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{{Infobox 人物
{{出典の明記|date=2011年2月}}
|氏名=甲斐姫
{{独自研究|date=2011年2月}}
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'''甲斐姫'''(かいひめ、[[元亀]]3年([[1572年]])? - 没年不詳)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての女性。[[豊臣秀吉]]の[[側室]]。
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|生年月日= [[元亀]]3年([[1572年]])
|生誕地= [[武蔵国]][[埼玉郡]]
|没年月日=没年不詳
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|墓地 = [[東慶寺]] ?
|肩書き = [[豊臣秀吉]][[側室]]
|著名な実績 =
|子供 =
|親 = [[成田氏長]]、[[由良成繁]]の娘
|親戚 = [[成田長親]]
}}
'''甲斐姫'''(かいひめ、[[元亀]]3年([[1572年]]) - 没年不詳)は、[[忍城]]城主・[[成田氏長]]の長女で、[[豊臣秀吉]]の[[側室]]。[[天正]]18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]の際、父・氏長が[[小田原城]]に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている<ref name="楠戸40">[[#楠戸 2010|楠戸 2010]]、40頁</ref>{{#tag:ref|甲斐姫に関する武勇伝は[[安永 (元号)|安永]]年間に執筆された『真書太閤記』に詳細に記述されており<ref name="三池131">[[#三池 2012|三池 2012]]、131頁</ref>、[[文化 (元号)|文化]]から[[文政]]年間に執筆された『成田記』も参考書の一つとしている<ref name="成田記9">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、9頁</ref>。[[成田氏]]の推移を記述した『成田記』は、作者の小沼十五郎保道が著した以前に、その基となる『旧成田記』が存在したものと考えられるが<ref>[[#三池 2012|三池 2012]]、39頁</ref>、『回国雑記』などの一級資料のほかに『関八州古戦録』『[[甲陽軍鑑]]』などの[[軍記物]]を参考とした内容となっている<ref name="成田記9"/>。なお、『真書太閤記』に関しては歴史書としての信憑性を疑問視する指摘もある<ref name="三池131"/>。|group=注}}。


== 来歴 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[忍城]](現在の[[埼玉県]][[行田市]])城主・[[成田氏長]]と、最初の正妻で[[上野国]][[新田金山城|金山城]]城主・[[由良成繁]]の娘との間にできた長女。外祖母となる[[妙印尼]](由良成繁の妻)は、[[天正]]12年([[1584年]])[[新田金山城|金山城]]が北条氏に襲撃された際、71歳という高齢にも拘らず篭城戦を指揮した女傑とされる。
忍城城主・成田氏長と、最初の正妻で[[上野国]][[新田金山城|金山城]]城主・[[由良成繁]]の娘との間に生まれる<ref name="成田記115">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、115頁</ref><ref name="楠戸41">[[#楠戸 2010|楠戸 2010]]、41頁</ref>。外祖母となる[[妙印尼]](由良成繁の妻)は、[[天正]]12年([[1584年]])に金山城が[[後北条氏|北条氏]]の軍勢に襲撃された際、71歳という高齢にも拘らず籠城戦を指揮した女傑であり<ref>{{Cite book|和書 |author=[[楠戸義昭]] |year=1994 |title=戦国女系譜 巻之一 |publisher=[[毎日新聞社]] |isbn=978-4620310091 |page =230-233}}</ref>、甲斐姫の母も武芸に秀でていたという<ref name="楠戸41"/>。


天正元年([[1573年]])、成田氏と由良氏の関係悪化に伴い、母とは2歳の時に離別<ref name="楠戸41"/>。その後は養母の下で育てられたが<ref name="楠戸41"/>、[[太田資正]]の娘とされる継母や<ref name="楠戸41"/>、それぞれが母違いの巻姫や敦姫といった妹との仲は良好だったという<ref name="成田記115"/>。19歳となった甲斐姫はその容姿から「東国無双の美人」と評されたが<ref name="成田記115"/>、武芸や軍事に明るかったことから、「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」とも評された<ref name="成田記115"/>。
=== 忍城攻防戦 ===
天正18年([[1590年]])6月、[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]の際、300余の兵と城下の民たち合わせて3,000人程度が籠もるだけの忍城に[[石田三成]]率いる2万余の豊臣秀吉軍が来攻した。しかし、忍城は湿地を活かして築城されている上に、城代・[[成田泰季]]が率いる籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した<ref>この籠城戦の途中で[[成田泰季]]は病死し、姫が指揮を引き継いだとされている。</ref>。そこで三成は[[備中高松城]]同様に水攻めにしようと“石田堤”と呼ばれる長大な堤防を築くが、水が貯まったところで城兵が堤防を決壊させたため、濁流が三成軍を押し流し、多数の死者を出した<ref>この失態により三成は「女の守る城も落とせない戦下手」と諸将から笑いものにされたと伝えられるに至るが、近年、三成と秀吉の間で交わされた書状が見つかり、この水攻めは秀吉からの直接の指示で行われたもので、三成自身は「守りに有利な地形と、自軍の士気を鑑みた場合、命じられた短期間での攻略は難しい」と反対していたともされる。</ref>。また援軍に差し向けられた[[真田昌幸]]・[[真田信繁]]父子、[[浅野長政]]の猛攻に城門の一つが突破されそうになると、甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて出陣し、多くの敵将を討ち取り、敵軍の侵入を阻止したとされる。


=== 忍城の戦い ===
三成はその後も幾度となく忍城に攻撃を仕掛けたがことごとく撃退され、城内に入ることすら出来なかった。だが、[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[8月4日]])、本城・[[小田原城]]が秀吉軍に降伏し、開城する。本城開城を知らない忍城はその後も籠城し続けていたが、[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]([[8月14日]])頃に父・氏長から小田原開城の報と忍城開城の指示を受けたため、甲斐姫たちは矛を収め、堂々と城を出たと伝えられている。この際、往時には珍しく籠城兵たちの罪は問われず、財産も保証されたとされる。
[[ファイル:Gyoda Suijo Park 1.JPG|thumb|250px|left|忍城址にある水城公園。豊臣方との約1か月に渡る籠城戦の末に開城した]]
天正18年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]](1590年[[7月5日]])、[[豊臣秀吉]]による小田原征伐の際、300余の兵と城下の民たち合わせて3,000人程度が籠もる忍城に[[石田三成]]率いる約2万3千人の豊臣秀吉軍が侵攻した<ref name="戦国合戦大事典">{{Cite book|和書 |author=戦国合戦史研究会編 |year=1989 |title=戦国合戦大事典第2巻 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県 |publisher=[[新人物往来社]] |isbn=4-404-01642-5 |page =146-148}}</ref><ref name="西野8-9">[[#西野 2005|西野 2005]]、8-9頁</ref>。忍城は湿地を活かして築城されている上に、城代・[[成田泰季]]が率いる籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した<ref name="西野8-9"/>。この籠城戦の最中に城代の泰季は発熱を起こし、そのまま病死したが<ref name="成田記166">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、166頁</ref>、奥方と甲斐姫は泰季からの「大任を受けながら途中で死を迎えることは残念。万が一の時には[[成田長親]]を私の代わりに」との遺言を受けると一門や家臣を集め、成田長親を総大将とすることを命じた<ref name="成田記166"/>。


