骨が出てくる[69][注 26]

鎌倉時代の最上流の埋葬

京の文化と鎌倉武士

鎌倉の武士は、あるいは武士そのものが主に王朝貴族の末裔で[70][注 27]、 土着しながらも中央(京の権門)と結びつくことによって、在地での自分の身分(しき)を維持し、うまくいけば官位を手にして在地での身分をより強固にした階層。 あるいは京の下級官吏が権門に所職を与えられて関東に下った者達である。 平安時代末期には関東の多くの在地領主は中央の権門女院とか平家などと結びつくために出仕し、京の文化に触れている。 例えば元歴元年(1184年)6月に、鎌倉に来ていた頼朝の恩人、平頼盛が京に帰るというので、頼朝が送別の酒宴を開いたが、そのときに「京に馴るるの輩」として小山朝政三浦義澄結城朝光下河辺行平畠山重忠橘公長足立遠元八田知家後藤基清らが同席した。 彼らは単に京に行ったことがあるということではなく、正二位権大納言つまり貴族として最上位に近い平頼盛のための酒宴の席で、ちゃんと頼盛を和ませるだけの京風の教養とマナーを心得た者ということである[71]。 頼朝などは年少の頃までその京の王朝文化の中枢で育ち、幼少の頃に既に右兵衛佐という官職を持っている。なので頼朝は貴種と呼ばれる。北条時政大番役で京に出仕していて、戻ってきたら娘の政子が流人の頼朝とできていたという状態である。 奥州藤原氏のように自身では京にのぼらなくとも、京の権門でも最強の摂関家の奥州荘園の管理者であり、また蝦夷地を含めた海産物や砂金の供給源として京と強い繋がりを持っている[72]。 奥州平泉の中尊寺は京の文化が地方の実力者にまで浸透していたことを示す良い例である。

王朝貴族の墓と法華堂

その京の文化はどういうものであったかというと、10世紀から11世紀頃の貴族社会では火葬が一般的ではあるが土葬も行われていた。 藤原摂関家累代の木幡の墓所のように一族の墓所はあったが、そこは死穢(しえ)の場所であり、埋葬後木の卒塔婆がたてられたり、土葬した上に霊屋や、犬などに食い荒らされるのを防ぐ釘貫(くぎぬき:柵)などもつくられたりはするが、それらはそのまま朽ち果てるに任せた[注 28]。 そして継続的な墓参はなされず、貴族達は死者の供養を墓ではなく寺院や仏堂で行っていた[73]。 藤原氏の一族の墓である木幡も墓域に石塔がひとつ建っていただけだという。 ひとりひとりの墓標はない[74][注 29]。 今日思われているほど遺骨は重視されてはいない。

そうした中で、1052年(永承7年)が末法元年であるとする末法思想が蔓延し、盛んに経塚造営や法華三昧堂(法華堂)建立が行われる。 法然を開祖とする浄土宗は(後には親鸞を開祖とする浄土真宗日蓮日蓮宗なども)この末法思想に立脚している。 経塚では寛弘4年(1007年)大和国金峯山藤原道長のものが有名だが、法華堂は道長が山城国木幡の藤原氏の墓域に浄妙寺法華三昧堂を建立したのが始めである。 阿弥陀堂とか地蔵堂というのはその堂の本尊からの呼称であるが、法華堂というのは法華三昧を修する堂で、機能からの呼称である[75][注 30]。 その後、その風習が皇族・貴族の上層部に広まる。 そして鎌倉時代初期の御家人らの記憶の範囲、二条天皇六条天皇高倉天皇後鳥羽天皇順徳天皇後堀河天皇らはいずれも法華堂に葬られ、墳墓堂のようになる[76][注 31]。 それは皇室に限られたものではなく、平安時代後期の上流階級での一般的な傾向である。 例えば奥州平泉の中尊寺金色堂は奥州藤原4代の遺体を安置する墓堂、廟堂、つまりここでいう法華堂である。実際にミイラ化した遺体が発見されている[77]

頼朝の法華堂

寺を建てられるような最上級、将軍家や執権・連署クラスはやぐらではなくその寺に葬られる[注 32]。 例えば頼朝は大倉御所の北の山の中腹に持仏堂を持ち、そこが死後法華堂となる。 頼朝が死んだ年の記事は『吾妻鏡』には無いが、一周期の記事は正治2年(1200年)1月13日条にあり法華堂で栄西を導師として執り行われている[78]。 この頼朝法華堂は現在国の史跡で法華堂跡とされる伝頼朝の墓の石段下ではなく、頼朝の墓のある石段上の平場とされる[注 33]。 そこが法華堂跡であり、頼朝の墓所であったことは『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)の新御所を何処にするかについての陰陽師等の議論の記録で判る[79][80][注 34]

北条政子の法華堂

寿福寺北条政子の墓、実朝の墓との伝承をもつやぐらがあるが、江戸時代初期の沢庵玉舟も寿福寺に詣でてはいるが政子、実朝の墓には一言も触れていない。 その伝承は江戸時代後期の『鎌倉攬勝考』が地元の伝承として紹介したものだが、『攬勝考』の著者自身は『吾妻鏡』で政子は勝長寿院に埋葬されていることを知っており、「そうだとすれば分骨か?」とあまり信用してはいない。 『攬勝考』以前には源頼家の墓と紹介されたこともある。 北条政子は『吾妻鏡』貞応2年(1223年)4月19日条に「勝長寿院奥の御堂、同じき傍らの御亭等上棟なり」とあり[81]、 大倉御所・頼朝法華堂の滑川をはさんだ対岸に弥勒菩薩を本尊とする伽藍・新御堂と御所を建て、7月26日にその新造の御堂御所に移る[82]。 1225年(嘉禄元年)7月11日に亡くなり、翌12日に御堂御所の地で火葬される[83]。 この新御堂が死に備える政子生前の持仏堂、死後の法華堂である[84][注 35]。 またその寿福寺のやぐらには頼朝と政子の間の子、乙姫の墓ではないかとする説が『鎌倉攬勝考』にあり、それを踏襲する論考も出ている。しかし『吾妻鏡』にあるのは同じ亀谷堂でも岡崎義実の建てた草堂(後の寿福寺)ではなくて乙姫の乳母夫であった中原親能亀谷宅の持仏堂・法華堂である[85][86][87][88][注 36]

実朝の法華堂

同じ寿福寺の実朝の墓との伝承をもつ唐草やぐらについても同様である。 実朝の首は行方不明になったが首以外は勝長寿院で火葬され、そこに法華堂が建てられたとみられている。 骨は高野山の金剛三昧院に送られ、頼朝の庶子で実朝の異母兄にあたる貞暁が供養した[注 37]。 寛永年間も1642~1644年の間と推定される『玉舟和尚鎌倉記』はこの唐草やぐらを「絵書櫓」と紹介し、ここに開山石塔があったと記す。 実朝は一言も出てこない。 それを実朝と伝え聞いたのは延宝2年(1674年)の水戸光圀『鎌倉日記』からで、それを『新編鎌倉志』が踏襲する。 しかし1717年(享保2年)の太宰春台の『湘中紀行』は「伝へいふ実朝の墓と、蓋し非なり」と否定しさっている。 『東海道名所図会』には実朝塔と記しながら「千光国師は実朝の帰依僧なれば、追福の為ここに営みしと見えたり」と、仮に実朝のためのものであっても墳墓ではなく供養塔だろうと見ている。 太宰春台も『東海道名所図会』の著者も『吾妻鏡』を読み込んでいる[89]

