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「ヒポクラテス」の版間の差分

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{{翻訳直後|1=[http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Hippocrates&oldid=428629769 英語版 "Hippocrates" 19:21, 11 May 2011 (UTC)]|date=2011年5月}}
[[画像:Hippocrates.jpg|right|thumb|200px|ヒポクラテス]]
{{Infobox Person
| name = コス島のヒポクラテス<br />{{lang-el-short|Ἱπποκράτης|}}
| other_names =
| image = Hippocrates rubens.jpg
| caption = [[ピーテル・パウル・ルーベンス]]作版画。1638年。<br><small>[[アメリカ国立医学図書館]]蔵・画像提供<ref>{{Harvnb|National Library of Medicine|2006}}</ref></small>
| birth_date = 紀元前460年ごろ
| birth_place = [[ギリシャ]], [[コス島]]
| death_date = 紀元前370年ごろ
| death_place = [[ギリシャ]], [[テッサリア]]地方 [[ラリサ]]
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}}
{{Quote_box |width=30% |align=right |quote="人生は短く、術のみちは長い。機会は逸し易く、試みは失敗すること多く、判断は難しい。" |source=''箴言'' i.1.ヒポクラテス全集 (石渡隆司訳)}}
'''ヒポクラテス'''(ヒッポクラテスとも、{{lang|gr|'''Ἱπποκράτης'''}}、英語表記:{{lang|en|Hippocrates}} , [[紀元前460年]] - [[紀元前377年]])は[[古代ギリシア]]の[[医者]]。[[エーゲ海]]の[[コス島]]に[[世襲|世襲制]]の医者の子として生まれた彼は各地で[[医学]]を学んだ後、コス島の医学校の指導者となり、多くの著書を残す。彼の功績で最も重要なことは、原始的な医学から[[迷信]]や[[呪術]]を切り離し、[[科学]]的な医学を発展させたことである。この業績から「'''医学の父'''」、「'''[[比喩としての「神様」「神」一覧|医聖]]'''」、「'''疫学の祖'''」と呼ばれる。また医師の[[倫理学|倫理]]性と[[客観]]性を重んじ、これは「[[ヒポクラテスの誓い]]」として現在まで受け継がれている。
'''ヒポクラテス'''(ヒッポクラテスとも、{{lang|gr|'''Ἱπποκράτης'''}}、英語表記:{{lang|en|Hippocrates}} , [[紀元前460年]] - [[紀元前377年]])は[[古代ギリシア]]の[[医者]]。[[エーゲ海]]の[[コス島]]に[[世襲|世襲制]]の医者の子として生まれた彼は各地で[[医学]]を学んだ後、コス島の医学校の指導者となり、多くの著書を残す。彼の功績で最も重要なことは、原始的な医学から[[迷信]]や[[呪術]]を切り離し、[[科学]]的な医学を発展させたことである。この業績から「'''医学の父'''」、「'''[[比喩としての「神様」「神」一覧|医聖]]'''」、「'''疫学の祖'''」と呼ばれる。また医師の[[倫理学|倫理]]性と[[客観]]性を重んじ、これは「[[ヒポクラテスの誓い]]」として現在まで受け継がれている。


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[[病気]]は4種類の体液の混合に変調が生じた時に起こるという[[四体液説]]を唱えた。ヒポクラテスは人間と自然の調和を重視していた。
[[病気]]は4種類の体液の混合に変調が生じた時に起こるという[[四体液説]]を唱えた。ヒポクラテスは人間と自然の調和を重視していた。

== 生涯 ==
[[Image:Kos Asklepeion.jpg|300px|thumb|[[コス島]]の[[アスクレーピオス|アスクレピオス]]神殿]]
ヒポクラテスが紀元前460年頃に[[ギリシャ]]の[[コス島]]で生まれた実在の人物であること、また当時既に医者としても医学の指導者としても著名な人物であったことは多くの歴史家が認めるところである。だがそれ以外の生涯については不明であったり、裏付けのない言い伝えであることが多い<ref name=nuland4> {{Harvnb|Nuland|1988|p=4}} </ref>。

初めてヒポクラテスの伝記を著したのは2世紀ギリシアの[[婦人科|婦人科医]]{{仮リンク|エフェソスのソラヌス|en|Soranus of Ephesus}}であり、その著作は今日でもヒポクラテスを知る上で最も重要な情報源である。ヒポクラテスについての記述は[[紀元前4世紀]]の[[アリストテレス]]の著作<ref>『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』,1326a</ref>や[[10世紀]]の[[スーダ辞典]]、[[12世紀]]の{{仮リンク|ヨハネス・ツェツェース|en|John Tzetzes}}(英語)の著作にも見られる<ref name=garrison9293> {{Harvnb|Garrison|1966|p=92-93}} </ref><ref name=nuland7> {{Harvnb|Nuland|1988|p=7}} </ref>。ソラヌスによると、ヒポクラテスの父親は医者のヘラクレイデス、母親はティザンの娘プラクシテラであるという。ヒポクラテスにはテッサロスとドラコンというの二人の息子がおり、娘婿のポリュボスと共にヒポクラテスの医学の弟子であった。[[ガレノス]]によると、ポリュボスがヒポクラテスの真の後継者である。なお、テッサロスとドラコンにはそれぞれヒポクラテスという名前の息子がいたという<ref name="adams19">{{Harvnb|Adams|1891|p=19}}</ref><ref name="margotta66">{{Harvnb|Margotta|1968|p=66}}</ref>。ソラヌスはまた、ヒポクラテスは父親と祖父から医術を学び、他の学問を[[デモクリトス]]と[[ゴルギアス]]から学んだと記している。コス島のアスクレピオス神殿(診療所でもあった)で医術の訓練を積み、[[トラキア]]の医者、セリュンブリアの[[ヘロディコス]]からも教えを受けていた可能性がある。なお同時代人でヒポクラテスについて記述があるのは[[プラトン]]のみである。[[対話篇]]『[[プロタゴラス]]』(311B)と、『[[パイドロス]]』(270C-E)の2箇所でヒポクラテスに触れており、うち『プロタゴラス』では「アスクレピオス派の医者、コス島のヒポクラテス」とごく簡潔な記載があり、ヒポクラテスがプラトンと同じ時代に実在した人物であったことが窺える<ref name="marti86">{{Harvnb|Marti-Ibanez|1961|pp=86?87}}</ref><ref name="plato">{{Harvnb|Plato|380 B.C.}}</ref>。

ヒポクラテスは生涯医学を教え、自ら実践し、遍歴医として少なくとも[[テッサリア]]、[[トラキア]]、[[マルマラ海]]まで旅をした<ref name="margotta66"/>。83歳または90歳でラリサで死去したとする文献のほか、100歳を超えて生きたとするものなど、死について記述した文献が複数あり、正確な死亡年や没年齢は分からない<ref name="margotta66"/>。