成田勢の抵抗に対して三成は[[備中高松城]]と同様に[[攻城戦|水攻め]]の戦法を採用<ref name="戦国合戦大事典"/><ref name="西野8-9"/>。城の周囲に[[石田堤]]と呼ばれる長大な堤防を築き、水を引き入れて成田勢を無力化する作戦に出た<ref name="西野8-9"/>。周辺地域の地形的な問題もあり堤内の水位は芳しくなかったが<ref name="西野10">[[#西野 2005|西野 2005]]、10頁</ref>、[[荒川]]と[[利根川]]から水を引き入れたことで[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[7月17日]])には堤内は水で満ちた<ref name="戦国合戦大事典"/>。一方、忍城周辺は[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]([[7月19日]])頃から[[梅雨]]時の風雨に見舞われた<ref name="西野8-9"/>。この風雨により、同日夜半に2箇所で堤が決壊、濁流が石田勢を押し流し、270人近くにおよぶ溺死者を出した<ref name="戦国合戦大事典"/>。成田勢が夜陰に乗じて堤を破壊したためだとも言われる<ref name="西野8-9"/>{{#tag:ref|この失態により三成は「戦下手」との評価がなされ<ref name="歴史読本201003">{{Cite book|和書 |author=山名美和子 |chapter=論考 合戦場の女 動乱を駆け抜けた女城主・女武者たち |title=[[歴史読本]] |volume=2010年3月号 |publisher=新人物往来社 |page =193-194}}</ref>、諸将の嘲笑の的となったと伝えられているが、こうした低評価は[[関ヶ原の戦い]]の後に徳川家によって広められたものだという<ref name="Lib.Letter21">{{cite web| url=https://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/data/libletter/libletter210915.pdf| publisher=[[埼玉県立図書館|埼玉県立熊谷図書館]] |format=PDF |title=歴史と哲学の県立熊谷図書館 資料案内・展示資料目録 Lib.Letter 第21号 (平成22年9月) |accessdate=2012年11月3日}}</ref>。三成と浅野長政が交わした書簡には、三成は水攻めではなく力攻めを希望していたと記されている<ref name="Lib.Letter21"/>。また、水攻め自体が秀吉からの直接の指示で行われたもので、豊臣家の権威を世間に示すためのパフォーマンスだったとする説もある<ref name="Lib.Letter21"/>。|group=注}}{{#tag:ref|忍城の戦いの際に豊臣秀吉、石田三成、浅野長政らが交わした現存する書状の中で、戦闘が行われた形跡が確認できるものは、忍城の支城である[[皿尾城]]({{ウィキ座標|36|8|39.84|N|139|26|34.54|E|region:JP|地図|name=皿尾城}})の攻防戦に関する書状のみである、とする説もある<ref name="三池99-102">[[#三池 2012|三池 2012]]、99-102頁</ref>。[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]([[7月31日]])に行われた戦闘は浅野長政と[[木村重茲]]の襲撃により豊臣方が勝利したが、双方に多数の死傷者を出した<ref name="三池99-102"/>。一方、[[寺西正勝]]から長政に充てられた書状には7月5日の戦闘において多数の死者が発生していることを憂慮する内容が記されている<ref name="戦国合戦大事典"/>。この他、水攻めのための築堤工事の最中に戦が終結し、忍城への水攻めも総攻撃も実際には行われなかった、とする説もある<ref name="三池113">[[#三池 2012|三池 2012]]、113頁</ref>。|group=注}}。
=== 「謀反者討伐」とその後 ===
その後、甲斐姫は氏長と共に[[蒲生氏郷]]に預けられ、[[岩代福井城]]に移る。ところが、氏長の留守中に家臣の[[浜田将監]]と弟・十左衛門が謀反を起こし、本丸を占拠、義母も殺される。甲斐姫はこれを知って、謀反を起こした浜田兄弟を討伐。後にこの武勇伝を聞いた秀吉は、姫を大変気に入り側室にした。氏長は姫の口添えもあって天正19年([[1591年]])に[[下野国]][[烏山城]]主として2万石の大名になれたとされる(後の[[烏山藩]])。


[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]([[7月26日]])、[[岩槻城]]を攻略した[[浅野長政]]の軍勢が援軍として差し向けられると<ref name="成田記170">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、170頁</ref>、[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[7月28日]])<ref name="成田記170"/>に長政が自ら陣頭に立ち大手口({{ウィキ座標|36|8|19.09|N|139|27|30.78|E|region:JP|地図|name=大手口}})から攻撃を仕掛けた<ref>[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、174頁</ref>。浅野勢が本丸に迫る勢いを見せたため、報告を受けた城代の長親が出陣しようと試みたが<ref name="成田記176">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、176頁</ref>甲斐姫はこれを押し留め、自らが鎧兜を身に付け、成田家に伝わる名刀「浪切」を携え、200余騎を率いて出陣<ref name="成田記176"/>。甲斐姫の到着より先に佐間口を守備していた[[正木利英]]が手兵を引き連れて応援に駆けつけていたこともあって浅野勢の侵入を阻止することに成功し、甲斐姫も多くの敵将を討ち取ったとされる<ref name="成田記176"/>。
甲斐姫は[[大坂の役|大坂夏の陣]]による豊臣家滅亡の際、[[千姫]]のとりなしで死を免れ、近親者で[[豊臣秀頼]]の側室となっていた[[小石の方]]([[成田助直|成田吾兵衛助直]]の娘)とその娘・[[奈阿姫|天秀尼]](秀頼の長女)と共に大阪城から脱出し、鎌倉の[[東慶寺]]に入って尼となったとされる。


{{座標一覧}}
== 人物 ==
[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[8月4日]])<ref name="戦国合戦大事典"/>、豊臣側は石田・[[佐竹義重|佐竹]]勢が下忍口({{ウィキ座標|36|8|3.33|N|139|27|15.96|E|region:JP|地図|name=下忍口}})から、浅野・[[長束正家|長束]]勢は持田口({{ウィキ座標|36|8|7.2|N|139|26|53.65|E|region:JP|地図|name=持田口}})から、[[大谷吉継|大谷]]・[[宇都宮国綱|宇都宮]]勢が佐間口({{ウィキ座標|36|8|2.69|N|139|27|42.36|E|region:JP|地図|name=佐間口}})から三方面同時に侵攻を開始し<ref name="戦国合戦大事典"/>、浅野長政、[[真田昌幸]]・[[真田信繁]]父子らが布陣した持田口では両軍による激しい戦闘が行われた<ref name="成田記195-197">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、195-197頁</ref>。成田勢は他方面でも豊臣側の軍勢と対峙しているため援軍を派遣することが出来ず<ref name="成田記195-197"/>、本丸から甲斐姫が200余騎を率いて持田口に加勢した<ref name="成田記195-197"/>。その際、甲斐姫は[[児島高徳]]の末裔を名乗る[[三宅高繁]]という武将と対峙すると、「女将軍よ、そなたを我が妻としてくれる」と意気込む相手を弓矢で討ち取ったと伝えられている<ref name="成田記195-197"/>。
* 忍城攻防戦や、謀反者を自ら成敗した活躍譚など、華々しい伝承に彩られた甲斐姫は、後に多くの小説等の題材にされたが、彼女の活躍が記載された『[[成田記]]』は後の江戸時代に書かれたものであり、歴史資料として一級ではなく創作が多いとの評もある。しかし『成田記』の記録自体は他の歴史資料と比較しても矛盾が無く、甲斐姫に関する記述のみを、女性の地位の低かった往時にわざわざ創作するのは不自然であるとの説もある。
* 忍城本丸の跡地にある[[行田市郷土博物館]]では、甲斐姫を伝承人物として扱っており、展示物の中にこれを説明するものはない。
* [[平成]]6年([[1994年]])12月に、小冊子『忍城甲斐姫物語』が[[行田青年会議所]]から発行された。これには忍城築城から、[[石田三成]]との攻防戦での活躍や謀反討伐譚、そしてその後秀吉の側室として生きる姿と、後の天秀尼とともに鎌倉・東慶寺へ入寺して亡くなるまでが記されている。