北条義時の法華堂

13:最明寺跡(現明月院)の北条時頼廟。義時が作った大蔵薬師堂の『吾妻鏡』の法事の記事から、義時法華堂や、泰時の山内粟船御堂もこの程度の小さい堂と推定される[90][注 38]

北条義時は『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月18日条 に「故右大将軍家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす」とあり[91]、 それが法華堂であることは『吾妻鏡』仁治2年(1241年)の泰時の参拝の記事にある[92]。 近年北条義時法華堂跡(ほぼ墓所)の発掘調査が行われた。 この段階ではまだ都市化の初期であるが、その場所は頼朝法華堂同様の山の中腹の平場である。 鎌倉時代の初期にあっては墳墓の地には法華堂が建てられ、あるいは法華堂の傍らに埋葬されている。 先に述べたようにこれは平安時代後期の上流階級での一般的な傾向である。 この時代にやぐらに埋葬したという記録も痕跡も無い。 逆にこれらの面々が法華堂に葬られたことをまとめて証明する記録は『吾妻鏡』にある。 建長2年(1250年)に重時時頼らが「右大将家(頼朝)、左大臣家(実朝)、二位家(政子)ならびに右京兆(北条義時)の御墳墓の堂々を巡礼」 している[93]。 「御墳墓の堂」がここで云う法華堂である。

北条泰時以降の供養堂

その次ぎの代、北条泰時は『吾妻鏡』に「故前の武州禅室(泰時)周関の御仏事、山内粟船御堂に於いてこれを修せらる」とあり[94]、 鎌倉の外の現大船5丁目の常楽寺である。 その次ぎの執権北条経時の墓所は当初佐々目谷にあった浄土宗の光明寺であり、正嘉2年(1258年)に弟時頼が佐々目谷の塔婆を供養したとある[95]。 その北条時頼は祖父の泰時同様に鎌倉の外、北鎌倉の最明寺(現明月院)。 その子北条時宗から三代は円覚寺である。 得宗家以外の執権・連署クラスも鎌倉の外の金沢(当時の読みは「かねさわ」)、極楽寺、常磐に別業(私邸)を持ち、多くはその屋敷地内の持仏堂を寺として葬られている。 また各寺院の長老の墓もやぐらではなく五輪塔とか開山堂などである。

上流階級の埋葬

上流階級の埋葬のされ方

14: 浄光明寺のやぐらを埋める五輪塔

やぐらの最盛期には将軍や執権・連署クラスなどの墳墓は鎌倉の市街地ではなく、山を越えた外に営まれる。 庶民には墳墓の供養という意識はない。 するとその中間の階層がやぐらに関係してくる。 最上流以外の有力御家人の埋葬では『吾妻鏡』健保3年(1215年)9月15日条がある[96]。 前日の地震のときに死んだ伊賀前司佐藤朝光を二階堂行政の後山に葬ると。 二階堂行政の二階堂とは永福寺から来ており現在も二階堂という地名が残る。その後山がどちら側の山かは不明ながら、覚園寺方向であれば天園ハイキングコース側の尾根に有名な百八やぐら群がある[97]。 しかし百八やぐら群がその当時からあったとは云えず、『吾妻鏡』から読み取れるのは山に葬られたということだけである[注 39]

ほかに鎌倉時代初期には「北条政子の法華堂」で触れた中原親能亀谷堂があり、その傍らに親能が乳母夫であった頼朝の娘乙姫が葬られている。 『吾妻鏡』には「親能亀谷堂」[98]、 「故親能入道亀谷堂」[99] と書かれているが、同様の墓堂は京の葬地であった鳥辺野にも見える。1112年(天永3年)の鳥辺野の入口に位置する寺の記録では「左衛門入道堂」「伴入道堂」など人名を付けた堂が境内に48も記録されている。 鎌倉時代には陸奥や九州でも武士が墓堂を建てている[100]

鎌倉時代中期以降、鎌倉の人口が推定数万と都市化して以降上流階級の鎌倉における埋葬地として鎌倉を取り巻く山間部に盛んにやぐらが掘られる。 ただし上流階級はかならずやぐらを墳墓としたのかというとそうとも云えない。 1980年に海蔵寺の墓地裏山が土砂崩れをおこし、その崩落ちた土の中から16点の蔵骨器が発見された。 当時火葬されるのは上流階級であって庶民ではない。当時の鎌倉は人口が膨れあがり、薪も鎌倉外から購入している[101]。 瀬戸の四耳壺、水注、常滑壺などで13~14世紀のものである。 崩落ちたのは土だけでありやぐらにあったのではない。衣張山の釈迦堂側から青磁の大椀2個が出土したがこれも中に骨が入っておりやぐらからではない。 青磁の大椀となれば当時は中国渡来のもので庶民ではありえず、上流階級でもかなり上の方ということになる[102][注 40]。 つまり上流階級の納骨はやぐらだけとは限らなかった。 また、やぐらへの納骨でも、納骨穴に納められているものもあれば、やぐら内の五輪塔などの脇に仏花瓶や香炉に骨を入れて置いてあるケースもある。 つまり人一人分の骨としてはえらく少ない。 ほぼ分骨ぐらいの量である[103]

当時の火葬と供養

現在の火葬は金属の台の上でガスで高熱で焼かれるため、遺骨は灰に至るまで全て骨壺にいれられる。しかし当時は穴に石を置き、その上に死体そして薪を置き火葬するので遺骨は炭や灰に混じり全てが回収できるわけではない。 火葬場の発掘では焼土や炭に混じって骨の破片がある。 中にはかなりの部分を残していたり、稀には焼いたままその場で焼き穴を埋めてしまったものも見つかっている[104]。 つまり全ての骨の回収はそもそも無理なので、拾えるだけの骨を拾い、布などに包んでやぐら中央の大きな穴に納めるということもあれば、供養のためのお骨だけを拾い、香炉などに入れてやぐらに納め、そこで初七日、一周忌、三周忌、十三周忌などの法事を営むというようなことが考えられる。 実際に鎌倉滅亡時に東勝寺で自害した北条氏一族郎党の遺骨を納めたのではないかというやぐらがあるが、そう推測されたのは北条一族が東勝寺で自害した日から初七日にあたる日付の五輪塔があったからである。 またあるやぐらでは多数置かれた五輪塔が銘を見るとみな同じ人を供養するためのものであったりする。 つまり法事のたびに置かれる五輪塔でやぐらが埋まることがある画像14

そう考えれば、やぐらは現在の墓の感覚、納骨場所とは異なり、供養する場所、供養するために納骨する場所、法事を執り行う空間という性格が強いということになる[105]。 最上級の将軍や執権・連署クラスはそれぞれに、あるいは代々の供養する場所、法事を執り行う空間として寺を持つが、鎌倉時代の中期以降の執権・連署クラスでも鎌倉市街地には広大な屋敷地を確保できず、公邸を鎌倉の市街地に持ちながら広大な別業(私邸)を鎌倉を取り囲む山の外に持ちそこに持仏堂を建てる。そこまではできない上流階級はやぐらを穿ち、それを法事を執り行う場所、寺と見立てて内壁を白い漆喰で塗り画像5、 五輪塔や板碑、宝篋印塔の墓銘に漆を塗り、金箔や金泥で文字を彩色する画像9。 朱垂木やぐらのように朱色で屋根の垂木を模した画像7 のもそれ故と理解されている。