== ヒポクラテス医学 ==
{{Quote_box
| width = 30%
| align = right
| quote =
"(神聖病<ref group="注">当時、[[てんかん]]のことを神聖病と呼んだ。</ref>は、)私の考えでは他の諸々の病気以上に神業によるのでもなく神聖であるのでもなく、自然的原因をもっているのである。ところが人々は経験不足であって、この病気が他の諸病とは似てもつかないものであるために、神業によると考えたのである。"
| source = ''『神聖病について』 第1節 小川政恭訳''<ref>[[#小川 (1963)|小川 (1963),p.38]]</ref>}}
ヒポクラテスは、病気とは自然に発生するものであって超自然的な力([[迷信]]、[[魔術]])や[[ギリシア神話|神々]]の仕業ではないと考えた最初の人物とされている。『古い医術について』という論文では[[エンペドクレス]]のような哲学的傾向、つまり熱・冷・乾・湿をそれぞれ対抗する力とらえ、病気の原因や治療をそこから説こうとする傾向を医学から排除しようとしている<ref>[[#小川 (1963)|小川 (1963),pp.207-208]]</ref><ref>[[#梶田 (2003)|梶田 (2003),p.58]]</ref>。医学を宗教から切り離し、病気は[[ギリシア神話|神々]]の与えた罰などではなく、環境、食事や生活習慣によるものであると信じ、主張した。たしかに『ヒポクラテス全集』には、一部(『養生法』4,79,90各節)を除いて迷信的要素はない。だが一方でヒポクラテス自身[[解剖学]]的、[[生理学]]的に誤りである[[四体液説]]を信じ、これに基づいた医療行為を行っていた<ref name="jones11">{{Harvnb|Jones|1868|p=11}}</ref><ref name="nuland8">{{Harvnb|Nuland|1988|pp=8?9}}</ref><ref name="garrison9394">{{Harvnb|Garrison|1966|pp=93?94}}</ref>。

古代ギリシアの医学は、クニドス派とコス派の二つの学派に分かれていた。クニドス派は[[診断]](diagnosis)を重視した。ヒポクラテスの時代、医学はヒトの解剖学・生理学の知識がほとんどない状態であった、これはギリシャでは[[ヒト]]の体を解剖することが[[タブー]]として禁じられていたためである。クニドス派は結果としてひとつの病気が一連の症状を引き起こす場合診断を誤ることがあった<ref name="adams15">{{Harvnb|Adams|1891|p=15}}</ref>。ヒポクラテス派(コス派)は、[[予後]](prognosis)を診断以上に重んじ、病気を効果的な治療を施し[[臨床]]で大きな成果を上げた<ref name="margotta67">{{Harvnb|Margotta|1968|p=67}}</ref><ref>{{Harvnb|Leff|Leff|1956|p=51}}</ref>。

現代の医学は、ヒポクラテス医学とその哲学からはかけ離れたものとなっている。今日、医者は診断で病名を特定しそれに対する専門の治療を行うことを重視するが、この2点はクニドス派の手法である。医学の考え方がヒポクラテスの時代から移り変わり、ヒポクラテスの消極的な診療は批判の対象となった。フランスの医師ウダールは「ヒポクラテス派がやったことは、便、尿、汗などを調べ、その中に「消化」の兆候を探り、分利を告げ、死を宣告する、それだけではないか」としている<ref>[[#梶田 (2003)|梶田 (2003),p.65]]</ref><ref name="jones1213">{{Harvnb|Jones|1868|pp=12-13}}</ref>。

=== 四体液説と分利 ===
{{main|四体液説}}
ヒポクラテス医学における重要な概念のひとつが'''分利(crisis)'''<ref group="注">クリシス:病気の分かれ目に際して起こる変化のこと。法廷用語「判決(クリシス)」を転用したとする説([[#小川 (1963)|小川 (1963),p.194]])と、krino=to separateという動詞に由来するとする説([[#梶田 (2003)|梶田 (2003),p.60]])がある。</ref>である。分利とは、病気の進行における段階のひとつであり、この段階においては患者が病に屈して死を迎えるか、あるいは反対に自然治癒によって患者が回復するかのいずれかが起こる。病気が分利を経て一旦回復した後に再発した場合、もう一度分利を迎えることとなる。この説によると、分利は罹患して一定期間後にみられる「危篤日」に起こる傾向があることが分かるが、分利が「危篤日」から大きくずれて見られた場合は病気の再発が懸念される。[[ガレノス]]は、この考えはヒポクラテスの考えであるとしたが、実際にはより以前から存在した可能性がある<ref name="jones464859">{{Harvnb|Jones|1868|pp=46,48,59}}</ref>。

[[Image:HippocraticBench.png|thumb|300px|2世紀、ガレノスの著作のビザンティン版に描かれたヒポクラテスのベンチ。]]

ヒポクラテスの施す医術は、簡素かつ受動的であった。治療方法は、「自然治癒力({{lang-la|vis medicatrix naturae}})」に基づいている。身体にはそのうちに四体液のバランスをとり、治癒する力が備わっている("physis"ピュシス、自然)<ref name="garrison99">{{Harvnb|Garrison|1966|p=99}}</ref>。ヒポクラテスの治療法はこの自然のプロセスを楽にすることに焦点をあてたものであり、結果、ヒポクラテスは「休息と不動が最も重要である」と考えた<ref name="margotta73">{{Harvnb|Margotta|1968|p=73}}</ref>。概して、ヒポクラテスの医術は患者にやさしくあることを考慮したものであった。: 治療は穏やかで、患者を清潔で消毒された状態にしておくことに力を注いだ。例えば、[[創傷]]の治療には、患部を乾かした方が良い場合でも、いつもきれいな水とワインだけが用いられた。その他鎮痛効果のある[[香油]]も塗布薬としてときに用いられた<ref name="garrison98">{{Harvnb|Garrison|1966|p=98}}</ref>。

ヒポクラテスは薬を投与したり、誤って選択されたであろう特定の治療法を行おうとはしなかった。;全身を診断し全身を治療するのである<ref name="garrison98"/><ref name="sing35">{{Harvnb|Singer|Underwood|1962|p=35}}</ref>。しかしながら ときには効き目の強い薬を使うこともあった<ref name="britannica">{{Harvnb|Encyclopedia Britannica|1911}}</ref>。こうした受動的な治療法は、比較的単純な疾患、例えば骨格組織を牽引して損傷部位の圧迫を軽減する必要のある骨折などには大変効果的であった。ヒポクラテスのベンチや他の器具はこのような目的の為使用されたのである。

ヒポクラテス医療の強みのひとつに、予後を重視したことがあげられる。ヒポクラテスの時代は、薬物による治療はまだまだ未発達であり、医者のできる最良のことといえば病気の程度を診断し、患者の病歴などを元にして病気の進行を予測することぐらいであった<ref name="garrison9394"/><ref name="garrison97">{{Harvnb|Garrison|1966|p=97}}</ref>。

=== 職業意識 ===
[[Image:Ancientgreek surgical.jpg|thumb|古代ギリシアの外科医療器具。左:トレフィン(冠状鋸)、右:メスのセット。ヒポクラテス学派の医者達はこれらの器具を有効に活用した<ref name="adams17">{{Harvnb|Adams|1891|p=17}}</ref>。]]

ヒポクラテス学派は、厳格な職業意識、規律、厳しい訓練で有名であった<ref name="garrison">{{Harvnb|Garrison|1966}}</ref>。『医師について』という文書では、医者は身なりを整え、正直で、冷静であり、理解に富み、真面目であることを推奨している。ヒポクラテス派の医者は訓練中でもあらゆる事柄に十分注意を払う。手術室の「照明、人員、器具、患者の位置、包帯の巻き方」などにも事細かな仕様があった<ref name="margotta64">{{Harvnb|Margotta|1968|p=64}}</ref>指の爪をきれいに切りそろえることも求められたのである<ref name="rutkow24">{{Harvnb|Rutkow|1993|pp=24?25}}</ref>。