[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]([[8月5日]])、北条側の総大将の[[北条氏直]]が豊臣側に降伏<ref name="戦国合戦大事典"/>。小田原城の受け渡しが行われた後も忍城の成田勢は籠城を続けていたため、秀吉の命により城主の氏長が使者を派遣し小田原開城の報と忍城開城を指示<ref name="戦国合戦大事典"/><ref name="成田記201-203">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、201-203頁</ref>。使者の説得を受けて城代の長親は開城を決断し、[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[8月13日]])<ref name="行田市郷土博物館">{{Cite book|和書 |author=行田市郷土博物館 編 |year=2011 |title=特別展 石田三成と忍城水攻め |publisher=行田市郷土博物館 |page =9}}</ref>{{#tag:ref|[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]([[8月10日]])<ref name="成田記201-203"/>や[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[8月15日]])とする資料もある<ref name="戦国合戦大事典"/>が、浅野長政の書状の中に7月14日の明け渡しが明記されている<ref name="行田市郷土博物館"/>。|group=注}}の開城の際には甲斐姫をはじめ奥方、巻姫、敦姫らが甲冑を身につけて馬に乗り、籠城した諸士に囲まれながら城を後にしたと伝えられている<ref name="成田記201-203"/>。姫らの退出後、豊臣側の総大将の三成が忍城に入り、城代の長親の立会いの下で城の明け渡しが行われた<ref name="成田記201-203"/>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}


== 登場する作品 ==
=== 浜田兄弟討伐 ===
『真書太閤記』や『成田記』には、忍城を明け渡した後の成田氏と甲斐姫の動向について次のような内容が記されている。
=== 小説 ===

豊臣方に抵抗した成田家は[[蒲生氏郷]]に預けられる身となったが、同年[[9月 (旧暦)|9月]]に氏郷が[[陸奥国]][[会津]]に移封されたことに伴い、これに従った<ref name="成田記216-217">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、216-217頁</ref>。氏郷は氏長らを粗略に扱うことはなく、会津領内を[[蘆名盛氏]]が治めていた当時に軍事的な要衝とされた[[福井城 (陸奥国))|福井城]]の守備を一任し1万石の采地を与えた<ref name="成田記216-217"/>{{#tag:ref|[[福島県]][[会津若松市]]周辺には福井城という城郭は存在しないが<ref name="三池122-124">[[#三池 2012|三池 2012]]、122-124頁</ref>、[[郡山市]]湖南町に「[[福良村|福良]]」という地名があり<ref name="三池122-124"/>、その周辺地域に存在する城郭のひとつを氏長が与えられた可能性がある<ref name="三池122-124"/>。一方、蒲生氏や成田氏の分限帳の中に、浜田兄弟の名を確認できない<ref name="三池132">[[#三池 2012|三池 2012]]、132頁</ref>ことから、逸話を疑問視する指摘もある<ref name="三池132"/>。|group=注}}。領地を得たことで氏長の下にはかつての家臣たちが集まり始めたものの、氏郷は家臣の中から上方で召抱えたばかりの[[浜田将監]]と弟の浜田十左衛門を与えた<ref name="成田記216-217"/>。浜田兄弟は成田家に対する監視役でもあったが当初は氏長に忠義を尽くしていたという<ref name="成田記218-219">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、218-219頁</ref>。

同年[[11月 (旧暦)|11月]]、陸奥国中部で発生した[[葛西大崎一揆]]に呼応して[[伊達政宗]]の軍勢が会津領内の[[塩川町|塩川]]に侵攻するとの情報が入り<ref name="成田記218-219"/>、氏長は[[蒲生頼郷]]に加勢するため主だった家臣を率いて塩川へ出陣した<ref name="成田記218-219"/>。浜田兄弟は福井城の留守役を任せられていたが、ある晩に謀反を企て本丸に攻め入ると成田家の譜代の家臣や氏長の妻を殺害した<ref name="成田記220-221">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、220-221頁</ref>。この一報を知った甲斐姫は謀反を起こした浜田兄弟に対して怒りを露わにしたという<ref name="成田記220-221"/>。一旦は200余人を有する浜田十左衛門の兵に対し、十数人足らずの甲斐姫は追い詰められるが<ref name="成田記220-221"/>、「主に刃向かうは逆賊の非人である。忠義のためなら命を惜しまない関東武士の手並みを見るがいい」と言い放つと攻勢に転じた<ref name="成田記220-221"/>。虚を突かれた浜田勢は総崩れとなり、甲斐姫は馬を使って逃走を図る十左衛門に迫るとこれに斬りつけて落馬させ、その首を討ち取った<ref name="成田記220-221"/>。

浜田兄弟の謀反を知り福井城へ引き返した氏長の軍勢と[[会津若松市|黒川]]へと落ち延びる途中だった甲斐姫の手勢が合流<ref name="成田記223">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、223頁</ref>。これに蒲生氏の援軍が加わり<ref name="成田記223"/>福井城を包囲した<ref name="成田記224-225">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、224-225頁</ref>。将監は逃走を図ろうとしたが、[[なぎなた]]を携えて待ち伏せていた甲斐姫と対峙<ref name="成田記224-225"/>。両者は互角に渡り合ったが、甲斐姫が一瞬の隙を見逃さず将監の太刀を払い落とすと、すぐさま右腕を斬り落とし、生け捕りとした<ref name="成田記224-225"/>。将監は[[磔]]のうえ[[斬首刑|斬首]]となり、首は城外に晒されたという<ref>[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、224-225頁</ref>。

=== その後 ===
甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は、姫を気に入り側室として召抱えることになった<ref name="成田記272-274">[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、272-274頁</ref>。一方、甲斐姫が秀吉の側室となった経緯について『[[関八州古戦録]]』では「蒲生氏郷は[[奥州仕置]]により会津に移封された後、氏長に1万石の采地を与えた。秀吉が[[下野国]]の[[小山市|小山]]に立ち寄った際、氏長の娘の美貌と剛勇ぶり、忍城の戦いでの堂々とした振る舞いを聞き、密かに面会した。その後、[[上方]]に戻った秀吉は会津に使者を送り、氏長の娘を側室とするため上京するように伝えた」と記している<ref name="関八州古戦録">{{Cite book|和書 |author=槙島昭武著、中丸和伯校注 |year=1976 |title=改訂 関八州古戦録 |publisher=新人物往来社 |page =531-532 }}</ref><ref>[[#三池 2012|三池 2012]]、136-137頁</ref>。同様の説は、[[新井白石]]著の『[[藩翰譜]]』に記されている<ref name="楠戸40"/>{{#tag:ref|『藩翰譜』には「秀吉が会津に向かう途中の下野国小山周辺に陣を敷き、そこに氏長の妹を召しださせて寵愛した」と記されているが、妹とするのは間違いとの指摘もある<ref name="楠戸40"/>。|group=注}}ほか、[[栃木県]]小山市において伝承が残されている<ref>[[#三池 2012|三池 2012]]、138頁</ref>。蒲生氏郷に預けられていた氏長は姫の口添えもあって、天正19年([[1591年]])に[[下野国]][[烏山城]]主として2万石の領主に取り立てられた(後の[[烏山藩]])<ref name="成田記272-274"/>。

