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「福武電気鉄道デハ20形電車」の版間の差分

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{{鉄道車両
'''福井鉄道160形電車'''(ふくいてつどう160がたでんしゃ)は、かつて[[福井鉄道]]に在籍していた電車である。
|車両名= 福武電気鉄道デハ20形電車<div style="font-size:80%;">福井鉄道モハ60形電車・160形電車</div>
|社色= #008000
|画像= Fukutetsu 161-2 01.JPG
|pxl = 280px
|画像説明= 160形モハ161-2<br />(下馬中央公園にて静態保存)
|unit= self
|編成両数= 2車体3台車連接固定編成(160形)
|営業最高速度=
|設計最高速度=
|起動加速度=
|減速度=
|車両定員= モハ60形 : 50人(座席24人)<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 75人(座席24人)/ 両
|全長= モハ60形 : 10,500 [[ミリメートル|mm]]<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 11,000 mm / 両
|全幅= モハ60形 : 2,560 mm<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 2,740 mm
|全高= モハ60形 : 4,270 mm<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 4,265 mm
|車体材質= 半鋼製
|車両重量= モハ60形 : 15.5 [[トン|t]]<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 13.9 t / 両
|軌間= 1,067 mm([[狭軌]])
|電気方式= [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])
|主電動機= [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] SE-131A(160形)
|主電動機出力= モハ60形 : 37.3 [[ワット|kW]]<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 37.5 kW
|搭載数= モハ60形 : 2基 / 両<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 4基 / 編成
|歯車比= モハ60形 : 3.81 (61:16)<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : 3.28
|定格速度=
|駆動装置= [[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]
|制御装置= モハ60形 : [[マスター・コントローラー#直接式|直接制御]] RB-200B<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : [[主制御器#手動進段|間接非自動制御]](HL制御)
|台車= モハ60形 : 日車C-9<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : [[ボールドウィンA形台車#派生・模倣形式|加藤BW]]
|制動方式= モハ60形 : SM-3[[直通ブレーキ]]<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;160形 : SME[[直通ブレーキ#SME|非常直通ブレーキ]]
|保安装置=
|製造メーカー= [[日本車輌製造]]東京支店・本店<ref name="NBP-1-2_p41" />
|備考= モハ60形の各データは1963年(昭和38年)10月現在<ref name="WR-asahi64_p172-173" />、160形の各データは1973年(昭和48年)5月現在<ref name="WR-asahi74_p178-179" />。
}}
'''福武電気鉄道デハ20形電車'''(ふくぶでんきてつどうデハ20がたでんしゃ)は、[[福井鉄道]]の前身事業者で、後の[[福井鉄道福武線]]に相当する路線を敷設・運営した福武電気鉄道が、[[1933年]]([[昭和]]8年)より導入した[[電車]]である。


福井鉄道発足後の[[1947年]](昭和22年)に形式称号を'''モハ60形'''と改め、さらに[[1968年]](昭和43年)に2両が2車体[[連接台車|連接車]]に改造されて'''160形'''と形式区分された。モハ60形として残存した車両は[[1971年]](昭和46年)まで<ref name="RP626_p55" />、連接車160形に改造された車両は[[1997年]]([[平成]]9年)まで<ref name="RP701_p101" />、それぞれ運用された。
== 経歴 ==
=== 市内線専用車両 ===
福武電気鉄道(福井鉄道の前身)では、[[1933年]](昭和8年)に、[[福井鉄道福武線|福武線]]福井新(現、[[赤十字前駅|赤十字前]]) - [[福井駅 (福井県)|福井駅前]]間が開業した。これに伴い、軌道線専用の[[列車|単行車両]]として[[日本車輌製造|日本車輌]]で'''デハ20形'''(デハ21 - 24)が4両製造された。これらの車両は[[1947年]](昭和22年)に'''モハ60形'''(モハ61 - 64)と改称された。


以下、本項では福武電気鉄道デハ20形として導入された車両群を「本形式」と記述する。
このうち61号は、[[1948年]](昭和23年)の[[福井地震]]で、福井駅前にて被災した。これにより車体が全焼したものの、台車やモータが辛うじて残り、復旧工事を受けた。この出来事から、当車両は「震災電車」として、当時の歴史を語り継ぐシンボルとして親しまれてきた。


== 導入経緯 ==
なお、これらの車両は市内線での運行を主としていたが、[[1967年]]からは鉄道線での運行も行われ、[[福井鉄道鯖浦線|鯖浦線]]へも乗り入れた。
[[福井県]]嶺北地域の都市間鉄道輸送を目的に発足した福武電気鉄道は、[[1920年]]([[大正]]9年)9月に[[南条郡]][[武生町]]より[[福井市]]に至る、[[地方鉄道法]]に基く鉄道路線の敷設免許を取得<ref name="RP_PRCT3_p233" />、[[1925年]](大正14年)6月に武生新(現・[[越前武生駅|越前武生]]) - 福井新(現・[[赤十字前駅|赤十字前]])間17.8 [[キロメートル|km]]が全線開通した<ref name="RP_PRCT3_p233" />。


ただし、終点の福井新駅は福井市の中心街の手前を流れる[[足羽川]]の対岸に位置していたことから、次いで福武電気鉄道は福井市中心部への路線延伸を計画した<ref name="RP_PRCT3_p233" />。[[1927年]](昭和2年)10月に福井新より[[北国街道]]上に[[併用軌道|併用軌道線]]を敷設して国有鉄道の[[福井駅]]に至る、[[軌道法]]に基く延長線(福井市内軌道線)の特許を取得<ref name="RP_PRCT3_p233" />、1933年(昭和8年)10月15日に福井新 - 鉄軌道分界点 - 福井駅前間2.0 kmが開通し、福井市中心部への乗り入れが実現した<ref name="RP_PRCT3_p233" />。
=== 連接化 ===
当車両は元々路面区間用だったため車体が小さく、輸送力には難があった。そこで少しでもそれを補うため、モハ61・62が[[1968年]](昭和43年)に自社工場にて[[連接台車|連接車]]へ改造され、'''160形'''と改番された。その際、震災電車モハ61は、モハ161-2となった。なお、[[1971年]]にモハ63、[[1972年]]にモハ64が廃車となっている。


この福井市内軌道線の開通に際しては、軌道線区間専用の高床式小型[[ボギー台車|2軸ボギー]]電車'''デハ20形'''21・22の2両を[[日本車輌製造]]東京支店にて新製<ref name="NBP-1-2_p41" />、軌道線開通と同日の10月15日付竣功届出にて運用を開始した<ref name="RP626_p57" />。翌[[1934年]](昭和9年)には日本車輌製造本店にて新製したデハ23・デハ24の2両が増備され<ref name="NBP-1-2_p41" />、本形式は計4両となった。
連接化以降は、鯖浦線を中心に運行し、[[1973年]](昭和48年)には、同線の[[さよなら運転]]を務めた。