納骨信仰と葬送実務

納骨信仰

「実朝の法華堂」の章で実朝の骨は高野山金剛三昧院に送られたと記したが、この当時、死後の功徳を求めて仏教の霊場に火葬骨を納骨するという風習もあった。 史料上の初見は1044年(長久5年)であり、そのときは僧が藤原惟盛なる者の妻の遺骨をその遺言により比叡山の法華堂に運んでいた[106]。 この場合の法華堂は墓としての墳墓堂ではなく本来の法華三昧を修する堂である。 そうした霊場に納骨してもらうことで仏との結縁(けちえん)、死後の功徳を得ようということである。 こうした霊場としてもっとも有名なのが高野山である。 高野山へは1109年(嘉承3年)に堀河天皇の遺髪を納めたことはあるが、遺骨の初見は1153年(仁平3年)の御室(おむろ)門跡覚法法親王とされる[107][108]。 実朝の死の60年前には鳥羽上皇の寵妃美福門院の遺骨も遺言により高野山に運ばれている。 鎌倉時代には信濃善光寺への納骨も有名で、物語では鎌倉時代末(あるいは室町時代前期)の成立とされる『曽我物語』の真名本で虎が曾我兄妹の遺骨を善光寺に運んでいる[109]。 逸話集の『沙石集』にも出てくる[110]

同じ信濃では文永寺への納骨も知られている。 そこには1283年(弘安6年)の刻銘のある石室があり床石の上に五輪塔を置きその前の床石に穴を開けて、その穴の中にの大甕に納骨するようになっている[111]。 やぐらにも似たようなものがある画像10「内部の納骨」で見たように南都七大寺のひとつ元興寺の極楽坊では長押上に小五輪塔を納骨器として載せられていたし、中尊寺金色堂(平安時代後期)でもやはり長押上に納骨が行われているのが解体修理の際に発見されている。 やぐらではこの「長押の上」を模すために天井間際に納骨用彫り込みをもつのが多数ある画像12

墓参

先に建長2年(1250年)の重時時頼らの「御墳墓の堂々巡礼」をあげたが、『吾妻鏡』での墓参は1241年(仁治2年)から3回出てくる[112][113]。 これらはみな年末だが、平安時代から歳末には魂が訪れるという考えがあった。 京の貴族の史料に盂蘭盆(いわゆるお盆)の墓参が現れ始めるのは鎌倉時代中期である[114][115]。 平安時代の京でも歳末にやってくる霊のためにユズハリの葉の上に食べ物をお供えしたりはしたが、それは霊がどこからかやってくるというもので、霊が墓にいてそれを墓参して迎えるようなことはなかった。 鎌倉時代に歳末の墓参したということは、墓に霊がいるという観念が広まり始めたということになる。 しかしそれは火葬や土葬の出来た中流階級でもその墳墓のまわりには庶民の風葬の遺体、遺骨が散乱している状態ではありえず、穢れ(放置死体)の心配の無い囲われた一族墓を持つ上層部から始まると考えられている[116]。 藤原氏の木幡のような一族の墓地は、藤原摂関家以外では村上源氏ぐらいで平安時代後期にはあまり例が無く、鎌倉時代以降に広まる[117]

結界の地・共同墓地の形成

奈良時代の横穴式の納骨墓以降の平安時代の墓は天皇家や最上級の貴族の葬送が古文書に現れるだけで、考古学の世界からはほとんど姿を消す。 まれに発見されても墓が群をなすという形跡は希薄である[118]『今昔物語集』などから判るのは、風葬でないちゃんとした埋葬でも家のまわりということではなしに離れた適当な野原などにバラバラに埋葬しているということである[119][注 41]。 墓参も無いので埋葬地が長く記憶に止まるということもない[120]。 それに変化の兆しが見えるのは12世紀後半である。 納骨信仰にも連動するが、高僧が定め聖地化するような儀礼を行った結界の地に貴族の埋葬が集中しだすということが始まる[121]

発端は986年(寛和2年)に比叡山の高僧である源信僧都が始めた僧の念仏結社二十五三昧会に始まるとされる。 この当時は葬送は家族だけで行うことで他人が関わることは禁忌とされ、それは僧の世界でも変わらなかった。 しかしこの結社内だけは世俗の禁忌を考慮せずに結衆が死ねば結社が協力して葬送を行うことを宣言する [122][注 42]。 この二十五三昧は主に天台宗系の寺院で広がる。 そしてその二十五三昧の墓所は結界の地であり聖地である。 12世紀初頭にはその二十五三昧会に貴族の一部も入会しだす[123]。 この二十五三昧が12世紀後半の共同墓地出現の契機とも考えられている。 この二十五三昧が転じた「五三昧」が墓地を現す例も12世紀中期、遅くとも13世紀前半には見られるようになる[124]

その共同墓地の考古学上の代表は静岡県磐田市の一ノ谷中世墳墓群遺跡である。 それら共同墓地はどのような場所かというと陽当たりが良くて眺めの良い場所が多い。 このような場所を「勝地」と呼び経塚を築いたりする[125]。 この立地条件は「分布」に示したようにやぐらにも共通する。 共同墓地、集団墓地という点では百八やぐら群(画像02)、平子やぐら群(画像29)、まんだら堂やぐら群画像30)、朝比奈切通のやぐら群(画像31)などはまさにそうした姿を示している。

葬送実務と律宗

平安時代の貴族の葬送では、沐浴、入棺、火葬、骨拾いなどは親族で行うのが通例であった。 これらは「穢れ」「喪」に関わることで僧を含めて他人は行わない。 天皇家の場合は臣下が行うがこれは特別である。 そもそも天皇が死ねば全国的に喪に服す。 それが鎌倉時代に入ると「一向上人沙汰」つまり僧に今の葬儀社・火葬場の役割を一任することが増える[126][注 43]。 この役割を担うのは伝統的寺院、例えば比叡山延暦寺高野山三井寺仁和寺などの高位の僧ではない。 律宗や浄土衆の時衆などである。 今日のようにどの宗派も葬祭を行い寺に墓をもつということは無かった。 京では各宗派が葬祭に乗り出すのは15世紀頃である[127]

北京律の泉涌寺は1242年(仁治元年)に四条天皇の火葬を行い、南都律(西大寺系)の東山太子堂はやはり天皇や貴族の火葬を行っている。 非人救済で有名な西大寺系などの律宗寺院の中には「斉戒衆」と呼ばれる下級の僧がおり、勧進聖であるとともに火葬などの葬送作業も行ったと云われている。 当時の宗派は現在の様に縦割りではなく、特に律宗は「戒律を重んじる」ことを特色としながら泉涌寺派の四宗兼学に現れるように他派の僧・寺院とも交流がある。 例えば法隆寺法相宗であるが、その子院の北室には律僧がいてその下に斉戒衆がいる。 醍醐寺仁和寺大覚寺などの真言宗門跡寺院の門主などの葬儀を行うのも律宗系寺院であった[128]