[[大坂城]]での甲斐姫の生活ぶりは定かではない<ref name="三池146">[[#三池 2012|三池 2012]]、146頁</ref>が、『伊達世臣家譜面』によると、秀吉には16人の側室が存在し<ref name="三池36">[[#三池 2012|三池 2012]]、36頁</ref>、[[桑田忠親]]の著作によると、そのうちの名前が判明している人物の一人として甲斐姫の名が挙げられている<ref name="三池36"/>。[[慶長]]3年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[1598年]][[4月20日]])に[[京都]]で行われた[[醍醐の花見]]の際、甲斐姫が詠んだと考えられる歌が残されていることから、秀吉が亡くなる間際までその近辺に存在したものと考えられるが<ref name="三池146"/>、同年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]([[9月18日]])の秀吉没後の消息は途絶えている<ref>[[#三池 2012|三池 2012]]、150頁</ref><ref>[[#楠戸 2010|楠戸 2010]]、43頁</ref>。

一説によると甲斐姫は[[淀殿]]の信任を得て[[豊臣秀頼]]の養育係を務めたとも<ref name="西野12">[[#西野 2005|西野 2005]]、12頁</ref>、武勇を生かして[[隠密]]的な役割を果たしたとも<ref name="成田記272-274"/>、秀頼と側室との間に生まれた[[奈阿姫]](後の天秀尼)の養育係を務め<ref name="埼玉20120828">{{cite news| url=http://www.saitama-np.co.jp/news08/28/02.html | title=秀吉の宴で甲斐姫が詠歌か 京都の短冊に署名 |publisher=[[埼玉新聞]] |date=2012年8月28日|accessdate=2012年11月3日}}</ref>、[[大坂の陣]]の後に共に[[相模国]]の[[鎌倉]]にある[[東慶寺]]に入ったとも言われる<ref name="歴史読本201003"/><ref name="西野12"/><ref name="大井">{{Cite book|和書 |author=大井荘次 |year=2005 |title=行田歴史散歩 史跡と文化財を尋ねて |publisher=大井荘次設計工房 |page =28 }}</ref>。一方で、秀頼に仕えた局や侍女を示す文献資料の中に甲斐姫の名は確認できない<ref>[[#三池 2012|三池 2012]]、151頁</ref>、とされている。

== 甲斐姫の消息 ==
[[ファイル:東慶寺本堂.JPG|260px|thumb|[[鎌倉]]にある[[東慶寺]]。豊臣秀頼の遺児である[[奈阿姫]]はこの寺に入り「天秀尼」と名乗ったが、甲斐姫がこれに同行したとする説がある。]]
豊臣秀頼は、正妻の[[千姫]]のほかに側室をもうけていた。その内の一人は[[伊勢国]]の[[北畠家|北畠氏]]の一族である<ref name="三池155-156">[[#三池 2012|三池 2012]]、155-156頁</ref>[[成田助直|成田吾兵衛助直]]の娘<ref name="東慶寺">{{cite news| url=http://www.tokeiji.com/history/tenshu-ni/ | publisher=北鎌倉 松岡山 東慶寺 | title=第二十世 天秀尼|accessdate=2012年11月3日}}</ref>で[[小石の方]]といい<ref name="成田記272-274"/>、秀頼との間に奈阿姫をもうけた<ref name="東慶寺"/>。小石の方と甲斐姫はそれぞれ異なる出自を持つが、武蔵国と伊勢国の成田氏が混同されたため「奈阿姫と関わった」とする説が生まれたと推測されており<ref name="三池155-156"/>、その中には奈阿姫は甲斐姫の実の娘とする説も存在する<ref name="成田記272-274"/><ref name="歴史読本201003"/>。

奈阿姫は[[岸和田城]]城主[[小出吉英]]の家臣である[[三宅善兵衛 (小出氏家臣)|三宅善兵衛]]の下に預けられ、その妻が乳母を務めた<ref name="三池157-158">[[#三池 2012|三池 2012]]、157-158頁</ref>。[[慶長]]20年([[1615年]])、[[大坂の陣|大坂夏の陣]]の際に奈阿姫は[[豊臣国松]]と共に大坂城にあったが、『[[徳川実紀]]』によると「[[常高院]]の下に預けられていた秀頼の子を、落城時に乳母が迎え取りに行き、抱きかかえて脱出した」と記している<ref name="成田記272-274"/><ref>[[#三池 2012|三池 2012]]、161頁</ref>。奈阿姫は国松とともに徳川方に捕えられ、国松は死罪となったものの、奈阿姫は[[千姫]]の助命嘆願もあって死を免れ、後に鎌倉にある東慶寺に入って尼となり、天秀尼と名乗った<ref name="成田記272-274"/>。

天秀尼は[[正保]]2年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]([[1645年]][[3月4日]])に37歳で亡くなった<ref name="西野12"/>が、東慶寺にある天秀尼の墓の横には従者のものと見られる[[宝篋印塔]]がある<ref name="東慶寺"/>。この塔の側面には「台月院殿明玉宗鑑大姉 天秀和尚御局 正保二年乙酉九月二十三日」と記されている{{#tag:ref|戒名の「明玉」とは、生前の人物像を表し、「明朗快活で澄んだ心の女性」を意味する<ref>[[#三池 2012|三池 2012]]、168頁</ref>。|group=注}}<ref name="西野12"/><ref name="東慶寺"/>が、これが甲斐姫の墓であり<ref name="西野12"/><ref name="大井"/>、上述のように奈阿姫と共に寺に入った従者が甲斐姫であるとの説がある<ref name="歴史読本201003"/><ref name="西野12"/><ref name="大井"/>。『新東鑑』によれば、奈阿姫の乳母を務めた三宅善兵衛の妻は大坂の陣の際に夫が戦死したため、主の三宅氏の下に預けられたと記されている<ref name="三池164">[[#三池 2012|三池 2012]]、164頁</ref>。また、宝篋印塔の形状や「[[院殿号|院殿]]」の戒名は、従者が生前に高貴な身分であったことを示しており<ref name="三池165">[[#三池 2012|三池 2012]]、165頁</ref>、従者は三宅善兵衛の妻ではなかった可能性がある<ref name="三池165"/>。

三宅善兵衛の妻とは別に奈阿姫の養育にあたった身分の高い人物が存在し<ref name="三池166-169">[[#三池 2012|三池 2012]]、166-169頁</ref>、「男性であっても困難な戦場からの脱出行」や「助命のための千姫との交渉」を手助けし、共に東慶寺に入り死の間際まで守り続けた可能性がある<ref name="三池166-169"/>。[[三池純正]]著の『のぼうの姫 秀吉の妻となった甲斐姫の実像』では、甲斐姫であれば上記の条件にすべて符合するのではないか、としている<ref name="三池166-169"/>。

== 新資料の発見 ==
[[2012年]]8月、甲斐姫が秀吉の主催した醍醐の花見に列席した際に詠んだと考えられる[[和歌]]の[[短冊]]が発見された<ref name="埼玉20120828"/>。この短冊は[[醍醐寺]]に保管されていたもので、花見で詠まれた和歌の120番目に甲斐姫のものと考えられる歌が記録されている<ref name="埼玉20120828"/>。なお、署名は「甲斐」ではなく「可い」となっている<ref name="埼玉20120828"/>。また、119番目には「い王(わ)」と署名された短冊が残されているが、この「い王」が奈阿姫の母の小石の方ではないかと指摘されている<ref name="埼玉20120828"/>。