ヒポクラテス学派は患者の観察と記録の作成を臨床の原則として重視した。これは医師各々が臨床にあたって発見した症状と治療法を客観的な方法で明確に記録することで、他の医師がその記録を参照しその治療方法を採用することなどができるようになるからである<ref name="margotta66"/>。ヒポクラテスは、顔色、脈拍、熱、痛み、動作、排泄など多くの症状に注意を払い、規則正しい記録をつけた<ref name="garrison97"/>。また病歴を聞くとき、患者が[[うそ]]をついていないかどうかを知る為に患者の脈を図ったことがあると言われており<ref name="marti88">{{Harvnb|Marti-Ibanez|1961|p=88}}</ref>、こうした観察の対象は、患者の家族の病歴や家屋の環境にまで広げていた。「ヒポクラテスにとっての医術は、[[臨床検査]]と観察の技術に負うところが大きかった」という見方もあり<ref name="garrison9394"/>、ヒポクラテスは「'''臨床'''医学の父」と呼ばれるのがよりふさわしいかもしれない<ref>{{Harvnb|Leff|Leff|1956|p=45}}</ref>。

== 医学への直接的貢献 ==
[[Image:ClubbingFingers1.jpg|thumb|[[アイゼンメンゲル症候群]]の患者にみられる[[ばち指]]。ヒポクラテスによって最初に症状が記録されたことから「ヒポクラテス指」や「ヒポクラテス爪」ともいう。]]

ヒポクラテスとヒポクラテス派の医師たちは多くの病気とその症状について[[医学史]]初となる記述を残した。中でも慢性化膿性肺疾患、[[肺がん]]やチアノーゼ性心疾患([[先天性心疾患]]のうちチアノーゼ性のもの)を診断するうえで重要な兆候となる、指が[[ばち指|ばち状]]となる症状を最初に記述したとされ、このことから、ばち指のことをヒポクラテス指(またはヒポクラテス爪)ともいう<ref name="schwartz">{{Harvnb|Schwartz|Richards|Goyal|2006}}</ref>。また『予後論』において、初めてヒポクラテス顔貌(死相のこと)について記述したことも知られているが、この表現は、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の史劇『[[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]]』第2幕第3場のフォルスタッフの死の場面で使われたことでも有名である<ref name="sing40">{{Harvnb|Singer|Underwood|1962|p=40}}</ref><ref name="margotta70">{{Harvnb|Margotta|1968|p=70}}</ref>。

ヒポクラテスは病気を急性・慢性・風土病・伝染病の四つに分類し、「悪化・再発・消散・分利・発作・峠・回復」といった用語を用いた<ref name="garrison97"/><ref name="mart90">{{Harvnb|Marti-Ibanez|1961|p=90}}</ref>。その他の主な業績としては、[[胸腔]]内に膿がたまった状態である[[膿胸]]の症状の例や、身体所見、外科治療法と予後についての記述があげられ、ヒポクラテスの教えは現代[[呼吸器学]]や外科を学ぶ者にとっても今日的な意味を持っている<ref name="major">{{Harvnb|Major|1965}}</ref>。ヒポクラテスは文書に記録の残るなかでは最初の[[胸部外科学|胸部外科医]]であり、ヒポクラテスによる発見の数々は現在でも有効である<ref name="major" />。

ヒポクラテス学派は、その理論の質は高くないものの、[[直腸]]の疾患と治療法についても詳しい記述を残している。例えば、[[痔]]は[[胆汁]]の粘液が多いために起こるものと考えられたが、ヒポクラテス派の医師の施した治療法は比較的先進的なものであった<ref name="johann11">{{Harvnb|Johannsson|2005|p=11}}</ref><ref name="jani">{{Harvnb|Jani|2005|pp=24-25}}</ref>。『ヒポクラテス集典』には望ましい治療法として痔核を結紮(けっさつ:糸などで結ぶこと)し、熱した鉄で患部を焼灼(しょうしゃく)すると記述した文書があり、焼灼器と切除についても記載がある。また、様々な軟膏をつけるといった方法も提案されている<ref name="johann12">{{Harvnb|Johannsson|2005|p=12}}</ref><ref name="book">{{Harvnb|Mann|2002|pp=1, 173}}</ref>。今日でも痔の治療においては、患部を焼灼し、結紮し、切除する過程がみられる<ref name="johann11"/>。さらに、『ヒポクラテス集典』には[[反射鏡]]を直腸内の観察に利用することについて述べた一節がある<ref name="jani"/>。現代の[[内視鏡]]も反射鏡の原理を発展させたものであり<ref name="johann11"/>、この記述は内視鏡に言及した最古の記録ともいえる<ref>{{Harvnb|Shah|2002|p=645}}</ref><ref>{{Harvnb|NCEPOD|2004|p=4}}</ref>。

== ヒポクラテス集典 ==
{{main|ヒポクラテス集典}}
[[File:HippocraticOath.jpg|thumb|十字の形に記された『ヒポクラテスの誓い』。[[12世紀]][[ビザンティン]]の写本]]

『ヒポクラテス集典([[ラテン語]]: Corpus Hippocraticum)』は、紀元前3世紀ごろ編纂された<ref name="ogawa199">[[#小川 (1963)|小川 (1963),p.199]]</ref>、[[古代ギリシア語]]のイオニア方言で書かれた70余りの医学文書の集典である。編纂に至るまでヒポクラテスの没後100年以上経っており、どの文書も無記名であることから、ヒポクラテス自身がどの程度の文書にかかわったかという問題には答えが出ていない<ref name="singer27">{{Harvnb|Singer|Underwood|1962|p=27}}</ref>。ヒポクラテス学派(コス派)の医師たちの著作が多く含まれるが<ref name="hanson">{{Harvnb|Hanson|2006}}</ref>、クニドス派やその他の学派とみられる著作も含まれている。集典全体での著者の数を最大19人とする説もある<ref name="britannica">{{Harvnb|Britannica|britannica}}</ref>。コス島の学校文庫に所蔵されていたものの写本が[[アレキサンドリア図書館]]にわたり編纂されたものか、巷間に流布していた無記名の医学文書がアレキサンドリア図書館に収められたものかは不明であるが<ref name="ogawa199"/>、紀元前3世紀末までにはヒポクラテスの学説として認められた医学著作の一群が成立し<ref name="kajita63">[[#梶田 (2003)|梶田 (2003),p.63]]</ref>、今日に伝わる形での集典となっていった。<!-- 日本では大槻真一郎らによる『ヒポクラテス全集』(エンタプライズ、1985年-1988年)全巻の翻訳がある。-->

ヒポクラテス集典には、臨床記録、医学の教科書、講義録、研究ノート、哲学的エッセイといった様々な種類の文書が順不同の形で収められ<ref name="singer27"/><ref name="rutkow23">{{Harvnb|Rutkow|p=23}}</ref>、医学の専門家から門外漢まで幅広い読み手を想定して書かれいる。著名な文書としては、『ヒポクラテスの誓い』、『予後論』、『急性病の養生法』、『箴言』、『空気、水、場所について』、『流行病』、『神聖病について』、『古い医術について』などがあげられるが<ref name="britannica"/>、『ヒポクラテス選集』(ロウヴ版)の編集者W.ジョーンズによれば、『予後論』、『急性病の養生法』、および『流行病』の1と3のみが「''同じ人によって、ギリシアの偉大な時期が過ぎ去る以前に書かれた、迷信および哲学の残渣がない科学的な論文''」である<ref name="kajita63"/>。