本形式は当初より軌道線区間に限定した運用を前提に設計・製造されたため<ref name="RP626_p52" />、車体長14 - 15 [[メートル|m]]程度を標準とした従来車よりも小型の10 m級半鋼製車体を備え、福井新 - 福井駅前間の区間運転に充当された<ref name="RP626_p52" />。
鯖浦線廃止後は福武線に復帰し、[[1985年]]にはワンマン化改造も受けたものの、連接化されたとはいえ車両が小さいため、運行は平日朝の臨時などに限られていた。それでも登場から65年間使用され、[[1997年]][[9月15日]]に、[[福井鉄道600形電車|601号]]導入を控えて[[廃車 (鉄道)|廃車]]された。


== 後について ==
== 車 ==
車体長9,400 [[ミリメートル|mm]]・車体幅2,400 mmの、構体主要部分を[[炭素鋼|普通鋼]]製とした半鋼製車体を備える<ref name="NBP-1-2_p41" />。一段落とし窓式の窓構造や腰高な窓位置などは、[[1930年]](昭和5年)に導入された同じく日本車輌製造製の[[福武電気鉄道デハ10形電車|デハ10形]]とも共通するが<ref name="NBP-1-2_p40" />、前述の通り本形式は軌道線区間の運用を考慮して小型車体を採用したため、各部寸法は全く異なる<ref name="NBP-1-2_p41" /><ref name="NBP-1-2_p40" />。
160形は廃車後解体の予定であったが、地元団体の働きかけにより保存されることになった。それぞれの車両は分離され、現在[[福井市]]と[[越前市]]に車体が保存されている。

前後妻面に運転台を備える両運転台構造を採用、妻面形状は曲率8,000 [[曲率|R]]の緩い円弧を描く丸妻形状とし、690 mm幅の前面窓を3枚均等配置した<ref name="NBP-1-2_p41" />。前照灯は妻面腰板中央部に前後各1灯、[[尾灯|後部標識灯]]は妻面腰板下部の向かって左側へ前後各1灯、それぞれ設置した<ref name="NBP-1-2_p41" />。妻面中央窓上部の幕板部には行先表示幕が設置されたが<ref name="NCP-1-1_p110" />、これは後年埋め込み撤去されている<ref name="RP_PRCT3_p66" />。その他、併用軌道区間における運用を考慮して前後妻面の[[連結器]]直下には救助網([[排障器]])を設置した<ref name="RP_PRCT3_p66" />。

側面には750 mm幅の片開式客用扉を片側2箇所設置し、客用扉間には690 mm幅の側窓を7枚配置した<ref name="NBP-1-2_p41" />。各客用扉の直下には内蔵ステップを設置し、客用扉および戸袋部に相当する箇所の車体裾部が一段引き下げられているほか、併用軌道区間における路面からの乗降を考慮して各客用扉には1段折り畳み式の外付け乗降ステップが設置された<ref name="NBP-1-2_p41" />。また客用扉の外方、乗務員スペースに相当する箇所にも690 mm幅の側窓を前後各1枚設置し<ref name="NBP-1-2_p41" />、[[構体 (鉄道車両)#側面窓配置|側面窓配置]]は1 D 7 D 1(D:客用扉、各数値は側窓の枚数)である<ref name="RP_PRCT3_p242" />。

各車の屋根上には通風器として[[ベンチレーター|お椀形ベンチレーター]]を屋根部左右に各3基、1両あたり6基設置した<ref name="NBP-1-2_p41" />。

車内は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]仕様で、側窓上部には荷棚を、天井部にはつり革をそれぞれ設置した<ref name="NBP-1-2_p41" />。また、天井部には[[白熱電球|白熱灯]]仕様の車内照明を1両あたり3基、併せて設置した<ref name="NBP-1-2_p41" />。

== 主要機器 ==
[[主制御器|制御装置]]は、福武電気鉄道においては既に前述したデハ10形にて[[総括制御]]が可能な[[主制御器#手動進段|間接非自動制御]](HL制御)方式が採用されていたが<ref name="RP626_p52" />、本形式は併用軌道区間における単行運用を前提に導入されたため、構造の単純な[[マスター・コントローラー#直接式|直接制御方式]]を採用、芝浦製作所(現・[[東芝]])RB-200B直接制御器を前後運転台に各1基搭載する<ref name="RP626_p52" />。

主電動機は同じく芝浦製作所製の[[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]](定格出力37.3 kW)を採用<ref name="RP_PRCT3_p242" />、各台車の内側軸(第2・第3軸)へ<ref name="NBP-1-2_p41" />1両あたり2基搭載する<ref name="WR-asahi64_p172-173" />。

[[鉄道車両の台車|台車]]は鋳鋼組立形の軸ばね式台車である日本車輌製造C-9を装着する<ref name="WR-asahi64_p172-173" />。日本車輌製造C形台車は、日本車輌製造が路面電車および小型郊外電車向けに設計・製造した台車形式であり<ref name="hobidas_c911" />、本形式が装着するC-9台車の固定軸間距離は1,500 mm、車輪径は860 mmである<ref name="hobidas_c911" />。

制動装置はSM-3[[直通ブレーキ|直通空気ブレーキ]]を常用制動として使用、[[手ブレーキ|手用制動]]を併設する<ref name="RP_PRCT3_p242" />。

集電装置は通常の[[集電装置#菱形|菱形パンタグラフ]]を1両あたり1基搭載したが<ref name="WR-asahi64_p58" />、後年小型の菱形パンタグラフを背高形のパンタグラフ台座を介して搭載する形態に改められた<ref name="RP_PRCT3_p66" />。

前後妻面には[[連結器#並形自動連結器|並形自動連結器]]を装着する<ref name="RP_PRCT3_p242" />。デハ21・デハ22は復元ばねを省略した<ref name="NCP-1-1_p110" />簡易型連結器仕様としたが、デハ23・デハ24はシャロン式下作用形の一般的な並形自動連結器に変更された<ref name="RP_PRCT3_p242" />。また、本形式は単行運転を前提に設計・製造されたことから、前後妻面には連結器のみを装着し、ジャンパ栓やブレーキ管などは一切省略された<ref name="NCP-1-1_p110" />。