== 伝承 ==
; 縁切橋と涙橋
: 金山城主の由良成繁は忍城主の成田氏長に娘を嫁がせたが成繁は氏長を次第に疎むようになり、娘を返すように迫った。氏長は妻と離縁しなければならなくなり城の裏手にある上荒井曲輪から妻を見送ることになった<ref name="行田の伝説16-17">[[#大澤 1981|大澤 1981]]、16-17頁</ref>。曲輪(後の行田市城西1丁目1番地付近({{ウィキ座標|36|8|16.05|N|139|26|57.39|E|region:JP|地図|name=縁切橋}}))には城門と橋が架かっており、そこで氏長と甲斐姫は妻を乗せた籠を見送った<ref name="行田の伝説16-17"/>。一行はさらに北に進んだ場所にある橋を渡ったが、そこで妻は涙を流したという<ref name="行田の伝説16-17"/>。その後、一行は皿尾口の門({{ウィキ座標|36|8|26.22|N|139|26|50.75|E|region:JP|地図|name=皿尾口}})を抜けて、[[妻沼町|妻沼]]方面を通り金山城へと向かった<ref name="行田の伝説16-17"/>。後に氏長と甲斐姫が見送った橋は「縁切橋」、妻が涙を流した橋は「涙橋」と呼ばれるようになった<ref name="行田の伝説16-17"/>。[[明治時代]]にもこの2つの橋は存在し、地元の若い男女連れは決してこの橋を渡ろうとはしなかったという<ref name="行田の伝説16-17"/>。

; 笄堀
: 忍城の戦いの際、大手門の北西に位置する北谷口に[[大谷吉継]]の軍勢が襲来した<ref name="行田の伝説13-14">[[#大澤 1981|大澤 1981]]、13-14頁</ref>。事前の軍議では北谷口方面の地形的な問題点が指摘されていたが、実際に大谷勢の攻勢に遭ったことから早急に堀を掘削する必要に迫られた<ref name="行田の伝説13-14"/>。そこで、城内に立て籠もっていた婦女子たちを集め、夜通しで掘削工事を行い、一夜限りで堀を完成させた<ref name="行田の伝説13-14"/>。この堀は南北に5から6m、東西に約50mと細長い形状をしていたことから、女性が髪掻きに使う[[笄]]になぞらえて「笄堀」と呼ばれた<ref name="行田の伝説13-14"/>。[[福島東雄]]著の『武蔵志』によると、この掘削工事を甲斐姫が指揮したとしており<ref name="新編埼玉県史">{{Cite book|和書 |author=埼玉県 |year=1979 |title=新編埼玉県史 資料編 10 近世1 地誌 |publisher=埼玉県 |page =168}}</ref>、「氏長の娘の械(カイ)が仕女を統率して堀と土塁を築いた。今では堀のことを「掻髪堀」と呼んでいる」と記している<ref name="新編埼玉県史"/>。

== 家系 ==
{{main|成田氏}}
出典<ref>[[#小沼、大沢 1980|小沼、大澤 1980]]、258-259頁</ref>
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{{familytree | NAR | |NAR=[[成田親泰]]<sup>10</sup> }}
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== 関連作品 ==
; 小説
*『笄堀』([[山本周五郎]])
*『紅蓮の狼』([[宮本昌孝]]) 主人公。
*『紅蓮の狼』([[宮本昌孝]]) 主人公。
*『風来忍法帖』([[山田風太郎]]) 物語のヒロイン「麻也姫」のモデルと思われる。[[太田資正]]の孫であり、氏長の娘ではなく若い妻という設定。
*『水の城 いまだ落城せず』([[風野真知雄]])
*『水の城 いまだ落城せず』([[風野真知雄]])
*『[[のぼうの城]]』([[和田竜]])
*『[[のぼうの城]]』([[和田竜]])
*『忍城の姫武者(上・下)』([[近衛龍春]]) 主人公。
*『忍城の姫武者(上・下)』([[近衛龍春]]) 主人公。
*『甲斐姫翔る あかね色の道』(山名美和子) 主人公。
; 小冊子
*『忍城甲斐姫物語』(行田青年会議所)- 1995年発行。忍城築城から、[[石田三成]]との攻防戦での活躍や謀反討伐譚、秀吉の側室として生きる姿と、後の天秀尼とともに鎌倉・東慶寺へ入寺して亡くなるまでが記されている。作中では奈阿姫は甲斐姫と豊臣秀頼の間に生まれた実子という説を採っている<ref>{{Cite book|和書 |author=行田青年会議所広報委員会 |year=1981 |title=忍城甲斐姫物語 |publisher=行田青年会議所 |year=1995 |page =49}}</ref>。
; 映画
*『のぼうの城』([[2012年]]([[平成]]24年)公開 演:[[榮倉奈々]])
; 漫画
*『のぼうの城』(和田竜、[[花咲アキラ]])
*『涙切姫〜のぼうの城 甲斐姫外伝〜』(和田竜、[[木嶋えりん]]) 主人公。
; ゲーム
*『[[戦国絵札遊戯 不如帰 -HOTOTOGISU- 乱]]』([[アイレム]])
*『[[戦国無双シリーズ]]』([[コーエー]] 声:[[鈴木真仁]])
*『[[無双OROCHI 2]]』(コーエー)
*『[[戦国大戦]] - 15XX 五畿七道の雄 -』([[セガ]] 声:[[三澤紗千香]](SR,BSSともに)) - SR甲斐姫は第2回武将総選挙にて総合1位を獲得。


=== 映画 ===
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
*『のぼうの城』([[2011年]]([[平成]]23年)公開 演:[[榮倉奈々]])
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist}}


=== ゲーム ===
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=大澤俊吉 |year=1981 |title=行田の伝説と史話 |publisher=[[国書刊行会]] |ref =大澤 1981}}
*『[[戦国絵札遊戯 不如帰 -HOTOTOGISU- 乱]]』([[アイレム]])
* {{Cite book|和書 |author=小沼十五郎保道著、大澤俊吉訳・解説 |year=1980 |title=成田記 |publisher=歴史図書社 |ref =小沼、大澤 1980}}
*『[[戦国無双シリーズ]]』([[コーエー]] 声:[[鈴木真仁]])
* {{Cite book|和書 |author=[[楠戸義昭]] |year=2010 |title=城と姫 泣ける戦国秘話 |publisher=[[新人物往来社]] |isbn=978-4404038579
*『[[戦国大戦]] - 15XX 五畿七道の雄 -』([[セガ]] 声:[[三澤紗千香]](SR,BSSともに))
|ref =楠戸 2010}}
* {{Cite book|和書 |author=西野博道 |year=2005 |title=歴史ロマン・埼玉の城址30選 |publisher=[[埼玉新聞|埼玉新聞社]] |isbn=978-4878892660 |ref =西野 2005}}
* {{Cite book|和書 |author=[[三池純正]] |year=2012 |title=のぼうの姫 秀吉の妻となった甲斐姫の実像 |publisher=[[宮帯出版社]] |isbn=978-4863668584 |ref =三池 2012}}

== 外部リンク ==
* [http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sainokuni/sainokuni-kensei-12p2404.html 時代を駆け抜けた 埼玉ゆかりの姫君たち] - 埼玉県ホームページ


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2012年11月16日 (金) 07:30時点における版