時衆も少なくとも南北朝時代の京では火葬場を運営していた。 1398年(応永5年)の東寺の院主の葬儀は律宗の長老が執行したが火葬場は時衆寺院が運営するものだったりする[129]。 しかし時衆は一遍上人聖絵にあるように少なくとも鎌倉時代には鎌倉に入れず、鎌倉の上層階級の帰依を受けた例は史料上ない。 時衆と律宗の共通点は非人などの下層民との関係である。 その共通点は浄土宗にもあるが、浄土宗も日蓮宗もすくなくともやぐら全盛期には上層階級の葬儀への関与を示す史料はない。 禅宗も室町時代には葬儀に深く関わるがやぐら全盛の頃は不明である[130]。 これらの状況は「分布」でふれた寺院関連で律宗系が71%を占めるということにも付合する。

泰時以降の鎌倉

市街地での埋葬禁止令

奈良時代の横穴墳墓ではなく、鎌倉時代のやぐらが最初につくられた時期は不明である。 やぐら造営の発端のひとつ、あるいは拍車をかけたと論じられた幕府法がある。 佐藤進一らが編纂した『中世法制史料集』御成敗式目の追加法として仁治3年(1242年)正月15日の「新御成敗状」が掲載されている。 内容を口語訳すると「府中には一切墳墓があってはならない。もしもそれに違う所があればその持ち主に改葬を命じ、かつその屋地は没収する」というものである[131][注 44]。 これは佐藤進一らが編纂した時点から赤星直忠の『鎌倉市史・考古編』、大三輪龍彥の『鎌倉のやぐら』の時点まで鎌倉幕府法と思われており、赤星も大三輪もそれがやぐら造営に拍車をかけた、あるいは発端のひとつとした。

しかしその後これは鎌倉幕府の追加法ではなく、御家人で守護の大友頼泰が発布したものと判明している。 そこから大友頼泰が領地の豊後の都市・府中の支配のために発布したもので鎌倉とは直接関係ないとの説もあった。 だが更にその後、その時点で頼泰はまだ豊後に下向しておらず、かつ当時の豊後国府は都市というにはほど遠い状態であったことも判明した。 大友氏は頼泰の祖父大友能直の代から豊前豊後守護となるが実際には鎌倉や京に居る。 それらのことから「新御成敗状」はその京や鎌倉の都市の行政支配の知識をベースとした不在守護の理念的な法令(ガイドライン)であることが近年指摘されている[132][133]

この大友頼泰の仁治3年(1242年)正月の「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の幕府法であった可能性は高いとはいうものの、大友氏は鎌倉とともに京も知っており、京にはかなり古くから同様の法律があった[134][注 45]。 史料に残る法令は律令制全盛期の古いものではあるが、実際に平安京の市街からはほとんど墓跡が発掘されていない[135][注 46]。 鎌倉においても状況は同じである。 当時の市街地から鎌倉時代と推定される埋葬された人骨が発掘されたことはない。 鶴岡八幡宮境内から男女の土葬骨が発掘されたことはあるがそれは当時の鶴岡八幡宮の地表よりも下層で、平安時代末のものである[136][注 47]。 ただし「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の法令であったのか、京の法令であったのかは不明である。 オリジナルの「市街地埋葬禁止令」が鎌倉の法令であったとしても、それ以前の何年から出されていたのかは不明である。 そこでこの仁治3年(1242年)正月前後の鎌倉の状況を見ていくことにする。

泰時の都市計画

北条得宗家は北条泰時の代から墓を鎌倉の外に持つが、その泰時の死がちょうど仁治3年(1242年)の6月15日であり、泰時はそれまでに都市鎌倉の骨格を作りあげている。 まずは御所の移転である。 源氏三代の将軍の御所は鶴岡八幡宮の東側の大倉御所であった。 四代将軍となる藤原頼経は北条義時の大倉亭に居たがその頼経の御所を嘉禄1年(1225年)に鶴岡八幡宮の南、若宮大路とその東側の小町大路に挟まれた地に建設する[137]。 これによって都市鎌倉の中心は大倉から小町大路を中心とした地に移る。 小町大路とは現在の小町通りではなく、宝戒寺の前から本覚寺の前までの道である。 本覚寺の前で滑川を渡ると大町になる。 若宮大路の西側の多くは湿地であったため、屋敷は多くない。

その後の大がかりな土木工事は1233年(貞永元年)、その小町大路の先の材木座海岸の和賀江築港である。 それを提案し、泰時の後ろ盾で工事にあたったのは勧進聖の往阿弥陀仏であり、後にその維持管理を引き継いだのが忍性らの極楽寺律宗集団である。 これは海からの物流ルートであるが、陸上での物流ルートとして仁治元年(1240年)に「山内の道路を造らるべきの由その沙汰」[138][注 48]、 「鎌倉と六浦津との中間に始めて道路に当てらるべきの由議定」[139][注 49] と、現在鎌倉七口と言われるもののいくつかの工事を命じている。

泰時の都市行政

泰時は鎌倉中(市街地)の都市行政にも様々な手を打っている。 東西の陸路の工事を始めたと同じ年、延応2年(仁治元年:1240年)2月に京の町にならって鎌倉中を「保」に分け、それぞれに奉行人を置き、それを市中行政の末端とする。 その保々奉行人に「盗人の事」、「辻捕の事」、「悪党の事」などの治安関係の他に「丁々辻々の売買の事」、「小路を狭く成す事」などの禁止・取締を命じている[140]。 これが鎌倉で市政らしいことが文献に出てくる最初である[141]。 つまり仁治元年(1240年)時点で鎌倉には人が溢れかえり、道の端に小屋を建てたり、あるいは軒下を張り出すなどして道の一部を自分の家に取り込もうとすることが多々あったということである。 同年11月にはその保の組織を利用して市中の辻々で夜間に篝火を焚かせ、夜の治安を保とうとした[142]。 従って「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の法令であったなら、そのオリジナルの「市街地埋葬禁止令」は、泰時が京の市政「保」を鎌倉に適用した延応2年(仁治元年:1240年)以降、つまり仁治3年(1242年)正月からそう遠くない時期と思われている。

泰時の後の経時時頼の時代になるが、1245年(寛元2年)に先の「小路を狭く成す事」をより具体的に「軒を路に出すこと」、「町屋をつくってだんだん路を狭くすること」、「小屋を溝の上につくりかけること」と述べてそれを禁止している[143][144]。 これも先に禁止した「小路を狭く成す事」がなかなか止まなかったということである。 1251年(建長3年)12月には小町屋(商店)や売買の設けを7ヶ所に限り、翌年には酒を売ることを禁じて鎌倉中の保奉行人に命じて民家の酒壺をしらべさせたところ、その総数は37,274壺にものぼったという[145][146]。 鎌倉の人口が推定数万人というのはこの数も参考にしている。 これらのことから、泰時の時代から時頼の時代にかけて鎌倉は都市として急激に膨張していったことがわかる。

