東京ゴルフ倶楽部

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東京ゴルフ倶楽部
東京ゴルフ倶楽部
東京ゴルフ倶楽部の空中写真。
北西側から北側に隣接するゴルフ場は
霞ヶ関カントリークラブ

2019年8月2日撮影。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
所在地 日本の旗 日本
埼玉県狭山市柏原1984番地
Nuvola apps kolf.svg 概要
開業 1914年大正3年)5月
運営 メンバーシップコース
設計 大谷 光明
運営者 一般社団法人東京ゴルフ倶楽部
トーナメント ・1935年 第8回 日本オープンゴルフ選手権競技
・1940年 第13回 日本オープンゴルフ選手権競技
・1954年 第19回 日本オープンゴルフ選手権競技
・1964年 第29回 日本オープンゴルフ選手権競技
・1988年 第53回 日本オープンゴルフ選手権競技
・2001年 第66回 日本オープンゴルフ選手権競技
Nuvola apps kolf.svg コース

OUTコース INコース
HOLE PAR YARD HOLE PAR YARD
1 4 362 1 4 435
2 4 388 2 4 363
3 5 510 3 3 181
4 3 141 4 5 570
5 5 585 5 4 351
6 4 417 6 5 516
7 4 383 7 4 440
8 3 200 8 3 176
9 4 457 9 4 440
36 3443 36 3472

Nuvola apps kolf.svg その他
公式サイト 東京ゴルフ倶楽部
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東京ゴルフ倶楽部
駒沢コース
所在地 日本の旗 日本
東京府荏原郡駒沢村深沢
(現・東京都世田谷区駒沢公園
Nuvola apps kolf.svg 概要
開業 1914年(大正3年)5月
1941年(昭和16年)閉鎖
運営 メンバーシップコース
設計 F・E・コルチェスター
G・G・ブレディ
運営者 東京ゴルフ株式会社
トーナメント ・1928年 第2回 日本オープンゴルフ選手権競技
Nuvola apps kolf.svg コース

OUT IN
HOLE PAR YARD HOLE PAR YARD
1 4 359 1 3 233
2 4 444 2 3 185
3 4 274 3 3 204
4 4 407 4 3 103
5 3 168 5 4 440
6 4 254 6 4 426
7 4 380 7 3 236
8 5 462 8 4 264
9 3 157 9 4 292
35 2905 31 2383

Nuvola apps kolf.svg その他
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東京ゴルフ倶楽部
秩父新コース
所在地 日本の旗 日本
埼玉県入間郡柏原村1984番地
Nuvola apps kolf.svg 概要
開業 1955年(昭和30年)12月15日
運営 メンバーシップコース
設計 大谷 光明
運営者 東京ゴルフ株式会社
トーナメント ・1935年 第8回 日本オープンゴルフ選手権競技
・1940年 第13回 日本オープンゴルフ選手権競技
Nuvola apps kolf.svg コース

OUT IN
HOLE PAR YARD HOLE PAR YARD
1 4 340 1 4 445
2 4 400 2 4 365
3 5 480 3 3 205
4 3 160 4 5 575
5 5 530 5 4 350
6 4 420 6 5 486
7 4 370 7 4 440
8 3 175 8 3 140
9 4 415 9 5 470
36 3290 37 3476

Nuvola apps kolf.svg その他
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東京ゴルフ倶楽部(とうきょうゴルフくらぶ)は、 埼玉県狭山市柏原に広がるゴルフ場である。

歴史[編集]

日本人の倶楽部を

大正時代の関東には、ゴルフ場が一か所しかなかった、1906年(明治39年)11月、横浜市の根岸競技場内に開場した、ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション(NRCGA、通称・横浜根岸コース、9ホール)である。英国や米国でゴルフをプレーした日本人が、自分たちのゴルフ場を建設しようと活動し始めた[1]