=== ヒポクラテスの誓い ===
{{main|ヒポクラテスの誓い}}
『ヒポクラテスの誓い』はヒポクラテス集典の内でも最も有名な文書であり、今日まで医療倫理に大きな影響を与えてきた。ヒポクラテスの死後書かれた可能性があることから、近年この文書の著者が誰であるかについて調査研究の対象となっている。今日の医療倫理に『誓い』をそのままの形で採用することは稀であるが、その精神は現代の医療モラルに関する規定や規律の基礎に受け継がれている。医学部を卒業するときにこの『誓い』(あるいは学校独自の『誓い』)を立てることも多く、『ヒポクラテスの誓い』は今日でも形を変えて医師達の間に生き続けている<ref name="marti86"/><ref name="jones217">{{Harvnb|Jones|1868|p=217}}</ref><ref>Buqrat Aur Uski Tasaneef by Hakim Syed Zillur Rahman, Tibbia College Magazine, Aligarh Muslim University, Aligarh, India, 1966, p. 56-62.</ref>

== 遺産 ==
[[Image:Galenoghippokrates.jpg|thumb|[[イタリア]]、[[アナーニ]]に残る[[ガレノス]]とヒポクラテスが描かれた[[壁画]]。12世紀。<!-- <ref>[http://www.humanehealthcare.com/Article.asp?art_id=638 The Many Faces of Hippocrates: The Effects of Culture on a Classical Image], HumaneHealthcare.com. Retrieved January 8, 2006</ref>-->]]

ヒポクラテスは広く「医学の父」と認められている<ref name="hanson"/>。医術を迷信から切り離し医学の基礎を確立して医療行為を根本から変えるなど、医学の発展に大きな貢献があったからである。だが、ヒポクラテスの死後、その発展は停滞してしまう<ref name="garrison100">{{Harvnb|Garrison|1966|p=100}}</ref>。ヒポクラテスは後代広く崇拝され、それゆえにその医学を大きく発展させることは長期にわたってみられなかった<ref name="marti86"/><ref name="margotta73"/>。ヒポクラテスの死後数世紀は、それまで進歩したのと同じくらい後退した。例えば、{{仮リンク|en|フィールディング・ガリソン|Fielding H. Garrison}}は「ヒポクラテス時代の後、臨床例を記録する行為などは廃れてしまった。」と述べている<ref name="garrison95">{{Harvnb|Garrison|1966|p=95}}</ref>。

ヒポクラテスの後、次の重要な医師は古代ギリシアの医師[[ガレノス]](紀元前129年-200年)である。ガレノスはヒポクラテスの業績を永続的なものとし、その医学を一部前進させ一部後退させた<ref name="jones35">{{Harvnb|Jones|1868|p=35}}</ref>。中世、ヒポクラテス医学を受け継いだのは[[アラブ]]社会であった<ref>{{Harvnb|Leff|Leff|1956|p=102}}</ref>。[[ルネッサンス期]]を経て、ヒポクラテスの手法はヨーロッパで再評価され、[[19世紀]]には更に拡大した。ヒポクラテスの臨床医学を継承した著名な医師は{{仮リンク|トーマス・サイデンハム|en|Thomas Sydenham}}(1624年-1689年、[[英国]])、{{仮リンク|ウィリアム・ヘバーデン|en|William Heberden}}(1710年-1801年、英国)、[[ジャン=マルタン・シャルコー]](1825年-1893年、フランス)、[[ウイリアム・オスラー]](1849年-1919年、[[カナダ]])らである。[[フランス]]の医師{{仮リンク|アンリ・ウシャール|en|Henri Huchard}}は、こうした再評価が「内科医学の歴史のすべて」を作り上げたと述べている<ref name="garrison934"/>。

=== イメージ ===
[[Image:Hippocrates.jpg|thumb|ローマ時代の胸像(19世紀銅版画)。伝統的なヒポクラテス像である。]]

アリストテレスによると、ヒポクラテスは生前から「大ヒポクラテス」として知られていた<ref name="jones38">{{Harvnb|Jones|1868|p=38}}</ref>。その気質に関して、ヒポクラテスははじめ「寛容ながら威厳のある年老いた田舎の医者」として描かれ、後には「厳格で近づき難い」イメージで描かれた<ref name="marti86"/>。偉大なる知性と特に非常に実践的な能力を持った賢者のイメージである。[[スコットランド]]の医師で[[ギリシア語]]翻訳家のフランシス・アダムスはヒポクラテスを「経験と良識のある医者」であると表現した<ref name="adams15"/>。

年老いた賢者としてのヒポクラテスのイメージは、顎鬚と皺の寄った風貌の胸像によっても強まった。当時多くの医師が[[ユーピテル|ユピテル]]像や[[アスクレーピオス|アスクレピオス]]像のような髪型にしたといわれているが、今日我々の見るヒポクラテス像はそうした神々のスタイルを踏襲しない稀な例と考えられる<ref name="garrison100"/>。ヒポクラテスとその信念は医学の理想とされた。医学史の権威フィールディング・ガリソンは「ヒポクラテスは、心のバランス、柔軟さ、そして批判精神のあり方の手本であり、過ちの原因に注視し続けた。それはまさに科学的精神の真髄である<ref name="garrison934">{{Harvnb|Garrison|1966|p=94}}</ref>。」「この像...いつまでも立ちつくすこの像こそ医師の理想像である<ref name="sing29">{{Harvnb|Singer|Underwood|1962|p=29}}</ref>。」

=== 逸話 ===
[[File:Hippocrate refusant les présents d'Artaxerxès (original).JPG|thumb|『アルタクセルクセスの贈与を拒絶するヒポクラテス』<br><small>{{仮リンク|ジロデ=トリオゾン|en|Anne-Louis_Girodet_de_Roussy-Trioson}}画、1792年</small>]]

ヒポクラテスの生涯にまつわる様々な逸話は、その多くが史実と一致せず、さらにはアヴィセンナ([[イブン=スィーナー]])や[[ソクラテス]]にまつわる話に類似した逸話もあり、おそらく[[伝説]]を起源とするつくり話の類と考えられる。だがヒポクラテスが存命中から、おそらくその高名さ故に、病を奇跡の力で治療したといった逸話が生まれていた。例えば、ヒポクラテスは「アテネの[[疫病]]」に際し、町の消毒のために大きなかがり火を焚いてアテナイ人を救った、または、マケドニア王[[ペルディッカス2世]]の恋の病を治したとも言い伝えられている。だがどちらの話も史料の裏付けが無いため、実際にあった話ではないと考えられている<ref name="adams1011">{{Harvnb|Adams|1891|pp=10?11}}</ref><ref name="jones37">{{Harvnb|Jones|1868|p=37}}</ref><ref name="dictionary">{{Harvnb|Smith|1870|p=483}}</ref>。

その他にも、ヒポクラテスが[[ペルシア]][[王]][[アルタクセルクセス]]の宮廷招聘を「ペルシャ王の至福にあずかることも,ギリシャ人の敵であるにもかかわらず夷狄を病気から守ることも,私には許されない<ref>[[#大槻 (1997)|大槻 (1997),第2巻,p.1052]]</ref>。」と言って断ったという逸話もある<ref name="pinault">{{Harvnb|Pinault|1992|p=1}}</ref>。古代の資料によるとこれは事実のようであるが、現代の研究者には史実性に疑いを持つ意見もある<ref name="adams1213">{{Harvnb|Adams|1891|pp=12-13}}</ref>。

また、[[原子論]]で知られるアデブラの[[デモクリトス]]は、いつでも誰に対しても笑っていたり、動物の死骸が家の周りに散乱するなどしていたので市民から少し頭がおかしくなったのではないかと思われてしまっていた。市民に請われデモクリトスを診たヒポクラテスは、デモクリトスの聡明さとその行動が彼の哲学によるものであることを知り、「幸福な人である」と診断した。このことがあってからデモクラテスは「笑う哲学者」と呼ばれるようになったという<ref>{{Harvnb|Internet Encyclopedia of Philosophy|2006}}</ref><ref>[[#ルカ (2009)|ルカ(2009),pp.71-73]]</ref>。