== 運用 ==
=== 太平洋戦争前後 ===
導入後は福井新 - 福井駅前間の区間運転専用車両として運用された<ref name="RP626_p52" />。開通当初の軌道線は武生新方面からの直通列車は設定されず、福井新にて軌道線への乗り換え連絡輸送が行われた<ref name="RP626_p52" />。間もなく軌道線区間は福井新 - 福井駅前間の折り返し運転に加えて武生新方面からの列車の直通運転も開始され、連絡輸送は解消した<ref name="RP626_p52" />。

[[太平洋戦争]]の激化に伴う[[戦時体制]]への移行により、[[陸上交通事業調整法]]を背景とした地域交通統合の時流に沿う形で<ref name="RP_PRCT3_p233" />、福武電気鉄道は南越鉄道・鯖浦電気鉄道の2社を相次いで吸収合併し、福井鉄道と社名を変更した<ref name="RP_PRCT3_p233" />。合併に際して福井鉄道は被合併事業者各社の保有する鉄道車両を継承したが、一部の車両形式にて[[鉄道の車両番号|記号番号]]の重複が生じたことから<ref name="RP626_p53-54" />、終戦後の1947年(昭和22年)8月15日付で全車両を対象とした形式称号改訂(大改番)が実施された<ref name="RP626_p53-54" />。この大改番に際して本形式は'''モハ60形'''と形式称号を改め、記号番号は旧番順にモハ61 - モハ64と変更された<ref name="RP626_p53-54" />。

[[1948年]](昭和23年)6月に発生した[[福井地震]]において、モハ61が福井駅前にて被災し車体を全焼した<ref name="RP626_p54-55" />。モハ61は同時に被災した[[福武電気鉄道デハ1形電車|モハ10形]]11とともに修繕のため大阪・[[広瀬車両]]へ送られ<ref name="RP626_p54-55" />、同年12月に焼損した車体を修復する形で復旧された<ref name="RP626_p54-55" />。修復に際しては外板の張替えが施工されて構体が全溶接のノーリベット構造となったほか、側窓構造が原形の一段落とし窓から二段上昇窓に変更され、また屋根上の通風器がガーランド形ベンチレーターに交換された<ref name="RP626_p57" />。

その他、後年全車を対象に前照灯の屋根上への移設・後部標識灯の増設など小改造が実施された<ref name="RP_PRCT3_p66" />。

=== 鉄道線区間への転用 ===
[[1967年]](昭和42年)に、福井鉄道は鉄道線区間の輸送力増強を目的として本形式を鉄道線区間へ転用することとした<ref name="RP_PRCT3_p247" />。従来本形式が運用された併用軌道区間には、[[北陸鉄道]]より同社[[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]]にて運用されていた[[路面電車]]形車両を譲り受け、併用軌道区間専用車両([[武蔵中央電気鉄道1形電車|モハ500形]]・[[琴平参宮電鉄80形電車|モハ510形]])として導入した<ref name="RP_PRCT3_p247" />。

前記2形式の導入に際して、本形式は台車を他形式より転用した「加藤ボールドウィン」「加藤BW」などと呼称される加藤車輌製作所製の[[ボールドウィンA形台車#派生・模倣形式|ボールドウィンA形タイプ]]の[[鉄道車両の台車#イコライザー式|釣り合い梁式台車]](固定軸間距離2,135 mm)に換装し<ref name="RP_PRCT3_p242" />、従来装着した日車C-9台車をモハ500形・モハ510形へ転用した<ref name="RP_PRCT3_p247" />。

鉄道線区間転用後の本形式は、主に福武線・[[福井鉄道鯖浦線|鯖浦線]]にて運用された<ref name="RP626_p55-56" />{{Refnest|group="*"|本形式はこれ以前にも転属歴があり、1948年(昭和23年)3月の[[福井鉄道南越線|南越線]]電化完成に伴って、一部の車両が同年から[[1950年]](昭和25年)にかけて南越線にて運用された<ref name="RP626_p53-54" />。}}。

=== 2車体連接車化 ===
[[1960年代]]後半より、福井鉄道は輸送力増強のため従来単行運用が主であった在籍車両の2両固定編成化改造を順次施工した<ref name="RP626_p54-55" />。他形式と比較して車体が小型で収容力の劣る本形式もその対象となり、モハ61・モハ62の固定編成化改造が1968年(昭和43年)11月に施工された<ref name="RP_PRCT3_p250" />。ただし、モハ61・モハ62については他形式とは異なり、2車体3台車構造の連接車化、および構体の改造を伴う大規模な改造となった<ref name="RP_PRCT3_p250" />。

車体は連結面となる側の運転台を完全撤去して客室化したほか、前後妻面を屋根部を含め「カマボコ形」と形容される切妻形状に改めた上で<ref name="RP461_p127" />、前面窓を細いピラーによって区切った2枚窓構造とした<ref name="RP461_p127" />。この前面窓部分には窓下端部付近を支点とした5度の後傾角を設けた<ref name="RP_PRCT3_p250" />。前照灯は前面幕板部へ露出して取り付けられ、後部標識灯については従来通り前面腰板下部の左右に各1灯設置した<ref name="RP_PRCT3_p250" />。連結面には貫通路および貫通幌を新設し、窓は省略された<ref name="TTK-PBP-1_p833" />。側面については客用扉が1,000 mm幅に拡幅されたほか、運転台部分に乗務員扉が新設され<ref name="RP_PRCT3_p250" />、1両あたりの窓配置はd D 7 D 1(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の枚数)と変化した<ref name="TTK-PBP-1_p833" />。

その他、客用扉の自動扉化、車内木部の更新、車内放送装置の新設など接客設備の体質改善が施工された<ref name="RP_PRCT3_p250" />。

主要機器面では、連接車化改造のほか、制御方式を間接非自動制御(HL制御)に改め<ref name="RP_PRCT3_p250" />、主電動機を芝浦SE-131-A(定格出力37.5 kW、[[歯車比]]3.28<ref name="TTK-PBP-1_p833" />)に交換して両端台車に各2基、一編成あたり計4基搭載<ref name="WR-asahi74_p178-179" />、制動装置はSME[[直通ブレーキ#SME|非常直通ブレーキ]]に改造した<ref name="WR-asahi74_p178-179" />。固定編成化に伴い、主要機器の配置はモハ61へ電動発電機 (MG) および電動空気圧縮機 (CP) など補助機器を、モハ62へ制御装置および抵抗器など主回路機器をそれぞれ搭載する形態に改められた<ref name="RP626_p57" />。台車は両端部・連接部とも改造以前からの加藤ボールドウィン台車を装着した<ref name="RP_PRCT3_p250" />。その他、併用軌道区間における信号制御の都合<ref name="RP626_p55" />からモハ61のパンタグラフは撤去され、1編成あたり1基搭載となった<ref name="TTK-PBP-1_p833" />{{Refnest|group="*"|併用軌道区間は架線部分に設けられた列車検知装置(トロリーコンダクター)とパンタグラフの接触によって信号制御を行うため、2両編成の車両についてはパンタグラフの搭載位置を編成の武生寄り車両の運転台側で全編成統一していたことによる<ref name="RP626_p55" />。}}。