甲斐姫
生誕 元亀3年(1572年
武蔵国埼玉郡
死没 没年不詳
墓地 東慶寺 ?
肩書き 豊臣秀吉側室
成田氏長由良成繁の娘
親戚 成田長親
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甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年) - 没年不詳)は、忍城城主・成田氏長の長女で、豊臣秀吉側室天正18年(1590年)の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている[1][注 1]

生涯

生い立ち

忍城城主・成田氏長と、最初の正妻で上野国金山城城主・由良成繁の娘との間に生まれる[5][6]。外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻)は、天正12年(1584年)に金山城が北条氏の軍勢に襲撃された際、71歳という高齢にも拘らず籠城戦を指揮した女傑であり[7]、甲斐姫の母も武芸に秀でていたという[6]

天正元年(1573年)、成田氏と由良氏の関係悪化に伴い、母とは2歳の時に離別[6]。その後は養母の下で育てられたが[6]太田資正の娘とされる継母や[6]、それぞれが母違いの巻姫や敦姫といった妹との仲は良好だったという[5]。19歳となった甲斐姫はその容姿から「東国無双の美人」と評されたが[5]、武芸や軍事に明るかったことから、「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」とも評された[5]

忍城の戦い

忍城址にある水城公園。豊臣方との約1か月に渡る籠城戦の末に開城した

天正18年6月4日(1590年7月5日)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、300余の兵と城下の民たち合わせて3,000人程度が籠もる忍城に石田三成率いる約2万3千人の豊臣秀吉軍が侵攻した[8][9]。忍城は湿地を活かして築城されている上に、城代・成田泰季が率いる籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した[9]。この籠城戦の最中に城代の泰季は発熱を起こし、そのまま病死したが[10]、奥方と甲斐姫は泰季からの「大任を受けながら途中で死を迎えることは残念。万が一の時には成田長親を私の代わりに」との遺言を受けると一門や家臣を集め、成田長親を総大将とすることを命じた[10]

成田勢の抵抗に対して三成は備中高松城と同様に水攻めの戦法を採用[8][9]。城の周囲に石田堤と呼ばれる長大な堤防を築き、水を引き入れて成田勢を無力化する作戦に出た[9]。周辺地域の地形的な問題もあり堤内の水位は芳しくなかったが[11]荒川利根川から水を引き入れたことで6月16日7月17日)には堤内は水で満ちた[8]。一方、忍城周辺は6月18日7月19日)頃から梅雨時の風雨に見舞われた[9]。この風雨により、同日夜半に2箇所で堤が決壊、濁流が石田勢を押し流し、270人近くにおよぶ溺死者を出した[8]。成田勢が夜陰に乗じて堤を破壊したためだとも言われる[9][注 2][注 3]

6月25日7月26日)、岩槻城を攻略した浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると[16]6月27日7月28日[16]に長政が自ら陣頭に立ち大手口(北緯36度8分19.09秒 東経139度27分30.78秒)から攻撃を仕掛けた[17]。浅野勢が本丸に迫る勢いを見せたため、報告を受けた城代の長親が出陣しようと試みたが[18]甲斐姫はこれを押し留め、自らが鎧兜を身に付け、成田家に伝わる名刀「浪切」を携え、200余騎を率いて出陣[18]。甲斐姫の到着より先に佐間口を守備していた正木利英が手兵を引き連れて応援に駆けつけていたこともあって浅野勢の侵入を阻止することに成功し、甲斐姫も多くの敵将を討ち取ったとされる[18]

全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

7月5日8月4日[8]、豊臣側は石田・佐竹勢が下忍口(北緯36度8分3.33秒 東経139度27分15.96秒)から、浅野・長束勢は持田口(北緯36度8分7.2秒 東経139度26分53.65秒)から、大谷宇都宮勢が佐間口(北緯36度8分2.69秒 東経139度27分42.36秒)から三方面同時に侵攻を開始し[8]、浅野長政、真田昌幸真田信繁父子らが布陣した持田口では両軍による激しい戦闘が行われた[19]。成田勢は他方面でも豊臣側の軍勢と対峙しているため援軍を派遣することが出来ず[19]、本丸から甲斐姫が200余騎を率いて持田口に加勢した[19]。その際、甲斐姫は児島高徳の末裔を名乗る三宅高繁という武将と対峙すると、「女将軍よ、そなたを我が妻としてくれる」と意気込む相手を弓矢で討ち取ったと伝えられている[19]

7月6日8月5日)、北条側の総大将の北条氏直が豊臣側に降伏[8]。小田原城の受け渡しが行われた後も忍城の成田勢は籠城を続けていたため、秀吉の命により城主の氏長が使者を派遣し小田原開城の報と忍城開城を指示[8][20]。使者の説得を受けて城代の長親は開城を決断し、7月14日8月13日[21][注 4]の開城の際には甲斐姫をはじめ奥方、巻姫、敦姫らが甲冑を身につけて馬に乗り、籠城した諸士に囲まれながら城を後にしたと伝えられている[20]。姫らの退出後、豊臣側の総大将の三成が忍城に入り、城代の長親の立会いの下で城の明け渡しが行われた[20]

浜田兄弟討伐

『真書太閤記』や『成田記』には、忍城を明け渡した後の成田氏と甲斐姫の動向について次のような内容が記されている。

豊臣方に抵抗した成田家は蒲生氏郷に預けられる身となったが、同年9月に氏郷が陸奥国会津に移封されたことに伴い、これに従った[22]。氏郷は氏長らを粗略に扱うことはなく、会津領内を蘆名盛氏が治めていた当時に軍事的な要衝とされた福井城の守備を一任し1万石の采地を与えた[22][注 5]。領地を得たことで氏長の下にはかつての家臣たちが集まり始めたものの、氏郷は家臣の中から上方で召抱えたばかりの浜田将監と弟の浜田十左衛門を与えた[22]。浜田兄弟は成田家に対する監視役でもあったが当初は氏長に忠義を尽くしていたという[25]

同年11月、陸奥国中部で発生した葛西大崎一揆に呼応して伊達政宗の軍勢が会津領内の塩川に侵攻するとの情報が入り[25]、氏長は蒲生頼郷に加勢するため主だった家臣を率いて塩川へ出陣した[25]。浜田兄弟は福井城の留守役を任せられていたが、ある晩に謀反を企て本丸に攻め入ると成田家の譜代の家臣や氏長の妻を殺害した[26]。この一報を知った甲斐姫は謀反を起こした浜田兄弟に対して怒りを露わにしたという[26]。一旦は200余人を有する浜田十左衛門の兵に対し、十数人足らずの甲斐姫は追い詰められるが[26]、「主に刃向かうは逆賊の非人である。忠義のためなら命を惜しまない関東武士の手並みを見るがいい」と言い放つと攻勢に転じた[26]。虚を突かれた浜田勢は総崩れとなり、甲斐姫は馬を使って逃走を図る十左衛門に迫るとこれに斬りつけて落馬させ、その首を討ち取った[26]

浜田兄弟の謀反を知り福井城へ引き返した氏長の軍勢と黒川へと落ち延びる途中だった甲斐姫の手勢が合流[27]。これに蒲生氏の援軍が加わり[27]福井城を包囲した[28]。将監は逃走を図ろうとしたが、なぎなたを携えて待ち伏せていた甲斐姫と対峙[28]。両者は互角に渡り合ったが、甲斐姫が一瞬の隙を見逃さず将監の太刀を払い落とすと、すぐさま右腕を斬り落とし、生け捕りとした[28]。将監はのうえ斬首となり、首は城外に晒されたという[29]