墓の空白期

ただし「市街地埋葬禁止」をうたう「新御成敗状」のオリジナルが鎌倉の法令であって、その鎌倉の法令が1240年(仁治元年)以降、仁治3年(1242年)正月までに出されたにしても、それが鎌倉における墳墓のやぐら化の直接の原因かというとそうとも言い切れない。 「やぐらの年代」で見たように、やぐら内から発掘されたものでやぐらで確認された紀年銘の最も古いものは朝比奈峠下やぐら内の板碑にあった文永年間(1264~1274年)のものである。 30年前後の「墓の空白期」が出来てしまう[147]。 これは「まだ発見されていないだけ」である可能性もある。 しかしもうひとつ「上流階級の埋葬のされ方」で見たように、山間部のやぐら以外からも骨壺に入った火葬骨が出土している。 骨壺に使われた陶器は13~14世紀のものである。 市街地埋葬禁止令があったとしても、あるいはやぐらが作りだされて以降も、やぐら以外への上流階級の埋葬はあったということになる。 更にその時代、京においても墓所としての「勝地」は陽当たりが良くて眺めの良い場所であり平地ではない。 北条義時が「故右大将軍家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と書かれるように鎌倉時代初期の法華堂も山の斜面にある。

やぐらの時代

鎌倉への律宗の進出

15:忍性が開いた多宝寺の跡の覚賢塔、鎌倉の石ではなく安山岩なので風化が少ない。これはやぐらの中ではない。かつこの塔の周囲にはやぐらは無い。下の平場にやぐら群がある。

やぐらが最盛期を迎えるのは鎌倉時代末と考えられている[148]。 これは鎌倉への律宗の進出時期とほぼ一致する。 「葬送実務と律宗」にみたように、鎌倉時代に葬送に関与した宗派は律宗である。 律宗僧の鎌倉での活動は南都律(西大寺系)の忍性に始まるものではないが、確実に職人集団を率いていたとされる忍性が極楽寺の住持となるのは1267年(文永4年)である[149]。 しかしそれ以前から鎌倉の釈迦堂や多宝寺にいる。 紀年銘の最も古い朝比奈峠下やぐら内の板碑の文永年間(1260~1270年代)に付合する。 もうひとつの律宗グループの北京律(泉涌寺系)が鎌倉の拠点として覚園寺を建てるのが1296年である。 この覚園寺の裏山に巨大な百八やぐら群や中規模な平子やぐら群がある。

「分布」の節で述べたように、やぐらは「寺院、または寺院跡に伴うもの」が大半を占め、かつその中でも律宗系が650窟で71%を占め、やぐら全体に対しても半数を超える。 鎌倉以外で鎌倉のやぐらと共通性をもつもにが東京湾を挟んだ千葉県にもあるが特定の土地にまとまっていて、当時は称名寺領や覚園寺領、つまり律宗寺院の寺領であった[150]

土木工事の担い手

これらのことからやぐらにも律宗系の何らかの影響が想像されるが、しかしそれは律宗の教義によるものではない。 律宗の西大寺系(南都律)にしても泉涌寺系(北京律)にしても、その長老の墓はやぐらではなく巨大な五輪塔か宝篋印塔である。 これは鎌倉の律宗寺院、極楽寺の忍性塔・忍公塔、多宝寺跡の覚賢塔画像15覚園寺の開山塔・大燈塔などでもわかる。 教義によるものでなければ何によるのかと言えば、例えばハンセン氏病患者などの病者・貧者・乞食・非人などの救済で有名な忍性は、『性公大徳譜』に建立した塔婆20基、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所とあるように[151]、 石工を含んで主に土木系の工人集団を率いている。 そして西大寺系も泉涌寺系も葬送の実務請け負っているだけでなく東大寺の大勧進や東寺の大勧進を務めている。 大勧進は寺院再建のプロデューサーであり、スポンサー獲得のプロであると同時に現場に携わる土木・建築・仏像・大鐘などの鋳物に関わる職人集団、更に楽人など宗教芸能までを影響下に置いている[152][153][注 50]

和賀江築港は当初は念仏衆の勧進聖、往阿弥陀仏であったものが[154][155]、 後に極楽寺の管理となっていることからもそれは覗える。 従って、律宗系がというより律宗僧に率いられて上方の石工、大工などが集団で鎌倉の地にやってきたことの影響と見ることができる。 もちろん律宗工人集団にしか岩窟が掘れなかったわけではないし[注 51]、 現に巌堂や岩殿寺は平安時代末からあったので律宗工人集団からやぐらが始まったわけではないが、それにより加速したことは確かだろうとされる。 ちなみに忍性らはそれ以前に下層民としての土木作業員を支配していた念仏衆(今で云う浄土宗浄土真宗時宗)を駆逐したわけではなく、彼らも影響下においている。

やぐらの全盛期

平安時代には見られなかった「納骨信仰」が鎌倉時代に始まり、「勝地」を「結界の地」として、そこに「墓参」したいというニーズが高まる。 そこに葬送請負も業とする律宗集団が参入するが、鎌倉は狭く山に囲まれているので、「結界の地」の共同墓地は山となり、幸い律宗集団は土木工事のプロでもあるので「墓参」のための墳墓堂を岩窟として掘れる。 かつまた立派な石塔、石像も彫れる。 やぐらは平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがル中で、上流階級の墓参供養、生前墓への逆修のニースに答える、法華堂(墳墓堂)に相当するものとして山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂であるとされる[156]。 やぐらは1260年代から始まるにしても、石塔まで含めた全ての条件が揃うのは1300年前後からであり、減速するのは鎌倉幕府の滅亡である。 これはやぐらの発掘結果とも一致する[157]

やぐらの衰退

やぐらは南北朝時代を経て室町時代中期まで続くが、室町時代に入ると形状も簡略化され、その数も減少する。 やぐらが作られなくなった時期は鎌倉が武士の都市ではなくなった時期におおよそ付合する。 鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実の対立に端を発する1438年(永享10年)の「永享の乱」で持氏が自害し、その嫡男足利義久も報国寺で自害し鎌倉府は滅亡する。これが関東における戦国時代の幕開けである。その後1447年(文安4年)3月に鎌倉府は持氏の遺児足利成氏のもとで一時再興されるが、1454年(享徳3年)12月に始まる享徳の乱で、本拠地鎌倉を室町幕府の命をうけた今川範忠に占拠され、下総・古河に移って古河公方と称する。ここに至って鎌倉は最終的に「武士の都」ではなくなり、多くの寺院も衰退して鎌倉はほぼ農村と化す。 つまりやぐらで供養されていた武士を始めとする上流階級のほとんどが鎌倉を去って、供養する者が居なくなった多くのやぐらは忘れさられてゆく[158]。 その後は残されたやぐらを倉庫代わりに使ったり、埋もれかかったやぐらの内部に遺体を土葬するようにもなった[159][160][注 52]

代表的なもの

寺院のやぐら

ハイキングコース等のやぐら

 