ヒポクラテスの逸話は、その業績を讃えるものばかりではない。ヒポクラテスがとあるギリシアの神殿に放火して逃げ去ったという話も伝わる。これはエフェソスのソラノスの記述を典拠とする話で、ソラノスは神殿はクニドス派の神殿であったとしているが、[[12世紀]][[ビザンティン]]の史家ヨハネス・ツェツェースの著作では、ヒポクラテスは医学知識を独り占めするためにコス島の神殿に放火したとされている。一説には、ヒポクラテスが医術を神々の行いから切り離したことに反発した守旧派が、火事をヒポクラテスの放火によるものであると決めつけ、疑いをかけられたヒポクラテスはコス島を後にし遍歴医として世界各地を訪問したのだという<ref>[[#ルカ (2009)|ルカ(2009),pp.71-73]]</ref>。

<!-- This claim directly conflicts with the traditional account of Hippocrates' personality. Other legends tell of his [[resurrection]] of [[Augustus]]'s nephew; this feat was supposedly created by the erection of a statue of Hippocrates and the establishment of a professorship in his honor in Rome.<!--please try to break up/elucidate the preceding sentence--><ref name="margotta66"/><ref name="adams1011"/><ref name="dictionary"/><ref name="jones24">{{Harvnb|Jones|1868|p=24}}</ref><!--Even the honey from a beehive on his grave was believed to have healing powers.<ref name="marti86" /><ref name="margotta73" />-->

== 系譜 ==
[[Image:HSAsclepiusKos retouched.jpg|thumb|コス島アスクレピオス神殿の床絵。アスクレピオス神(中央)とヒポクラテス(左)。]]
ヒポクラテスの父方の系譜を遡るとアスクレピス神に辿りつく。また母方の祖先は[[ヘラクレス]]であるという<ref name="britannica"/>。ツェツェスの著作『{{仮リンク|キリアデス|en|Chiliades}}』によると、ヒポクラテスの家系図([[:en:ahnentafel|ahnentafel]])は以下の通りとなる<ref name="adams">{{Harvnb|Adams|1891}}</ref><ref group="注">名前の左の数字は系譜番号で、例えば、Hippocrates II. を1とすると、父親Heraclidesは2となり、祖父Hippocrates I.は4となる。本文家系図によると、ヒポクラテスの15代前の先祖がアスクレーピオスということになる。</ref>。

1. '''Hippocrates II. “医学の父”ヒポクラテス'''<br/>
2. Heraclides<br/>
4. Hippocrates I.<br/>
8. Gnosidicus<br/>
16. Nebrus<br/>
32. Sostratus III.<br/>
64. Theodorus II.<br/>
128. Sostratus, II.<br/>
256. Thedorus<br/>
512. Cleomyttades<br/>
1024. Crisamis<br/>
2048. Dardanus<br/>
4096. Sostatus<br/>
8192. Hippolochus<br/>
16384. Podalirius<br/>
32768. '''Asklepius [[アスクレーピオス]]'''

== ヒポクラテスの名をもつもの ==
[[Image:Plane tree of Hippocrates.jpg|thumb|[[コス島]]の[[プラタナス]]の古木。ヒポクラテスがこの木の下で医者の仕事をし医学を教えたという言い伝えがあることから、この木は「'''ヒポクラテスの木'''」と呼ばれ、現在観光スポットとなっている<ref name="NHLtree">{{Harvnb|National Library of Medicine|2000}}</ref>。]]

病気の症状の中には、今日でもヒポクラテスの名を冠して呼ばれるものもある。ヒポクラテスがそうした症状を最初に記した人物と信じられているからである。ヒポクラテス顔貌とは、[[死]]、あるいは長期の病気、過度の排出(嘔吐、下痢、排尿など)、過度の飢餓によって生じた顔貌の変化のことであり、ヒポクラテス死相ともいう。指・爪の変形した状態である[[ばち指]]も、ヒポクラテスが肋膜および肺の炎症からばち指となることを指摘していることからヒポクラテス指と呼ばれる。ヒポクラテス振盪音とは、水[[気胸]]、膿気胸の位置を確認するとき聞こえる音である。[[肩]]関節脱臼や顎関節脱臼の整復法には[[顎関節脱臼#ヒポクラテス法|ヒポクラテス法]]と呼ばれる方法もある。『ヒポクラテス全集』、『ヒポクラテスの誓い』もヒポクラテスの名を冠したものである。
<!-- [[Hippocratic bench]] (a device which uses tension to aid in setting bones) and [[Hippocratic cap-shaped bandage]] are two devices named after Hippocrates.<ref name="Fishchenko">{{Harvnb|Fishchenko|Khimich|1986}}</ref> The drink [[hypocras]] is also believed to be invented by Hippocrates. [[Risus sardonicus]], a sustained spasming of the face muscles may also be termed the Hippocratic Smile. ホームズ『四つのサイン』-->
<!--In the modern age, a lunar crater has been named [[Hippocrates (lunar crater)|Hippocrates]]. The [[Hippocratic Museum]], a [[museum]] on the Greek island of Kos is dedicated to him. In the [[Harry Potter]] series, the main [[Physician|healer]] on [[Arthur Weasley]]'s ward was named [[Hippocrates Smethwyck]]. [[The Hippocrates Project]] is a program of the [[New York University]] Medical Center to enhance education through use of technology. [[Project Hippocrates]] (an acronym of "'''HI'''gh '''P'''erf'''O'''rmance '''C'''omputing for '''R'''obot-'''A'''ssis'''TE'''d '''S'''urgery") is an effort of the [[Carnegie Mellon School of Computer Science]] and [[Shadyside Medical Center]], "to develop advanced planning, simulation, and execution technologies for the next generation of computer-assisted surgical robots."<ref name="project">{{Harvnb|Project Hippocrates|1995}}</ref> Both the [http://www.hippocraticregistry.com Canadian Hippocratic Registry] and [[American Hippocratic Registry]] are organizations of physicians who uphold the principles of the original Hippocratic Oath as inviolable through changing social times.-->

== 参考文献 ==
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</div>

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''参照'''
{{Reflist|2}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2011年5月28日 (土) 21:36時点における版

コス島のヒポクラテス
: Ἱπποκράτης
生誕 紀元前460年ごろ
ギリシャ, コス島
死没 紀元前370年ごろ
ギリシャ, テッサリア地方 ラリサ
職業 医師
テンプレートを表示
"人生は短く、術のみちは長い。機会は逸し易く、試みは失敗すること多く、判断は難しい。"
箴言 i.1.ヒポクラテス全集 (石渡隆司訳)

ヒポクラテス(ヒッポクラテスとも、Ἱπποκράτης、英語表記:Hippocrates , 紀元前460年 - 紀元前377年)は古代ギリシア医者エーゲ海コス島世襲制の医者の子として生まれた彼は各地で医学を学んだ後、コス島の医学校の指導者となり、多くの著書を残す。彼の功績で最も重要なことは、原始的な医学から迷信呪術を切り離し、科学的な医学を発展させたことである。この業績から「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」と呼ばれる。また医師の倫理性と客観性を重んじ、これは「ヒポクラテスの誓い」として現在まで受け継がれている。

人生は短く、技芸は長い "ο βιος βραχυς , η δε τεχνη μακρα" と言う言葉もヒポクラテスのものとされている。「技術実学」を意味する τεχνη英語では art になるため芸術と訳されることも多いが、これは誤訳である。