東京ゴルフ倶楽部は、1913年大正2年)、英米でゴルフを覚えて帰国した横浜正銀銀行の井上準之助がゴルフ倶楽部の建設をと動き、伯爵・貴族院議員の樺山愛輔や横浜生糸の荒川新十郎らの賛同を得。虎ノ門の社交倶楽部「東京倶楽部」のゴルフの心得のある会員に呼びかけ、「東京ゴルフ会(東京ゴルフ・アソシエーション)」を組織、出資者を募った。出資者は、井上準之助、樺山愛輔、荒川新十郎の他、村井銀行の村井五郎、帝国生命の朝吹常吉など30人、この30人が発起人となった。さらに、創立発起人となり要人に働きかけ、15名を得て計45人となり、出資金一口2千円、合計9万円が用意された[1]

駒沢コースの開場

ゴルフ場用地は、交通至便の郊外の東京府荏原郡駒沢村深沢(通称・「大切山(でんぎりやま)」、現・東京都世田谷区駒沢公園駒沢オリンピック公園)の4万坪の雑木林や畑地を1年間1,500円の地代で井上準之助個人の名義で借り(買わずに借りたため苦労することになった)、1914年(大正3年)1月22日、ゴルフ場が着工された。同年5月、6ホールが完成し仮オープン、工事は続けて進められ9ホール全長約2,300ヤードのゴルフ場が完成した。コース設計者は、当時、設計者が日本にはいなかったため、横浜根岸コースの会員F・E・コルチェスターとG・G・ブレディに依頼した。駒沢コースは東京に初めて出来たゴルフ場となった。1924年(大正13年)10月、東京ゴルフ倶楽部が中心となり、ジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA・日本ゴルフ協会)が創立された。その結果、神戸ゴルフ倶楽部1903年明治36年)開場、在留外国人が創設)やNRCGA横浜根岸コース(1906年(明治39年)開場)によって創始された日本アマチュア選手権競技は、1925年(大正14年)から日本人の手で運営されることになった[1]

当時、一般にはゴルフはまったく知られていなかった、だが会員は順調に集まった、多くの会員は井上準之助に義理立てした幽霊会員である。そして、ゴルフ場が開いていても、10日間だれも来ない状況が起きた。大金持ちが会員になっても、ゴルフをしないのでは維持費の負担がかかる。そこで、グリーン・フィーやコース使用料を徴収することを考えた[2]

1926年(大正15年)1月18日、「東京ゴルフ株式会社」が設立された、コース用地を賃借または所有し、株主で組織する「東京ゴルフ倶楽部」に賃貸する目的である。発起人は、井上準之助、樺山愛輔、森村開作串田萬蔵成瀬正恭赤星陸治、田中実で、森開作が総代となり、所在地は東京市芝区高輪南町である。これらは、1921年(大正10年)、程ヶ谷ゴルフ株式会社が実施した方式を取り入れた。1926年(大正15年)5月9日、増設工事の9ホールが完成し、駒沢コースは18ホール規模のゴルフ場となった。コース設計は、コルチェスターとブレディに新たに赤星四郎大谷光明が加わった。駒沢コースの規模は、アウトコース2,905ヤード・パー35、インコース2,383ヤード・パー31、全長5,288ヤード・パー66だった。コース用地の農地の交渉が難しかった、十分な確保ができなかったため、距離の短いホールが多くなった。また、この18ホール開場記念競技会で、赤星四郎が優勝、69+79=148、ハンデ3でネット142、2位は岡庄五で、84+83=167ハンデ12でネット143だった[1]

増設18ホールが完成

女性ゴルファーは、関東では東京ゴルフ倶楽部だけだった、関西ではすでに神戸ゴルフ倶楽部茨木カンツリー倶楽部、舞子カンツリー倶楽部などに女性ゴルファーがいて「関西婦人ゴルフ倶楽部」が組織されていた。1926年(大正15年)9月1日、18ホール完成後、東京ゴルフ倶楽部の婦人ゴルファーと関西婦人ゴルフ倶楽部の親善対抗競技が行われた。その後、東西の婦人ゴルフ競技は、「関東関西婦人ゴルフ対抗競技」と名称変更された。特筆すべきは、男子のアマチュア東西対抗競技が開始られたのが、1927年昭和2年)であるから、東西の婦人ゴルフ対抗競技の方が早かったのである。なお、第1回の関東関西婦人ゴルフ対抗競技は、関東の勝ちであった。この競技の影響により、男子アマチュア東西対抗競技が1927年(大正16年)から始まった。また、1927年(昭和2年)10月、シニア倶楽部選手権競技が初めて開始され、第1回シニア競技では、男爵・高木喜寛が優勝、紅葉館で祝宴が催された。同年10月、日本アマチュア選手権が開かれ、野村駿吉が優勝。1928年(昭和3年)5月、第2回日本オープンゴルフ選手権が開催され、程ヶ谷所属の浅見緑蔵が優勝した[1]