その他のやぐら

研究上重要なやぐらだがハイキングコースではなく、あるいはハイキングコースから外れた場所や、通常は立ち入れないところもある。

  • 瓜ヶ谷やぐら群画像5):葛岡神社北側の谷で5穴からなる。左端の一番大きなやぐらには等身大の地蔵座像を安置する。このやぐらは巾470cm、奥行700cm、高さは190cmで短い短い羨道をもつ。第二穴は巾344cm、奥行220cmでやはり短い短い羨道をもつ。奥には高さは151cmの五輪塔が掘り出されており、横壁にも五輪塔が掘られている。この第二穴には白い漆喰が多く残る[167]。(鎌倉市指定史跡)
  • 朱垂木やぐら群画像7,画像8):西御門谷山中。20窟からなり、朱垂木やぐらはその中央に位置する。このやぐらの特殊なことはそれ自体は納骨窟ではないということ。納骨窟であるやぐら群の中央にあり周囲のやぐら群の供養を行う仏殿の役割とみられている。ただし納骨窟ではないとは正確には納骨穴などがないということであり、羡道左壁に雲形位牌の浮彫があることから蔵骨器などで納骨されていた可能性は残る。通常は本尊たる石仏があっても、仏殿でもあり納骨窟でもあるという方が多い。「構造と内部」の章参照[168]
  • 日月やぐら画像11):釈迦堂口トンネル上尾根やぐら群(釈迦堂切通し直上:。鎌倉時代。日と月を模った納骨穴を内部壁に持つ[169]。(「大町釈迦堂口遺跡」として国の史跡に指定)
  • 唐糸やぐら画像4):衣張山やぐら群。釈迦堂切通の尾根南面。鎌倉時代中期でやぐらの扉をつけた痕跡が顕著に見られる[170]。(「大町釈迦堂口遺跡」として国の史跡に指定)
  • 釈迦堂奥やぐら群:浄明寺釈迦堂谷奥。宝戒寺普川国師入定窟と伝えられるものもある。井戸のように深く掘られたところに火葬しない多数の人骨があり、中には刀傷のある頭蓋があったことから鎌倉幕府滅亡時に東勝寺で討ち死、または自害した者を埋葬したのではないかとも噂された[171]。また宅地造成で切り崩されたやぐら跡から元弘3年(1333年)の北条氏滅亡の初七日にあたる日付をもつ五輪塔の地輪が見つかっている。
  • 多宝寺跡やぐら群扇ガ谷山中。覚賢塔という巨大な五輪塔の前面下の段にある。
  • 東泉水やぐら群:東泉水谷。17穴あるがその13号穴には五輪塔や石層塔のような浮彫がある[172]
  • お塔の窪やぐら:十二所山中。相輪だけを別石として基台・塔身・屋蓋の三部を一石造とした古い様式の宝篋印塔がある[173]
  • 伝大江広元の墓大江広元の墓とされるやぐらは内部は奈良時代のものとみられる。

