武蔵野カンツリー倶楽部

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武蔵野カンツリー倶楽部
六実リンクス
Musashino Country Club
Mutsumi Links
武蔵野カンツリー倶楽部
1935年(昭和10年)頃に発行された武蔵野カンツリー倶楽部六実リンクスの絵葉書地図
所在地 日本の旗 日本
千葉県松戸市六高台(旧・千葉県東葛飾郡風早村高柳)[1]
座標: 北緯35度48分8.47秒 東経139度59分31.14秒 / 北緯35.8023528度 東経139.9919833度 / 35.8023528; 139.9919833
概要
開業 1926年昭和元年)10月
1944年(昭和19年)閉鎖
運営 メンバーシップコース
設計 大谷 光明(六実リンクス)
赤星 六郎(藤ヶ谷コース)
トーナメント ・1929年 第4回 日本プロゴルフ選手権大会
コース

OUT IN
HOLE PAR YARD HOLE PAR YARD
1 4 357 1 3 183
2 3 223 2 4 380
3 4 381 3 4 327
4 3 134 4 5 487
5 5 498 5 3 141
6 4 402 6 4 400
7 4 416 7 5 477
8 4 334 8 4 351
9 4 400 9 4 401
35 3145 36 3147

その他
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武蔵野カンツリー倶楽部(むさしのカンツリーくらぶ)は、千葉県松戸市六高台(旧・千葉県東葛飾郡風早村高柳)にかつて存在したゴルフ場である。

概要[編集]

武蔵野カンツリー倶楽部 は、1924年(大正13年)、東京府多摩平山(現・日野市平山)に、「平山コース」6ホール規模のゴルフ場を開場[2]、2年後の1926年昭和元年)、閉鎖された[2]。同年、千葉県東葛飾郡風早村高柳へ移転[2]、同年10月、「六実リンクス」9ホールが開場、1927年(昭和2年)9月、9ホールを増設し18ホールが開場した[2]1929年(昭和4年)、隣接地に「藤ヶ谷コース」18ホールを増設、両コース合計36ホール規模のゴルフ場となった[2]

1944年(昭和19年)、帝国陸軍接収(本土防空の飛行場化のため)を受けて解散となった[2]。当時の武蔵野カンツリー倶楽部の六実リンクスの様子が分かる貴重な絵葉書の資料(当時、武蔵野カンツリー倶楽部会員・賀屋興宣の資料)が残されている[3]。また、日本のプロゴルフメジャー大会の1つ、日本プロゴルフ協会主催競技でもあり、日本選手権大会に相当する第4回 日本プロゴルフ選手権大会が、1929年(昭和4年)7月に開催された実績がある。


所在地[編集]

  • 平山コース - 現・東京都日野市平山(旧・東京府多摩平山)
  • 六実リンクス - 現・千葉県松戸市六高台(旧・千葉県東葛飾郡風早村高柳)[1]
  • 藤ヶ谷コース - 現・千葉県柏市藤ヶ谷

コース情報[編集]

  • 開場日
  • 設計者
    • 大谷 光明 - 六実リンクス
    • 赤星 六郎 - 藤ヶ谷コース
  • コース
    • 平山コース - 6ホール
    • 六実リンクス - 18ホール
    • 藤ヶ谷コース - 18ホール
  • メジャー選手権

大衆化の始まり[編集]

関西では、1920年代、ゴルフの大衆化によるコース新設が活発だった[5]。その反面、関東では、1906年明治39年)に開場した「NRCGA根岸コース(ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション根岸コース)」(神奈川県、1943年閉鎖、戦後米軍専用となり1969年閉鎖)、1913年大正2年)に開場した「東京ゴルフ倶楽部駒沢コース」(東京都、1941年閉鎖)、1917年(大正6年)に開場した「富士屋ホテル仙石ゴルフコース」(神奈川県)、1923年(大正12年)に開場した「程ヶ谷カントリー倶楽部」(神奈川県)のゴルフ場のみであった[5]

関東のゴルフの大衆化を目的に、1924年(大正13年)、東京府多摩の平山(現・日野市平山)から八王子にかけての丘陵地に、「武蔵野カンツリー倶楽部平山コース」が開場した[6]。同年3月から造成に着手、翌年5月、2,000ヤードの9ホールが完成、東京では東京ゴルフ倶楽部駒沢コースに次ぐゴルフ場である[6]

平山コースの開設では、地主の杉山又吉の協力が大きかった、地主との交渉に走り、開場後は自宅をクラブハウスとして提供した[6]。また、地元の小学校の生徒がキャディーとして働き、小遣い稼ぎの場所だった[6]。しかし、2年後の1926年昭和元年)、平山コースは閉鎖し、同年、千葉県の六実・千葉県東葛飾郡風早村高柳へ移転した「武蔵野カンツリー倶楽六実リンクス」である[6]。同年10月、9ホールが開場し、翌年の1927年(昭和2年)9月、9ホールを増設し18ホールが開場した[6]。なお、閉鎖した平山コースを惜しむ声があり、1928年(昭和3年)、「多摩カントリークラブ」として再開、1938年(昭和13年)1月6日、閉鎖された[6]

会員数が増加したため、1929年(昭和4年)、六実リンクス近くに「武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コース」18ホールを増設した[5]。武蔵野カンツリー倶楽部は、日本で初めて36ホール規模のゴルフ場となった[5]。その後、1944年(昭和19年)、ゴルフ場は第二次世界大戦の影響で、六実リンクスは閉鎖され、藤ヶ谷コースは陸軍用地に決まったため閉鎖し解散した[5]。武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コースは、現在、海上自衛隊下総航空基地海上自衛隊第三術科学校藤ヶ谷飛行場(千葉県柏市藤ヶ谷)になっている。南北を走る東武野田線県道8号線(船橋我孫子線)を挟んで、西側の松戸市側に「六実リンクス」、東側の柏市側に「藤ヶ谷コース」が存在した。

脚注[編集]

関連文献[編集]

  • 『公益法人一覧』、昭和7年1月、「東京府 社団法人 武藏野カンツリー倶樂部」、文部省社会教育局編、昭和4-9年、2020年10月18日閲覧
  • 『法人一覧』、昭和8年、「東京府 社団法人 武藏野カンツリー倶樂部」、文部省編、大15-昭14年、2020年10月18日閲覧
  • 『日野市史通史 編4』、「平山ゴルフ場(武蔵野カンツリークラブ平山コース)」、日野 日野市史編さん委員会、1998年3月、2020年10月18日閲覧
  • 『目で見る松戸の100年』、「六実ゴルフ場」、渡邉幸三郎監修、松本 郷土出版社、2008年2月、2020年10月18日閲覧
  • 『目で見る柏の100年』、「藤ヶ谷ゴルフ場」中村勝・染谷博監修、松本 郷土出版社、2008年2月、2020年10月18日閲覧
  • 『天皇陛下の一世紀 : 明治・大正・昭和のご足跡』、皇室資料保存会編、東京 ピーエヌサービス、2011年1月、2020年10月18日閲覧
  • 『鎌ケ谷市史 下巻』、「藤ヶ谷ゴルフ場(昭和12年) 海上自衛隊下総航空基地所蔵写真」、鎌ケ谷市教育委員会、編鎌ケ谷 鎌ケ谷市、2017年3月、2020年10月18日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]