改造後のモハ61・モハ62は'''160形'''と形式称号を改め、記号番号は福井新向き先頭車となるモハ61がモハ161-2、武生新向き先頭車となるモハ62がモハ161-1とそれぞれ改番された<ref name="RP_PRCT3_p250" />。なお、モハ161-2(元モハ61)固有の側面窓構造やベンチレーターなどには手を加えられなかったため、モハ161-1(元モハ62)との外観は統一されず、モハ161-2の震災被災復旧車としての特徴は連接車化改造後も残された<ref name="RP461_p127" />。

=== 後年の動向から退役まで ===
連接化改造の対象から除外されたモハ63・モハ64のうち、モハ63は[[1969年]](昭和44年)に電装品および運転関連機器を撤去して[[付随車]]'''サハ60形'''63と形式・記号番号を改めた<ref name="RP_PRCT3_p248" />。付随車化に際しては台車がBW78-25-Aに交換されたほか、搭載する制動装置をSCE非常直通ブレーキと公称したが<ref name="RP_PRCT3_p248" />、実際は原形のSM-3直通ブレーキのままであり、また前後妻面へのブレーキ管の追設も行われなかったため、現車は純然たるトレーラーであった<ref name="RP_PRCT3_p248" />。

唯一原形のまま残存したモハ64は前述モハ63の電装解除に伴ってモハ63(2代)と改番され<ref name="RP626_p55" />、鯖浦線にて運用されたのち、鯖浦線[[織田バスターミナルセンター|織田]] - [[西田中バスターミナル|西田中]]間の部分[[廃線|廃止]]に先立つ1969年(昭和44年)9月に余剰[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった<ref name="RP626_p55-56" />。また、サハ64についても老朽化を理由に<ref name="RP_PRCT3_p248" />[[1971年]](昭和46年)9月に廃車され<ref name="RP626_p55" />、2軸ボギー構造で存置された2両は全廃となった<ref name="RP626_p55" />。

一方、160形は主に鯖浦線から福武線福井方面への直通列車運用に充当され、[[1973年]](昭和48年)9月の鯖浦線全線廃止に際しては特別装飾を施し記念列車として運行された<ref name="RP626_p55-56" />。

鯖浦線廃止後は福武線に再転属し<ref name="JRC-F_105" />、[[1981年]](昭和56年)<ref name="RP626_p57" />には台車が日車ボールドウィン形と称する日本車輌製造製のボールドウィンA形タイプ台車に、主電動機が[[三菱電機]]MB-64C(定格出力48.5 kW)に、それぞれ換装された<ref name="RP626_p58" />。その後は[[1985年]](昭和60年)に[[ワンマン運転]]対応改造が<ref name="RP626_p57" />、[[1989年]](平成元年)にモハ161-1への霜取り用パンタグラフの増設が<ref name="RP626_p57" />、[[1992年]](平成4年)12月には[[自動列車停止装置]] (ATS) の車上装置取り付けが<ref name="RP701_p101" />順次施工された。

後年の新型車両導入に伴って、小型車体ゆえ他形式と比較して収容力が劣る160形の運用機会は減少したものの<ref name="JRC-F_105" />、160形は福井鉄道にて平成年代以降に在籍した車両形式では唯一の間接非自動加速制御(HL制御)車であったことから、[[主制御器#自動進段|間接自動加速制御]]仕様の他形式と比較して運転操作が容易である点が買われ<ref name="RP626_p57" />、新人乗務員の運転教習用車両としても用いられた<ref name="RP626_p57" />。

その後、160形は[[福井鉄道600形電車|600形]]の導入に伴って代替されることとなり<ref name="JRC-F_105" />、1997年(平成9年)9月14日と翌15日の2日間にわたって退役記念イベント([[さよなら運転]])が実施された<ref name="RP701_p101" />。160形モハ161-1・モハ161-2は同年9月17日付で除籍され<ref name="RP701_p101" />、これにより福武電気鉄道デハ20形として導入された車両群は全廃となった<ref name="RP626_p55" /><ref name="RP701_p101" />。

== 保存車両 ==
{{Vertical_images_list
{{Vertical_images_list
|幅= 240px
|幅= 190px
|枠幅= 250px
|枠幅= 200px
| 1= Fukutetsu_161-1_01.jpg
| 1=Fukutetsu 161-2 01.JPG
| 2= 静態保存されるモハ161-1
| 2=モハ161-2。<br />(2010年9月4日、下馬中央公園)
}}
| 3=Fukutetsu_161-1_01.jpg
除籍後、160形はモハ161-1・モハ161-2とも解体処分を免れ、編成を1両ずつに分割し、それぞれ[[静態保存]]された<ref name="JRC-F_105" />。
| 4=モハ161-1。<br />(2010年9月4日、[[村国駅]]跡)

モハ161-1は個人へ譲渡され<ref name="JRC-F_105" />、越前市の旧南越線[[村国駅]]跡にて静態保存された<ref name="kahakuDB_100910281179" />。

一方、モハ161-2は同車がモハ61として運用されていた当時に福井地震によって被災した震災復旧車であったことから[[福井市]]へ譲渡され、福井市立美術館に隣接する下馬中央公園にて静態保存された<ref name="Fukui20140524" />。こちらは保存開始から15年以上を経過して車体各部の傷みが進行したため<ref name="Fukui20140524" />、福井市は[[2014年]](平成26年)度に修繕のための予算を計上、車体の修繕および再塗装、ならびにモハ161-2が福井地震の被災車両である旨を説明する案内表示板の新設を計画している<ref name="Fukui20140524" />。
{{-}}