その後

甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は、姫を気に入り側室として召抱えることになった[30]。一方、甲斐姫が秀吉の側室となった経緯について『関八州古戦録』では「蒲生氏郷は奥州仕置により会津に移封された後、氏長に1万石の采地を与えた。秀吉が下野国小山に立ち寄った際、氏長の娘の美貌と剛勇ぶり、忍城の戦いでの堂々とした振る舞いを聞き、密かに面会した。その後、上方に戻った秀吉は会津に使者を送り、氏長の娘を側室とするため上京するように伝えた」と記している[31][32]。同様の説は、新井白石著の『藩翰譜』に記されている[1][注 6]ほか、栃木県小山市において伝承が残されている[33]。蒲生氏郷に預けられていた氏長は姫の口添えもあって、天正19年(1591年)に下野国烏山城主として2万石の領主に取り立てられた(後の烏山藩[30]

大坂城での甲斐姫の生活ぶりは定かではない[34]が、『伊達世臣家譜面』によると、秀吉には16人の側室が存在し[35]桑田忠親の著作によると、そのうちの名前が判明している人物の一人として甲斐姫の名が挙げられている[35]慶長3年3月15日1598年4月20日)に京都で行われた醍醐の花見の際、甲斐姫が詠んだと考えられる歌が残されていることから、秀吉が亡くなる間際までその近辺に存在したものと考えられるが[34]、同年8月18日9月18日)の秀吉没後の消息は途絶えている[36][37]

一説によると甲斐姫は淀殿の信任を得て豊臣秀頼の養育係を務めたとも[38]、武勇を生かして隠密的な役割を果たしたとも[30]、秀頼と側室との間に生まれた奈阿姫(後の天秀尼)の養育係を務め[39]大坂の陣の後に共に相模国鎌倉にある東慶寺に入ったとも言われる[12][38][40]。一方で、秀頼に仕えた局や侍女を示す文献資料の中に甲斐姫の名は確認できない[41]、とされている。

甲斐姫の消息

鎌倉にある東慶寺。豊臣秀頼の遺児である奈阿姫はこの寺に入り「天秀尼」と名乗ったが、甲斐姫がこれに同行したとする説がある。

豊臣秀頼は、正妻の千姫のほかに側室をもうけていた。その内の一人は伊勢国北畠氏の一族である[42]成田吾兵衛助直の娘[43]小石の方といい[30]、秀頼との間に奈阿姫をもうけた[43]。小石の方と甲斐姫はそれぞれ異なる出自を持つが、武蔵国と伊勢国の成田氏が混同されたため「奈阿姫と関わった」とする説が生まれたと推測されており[42]、その中には奈阿姫は甲斐姫の実の娘とする説も存在する[30][12]

奈阿姫は岸和田城城主小出吉英の家臣である三宅善兵衛の下に預けられ、その妻が乳母を務めた[44]慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の際に奈阿姫は豊臣国松と共に大坂城にあったが、『徳川実紀』によると「常高院の下に預けられていた秀頼の子を、落城時に乳母が迎え取りに行き、抱きかかえて脱出した」と記している[30][45]。奈阿姫は国松とともに徳川方に捕えられ、国松は死罪となったものの、奈阿姫は千姫の助命嘆願もあって死を免れ、後に鎌倉にある東慶寺に入って尼となり、天秀尼と名乗った[30]

天秀尼は正保2年2月7日1645年3月4日)に37歳で亡くなった[38]が、東慶寺にある天秀尼の墓の横には従者のものと見られる宝篋印塔がある[43]。この塔の側面には「台月院殿明玉宗鑑大姉 天秀和尚御局 正保二年乙酉九月二十三日」と記されている[注 7][38][43]が、これが甲斐姫の墓であり[38][40]、上述のように奈阿姫と共に寺に入った従者が甲斐姫であるとの説がある[12][38][40]。『新東鑑』によれば、奈阿姫の乳母を務めた三宅善兵衛の妻は大坂の陣の際に夫が戦死したため、主の三宅氏の下に預けられたと記されている[47]。また、宝篋印塔の形状や「院殿」の戒名は、従者が生前に高貴な身分であったことを示しており[48]、従者は三宅善兵衛の妻ではなかった可能性がある[48]

三宅善兵衛の妻とは別に奈阿姫の養育にあたった身分の高い人物が存在し[49]、「男性であっても困難な戦場からの脱出行」や「助命のための千姫との交渉」を手助けし、共に東慶寺に入り死の間際まで守り続けた可能性がある[49]三池純正著の『のぼうの姫 秀吉の妻となった甲斐姫の実像』では、甲斐姫であれば上記の条件にすべて符合するのではないか、としている[49]

新資料の発見

2012年8月、甲斐姫が秀吉の主催した醍醐の花見に列席した際に詠んだと考えられる和歌短冊が発見された[39]。この短冊は醍醐寺に保管されていたもので、花見で詠まれた和歌の120番目に甲斐姫のものと考えられる歌が記録されている[39]。なお、署名は「甲斐」ではなく「可い」となっている[39]。また、119番目には「い王(わ)」と署名された短冊が残されているが、この「い王」が奈阿姫の母の小石の方ではないかと指摘されている[39]

伝承

縁切橋と涙橋
金山城主の由良成繁は忍城主の成田氏長に娘を嫁がせたが成繁は氏長を次第に疎むようになり、娘を返すように迫った。氏長は妻と離縁しなければならなくなり城の裏手にある上荒井曲輪から妻を見送ることになった[50]。曲輪(後の行田市城西1丁目1番地付近(北緯36度8分16.05秒 東経139度26分57.39秒))には城門と橋が架かっており、そこで氏長と甲斐姫は妻を乗せた籠を見送った[50]。一行はさらに北に進んだ場所にある橋を渡ったが、そこで妻は涙を流したという[50]。その後、一行は皿尾口の門(北緯36度8分26.22秒 東経139度26分50.75秒)を抜けて、妻沼方面を通り金山城へと向かった[50]。後に氏長と甲斐姫が見送った橋は「縁切橋」、妻が涙を流した橋は「涙橋」と呼ばれるようになった[50]明治時代にもこの2つの橋は存在し、地元の若い男女連れは決してこの橋を渡ろうとはしなかったという[50]
笄堀
忍城の戦いの際、大手門の北西に位置する北谷口に大谷吉継の軍勢が襲来した[51]。事前の軍議では北谷口方面の地形的な問題点が指摘されていたが、実際に大谷勢の攻勢に遭ったことから早急に堀を掘削する必要に迫られた[51]。そこで、城内に立て籠もっていた婦女子たちを集め、夜通しで掘削工事を行い、一夜限りで堀を完成させた[51]。この堀は南北に5から6m、東西に約50mと細長い形状をしていたことから、女性が髪掻きに使うになぞらえて「笄堀」と呼ばれた[51]福島東雄著の『武蔵志』によると、この掘削工事を甲斐姫が指揮したとしており[52]、「氏長の娘の械(カイ)が仕女を統率して堀と土塁を築いた。今では堀のことを「掻髪堀」と呼んでいる」と記している[52]

家系

出典[53]

成田親泰10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
成田長泰11小田朝興成田泰季
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
成田氏長12成田長忠13成田長親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甲斐姫成田重長成田氏宗14
 