駒沢コースが18ホールとなった1926年(大正15年)5月時は、コース全長5、288ヤード、パー66であったが、1928年(昭和3年)5月の日本オープン選手権開催時は、全長5,700ヤード、パー72に拡張されていた。日本オープン終了後、新たに2万3千坪の土地を購入、総面積は13万坪に拡大することになった。大谷光明が改造設計を担当し、赤星六郎・白石多士良が協力し、1929年(昭和4年)春、新しい18ホールが完成、アウトコース3,136ヤード、パー36、インコース3,215ヤード、パー36、全長6,351ヤード、パー72、各ホールのヤーデージが大幅に改良された。だが、地代の値上げが問題化してきた、駒沢コース開場後15年、地代は7倍に増えた、駒沢コースの地域の住宅地化が進んできた[1]

国際親善と新天地の夢

ハワイ・アマチュア・チームが親善競技のため、1929年(昭和4年)10月に来日、10月29日、駒沢コースのクラブハウスで歓迎晩餐会が行われた。日本・ハワイの親善競技は、関東と関西で開催され、日本が2勝3引分の成績だった[1]。ハワイ・チームは、駒沢コースを皮切りに、程ヶ谷カントリー倶楽部武蔵野カンツリー倶楽部六実コース、川奈ホテルゴルフコース大島コース、茨木カンツリー倶楽部宝塚ゴルフ倶楽部鳴尾ゴルフ倶楽部でプレーし、日本のコースについての感想を述べた。「日本のベスト・コースは茨木カンツリー倶楽部である、各ホールの様相が異なっている、距離もある、ハザードも厳しい、フェアウエイの幅も適当。程ヶ谷カントリー倶楽部は、アップダウンが激しすぎる。武蔵野カンツリー倶楽部六実コースは、ドッグレッグコースが多すぎる。東京ゴルフ倶楽部駒沢コースは、公園のようで単調すぎる」。また、解決策を提案した「英国や米国からコース設計家を招き、既設のコースの改修をし、新たなコースの設計を依頼してはどうだろう」。この発言により、日本ゴルフ界、東京ゴルフ倶楽部はショックを受けた。このことで、高額な借地料に苦慮していたことから、「新天地で、自前の土地で、海外の一流設計者を招いて、世界に誇れるチャンピオン・コースを建設しよう」との動きが活発となった[1]

1918年(大正7年)、近隣に三越倶楽部が建てられ、その地代が高額だったため、ゴルフ場の地主がクラブに対し値上げを要求した。クラブの移転先問題が益々強まっていった。候補地として上がったのは、程ヶ谷霞ヶ関相模などであったが、交通の便が悪いとして敬遠された。駒沢コースは、1926年(大正15年)に18ホールとなったが、コース敷地の借地契約の20年の満了が1933年(昭和8年)、その上、地代の値上げを迫られているため、埼玉県新座郡膝折村(現・朝霞市)への移転を決定した[2]

巨費かけ朝霞コース開場

日本のゴルフコースは、この頃まで、コースは素人設計だったため、常に改造が繰り返され、そのための経費が掛かっていた。それを打開しようとする試みが起きつつあった、初期に費用がかさんでも外国のコース設計家に依頼する動きが出てきた。朝霞コースのコース設計家も、大谷光明が英国で名設計家として定評のあった、ハリー・コルトを推薦したが、当時68歳とゆうことで、代わって海外担当のチャールス・アリソンが来日した。移転に必要な費用は、総額120万円、土地買収費100万円、コース造成費10万円、クラブハウス他建設費10万円である。同時期に開場した埼玉県川越市にある「霞ヶ関カンツリー倶楽部」は総費用12万円であった[2]