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="WR-asahi64_p58">[[#WR-asahi64|『世界の鉄道 '64』 p.58]]</ref>
<ref name="WR-asahi64_p172-173">[[#WR-asahi64|『世界の鉄道 '64』 pp.172 - 173]]</ref>
<ref name="WR-asahi74_p178-179">[[#WR-asahi74|『世界の鉄道 '74』 pp.178 - 179]]</ref>
<ref name="TTK-PBP-1_p833">[[#TTK-PBP-1|『日本民営鉄道車両形式図集 上巻』 p.833]]</ref>
<ref name="RP_PRCT3_p66">[[#RP_PRCT3_p66-71|『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.66]]</ref>
<ref name="RP_PRCT3_p233">[[#RP_PRCT3_p232-238|『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.233]]</ref>
<ref name="RP_PRCT3_p242">[[#RP_PRCT3_p239-245|『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.242]]</ref>
<ref name="RP_PRCT3_p247">[[#RP_PRCT3_p246-252|『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.247]]</ref>
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<ref name="NBP-1-2_p40">[[#NBP-1-2|『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 下』 p.40]]</ref>
<ref name="NBP-1-2_p41">[[#NBP-1-2|『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 下』 p.41]]</ref>
<ref name="NCP-1-1_p110">[[#NCP-1-1|『日車の車輌史 写真集 - 創業から昭和20年代』 p.110]]</ref>
<ref name="RP461_p127">[[#RP461_p123-128|「中京・北陸地方のローカル私鉄 現況7 福井鉄道」 (1986) p.127]]</ref>
<ref name="RP626_p52">[[#RP626_p50-59|「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.52]]</ref>
<ref name="RP626_p53-54">[[#RP626_p50-59|「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) pp.53 - 54]]</ref>
<ref name="RP626_p54-55">[[#RP626_p50-59|「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) pp.54 - 55]]</ref>
<ref name="RP626_p55">[[#RP626_p50-59|「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.55]]</ref>
<ref name="RP626_p55-56">[[#RP626_p50-59|「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) pp.55 - 56]]</ref>
<ref name="RP626_p57">[[#RP626_p50-59|「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.57]]</ref>
<ref name="RP626_p58">[[#RP626_p50-59|「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.58]]</ref>
<ref name="RP701_p101">[[#RP701_p98-106|「現有私鉄概説 福井鉄道」 (2001) p.101]]</ref>
<ref name="Fukui20140524">[[#Fukui20140524|『「震災電車」に再び光 市補修、復興象徴へ』 福井新聞]]</ref>
<ref name="kahakuDB_100910281179">[http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=100910281179 福井鉄道モハ161-1号電車 資料番号:100910281179] - [[国立科学博物館]] 産業技術史資料データベース 2014年10月15日閲覧</ref>
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<ref name="hobidas_c911">[http://rail.hobidas.com/bogie/archives/2006/02/c911.html 「台車近影」 C-9 / 福井鉄道デキ11 (日本車輌製造形式)] - [[ネコ・パブリッシング]]『鉄道ホビダス』 2014年10月15日閲覧</ref>
}}
}}


== 参考資料 ==
*モハ161-2
=== 書籍 ===
:震災復興のシンボルとして、福井市立美術館近くの下馬中央公園に設置されている。保存に当たって単行時代の姿に復元されたが、当時の姿とは若干異なり、連接部分の運転台は完全な形では復元されていない。
* {{Anchor|WR-asahi64|『世界の鉄道 '64』 [[朝日新聞社]] 1963年10月}}
* {{Anchor|WR-asahi74|『世界の鉄道 '74』 [[朝日新聞社]] 1974年10月}}
* {{Anchor|TTK-PBP-1|『日本民営鉄道車両形式図集 上巻』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] 1976年5月}}
* 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 鉄道図書刊行会 1982年4月
** {{Anchor|RP_PRCT3_p66-71|[[中川浩一]] 「グラフページ 福井鉄道」 pp.66 - 71}}
** {{Anchor|RP_PRCT3_p232-238|酒井英夫 「私鉄車両めぐり(90) 福井鉄道 上」 pp.232 - 238}}
** {{Anchor|RP_PRCT3_p239-245|酒井英夫 「私鉄車両めぐり(90) 福井鉄道 中」 pp.239 - 245}}
** {{Anchor|RP_PRCT3_p246-252|酒井英夫 「私鉄車両めぐり(90) 福井鉄道 下」 pp.246 - 252}}
* {{Anchor|NBP-1-2|日本車両鉄道同好部 鉄道史資料保存会 編著 『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 下』 [[鉄道史資料保存会]] 1996年6月}}
* {{Anchor|NCP-1-1|日本車両鉄道同好部 鉄道史資料保存会 編著 『日車の車輌史 写真集 - 創業から昭和20年代』 鉄道史資料保存会 1996年11月}}


=== 雑誌記事 ===
*モハ161-1
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』 鉄道図書刊行会
:越前市の旧[[福井鉄道南越線|南越線]][[村国駅]]跡で保存されている。こちらは単行時代の姿に復元されること無く、連接台車の位置もそのままで保存されている。
** {{Anchor|RP461_p123-128|松原淳 「中京・北陸地方のローカル私鉄 現況7 福井鉄道」 1986年3月臨時増刊号(通巻461号) pp.123 - 128}}
** {{Anchor|RP626_p50-59|[[岸由一郎]] 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 1996年9月号(通巻626号) pp.50 - 59}}
** {{Anchor|RP701_p98-106|岸由一郎 「現有私鉄概説 福井鉄道」 2001年5月臨時増刊号(通巻701号) pp.98 - 106}}


=== 新聞記事 ===
== 主要諸元(1両当たり) ==
* {{Anchor|Fukui20140524|『「震災電車」に再び光 市補修、復興象徴へ』 [[福井新聞]] 2014年5月24日朝刊}}
*製造年:1933年
*最大長:11000mm
*最大幅:2750mm
*最大高:4265mm(161-1),3930mm(161-2)
*自重:14.7t
*定員:75人(座席定員:24人)
*主電動機:48.5kW×2


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[[Category:日本の電車]]
[[Category:日本の電車]]
[[Category:福井鉄道|160かたてんしや]]
[[Category:福井鉄道の鉄道両|旧ふくふ20]]
[[Category:日本車輌製造製の電車]]
[[Category:1933年製の鉄道車両]]