脚注

注釈

  1. ^ えいいき。墓地・墓場のこと。
  2. ^ 第七代執権北条政村が構えた北条氏常盤亭跡にも法華堂跡とやぐらがある。鎌倉の寺院と最上流の武家屋敷の多くはひとつの谷戸を占有しており、その切り開かれた部分(平場)の一番奥の方にあることが多い。
  3. ^ 東林寺跡やぐらの例や、後に触れる理知光寺の護良親王首塚の下のやぐらの例などはあるが、数は少ない。
  4. ^ 例えば南都七大寺のひとつ元興寺の極楽坊(鎌倉時代・国宝)では長押上に小五輪塔を納骨器として載せられていた。 中尊寺金色堂(平安時代後期)でも祭壇の下は藤原三代(実四代)ながら、やはり長押上にそれ以外の納骨が行われているのが解体修理の際に発見されている。
  5. ^ 仏教語で円形の輪
  6. ^ なお、当時の宗派は現在のように固定的なものではない。特に鎌倉時代に律宗と呼ばれる西大寺系、泉涌寺系の一派は戒律を重んじる四宗兼学の総合大学のようなものであり、ここでの律宗系とは現在残る寺の宗派ではなく兼学である浄光明寺などもここでは律宗系とカウントしている。
  7. ^ 具体的な例は頼朝法華堂の東隣、義時法華堂跡とされる平場の上の、江戸時代から大江広元の墓と伝えるやぐらは奈良時代のものの再利用とみられる。
  8. ^ この籾塔形式宝篋印塔は安山岩製というが、鎌倉周辺に安山岩製の石塔や石仏でもっとも古いのは金沢・称名寺にある北条実泰(1263年没)夫妻再建塔もしくは北条実時(1276年没)墓塔と考えられる五輪塔である。 称名寺が南都律の寺となったのは1267年(文永4年)であるので実泰夫妻再建塔はそれ以降に作られたものということになる。 現在鎌倉にある安山岩の宝篋印塔で最も古いのは安養院にあるもので1308年(徳治3年)である。
  9. ^ 板碑は秩父産の緑泥片岩で造られるため安山岩より加工しやすく鎌倉石のように風化しない。
  10. ^ 例えば浄光明寺のやぐらにある網引地蔵は鎌倉の石ではなく安山岩である。 それ以前の鎌倉の石工の工具では安山岩は彫れなかった。 より具体的には、ちょうど1300年(正安2年)に忍性に従って箱根山に来た大蔵心阿がそこで宝篋印塔を完成さた。そしてその後鎌倉に定着したのが鎌倉における宝篋印塔のはじまりだとされる。 ただし、五輪塔には13世紀末と見られる称名寺のものもあり、極楽寺と称名寺で様式が僅かに異なることから、西大寺(南都律)系でも複数の石工集団が居たと推測される(中世石塔の考古学 p.207 )。
  11. ^ なお「逆修四十九」の「逆修」とは生前に自分の三十三回忌までの全ての法要行ってしまうことで、死後の追善休養の6倍の功徳があるとされていた。これが行われているということは、今日の生前墓と同じように、死ぬ前に自分のやぐらを用意しておくということも想像される。法華堂が生前は持仏堂だったようなものである。
  12. ^ 俗名の知れるものには極楽寺の忍性塔の傍らに延慶3年(1310年)の安山岩製五輪塔がある。 「関弥八左衛門入道 沙弥 行真 延慶三年八月五日」と銘があるので武士と思われる(鎌倉市史・考古編 p.405)。 この例のように仮に俗名が判明してもよほど有名で、古文書の各所に出てくる者でなければどのような者であるのかは判明しない。 なおこれはやぐらの例ではない。 極楽寺は境界である極楽寺坂の外、昔は地獄谷であった地であり墓はやぐらでなくとも良い。
  13. ^ 例えば十二所に大江広元塔と伝えるものがあるが、江戸時代後期に毛利家の家老らが調べにきたとき、土地の者は後の煩わしさを避けるために屋蓋部を谷に突き落として、そのようなものは残っていないと答えたと伝えている。 昭和になって落とされた部分も集めて積み重ねられたがそちらが本物かどうかは別の話で、似たような話は他にもある。
  14. ^ 柳田国男は「石器を使っていた時代の人骨でも、探しているとおいおい出てくるのに、いかなる古い村にも中世以前の墓場というものがない」と述べている。
  15. ^ 鎌倉時代より数百年後の戦国時代でさえ、奥州伊達家の分国法「塵芥集」などには子供の分配を決める項目がある(大石慎三郎1995 p.4)。 似たような例は鎌倉時代の御成敗式目の他(『中世法制史料集1』 「御成敗式目」41条「奴婢雑人事」 p.24)、極楽寺の古文書にも見られる。
  16. ^ 江戸時代にも家の墓地や墓石はあったが、その墓石が先祖代々の墓となるのは実は明治時代からである。
  17. ^ 1077年(承保4年)9月に白河天皇の皇子が4歳で死んだとき、遺体を東山大谷に棄てた。 源俊房は『水左記』に「七歳のうち、尊卑ただ同じことなり」と書いており、下々の者は風葬があたりまえであったことを示している。
  18. ^ 鴨川の下流、桂川との合流地点付近で古くは「佐比河原」(さいのかわら)と呼ばれていた地である。ここは京の外とされている。
  19. ^ 1226年(嘉禄2年)に六条朱雀に首を切られた男女の死体があったが見物人が集まった頃にはもう死骸は全裸で、道行く人が見るに見かねて木の枝を折って女陰を隠したという。侍従源親行が悪行を繰り返し、その情婦(自分の異母姉)とともに父雅行に殺されたもので当然着物をまとっていたはずである(藤原定家『明月記』嘉禄2年6月23,24日条)。
  20. ^ 西大寺律宗(南都律)の創始者叡尊に出された非人の請文に「諸人葬送の時、山野において随身せしむる所の具足(衣類その他葬具)」を非人が取る権利が記されている。 現在の感覚からは違和感はあるが、そもそも僧侶が着す袈裟の元は釈迦やその弟子の出家者が着ていた糞掃衣が元で、それらは風葬された遺体などから集めたものである。 そもそも病気で死にそうになった使用人は食べ物と一緒に道に出されるという時代の話なので、現代の感覚は通用しない。
  21. ^ 「かまくらちゅう」と読み、時期によって範囲は拡大していくが、おおよそ山に囲まれた鎌倉中心部の意味であり、首都の都区部ぐらいの意味である。 その内と外では法が変わる。 中は幕府の直接支配であり、外はそれぞれの地頭の支配である。
  22. ^ 1277年(健治3年)の「富木常忍書状」によると小袋坂で下級の僧が葬送の死体の肉を切り取っているのを発見され、政所に糾問されている。 先の『餓鬼草紙』「疾行餓鬼の図」にある女の遺体の様な、運ばれて間もない遺体から肉を切り取っていたのであろう。 なお坂とは今は登り下りの道の意味だが、この時代には境界、峠を指す。例えば鎌倉七口切通しは「坂」と呼ばれている。小袋坂は建長寺の前を通る道。 建長寺の地はかつて地獄谷と呼ばれていたがこのとき既に建長寺は建てられていた。
  23. ^ なおそこは尾根の上の平場でありやぐらはなく、「疾行餓鬼の図」のように死体は放置されたか埋められたと思われる。 ただしこの地の発掘調査は行われていない。
  24. ^ 後にはその地にも倉庫のような建物が増えてゆくが。
  25. ^ 12世紀初頭の成立とされる今昔物語集には、信心深い若い男が路上であった検非違使庁の放免に大内裏の跡地で死んでいた少年の死体を鴨川の河原に棄ててくるように命じられたことが記されている。 実はこの少年の死体は金の塊で、長谷観音への信心のご利益だったという仏教逸話だが。
  26. ^ ちなみに当時の若宮大路は祭礼のためのもので日常の目抜き通りではない。 屋敷や御所の主要な門は小町通側にある。 なお当時の小町通りは現在の小町通りではなく、若宮大路の東側である。
  27. ^ 関東の武士の多くは辺境軍事貴族とされる平高望他、源経基藤原利仁藤原秀郷らの子孫であり、またはその子孫を標榜している。
  28. ^ 石の卒塔婆を立てるように遺言した最初の人は18代天台座主元三大師良源で(勝田至2012 p.131)、それが五輪塔となった早い例は兵範記の1167年(仁安2年)に出てくる藤原基実墓石である。 しかし良源の場合も中有の四十九日までにそれを建てろと云っていることから、転生するまでの期間の功徳を期したもので、そこにいつまでも霊が残るという意味での墓塔ではないとも見られている(勝田至2012 p.131)。
  29. ^ 墓塔に戒名や没年月日を書くことは13世紀後半から広がりはじめ、墓参は14世紀初頭から徐々に広まったと考えられている。
  30. ^ そこは数名の三昧僧が交代で昼は法華経を読み、夜は念仏を唱えたりする。
  31. ^ 葬られ方は様々で火葬骨が多いが棺のまま安置されることもありそれは遺言等による。堂の下に埋められる場合もあれば、仏像の下に入れられることもある(勝田至2003 pp.139-140)。
  32. ^ 良い例が頼朝の墓、北条泰時北条時頼北条時宗などの墓はやぐらではない。
  33. ^ 現在の白旗神社の場所は近世まで山の斜面であったことが発掘調査で明らかになっている。
  34. ^ 10月19日条では地相人金浄法師が「 右大將家(頼朝)法華堂下の御所の地は、四神相応最上の地なり。何ぞ他所に引き移さるべけんや」と、頼朝の法華堂が平地の上にあることを前提とした意見を述べる。 10月20日条では珍誉法眼が「法華堂前の御地然るべからざるの所なり 。西方に丘有り。その上右幕下(頼朝)の御廟を安んず。その親墓高くしてその下に居らば、子孫これ無きの由、本文に見ゆ」。「本文」とは陰陽道の奥義書の意味である。ここでも頼朝の法華堂が頼朝の墓であり、それが平地よりも上であることを前提として意見を述べている。
  35. ^ 『吾妻鏡』には「勝長寿院の小御堂は故禅定二位家(政子)の御遺跡」とある。
  36. ^ 中原親能は建仁2年1月29日条に鎌倉では亀ヶ谷に屋敷を持っていることが記されており、正治元年6月30日条で乙姫の死で出家し、その夜に屋敷内の持仏堂(亀谷堂)の傍らに乙姫を埋葬する。 その持仏堂で乙姫の冥福を祈ったのだろう。 なお、『鎌倉攬勝考』は「尼御所の廟なりというは、此の姫君の塋域にはあらずや、慥か(確か)なることはしれず」と書き、断定している訳ではない。
  37. ^ これが分骨であるのか、拾い上げたすべての骨なのかは不明である。 1160年(永暦元年)に没した鳥羽上皇の寵妃美福門院は鳥羽上皇が用意していた塔に葬られたが、美福門院の遺書が見つかり遺骨は高野山に運ばれた。 このとき、その塔(法華堂)の三昧僧は反対し、受け入れられないと分骨を願ったがそれも拒否されている。実朝が死ぬ60年前には分骨は一般的ではなかったとみられている(勝田至2012 p.147)。
  38. ^ 建保6年12月2日条にはこうある。 「二日庚子、晴、右京兆依霊夢所令草創給之大倉新御堂被安置薬師如来像〔雲慶奉造之〕、今日被遂供養、導師荘厳房律師行勇、呪願円如房阿闍梨遍曜、堂達頓覚房良喜〔若宮供僧〕 也、施主并室家等坐簾中、相州、式部大夫、陸奥次郎朝時被坐正面広廂、信濃守行光、大夫判官行村、大夫判官景廉已下御家人為結縁群参、源筑後前司頼時、美作左近大夫朝親、三条左近蔵人親実、伊賀左近蔵人仲能、安芸権守範高等為布施取、各参候于堂南仮屋、戌剋事終、導師已下被引御布施」。つまり堂の中には導師退耕行勇ら僧三名と義時夫妻のみが入り、その弟時房、子の泰時朝時は広庇(簡単に云うと前面縁側)に座り、二階堂行光二階堂行村以下の幕府高官は堂の上に上がっていない。お布施の受け渡しは堂内ではなく、堂の南の仮屋で行っている。
  39. ^ 赤星直忠は『鎌倉市史・考古編』で『吾妻鏡』のこの記事を以て「このやぐらに埋葬したことを記すものと考える」(p.485) とするが、その後の大三輪龍彥や河野真知郎は否定的である。
  40. ^ 実際そのことによってその場所は北条時政の名越亭ではないかと噂された。
  41. ^ この話に出てくる葬送は沢山の僧が鉦をたたき念仏を唱え、俗人達も多く連なって来るとあるので、一般庶民ではなく長者の葬送である。
  42. ^ この結社は毎月15日の夕刻に集まって念仏三昧を修する。 結衆が病気になれば往生院で香花などに囲まれて死ぬことが出来、結衆全体の墓所も定めて花台廟と名付け予め卒塔婆を立てておき、結衆が死ねば結社の僧が家族でなくとも協力して葬送を行う。
  43. ^ 文献上の初見は1183年(寿永2年)の吉田経房の娘の葬送で「一向に(全体的に)明定上人に示してこれを沙汰せしむ」とある。「一向」とは「全体的に」の意味である。
  44. ^ ちなみに「府中墓所事」は一般庶民向けではなく、墓所をもつのは上流階級である。
  45. ^ 律令制の根幹を成す養老律令の喪葬令(そうそうりょう)皇都条には「凡皇都及道路側近、並不得葬埋」つまり皇都及び道路の側近くには、いずれも死者を埋葬してはならないと規定されている。 「類聚三代格」巻16には平安時代の871年(貞観13年)に無秩序な葬送を禁止し、替わりに2つの葬送地を指定した記載がある。
  46. ^ 例外は三ヶ所あるが、右京三条三坊、右京五条二坊、右京七条四坊と全て右京区である。 京の市街地、特に貴族・官人の住まいは左京区に集中しておりそれがいわば山の手。 右京区は湿地の下町で、主に下々の者が住み空き地も多い。
  47. ^ 若宮大路の側溝から人骨が発掘されたが、これは埋葬というより遺棄されたものである。 埋葬でない遺棄、放棄は日常的であり、幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している。何度も出すということはいっこうに止まなかったということであり、現に発掘調査では若宮大路や横大路の側溝、鶴岡八幡宮の三方掘の中からも、牛馬の骨とか成人や少年の骨が出てくる(中世鎌倉を掘る1994 pp.56-57)。 このあたりは京でも状況は同じである。 むしろ京の方が多い(勝田至2012 p.117)
  48. ^ これが巨福呂坂なのか亀ヶ谷坂なのかははっきりしない。
  49. ^ 朝比奈切通である。
  50. ^ 例えば先に触れた神武寺の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に『吾妻鏡』などにも登場する楽人中原光氏の名があり、鎌倉国宝館にある裸形弁才天座像(重文)の寄進者でもあるが、鎌倉によく顔を見せる泉涌寺(北京律)6世長老の憲静は弘安9年の相模国大山寺供養にこの中原光氏も動員している。 またこの憲静の記録ではこの大山寺復興のために南都(奈良)大工の大蔵康氏らを動員している。 この大蔵康氏の名は称名寺の「堂建立書」にも「大工禅大和権守大蔵康氏」とみえる。 職人集団と云っても、下は土木作業員や石工、大工でも、その棟梁達、特に大工や鋳物師の棟梁は官位官職をもつ身分である。
  51. ^ ただし安山岩のような堅い石で五輪塔や宝篋印塔を掘るのは鎌倉では律宗工人集団からである。
  52. ^ 例えば1999年に行われた二階堂紅葉ヶ谷所在やぐら群の発掘調査では玄室床面に深さ10cm弱の掘り窪めた火葬址が14世紀中葉とみられるかわらけとともに見つかっているが、その床面ではなくその上を覆っていた腐植土層から崩落土丹塊層にかけて多数の火葬されていない人骨や動物の骨が見つかっている。 その骨を調査した国立科学博物館の報告書は、人骨はまとまったものは無く、本遺跡がやぐらを再利用した再埋葬であるため埋葬された時点ですでに人骨が部分的であった可能性が高いとしている。