病気は4種類の体液の混合に変調が生じた時に起こるという四体液説を唱えた。ヒポクラテスは人間と自然の調和を重視していた。

生涯

コス島アスクレピオス神殿

ヒポクラテスが紀元前460年頃にギリシャコス島で生まれた実在の人物であること、また当時既に医者としても医学の指導者としても著名な人物であったことは多くの歴史家が認めるところである。だがそれ以外の生涯については不明であったり、裏付けのない言い伝えであることが多い[2]

初めてヒポクラテスの伝記を著したのは2世紀ギリシアの婦人科医エフェソスのソラヌス英語版であり、その著作は今日でもヒポクラテスを知る上で最も重要な情報源である。ヒポクラテスについての記述は紀元前4世紀アリストテレスの著作[3]10世紀スーダ辞典12世紀ヨハネス・ツェツェース英語版(英語)の著作にも見られる[4][5]。ソラヌスによると、ヒポクラテスの父親は医者のヘラクレイデス、母親はティザンの娘プラクシテラであるという。ヒポクラテスにはテッサロスとドラコンというの二人の息子がおり、娘婿のポリュボスと共にヒポクラテスの医学の弟子であった。ガレノスによると、ポリュボスがヒポクラテスの真の後継者である。なお、テッサロスとドラコンにはそれぞれヒポクラテスという名前の息子がいたという[6][7]。ソラヌスはまた、ヒポクラテスは父親と祖父から医術を学び、他の学問をデモクリトスゴルギアスから学んだと記している。コス島のアスクレピオス神殿(診療所でもあった)で医術の訓練を積み、トラキアの医者、セリュンブリアのヘロディコスからも教えを受けていた可能性がある。なお同時代人でヒポクラテスについて記述があるのはプラトンのみである。対話篇プロタゴラス』(311B)と、『パイドロス』(270C-E)の2箇所でヒポクラテスに触れており、うち『プロタゴラス』では「アスクレピオス派の医者、コス島のヒポクラテス」とごく簡潔な記載があり、ヒポクラテスがプラトンと同じ時代に実在した人物であったことが窺える[8][9]

ヒポクラテスは生涯医学を教え、自ら実践し、遍歴医として少なくともテッサリアトラキアマルマラ海まで旅をした[7]。83歳または90歳でラリサで死去したとする文献のほか、100歳を超えて生きたとするものなど、死について記述した文献が複数あり、正確な死亡年や没年齢は分からない[7]

ヒポクラテス医学

"(神聖病[注 1]は、)私の考えでは他の諸々の病気以上に神業によるのでもなく神聖であるのでもなく、自然的原因をもっているのである。ところが人々は経験不足であって、この病気が他の諸病とは似てもつかないものであるために、神業によると考えたのである。"
『神聖病について』 第1節 小川政恭訳[10]

ヒポクラテスは、病気とは自然に発生するものであって超自然的な力(迷信魔術)や神々の仕業ではないと考えた最初の人物とされている。『古い医術について』という論文ではエンペドクレスのような哲学的傾向、つまり熱・冷・乾・湿をそれぞれ対抗する力とらえ、病気の原因や治療をそこから説こうとする傾向を医学から排除しようとしている[11][12]。医学を宗教から切り離し、病気は神々の与えた罰などではなく、環境、食事や生活習慣によるものであると信じ、主張した。たしかに『ヒポクラテス全集』には、一部(『養生法』4,79,90各節)を除いて迷信的要素はない。だが一方でヒポクラテス自身解剖学的、生理学的に誤りである四体液説を信じ、これに基づいた医療行為を行っていた[13][14][15]

古代ギリシアの医学は、クニドス派とコス派の二つの学派に分かれていた。クニドス派は診断(diagnosis)を重視した。ヒポクラテスの時代、医学はヒトの解剖学・生理学の知識がほとんどない状態であった、これはギリシャではヒトの体を解剖することがタブーとして禁じられていたためである。クニドス派は結果としてひとつの病気が一連の症状を引き起こす場合診断を誤ることがあった[16]。ヒポクラテス派(コス派)は、予後(prognosis)を診断以上に重んじ、病気を効果的な治療を施し臨床で大きな成果を上げた[17][18]

現代の医学は、ヒポクラテス医学とその哲学からはかけ離れたものとなっている。今日、医者は診断で病名を特定しそれに対する専門の治療を行うことを重視するが、この2点はクニドス派の手法である。医学の考え方がヒポクラテスの時代から移り変わり、ヒポクラテスの消極的な診療は批判の対象となった。フランスの医師ウダールは「ヒポクラテス派がやったことは、便、尿、汗などを調べ、その中に「消化」の兆候を探り、分利を告げ、死を宣告する、それだけではないか」としている[19][20]

四体液説と分利

ヒポクラテス医学における重要な概念のひとつが分利(crisis)[注 2]である。分利とは、病気の進行における段階のひとつであり、この段階においては患者が病に屈して死を迎えるか、あるいは反対に自然治癒によって患者が回復するかのいずれかが起こる。病気が分利を経て一旦回復した後に再発した場合、もう一度分利を迎えることとなる。この説によると、分利は罹患して一定期間後にみられる「危篤日」に起こる傾向があることが分かるが、分利が「危篤日」から大きくずれて見られた場合は病気の再発が懸念される。ガレノスは、この考えはヒポクラテスの考えであるとしたが、実際にはより以前から存在した可能性がある[21]

2世紀、ガレノスの著作のビザンティン版に描かれたヒポクラテスのベンチ。

ヒポクラテスの施す医術は、簡素かつ受動的であった。治療方法は、「自然治癒力(ラテン語: vis medicatrix naturae)」に基づいている。身体にはそのうちに四体液のバランスをとり、治癒する力が備わっている("physis"ピュシス、自然)[22]。ヒポクラテスの治療法はこの自然のプロセスを楽にすることに焦点をあてたものであり、結果、ヒポクラテスは「休息と不動が最も重要である」と考えた[23]。概して、ヒポクラテスの医術は患者にやさしくあることを考慮したものであった。: 治療は穏やかで、患者を清潔で消毒された状態にしておくことに力を注いだ。例えば、創傷の治療には、患部を乾かした方が良い場合でも、いつもきれいな水とワインだけが用いられた。その他鎮痛効果のある香油も塗布薬としてときに用いられた[24]

ヒポクラテスは薬を投与したり、誤って選択されたであろう特定の治療法を行おうとはしなかった。;全身を診断し全身を治療するのである[24][25]。しかしながら ときには効き目の強い薬を使うこともあった[26]。こうした受動的な治療法は、比較的単純な疾患、例えば骨格組織を牽引して損傷部位の圧迫を軽減する必要のある骨折などには大変効果的であった。ヒポクラテスのベンチや他の器具はこのような目的の為使用されたのである。

ヒポクラテス医療の強みのひとつに、予後を重視したことがあげられる。ヒポクラテスの時代は、薬物による治療はまだまだ未発達であり、医者のできる最良のことといえば病気の程度を診断し、患者の病歴などを元にして病気の進行を予測することぐらいであった[15][27]

職業意識

古代ギリシアの外科医療器具。左:トレフィン(冠状鋸)、右:メスのセット。ヒポクラテス学派の医者達はこれらの器具を有効に活用した[28]