2014年10月15日 (水) 11:30時点における版

福武電気鉄道デハ20形電車
福井鉄道モハ60形電車・160形電車
160形モハ161-2
(下馬中央公園にて静態保存)
基本情報
製造所 日本車輌製造東京支店・本店[1]
主要諸元
編成 2車体3台車連接固定編成(160形)
軌間 1,067 mm(狭軌
電気方式 直流600 V架空電車線方式
車両定員 モハ60形 : 50人(座席24人)
    160形 : 75人(座席24人)/ 両
車両重量 モハ60形 : 15.5 t
    160形 : 13.9 t / 両
全長 モハ60形 : 10,500 mm
    160形 : 11,000 mm / 両
全幅 モハ60形 : 2,560 mm
    160形 : 2,740 mm
全高 モハ60形 : 4,270 mm
    160形 : 4,265 mm
車体 半鋼製
台車 モハ60形 : 日車C-9
    160形 : 加藤BW
主電動機 直流直巻電動機 SE-131A(160形)
主電動機出力 モハ60形 : 37.3 kW
    160形 : 37.5 kW
搭載数 モハ60形 : 2基 / 両
    160形 : 4基 / 編成
駆動方式 吊り掛け駆動
歯車比 モハ60形 : 3.81 (61:16)
    160形 : 3.28
制御装置 モハ60形 : 直接制御 RB-200B
    160形 : 間接非自動制御(HL制御)
制動装置 モハ60形 : SM-3直通ブレーキ
    160形 : SME非常直通ブレーキ
備考 モハ60形の各データは1963年(昭和38年)10月現在[2]、160形の各データは1973年(昭和48年)5月現在[3]
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福武電気鉄道デハ20形電車(ふくぶでんきてつどうデハ20がたでんしゃ)は、福井鉄道の前身事業者で、後の福井鉄道福武線に相当する路線を敷設・運営した福武電気鉄道が、1933年昭和8年)より導入した電車である。

福井鉄道発足後の1947年(昭和22年)に形式称号をモハ60形と改め、さらに1968年(昭和43年)に2両が2車体連接車に改造されて160形と形式区分された。モハ60形として残存した車両は1971年(昭和46年)まで[4]、連接車160形に改造された車両は1997年平成9年)まで[5]、それぞれ運用された。

以下、本項では福武電気鉄道デハ20形として導入された車両群を「本形式」と記述する。

導入経緯

福井県嶺北地域の都市間鉄道輸送を目的に発足した福武電気鉄道は、1920年大正9年)9月に南条郡武生町より福井市に至る、地方鉄道法に基く鉄道路線の敷設免許を取得[6]1925年(大正14年)6月に武生新(現・越前武生) - 福井新(現・赤十字前)間17.8 kmが全線開通した[6]

ただし、終点の福井新駅は福井市の中心街の手前を流れる足羽川の対岸に位置していたことから、次いで福武電気鉄道は福井市中心部への路線延伸を計画した[6]1927年(昭和2年)10月に福井新より北国街道上に併用軌道線を敷設して国有鉄道の福井駅に至る、軌道法に基く延長線(福井市内軌道線)の特許を取得[6]、1933年(昭和8年)10月15日に福井新 - 鉄軌道分界点 - 福井駅前間2.0 kmが開通し、福井市中心部への乗り入れが実現した[6]

この福井市内軌道線の開通に際しては、軌道線区間専用の高床式小型2軸ボギー電車デハ20形21・22の2両を日本車輌製造東京支店にて新製[1]、軌道線開通と同日の10月15日付竣功届出にて運用を開始した[7]。翌1934年(昭和9年)には日本車輌製造本店にて新製したデハ23・デハ24の2両が増備され[1]、本形式は計4両となった。

本形式は当初より軌道線区間に限定した運用を前提に設計・製造されたため[8]、車体長14 - 15 m程度を標準とした従来車よりも小型の10 m級半鋼製車体を備え、福井新 - 福井駅前間の区間運転に充当された[8]

車体

車体長9,400 mm・車体幅2,400 mmの、構体主要部分を普通鋼製とした半鋼製車体を備える[1]。一段落とし窓式の窓構造や腰高な窓位置などは、1930年(昭和5年)に導入された同じく日本車輌製造製のデハ10形とも共通するが[9]、前述の通り本形式は軌道線区間の運用を考慮して小型車体を採用したため、各部寸法は全く異なる[1][9]

前後妻面に運転台を備える両運転台構造を採用、妻面形状は曲率8,000 Rの緩い円弧を描く丸妻形状とし、690 mm幅の前面窓を3枚均等配置した[1]。前照灯は妻面腰板中央部に前後各1灯、後部標識灯は妻面腰板下部の向かって左側へ前後各1灯、それぞれ設置した[1]。妻面中央窓上部の幕板部には行先表示幕が設置されたが[10]、これは後年埋め込み撤去されている[11]。その他、併用軌道区間における運用を考慮して前後妻面の連結器直下には救助網(排障器)を設置した[11]

側面には750 mm幅の片開式客用扉を片側2箇所設置し、客用扉間には690 mm幅の側窓を7枚配置した[1]。各客用扉の直下には内蔵ステップを設置し、客用扉および戸袋部に相当する箇所の車体裾部が一段引き下げられているほか、併用軌道区間における路面からの乗降を考慮して各客用扉には1段折り畳み式の外付け乗降ステップが設置された[1]。また客用扉の外方、乗務員スペースに相当する箇所にも690 mm幅の側窓を前後各1枚設置し[1]側面窓配置は1 D 7 D 1(D:客用扉、各数値は側窓の枚数)である[12]

各車の屋根上には通風器としてお椀形ベンチレーターを屋根部左右に各3基、1両あたり6基設置した[1]

車内はロングシート仕様で、側窓上部には荷棚を、天井部にはつり革をそれぞれ設置した[1]。また、天井部には白熱灯仕様の車内照明を1両あたり3基、併せて設置した[1]

主要機器

制御装置は、福武電気鉄道においては既に前述したデハ10形にて総括制御が可能な間接非自動制御(HL制御)方式が採用されていたが[8]、本形式は併用軌道区間における単行運用を前提に導入されたため、構造の単純な直接制御方式を採用、芝浦製作所(現・東芝)RB-200B直接制御器を前後運転台に各1基搭載する[8]

主電動機は同じく芝浦製作所製の直流直巻電動機(定格出力37.3 kW)を採用[12]、各台車の内側軸(第2・第3軸)へ[1]1両あたり2基搭載する[2]

台車は鋳鋼組立形の軸ばね式台車である日本車輌製造C-9を装着する[2]。日本車輌製造C形台車は、日本車輌製造が路面電車および小型郊外電車向けに設計・製造した台車形式であり[13]、本形式が装着するC-9台車の固定軸間距離は1,500 mm、車輪径は860 mmである[13]

制動装置はSM-3直通空気ブレーキを常用制動として使用、手用制動を併設する[12]

集電装置は通常の菱形パンタグラフを1両あたり1基搭載したが[14]、後年小型の菱形パンタグラフを背高形のパンタグラフ台座を介して搭載する形態に改められた[11]