出典

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  • 高橋崇『奥州藤原氏―平泉の栄華百年』中央公論新社、2002年。 
  • 佐藤常雄、大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社、1995年。 
  • 渡辺尚志『百姓たちの江戸時代』筑摩書房 (ちくまプリマー新書)、2009年。 
  • 鈴木ゆり子 「百姓の家と家族」『岩波講座 日本通史〈第12巻〉近世2』岩波書店、1994年。 
  • 戸田芳実『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、1991年。 
  • 箱崎和久 「北京律宗僧の活動からみた鎌倉の寺院と建築」『建築史の空間』中央公論美術出版、1999年。 
  • 鈴木千歳 「鎌倉史蹟疑考」『鎌倉 : 古絵図・紀行-鎌倉紀行篇』東京美術、1976年。 

史料

  • 黒板勝美校訂『新訂増補国史大系(普及版)吾妻鏡・第1』吉川弘文館、1986年。 
  • 黒板勝美校訂『新訂増補国史大系(普及版)吾妻鏡・第2』吉川弘文館、1986年。 
  • 黒板勝美校訂『新訂増補国史大系(普及版)吾妻鏡・第3』吉川弘文館、1986年。 
  • 黒板勝美校訂『新訂増補国史大系(普及版)吾妻鏡・第4』吉川弘文館、1986年。 
  • 佐藤進一、池内義資編『中世法制史料集・第1巻』岩波書店、1955年。 
  • 山田孝雄他・校注『日本古典文学大系〈第24〉今昔物語集・第3』岩波書店、1961年。 
  • 山田孝雄他・校注『日本古典文学大系〈第25〉今昔物語集・第4』岩波書店、1962年。 
  • 渡辺綱也・校注『日本古典文学大系〈第85〉沙石集』岩波書店、1966年。 
  • 白石克編『新編鎌倉志(貞享二刊)影印・解説・索引』汲古書院、2003年。 
  • 『鎌倉攬勝考』『かながわの歴史文献55』神奈川県立図書館、2008年3月。 

発掘等調査報告書

  • 文化財建造物保存技術協会『重要文化財浄光明寺五輪塔修理工事報告書』1976年。 
  • かながわ考古学財団『鎌倉城(大町三丁目)所在やぐら/発掘調査』1998年。 
  • かながわ考古学財団『鎌倉城(二階堂紅葉ヶ谷)所在やぐら群/発掘調査』2000年。 
  • かながわ考古学財団『松葉ヶ谷奥やぐら群/発掘調査』2010年。 
  • 鎌倉市教育委員会『朝比奈砦/発掘調査報告書』2000年。 
  • 神奈川県教育委員会・鎌倉市教育委員会・かながわ考古学財団『古都鎌倉を取り巻く山稜部の調査』2001年。 
  • 鎌倉市教育委員会『切通周辺詳細分布調査』2001年。 
  • 逗子市教育委員会『史跡「名越切通」-地域に根差した歴史遺産の整備と活用に向けて』2004年。 
  • 逗子市教育委員会『国指定史跡名越切通整備基本計画策定報告書』2005年。 
  • 逗子市教育委員会『史跡名越切通 整備事業に伴う発掘調査報告書』2012年。