ヒポクラテス学派は、厳格な職業意識、規律、厳しい訓練で有名であった[29]。『医師について』という文書では、医者は身なりを整え、正直で、冷静であり、理解に富み、真面目であることを推奨している。ヒポクラテス派の医者は訓練中でもあらゆる事柄に十分注意を払う。手術室の「照明、人員、器具、患者の位置、包帯の巻き方」などにも事細かな仕様があった[30]指の爪をきれいに切りそろえることも求められたのである[31]

ヒポクラテス学派は患者の観察と記録の作成を臨床の原則として重視した。これは医師各々が臨床にあたって発見した症状と治療法を客観的な方法で明確に記録することで、他の医師がその記録を参照しその治療方法を採用することなどができるようになるからである[7]。ヒポクラテスは、顔色、脈拍、熱、痛み、動作、排泄など多くの症状に注意を払い、規則正しい記録をつけた[27]。また病歴を聞くとき、患者がうそをついていないかどうかを知る為に患者の脈を図ったことがあると言われており[32]、こうした観察の対象は、患者の家族の病歴や家屋の環境にまで広げていた。「ヒポクラテスにとっての医術は、臨床検査と観察の技術に負うところが大きかった」という見方もあり[15]、ヒポクラテスは「臨床医学の父」と呼ばれるのがよりふさわしいかもしれない[33]

医学への直接的貢献

アイゼンメンゲル症候群の患者にみられるばち指。ヒポクラテスによって最初に症状が記録されたことから「ヒポクラテス指」や「ヒポクラテス爪」ともいう。

ヒポクラテスとヒポクラテス派の医師たちは多くの病気とその症状について医学史初となる記述を残した。中でも慢性化膿性肺疾患、肺がんやチアノーゼ性心疾患(先天性心疾患のうちチアノーゼ性のもの)を診断するうえで重要な兆候となる、指がばち状となる症状を最初に記述したとされ、このことから、ばち指のことをヒポクラテス指(またはヒポクラテス爪)ともいう[34]。また『予後論』において、初めてヒポクラテス顔貌(死相のこと)について記述したことも知られているが、この表現は、シェイクスピアの史劇『ヘンリー五世』第2幕第3場のフォルスタッフの死の場面で使われたことでも有名である[35][36]

ヒポクラテスは病気を急性・慢性・風土病・伝染病の四つに分類し、「悪化・再発・消散・分利・発作・峠・回復」といった用語を用いた[27][37]。その他の主な業績としては、胸腔内に膿がたまった状態である膿胸の症状の例や、身体所見、外科治療法と予後についての記述があげられ、ヒポクラテスの教えは現代呼吸器学や外科を学ぶ者にとっても今日的な意味を持っている[38]。ヒポクラテスは文書に記録の残るなかでは最初の胸部外科医であり、ヒポクラテスによる発見の数々は現在でも有効である[38]

ヒポクラテス学派は、その理論の質は高くないものの、直腸の疾患と治療法についても詳しい記述を残している。例えば、胆汁の粘液が多いために起こるものと考えられたが、ヒポクラテス派の医師の施した治療法は比較的先進的なものであった[39][40]。『ヒポクラテス集典』には望ましい治療法として痔核を結紮(けっさつ:糸などで結ぶこと)し、熱した鉄で患部を焼灼(しょうしゃく)すると記述した文書があり、焼灼器と切除についても記載がある。また、様々な軟膏をつけるといった方法も提案されている[41][42]。今日でも痔の治療においては、患部を焼灼し、結紮し、切除する過程がみられる[39]。さらに、『ヒポクラテス集典』には反射鏡を直腸内の観察に利用することについて述べた一節がある[40]。現代の内視鏡も反射鏡の原理を発展させたものであり[39]、この記述は内視鏡に言及した最古の記録ともいえる[43][44]

ヒポクラテス集典

十字の形に記された『ヒポクラテスの誓い』。12世紀ビザンティンの写本

『ヒポクラテス集典(ラテン語: Corpus Hippocraticum)』は、紀元前3世紀ごろ編纂された[45]古代ギリシア語のイオニア方言で書かれた70余りの医学文書の集典である。編纂に至るまでヒポクラテスの没後100年以上経っており、どの文書も無記名であることから、ヒポクラテス自身がどの程度の文書にかかわったかという問題には答えが出ていない[46]。ヒポクラテス学派(コス派)の医師たちの著作が多く含まれるが[47]、クニドス派やその他の学派とみられる著作も含まれている。集典全体での著者の数を最大19人とする説もある[26]。コス島の学校文庫に所蔵されていたものの写本がアレキサンドリア図書館にわたり編纂されたものか、巷間に流布していた無記名の医学文書がアレキサンドリア図書館に収められたものかは不明であるが[45]、紀元前3世紀末までにはヒポクラテスの学説として認められた医学著作の一群が成立し[48]、今日に伝わる形での集典となっていった。

ヒポクラテス集典には、臨床記録、医学の教科書、講義録、研究ノート、哲学的エッセイといった様々な種類の文書が順不同の形で収められ[46][49]、医学の専門家から門外漢まで幅広い読み手を想定して書かれいる。著名な文書としては、『ヒポクラテスの誓い』、『予後論』、『急性病の養生法』、『箴言』、『空気、水、場所について』、『流行病』、『神聖病について』、『古い医術について』などがあげられるが[26]、『ヒポクラテス選集』(ロウヴ版)の編集者W.ジョーンズによれば、『予後論』、『急性病の養生法』、および『流行病』の1と3のみが「同じ人によって、ギリシアの偉大な時期が過ぎ去る以前に書かれた、迷信および哲学の残渣がない科学的な論文」である[48]

ヒポクラテスの誓い

『ヒポクラテスの誓い』はヒポクラテス集典の内でも最も有名な文書であり、今日まで医療倫理に大きな影響を与えてきた。ヒポクラテスの死後書かれた可能性があることから、近年この文書の著者が誰であるかについて調査研究の対象となっている。今日の医療倫理に『誓い』をそのままの形で採用することは稀であるが、その精神は現代の医療モラルに関する規定や規律の基礎に受け継がれている。医学部を卒業するときにこの『誓い』(あるいは学校独自の『誓い』)を立てることも多く、『ヒポクラテスの誓い』は今日でも形を変えて医師達の間に生き続けている[8][50][51]

遺産

イタリアアナーニに残るガレノスとヒポクラテスが描かれた壁画。12世紀。

ヒポクラテスは広く「医学の父」と認められている[47]。医術を迷信から切り離し医学の基礎を確立して医療行為を根本から変えるなど、医学の発展に大きな貢献があったからである。だが、ヒポクラテスの死後、その発展は停滞してしまう[52]。ヒポクラテスは後代広く崇拝され、それゆえにその医学を大きく発展させることは長期にわたってみられなかった[8][23]。ヒポクラテスの死後数世紀は、それまで進歩したのと同じくらい後退した。例えば、enは「ヒポクラテス時代の後、臨床例を記録する行為などは廃れてしまった。」と述べている[53]

ヒポクラテスの後、次の重要な医師は古代ギリシアの医師ガレノス(紀元前129年-200年)である。ガレノスはヒポクラテスの業績を永続的なものとし、その医学を一部前進させ一部後退させた[54]。中世、ヒポクラテス医学を受け継いだのはアラブ社会であった[55]ルネッサンス期を経て、ヒポクラテスの手法はヨーロッパで再評価され、19世紀には更に拡大した。ヒポクラテスの臨床医学を継承した著名な医師はトーマス・サイデンハム英語版(1624年-1689年、英国)、ウィリアム・ヘバーデン英語版(1710年-1801年、英国)、ジャン=マルタン・シャルコー(1825年-1893年、フランス)、ウイリアム・オスラー(1849年-1919年、カナダ)らである。フランスの医師アンリ・ウシャール英語版は、こうした再評価が「内科医学の歴史のすべて」を作り上げたと述べている[56]