1932年(昭和7年)5月、埼玉県朝霞へ移転した、「朝霞コース(1941年(昭和16年)閉鎖)」である、コース設計はチャールス・アリソン、クラブハウスの設計をアントニン・レーモンドが行った。1935年(昭和10年)、第8回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催「朝霞コース」[3]1940年、(昭和15年)第13回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催「朝霞コース」[3]の2回の開催実績がある。

秩父新コースの開場

1940年(昭和15年)、朝霞コースが陸軍予科士官学校用地に決まった。東京ゴルフ倶楽部は、埼玉県入間郡柏原村1984番地(現・狭山市柏原)の秩父カントリー倶楽部と朝霞コースは、同年10月、対等の条件で合併することになった。両倶楽部の間で合併契約書が取り交わされ、同年11月20日、東京丸ノ内の東京会館で新「東京ゴルフ倶楽部」創立総会が開催され、理事長は旧東京ゴルフ倶楽部の後藤文夫が就任した。同年12月15日、かねてから造成中だった「秩父新コース」が完成し、開場式を行った。コース設計は大谷光明が、工事は安達商会が行った18ホール規模のコースである。秩父新コースは、南コースとも、別名・柏原コースとも称されたが、現在の東京ゴルフ倶楽部のコースである。このコースも、戦時中は農作物の畑となり、軍に接収され、終戦後は、米軍に徴用されなどしたが、大谷光明のレイアウトは基本的に引き継がれている[4]

1945年(昭和20年)8月15日、終戦、同年8月19日、東京打球会(東京ゴルフ倶楽部)から日本陸軍の天祥部隊が退去開始、同年9月25日、陸軍士官学校が退去、同年10月1日、天祥部隊が全員退去した。同年9月30日、9ホールを再開、熱心な会員がプレーを楽しんだ。しかし、10月2日、米進駐軍第97歩兵部隊が来て、クラブハウスを宿営に借上げると通告した。だが、コースの使用は妨げないとのことだった。同年11月2日、米進駐軍により、クラブハウスに米国旗が掲揚され、開場式が行われた。1946年(昭和21年)4月9日、朝霞駐屯の第1騎兵旅団によりコース全域を接収される。1949年(昭和24年)9月、戦争末期に解散されていた関東ゴルフ連盟が復活、東京ゴルフ倶楽部は加盟した。1950年(昭和25年)9月25日、横田航空隊によって済接収され、倶楽部玄関には「ヨコタゴルフクラブ」の看板が掲げられた[4]

戦後、米軍に接収されて米軍の間では「Yokota Golf Club」といわれていた。その後、米軍管理のゴルフ場とともに接収を解除された。1953年(昭和28年)、倶楽部の自主運営を果たし、1955年(昭和30年)、「社団法人東京ゴルフ倶楽部」が発足し運営に当たっている[1]。東京ゴルフ倶楽部は、1963年(昭和38年)、創立50周年記念事業として、アントニン・レーモンド設計のクラブハウスが完成した。また、日本のプロゴルフメジャー大会の1つ、日本ゴルフ協会主催競技でもあり、日本選手権大会に相当する、日本オープンゴルフ選手権競技大会を駒沢コース・朝霞コース・狭山コースと通算7回の開催実績がある。

所在地[編集]

  • 東京都世田谷区駒沢公園「駒沢コース」 - 1913年大正2年)12月1日 - 1941年昭和16年)
  • 埼玉県朝霞市「朝霞コース」 - 1932年(昭和7年)5月 - 1941年(昭和16年)3月16日
  • 埼玉県狭山市柏原1984番地 - 1955年(昭和30年)12月15日

コース情報[編集]