関連作品

小説
小冊子
  • 『忍城甲斐姫物語』(行田青年会議所)- 1995年発行。忍城築城から、石田三成との攻防戦での活躍や謀反討伐譚、秀吉の側室として生きる姿と、後の天秀尼とともに鎌倉・東慶寺へ入寺して亡くなるまでが記されている。作中では奈阿姫は甲斐姫と豊臣秀頼の間に生まれた実子という説を採っている[54]
映画
漫画
  • 『のぼうの城』(和田竜、花咲アキラ
  • 『涙切姫〜のぼうの城 甲斐姫外伝〜』(和田竜、木嶋えりん) 主人公。
ゲーム

脚注

注釈

  1. ^ 甲斐姫に関する武勇伝は安永年間に執筆された『真書太閤記』に詳細に記述されており[2]文化から文政年間に執筆された『成田記』も参考書の一つとしている[3]成田氏の推移を記述した『成田記』は、作者の小沼十五郎保道が著した以前に、その基となる『旧成田記』が存在したものと考えられるが[4]、『回国雑記』などの一級資料のほかに『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などの軍記物を参考とした内容となっている[3]。なお、『真書太閤記』に関しては歴史書としての信憑性を疑問視する指摘もある[2]
  2. ^ この失態により三成は「戦下手」との評価がなされ[12]、諸将の嘲笑の的となったと伝えられているが、こうした低評価は関ヶ原の戦いの後に徳川家によって広められたものだという[13]。三成と浅野長政が交わした書簡には、三成は水攻めではなく力攻めを希望していたと記されている[13]。また、水攻め自体が秀吉からの直接の指示で行われたもので、豊臣家の権威を世間に示すためのパフォーマンスだったとする説もある[13]
  3. ^ 忍城の戦いの際に豊臣秀吉、石田三成、浅野長政らが交わした現存する書状の中で、戦闘が行われた形跡が確認できるものは、忍城の支城である皿尾城北緯36度8分39.84秒 東経139度26分34.54秒)の攻防戦に関する書状のみである、とする説もある[14]7月1日7月31日)に行われた戦闘は浅野長政と木村重茲の襲撃により豊臣方が勝利したが、双方に多数の死傷者を出した[14]。一方、寺西正勝から長政に充てられた書状には7月5日の戦闘において多数の死者が発生していることを憂慮する内容が記されている[8]。この他、水攻めのための築堤工事の最中に戦が終結し、忍城への水攻めも総攻撃も実際には行われなかった、とする説もある[15]
  4. ^ 7月11日8月10日[20]7月16日8月15日)とする資料もある[8]が、浅野長政の書状の中に7月14日の明け渡しが明記されている[21]
  5. ^ 福島県会津若松市周辺には福井城という城郭は存在しないが[23]郡山市湖南町に「福良」という地名があり[23]、その周辺地域に存在する城郭のひとつを氏長が与えられた可能性がある[23]。一方、蒲生氏や成田氏の分限帳の中に、浜田兄弟の名を確認できない[24]ことから、逸話を疑問視する指摘もある[24]
  6. ^ 『藩翰譜』には「秀吉が会津に向かう途中の下野国小山周辺に陣を敷き、そこに氏長の妹を召しださせて寵愛した」と記されているが、妹とするのは間違いとの指摘もある[1]
  7. ^ 戒名の「明玉」とは、生前の人物像を表し、「明朗快活で澄んだ心の女性」を意味する[46]

出典

  1. ^ a b c 楠戸 2010、40頁
  2. ^ a b 三池 2012、131頁
  3. ^ a b 小沼、大澤 1980、9頁
  4. ^ 三池 2012、39頁
  5. ^ a b c d 小沼、大澤 1980、115頁
  6. ^ a b c d e 楠戸 2010、41頁
  7. ^ 楠戸義昭『戦国女系譜 巻之一』毎日新聞社、1994年、230-233頁。ISBN 978-4620310091 
  8. ^ a b c d e f g h i j 戦国合戦史研究会編『戦国合戦大事典第2巻 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県』新人物往来社、1989年、146-148頁。ISBN 4-404-01642-5 
  9. ^ a b c d e f 西野 2005、8-9頁
  10. ^ a b 小沼、大澤 1980、166頁
  11. ^ 西野 2005、10頁
  12. ^ a b c d 山名美和子「論考 合戦場の女 動乱を駆け抜けた女城主・女武者たち」『歴史読本』 2010年3月号、新人物往来社、193-194頁。 
  13. ^ a b c 歴史と哲学の県立熊谷図書館 資料案内・展示資料目録 Lib.Letter 第21号 (平成22年9月)” (PDF). 埼玉県立熊谷図書館. 2012年11月3日閲覧。
  14. ^ a b 三池 2012、99-102頁
  15. ^ 三池 2012、113頁
  16. ^ a b 小沼、大澤 1980、170頁
  17. ^ 小沼、大澤 1980、174頁
  18. ^ a b c 小沼、大澤 1980、176頁
  19. ^ a b c d 小沼、大澤 1980、195-197頁
  20. ^ a b c d 小沼、大澤 1980、201-203頁
  21. ^ a b 行田市郷土博物館 編『特別展 石田三成と忍城水攻め』行田市郷土博物館、2011年、9頁。 
  22. ^ a b c 小沼、大澤 1980、216-217頁
  23. ^ a b c 三池 2012、122-124頁
  24. ^ a b 三池 2012、132頁
  25. ^ a b c 小沼、大澤 1980、218-219頁
  26. ^ a b c d e 小沼、大澤 1980、220-221頁
  27. ^ a b 小沼、大澤 1980、223頁
  28. ^ a b c 小沼、大澤 1980、224-225頁
  29. ^ 小沼、大澤 1980、224-225頁
  30. ^ a b c d e f g 小沼、大澤 1980、272-274頁
  31. ^ 槙島昭武著、中丸和伯校注『改訂 関八州古戦録』新人物往来社、1976年、531-532頁。 
  32. ^ 三池 2012、136-137頁
  33. ^ 三池 2012、138頁
  34. ^ a b 三池 2012、146頁
  35. ^ a b 三池 2012、36頁
  36. ^ 三池 2012、150頁
  37. ^ 楠戸 2010、43頁
  38. ^ a b c d e f 西野 2005、12頁
  39. ^ a b c d e “秀吉の宴で甲斐姫が詠歌か 京都の短冊に署名”. 埼玉新聞. (2012年8月28日). http://www.saitama-np.co.jp/news08/28/02.html 2012年11月3日閲覧。 
  40. ^ a b c 大井荘次『行田歴史散歩 史跡と文化財を尋ねて』大井荘次設計工房、2005年、28頁。 
  41. ^ 三池 2012、151頁
  42. ^ a b 三池 2012、155-156頁
  43. ^ a b c d “第二十世 天秀尼”. 北鎌倉 松岡山 東慶寺. http://www.tokeiji.com/history/tenshu-ni/ 2012年11月3日閲覧。 
  44. ^ 三池 2012、157-158頁
  45. ^ 三池 2012、161頁
  46. ^ 三池 2012、168頁
  47. ^ 三池 2012、164頁
  48. ^ a b 三池 2012、165頁
  49. ^ a b c 三池 2012、166-169頁
  50. ^ a b c d e f 大澤 1981、16-17頁
  51. ^ a b c d 大澤 1981、13-14頁
  52. ^ a b 埼玉県『新編埼玉県史 資料編 10 近世1 地誌』埼玉県、1979年、168頁。 
  53. ^ 小沼、大澤 1980、258-259頁
  54. ^ 行田青年会議所広報委員会『忍城甲斐姫物語』行田青年会議所、1995年、49頁。 

参考文献

外部リンク