前後妻面には並形自動連結器を装着する[12]。デハ21・デハ22は復元ばねを省略した[10]簡易型連結器仕様としたが、デハ23・デハ24はシャロン式下作用形の一般的な並形自動連結器に変更された[12]。また、本形式は単行運転を前提に設計・製造されたことから、前後妻面には連結器のみを装着し、ジャンパ栓やブレーキ管などは一切省略された[10]

運用

太平洋戦争前後

導入後は福井新 - 福井駅前間の区間運転専用車両として運用された[8]。開通当初の軌道線は武生新方面からの直通列車は設定されず、福井新にて軌道線への乗り換え連絡輸送が行われた[8]。間もなく軌道線区間は福井新 - 福井駅前間の折り返し運転に加えて武生新方面からの列車の直通運転も開始され、連絡輸送は解消した[8]

太平洋戦争の激化に伴う戦時体制への移行により、陸上交通事業調整法を背景とした地域交通統合の時流に沿う形で[6]、福武電気鉄道は南越鉄道・鯖浦電気鉄道の2社を相次いで吸収合併し、福井鉄道と社名を変更した[6]。合併に際して福井鉄道は被合併事業者各社の保有する鉄道車両を継承したが、一部の車両形式にて記号番号の重複が生じたことから[15]、終戦後の1947年(昭和22年)8月15日付で全車両を対象とした形式称号改訂(大改番)が実施された[15]。この大改番に際して本形式はモハ60形と形式称号を改め、記号番号は旧番順にモハ61 - モハ64と変更された[15]

1948年(昭和23年)6月に発生した福井地震において、モハ61が福井駅前にて被災し車体を全焼した[16]。モハ61は同時に被災したモハ10形11とともに修繕のため大阪・広瀬車両へ送られ[16]、同年12月に焼損した車体を修復する形で復旧された[16]。修復に際しては外板の張替えが施工されて構体が全溶接のノーリベット構造となったほか、側窓構造が原形の一段落とし窓から二段上昇窓に変更され、また屋根上の通風器がガーランド形ベンチレーターに交換された[7]

その他、後年全車を対象に前照灯の屋根上への移設・後部標識灯の増設など小改造が実施された[11]

鉄道線区間への転用

1967年(昭和42年)に、福井鉄道は鉄道線区間の輸送力増強を目的として本形式を鉄道線区間へ転用することとした[17]。従来本形式が運用された併用軌道区間には、北陸鉄道より同社金沢市内線にて運用されていた路面電車形車両を譲り受け、併用軌道区間専用車両(モハ500形モハ510形)として導入した[17]

前記2形式の導入に際して、本形式は台車を他形式より転用した「加藤ボールドウィン」「加藤BW」などと呼称される加藤車輌製作所製のボールドウィンA形タイプ釣り合い梁式台車(固定軸間距離2,135 mm)に換装し[12]、従来装着した日車C-9台車をモハ500形・モハ510形へ転用した[17]

鉄道線区間転用後の本形式は、主に福武線・鯖浦線にて運用された[18][* 1]

2車体連接車化

1960年代後半より、福井鉄道は輸送力増強のため従来単行運用が主であった在籍車両の2両固定編成化改造を順次施工した[16]。他形式と比較して車体が小型で収容力の劣る本形式もその対象となり、モハ61・モハ62の固定編成化改造が1968年(昭和43年)11月に施工された[19]。ただし、モハ61・モハ62については他形式とは異なり、2車体3台車構造の連接車化、および構体の改造を伴う大規模な改造となった[19]

車体は連結面となる側の運転台を完全撤去して客室化したほか、前後妻面を屋根部を含め「カマボコ形」と形容される切妻形状に改めた上で[20]、前面窓を細いピラーによって区切った2枚窓構造とした[20]。この前面窓部分には窓下端部付近を支点とした5度の後傾角を設けた[19]。前照灯は前面幕板部へ露出して取り付けられ、後部標識灯については従来通り前面腰板下部の左右に各1灯設置した[19]。連結面には貫通路および貫通幌を新設し、窓は省略された[21]。側面については客用扉が1,000 mm幅に拡幅されたほか、運転台部分に乗務員扉が新設され[19]、1両あたりの窓配置はd D 7 D 1(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の枚数)と変化した[21]

その他、客用扉の自動扉化、車内木部の更新、車内放送装置の新設など接客設備の体質改善が施工された[19]

主要機器面では、連接車化改造のほか、制御方式を間接非自動制御(HL制御)に改め[19]、主電動機を芝浦SE-131-A(定格出力37.5 kW、歯車比3.28[21])に交換して両端台車に各2基、一編成あたり計4基搭載[3]、制動装置はSME非常直通ブレーキに改造した[3]。固定編成化に伴い、主要機器の配置はモハ61へ電動発電機 (MG) および電動空気圧縮機 (CP) など補助機器を、モハ62へ制御装置および抵抗器など主回路機器をそれぞれ搭載する形態に改められた[7]。台車は両端部・連接部とも改造以前からの加藤ボールドウィン台車を装着した[19]。その他、併用軌道区間における信号制御の都合[4]からモハ61のパンタグラフは撤去され、1編成あたり1基搭載となった[21][* 2]

改造後のモハ61・モハ62は160形と形式称号を改め、記号番号は福井新向き先頭車となるモハ61がモハ161-2、武生新向き先頭車となるモハ62がモハ161-1とそれぞれ改番された[19]。なお、モハ161-2(元モハ61)固有の側面窓構造やベンチレーターなどには手を加えられなかったため、モハ161-1(元モハ62)との外観は統一されず、モハ161-2の震災被災復旧車としての特徴は連接車化改造後も残された[20]

後年の動向から退役まで

連接化改造の対象から除外されたモハ63・モハ64のうち、モハ63は1969年(昭和44年)に電装品および運転関連機器を撤去して付随車サハ60形63と形式・記号番号を改めた[22]。付随車化に際しては台車がBW78-25-Aに交換されたほか、搭載する制動装置をSCE非常直通ブレーキと公称したが[22]、実際は原形のSM-3直通ブレーキのままであり、また前後妻面へのブレーキ管の追設も行われなかったため、現車は純然たるトレーラーであった[22]

唯一原形のまま残存したモハ64は前述モハ63の電装解除に伴ってモハ63(2代)と改番され[4]、鯖浦線にて運用されたのち、鯖浦線織田 - 西田中間の部分廃止に先立つ1969年(昭和44年)9月に余剰廃車となった[18]。また、サハ64についても老朽化を理由に[22]1971年(昭和46年)9月に廃車され[4]、2軸ボギー構造で存置された2両は全廃となった[4]