  • 開場日 - 1913年12月1日
  • 設計者 - 大谷 光明
  • コースタイプ - 林間コース
  • コース - 18ホールズ、パー72、7,215ヤード、コースレート74.3(朝霞グリーン)、6,959ヤード、コースレート73.3(知々夫グリーン)
  • グリーン - 2グリーン、ベント(ペンクロス)
  • プレースタイル - 歩いてのラウンド(1組4人に限る)、全組キャディ付き
  • 練習場 - 16打席 250ヤード
  • 休場日 - 毎週月曜日、12月31日、1月1日[5]

交通アクセス[編集]

競技開催実績[編集]

エピソード[編集]

  • 「日本で最初のゴルフ場は駒沢コースだ」と主張する人が、ひと昔まで少なくなかったようである。それは明らかに間違いで、正確に言えば、「日本人のために日本人が造ったゴルフ場」それが駒沢コースなのである[8]
  • 駒沢コースは、現在の駒沢オリンピック公園にあった、公園の入り口付近にあった大正博覧会迎賓館を譲り受け、移築してクラブハウスとして利用した。当時、ゴルフ場ができる前の駒沢は、明治天皇ウサギ狩りに行幸された原野であった[8]
  • 1932年(昭和7年)、埼玉県膝折村(現、朝霞市)に移転し、コース設計をC・H・アリソンに依頼して朝霞コースが開場された。閉鎖した駒沢コースは、東横電鉄系のパブリックコースとして営業された[8]
  • 朝霞コースの使用されたの種類は、日本で初めて、グリーン、フェアウエイ、ラフのすべてをベント芝に施工された、この点では歴史的なことであった[8]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i 「日本のゴルフコース 90年の歴史を探る 「東京GC駒沢コースの18ホールへの拡張・改造計画」」、井上勝純著、月刊ゴルフマネジメント、1993年5月、2020年10月20日閲覧
  2. ^ a b c 「日本初の日本人のためのコース、東京ゴルフ倶楽部」、金田武明著、週刊ダイヤモンド、2020年10月22日閲覧
  3. ^ a b c d e f g 「日本オープンゴルフ選手権競技」、日本ゴルフ協会、2020年7月24日閲覧
  4. ^ a b 「日本のゴルフコース 90年の歴史を探る 「新『東京ゴルフ倶楽部』秩父新コースの開場」」、井上勝純著、月刊ゴルフマネジメント、1993年5月、2020年11月4日閲覧
  5. ^ 「東京ゴルフ倶楽部」、ゴルフダイジェスト、ゴルフ場詳細、2020年7月25日閲覧
  6. ^ 「東京ゴルフ倶楽部」、交通案内、2020年7月25日閲覧
  7. ^ a b 「日本オープンゴルフ選手権競技」、日本ゴルフ協会、2020年7月24日閲覧
  8. ^ a b c d 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「東京ゴルフ倶楽部」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2020年12月6日閲覧

関連文献[編集]

  • 『東京ゴルフ倶楽部50年史』、東京ゴルフ倶楽部編、狭山 東京ゴルフ倶楽部、1966年4月、2020年7月25日閲覧
  • 『東京ゴルフ倶楽部75年史』、75年史編纂委員会編、東京 東京ゴルフ倶楽部、1989年11月、2020年7月25日閲覧
  • 『週刊ダイヤモンド 88(49) (通号 3863)』、「スルー・ザ・グリーン(97)日本初の日本人のためのコース、東京ゴルフ倶楽部」、ダイヤモンド社編、東京 ダイヤモンド社、2000年12月、2020年7月25日閲覧
  • 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2020年7月25日閲覧
  • 『ゴルフ場ガイド 東版』2006-2007、「東京ゴルフ倶楽部」(埼玉県)、東京 ゴルフダイジェスト社、2006年5月、2020年7月25日閲覧
  • 『「東京ゴルフ倶楽部」の設立と展開に関する研究』、坂本公紀 著、平成23年9月7日、2020年7月25日閲覧
  • 『日本のゴルフ100年』、久保田誠一著、東京 日本経済新聞社、2004年7月、2020年7月25日閲覧
  • 『東京ゴルフ倶楽部100年史』、東京ゴルフ倶楽部100年史編纂部会 企画・編集、狭山 東京ゴルフ倶楽部、2015年6月、2020年7月25日閲覧

周辺情報[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]