コンテンツにスキップ

樺 (橘型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
級名 橘型駆逐艦
艦歴
計画 1944年度(昭和19年度)計画
起工 1944年10月15日
進水 1945年2月27日
竣工 1945年5月29日
除籍 1945年10月5日
その後 1947年8月4日、米国へ引き渡され、解体
要目(計画値)
基準排水量 1,262 トン
公試排水量 1,530 トン
全長 100.00 m
最大幅 9.35 m
吃水 3.30 m
主缶 ロ号艦本式ボイラー×2基
主機 艦本式タービン×2基
出力 19,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 27.8 ノット
燃料 重油 370 t
航続距離 3,500 海里/18ノット
乗員 211名
兵装
レーダー 22号電探×1基
ソナー 四式水中聴音機×1基
三式探信儀一型×1基
テンプレートを表示

(かば)は日本海軍駆逐艦。仮称5500号艦、橘型(改松型)駆逐艦として藤永田造船所で建造された。

艦名は植物のによる。特にシラカバの別称とされる。艦名としては樺型駆逐艦の1番艦「」に続いて2代目。

艦歴

[編集]

竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入。瀬戸内海で訓練、待機の最中に触雷して損傷する[1]

7月15日に乗員が6月22日の爆撃で損傷した「」から移乗し、「楡」に代わって第三十一戦隊鶴岡信道少将)第五十二駆逐隊に編入される[2]

7月24日には第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機と交戦し、小型爆弾1発が命中して魚雷発射管が使用不能となり、35名の戦死者を出した[3]。そのままで終戦を迎えた。

10月5日に除籍。12月1日、特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)8月4日佐世保米国へ引渡された。そのまま国内で売却され、同年10月8日から翌年3月1日にかけて三井造船玉野造船所で解体された[4]

歴代艦長

[編集]

※『艦長たちの軍艦史』372頁による。

艤装員長

[編集]
  1. 野尻雅一 大尉 1945年3月1日-

駆逐艦長

[編集]
  1. 野尻雅一 大尉 1945年5月29日-

脚注

[編集]

参考文献

[編集]
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。ISBN 978-4809901089 
  • 田村俊夫「米国に引き渡された賠償艦艇の最期について」『帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ 51〉、2005年。ISBN 4-05-604083-4 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 
  • 歴史群像編集部 編『松型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 43〉、2003年11月。ISBN 4-05-603251-3 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(8)』。JACAR:C08030128100