イメージ

ローマ時代の胸像(19世紀銅版画)。伝統的なヒポクラテス像である。

アリストテレスによると、ヒポクラテスは生前から「大ヒポクラテス」として知られていた[57]。その気質に関して、ヒポクラテスははじめ「寛容ながら威厳のある年老いた田舎の医者」として描かれ、後には「厳格で近づき難い」イメージで描かれた[8]。偉大なる知性と特に非常に実践的な能力を持った賢者のイメージである。スコットランドの医師でギリシア語翻訳家のフランシス・アダムスはヒポクラテスを「経験と良識のある医者」であると表現した[16]

年老いた賢者としてのヒポクラテスのイメージは、顎鬚と皺の寄った風貌の胸像によっても強まった。当時多くの医師がユピテル像やアスクレピオス像のような髪型にしたといわれているが、今日我々の見るヒポクラテス像はそうした神々のスタイルを踏襲しない稀な例と考えられる[52]。ヒポクラテスとその信念は医学の理想とされた。医学史の権威フィールディング・ガリソンは「ヒポクラテスは、心のバランス、柔軟さ、そして批判精神のあり方の手本であり、過ちの原因に注視し続けた。それはまさに科学的精神の真髄である[56]。」「この像...いつまでも立ちつくすこの像こそ医師の理想像である[58]。」

逸話

『アルタクセルクセスの贈与を拒絶するヒポクラテス』
ジロデ=トリオゾン英語版画、1792年

ヒポクラテスの生涯にまつわる様々な逸話は、その多くが史実と一致せず、さらにはアヴィセンナ(イブン=スィーナー)やソクラテスにまつわる話に類似した逸話もあり、おそらく伝説を起源とするつくり話の類と考えられる。だがヒポクラテスが存命中から、おそらくその高名さ故に、病を奇跡の力で治療したといった逸話が生まれていた。例えば、ヒポクラテスは「アテネの疫病」に際し、町の消毒のために大きなかがり火を焚いてアテナイ人を救った、または、マケドニア王ペルディッカス2世の恋の病を治したとも言い伝えられている。だがどちらの話も史料の裏付けが無いため、実際にあった話ではないと考えられている[59][60][61]

その他にも、ヒポクラテスがペルシアアルタクセルクセスの宮廷招聘を「ペルシャ王の至福にあずかることも,ギリシャ人の敵であるにもかかわらず夷狄を病気から守ることも,私には許されない[62]。」と言って断ったという逸話もある[63]。古代の資料によるとこれは事実のようであるが、現代の研究者には史実性に疑いを持つ意見もある[64]

また、原子論で知られるアデブラのデモクリトスは、いつでも誰に対しても笑っていたり、動物の死骸が家の周りに散乱するなどしていたので市民から少し頭がおかしくなったのではないかと思われてしまっていた。市民に請われデモクリトスを診たヒポクラテスは、デモクリトスの聡明さとその行動が彼の哲学によるものであることを知り、「幸福な人である」と診断した。このことがあってからデモクラテスは「笑う哲学者」と呼ばれるようになったという[65][66]

ヒポクラテスの逸話は、その業績を讃えるものばかりではない。ヒポクラテスがとあるギリシアの神殿に放火して逃げ去ったという話も伝わる。これはエフェソスのソラノスの記述を典拠とする話で、ソラノスは神殿はクニドス派の神殿であったとしているが、12世紀ビザンティンの史家ヨハネス・ツェツェースの著作では、ヒポクラテスは医学知識を独り占めするためにコス島の神殿に放火したとされている。一説には、ヒポクラテスが医術を神々の行いから切り離したことに反発した守旧派が、火事をヒポクラテスの放火によるものであると決めつけ、疑いをかけられたヒポクラテスはコス島を後にし遍歴医として世界各地を訪問したのだという[67]

[7][59][61][68]

系譜

コス島アスクレピオス神殿の床絵。アスクレピオス神(中央)とヒポクラテス(左)。

ヒポクラテスの父方の系譜を遡るとアスクレピス神に辿りつく。また母方の祖先はヘラクレスであるという[26]。ツェツェスの著作『キリアデス英語版』によると、ヒポクラテスの家系図(ahnentafel)は以下の通りとなる[69][注 3]

1. Hippocrates II. “医学の父”ヒポクラテス
2. Heraclides
4. Hippocrates I.
8. Gnosidicus
16. Nebrus
32. Sostratus III.
64. Theodorus II.
128. Sostratus, II.
256. Thedorus
512. Cleomyttades
1024. Crisamis
2048. Dardanus
4096. Sostatus
8192. Hippolochus
16384. Podalirius
32768. Asklepius アスクレーピオス

ヒポクラテスの名をもつもの

コス島プラタナスの古木。ヒポクラテスがこの木の下で医者の仕事をし医学を教えたという言い伝えがあることから、この木は「ヒポクラテスの木」と呼ばれ、現在観光スポットとなっている[70]

病気の症状の中には、今日でもヒポクラテスの名を冠して呼ばれるものもある。ヒポクラテスがそうした症状を最初に記した人物と信じられているからである。ヒポクラテス顔貌とは、、あるいは長期の病気、過度の排出(嘔吐、下痢、排尿など)、過度の飢餓によって生じた顔貌の変化のことであり、ヒポクラテス死相ともいう。指・爪の変形した状態であるばち指も、ヒポクラテスが肋膜および肺の炎症からばち指となることを指摘していることからヒポクラテス指と呼ばれる。ヒポクラテス振盪音とは、水気胸、膿気胸の位置を確認するとき聞こえる音である。関節脱臼や顎関節脱臼の整復法にはヒポクラテス法と呼ばれる方法もある。『ヒポクラテス全集』、『ヒポクラテスの誓い』もヒポクラテスの名を冠したものである。

参考文献

肩の脱臼を整復するヒポクラテスの器具の木版画。

日本語文献

  • 小川政恭 訳『古い医術について 他八篇』岩波書店岩波文庫 青 901-1〉、1963年。ISBN 4003390113 
  • 大槻真一郎 翻訳・編集責任『新訂ヒポクラテス全集』エンタプライズ、1997年。ISBN 4872911008 
  • 梶田昭『医学の歴史』講談社〈講談社学術文庫〉、2003年。ISBN 978-4061596146 
  • ルカ・ノヴェッリ『ヒポクラテス』岩崎書店〈天才!?科学者シリーズ 9〉、2009年。ISBN 978-4265046799 

外国語文献

l On the Sacred Disease], Internet Classics Archive: The University of Adelaide Library, オリジナルのSeptember 26, 2007時点におけるアーカイブ。, http://web.archive.org/web/20070926213032/http://etext.library.adelaide.edu.au/mirror/classics.mit.edu/Hippocrates/sacred.htm

l 2006年12月17日閲覧。 .

脚注

注釈

  1. ^ 当時、てんかんのことを神聖病と呼んだ。
  2. ^ クリシス:病気の分かれ目に際して起こる変化のこと。法廷用語「判決(クリシス)」を転用したとする説(小川 (1963),p.194)と、krino=to separateという動詞に由来するとする説(梶田 (2003),p.60)がある。
  3. ^ 名前の左の数字は系譜番号で、例えば、Hippocrates II. を1とすると、父親Heraclidesは2となり、祖父Hippocrates I.は4となる。本文家系図によると、ヒポクラテスの15代前の先祖がアスクレーピオスということになる。

参照

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関連項目

外部リンク

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