一方、160形は主に鯖浦線から福武線福井方面への直通列車運用に充当され、1973年(昭和48年)9月の鯖浦線全線廃止に際しては特別装飾を施し記念列車として運行された[18]

鯖浦線廃止後は福武線に再転属し[23]1981年(昭和56年)[7]には台車が日車ボールドウィン形と称する日本車輌製造製のボールドウィンA形タイプ台車に、主電動機が三菱電機MB-64C(定格出力48.5 kW)に、それぞれ換装された[24]。その後は1985年(昭和60年)にワンマン運転対応改造が[7]1989年(平成元年)にモハ161-1への霜取り用パンタグラフの増設が[7]1992年(平成4年)12月には自動列車停止装置 (ATS) の車上装置取り付けが[5]順次施工された。

後年の新型車両導入に伴って、小型車体ゆえ他形式と比較して収容力が劣る160形の運用機会は減少したものの[23]、160形は福井鉄道にて平成年代以降に在籍した車両形式では唯一の間接非自動加速制御(HL制御)車であったことから、間接自動加速制御仕様の他形式と比較して運転操作が容易である点が買われ[7]、新人乗務員の運転教習用車両としても用いられた[7]

その後、160形は600形の導入に伴って代替されることとなり[23]、1997年(平成9年)9月14日と翌15日の2日間にわたって退役記念イベント(さよなら運転)が実施された[5]。160形モハ161-1・モハ161-2は同年9月17日付で除籍され[5]、これにより福武電気鉄道デハ20形として導入された車両群は全廃となった[4][5]

保存車両

静態保存されるモハ161-1
静態保存されるモハ161-1

除籍後、160形はモハ161-1・モハ161-2とも解体処分を免れ、編成を1両ずつに分割し、それぞれ静態保存された[23]

モハ161-1は個人へ譲渡され[23]、越前市の旧南越線村国駅跡にて静態保存された[25]

一方、モハ161-2は同車がモハ61として運用されていた当時に福井地震によって被災した震災復旧車であったことから福井市へ譲渡され、福井市立美術館に隣接する下馬中央公園にて静態保存された[26]。こちらは保存開始から15年以上を経過して車体各部の傷みが進行したため[26]、福井市は2014年(平成26年)度に修繕のための予算を計上、車体の修繕および再塗装、ならびにモハ161-2が福井地震の被災車両である旨を説明する案内表示板の新設を計画している[26]

脚注

注釈

  1. ^ 本形式はこれ以前にも転属歴があり、1948年(昭和23年)3月の南越線電化完成に伴って、一部の車両が同年から1950年(昭和25年)にかけて南越線にて運用された[15]
  2. ^ 併用軌道区間は架線部分に設けられた列車検知装置(トロリーコンダクター)とパンタグラフの接触によって信号制御を行うため、2両編成の車両についてはパンタグラフの搭載位置を編成の武生寄り車両の運転台側で全編成統一していたことによる[4]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 下』 p.41
  2. ^ a b c 『世界の鉄道 '64』 pp.172 - 173
  3. ^ a b c 『世界の鉄道 '74』 pp.178 - 179
  4. ^ a b c d e f g 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.55
  5. ^ a b c d e 「現有私鉄概説 福井鉄道」 (2001) p.101
  6. ^ a b c d e f g 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.233
  7. ^ a b c d e f g h 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.57
  8. ^ a b c d e f g 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.52
  9. ^ a b 『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 下』 p.40
  10. ^ a b c 『日車の車輌史 写真集 - 創業から昭和20年代』 p.110
  11. ^ a b c d 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.66
  12. ^ a b c d e f 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.242
  13. ^ a b 「台車近影」 C-9 / 福井鉄道デキ11 (日本車輌製造形式) - ネコ・パブリッシング『鉄道ホビダス』 2014年10月15日閲覧
  14. ^ 『世界の鉄道 '64』 p.58
  15. ^ a b c d 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) pp.53 - 54
  16. ^ a b c d 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) pp.54 - 55
  17. ^ a b c 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.247
  18. ^ a b c 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) pp.55 - 56
  19. ^ a b c d e f g h i 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.250
  20. ^ a b c 「中京・北陸地方のローカル私鉄 現況7 福井鉄道」 (1986) p.127
  21. ^ a b c d 『日本民営鉄道車両形式図集 上巻』 p.833
  22. ^ a b c d 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 p.248
  23. ^ a b c d e 鉄道友の会 福井支部報 『わだち No.105』 (PDF) - 鉄道友の会福井支部(2005年12月) 2014年10月15日閲覧
  24. ^ 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 (1996) p.58
  25. ^ 福井鉄道モハ161-1号電車 資料番号:100910281179 - 国立科学博物館 産業技術史資料データベース 2014年10月15日閲覧
  26. ^ a b c 『「震災電車」に再び光 市補修、復興象徴へ』 福井新聞

参考資料

書籍

  • 『世界の鉄道 '64』 朝日新聞社 1963年10月
  • 『世界の鉄道 '74』 朝日新聞社 1974年10月
  • 『日本民営鉄道車両形式図集 上巻』 鉄道図書刊行会 1976年5月
  • 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 鉄道図書刊行会 1982年4月
    • 中川浩一 「グラフページ 福井鉄道」 pp.66 - 71
    • 酒井英夫 「私鉄車両めぐり(90) 福井鉄道 上」 pp.232 - 238
    • 酒井英夫 「私鉄車両めぐり(90) 福井鉄道 中」 pp.239 - 245
    • 酒井英夫 「私鉄車両めぐり(90) 福井鉄道 下」 pp.246 - 252
  • 日本車両鉄道同好部 鉄道史資料保存会 編著 『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 下』 鉄道史資料保存会 1996年6月
  • 日本車両鉄道同好部 鉄道史資料保存会 編著 『日車の車輌史 写真集 - 創業から昭和20年代』 鉄道史資料保存会 1996年11月

雑誌記事

  • 鉄道ピクトリアル』 鉄道図書刊行会
    • 松原淳 「中京・北陸地方のローカル私鉄 現況7 福井鉄道」 1986年3月臨時増刊号(通巻461号) pp.123 - 128
    • 岸由一郎 「私鉄車両めぐり(155) 福井鉄道」 1996年9月号(通巻626号) pp.50 - 59
    • 岸由一郎 「現有私鉄概説 福井鉄道」 2001年5月臨時増刊号(通巻701号) pp.98 - 106

新聞記事

  • 『「震災電車」に再び光 市補修、復興象徴へ』 福井新聞 2014年5月24日朝刊